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2025年5月 6日

特攻を「美談」として語る幻想

読売新聞が 5月 4日付で "特攻隊員を見送った元女学生「特攻は無謀な作戦で、美談などではない」…知覧の慰霊祭に参列" という記事を伝えている。「特攻隊員を見送った元女学生」として、今はたった一人の参列者となった北九州市の三宅トミさん(95)のコメントだ。

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記事には次のようにある。

三宅さんは「特攻は無謀な作戦で、美談などではない。戦争を知る世代が少なくなり、また、あの時代がやってくるのではと気がかりだ」と強い口調で訴えた。

確かに、特攻を自らの命を犠牲にして国を護るという尊い美談のように語る風潮はなくならない。しかしこんなのは、実際に敵艦に体当たりする前に撃墜されたものの方がずっと多いという事実を知るまでもなく、幻想に過ぎない。

前にも書いたことがあるが私の父は戦時中(旧制中学時代)、易者に「お前は若死にする」と言われて「同じ死ぬなら空で死のう」と予科練に志願した。ところがいかにも「最後の予科練兵」らしい話で、入隊したものの「空で死ぬため」の飛行機は一機も残っていなかったというのである。

しかたなく、上陸した米軍に自爆攻撃を仕掛けるための地上訓練ばかりさせられていた。背中に重い爆弾を背負って匍匐前進するというものである。とことん馬鹿馬鹿しい訓練で、実行に移したとしてもほとんどは敵陣に突入する前に撃たれてしまうというのは、飛行機での特攻と同様だろう。

この作戦が行われる前に終戦となったため父は易者の占いに反して生き残り、私という人間がこの世に生まれた。そして半世紀以上経ってこんなことを書いているわけである。

父は戦時中の日本のやり方についてはとことん批判的だった。実際に体験した者の思いは強い。

【5月 9日 追記】

これは直接「特攻隊」に触れたことではないのだが、「ひめゆりの塔」についてムチャクチャな思い込みを語って撤回しない自民党の西田昌司参院議員みたいな人が、今後減りはしないのだろうと思うと、ちょっと警戒しなければと思ってしまう。

【同日 再追記】

西田参院議員は、ひめゆりの塔についての自身の発言を撤回したらしい(参照)。もっとも、発言は他の展示と混同してしまったためなんて言ってるので、自身の思想については反省もへったくれもないようだ。

 

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コメント

「特攻兵を志願するものは手を挙げよ」と言ったらしばらく沈黙が続き、誰かが手を挙げると次から次へと手を挙げたそうです。

志願したようにみせかけてるやり方ですね。4千名以上が命を落としました。実際に体当たりできたのは5%にも満たなかったようです。

特攻の前に故郷に帰り布団の中で嗚咽したそうです。しかし翌日には何事もなかったように満面の笑みで故郷を後にしたとあります。

特攻隊を作った大西瀧治郎中将は敗戦の翌日 ‟私はもうこれ以上生きていくわけにはいかない” と言って割腹しました。介錯無しで二日間苦しんで息絶えたそうです。それでも特攻隊員は還ってきません。

私の叔父は無謀なインパール作戦にとられ還ってきませんでした。インパール作戦は無謀だと周囲に大反対されましたが、牟田口廉也中将は精神論をぶっ放して突き進んでしまいました。6万名の兵士の内4万名は戦う前に餓死病死です。部隊長は ‟食料も水もない、撤退させてくれ” と懇願しましたが、”帝国陸軍たるものは食糧がなくとも武器がなくとも戦って帰ってくるものだ” と撤退を許しませんでした。

牟田口廉也中将はビルマの避暑地のようなところに作戦本部を構えていましたが、日本から芸者を呼んでドンチャン騒ぎをしていたそうです。

牟田口廉也は1969年まで生き延びていたようですが、いつ嘗ての部下から襲われないかと恐れ、軍用拳銃を家に隠し持っていたそうです。

インパール作戦で息子を取られた祖母は大泣きしたと聞いてます。母も涙をこらえてその話をしていました。

投稿: ハマッコー | 2025年5月 6日 19:58

ハマッコー さん:

牟田口廉也中将の話はかなり有名ですね。とんでもない話です。何が「帝国陸軍たるもの」ですか。

投稿: tak | 2025年5月 6日 20:17

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