「面倒だから遠くに捨てる」という行為の深層意識
奇しくも同じ日付の昨日 5月 2日、似たようなニュースが 2本報じられた。自宅から出たゴミを路上や山中に放置した男が逮捕されたというものである。
一つはゴミもゴミで、"「トイレまで行くの面倒」路上に尿入りボトルを捨てた疑い 100本以上か、47歳男逮捕" というものだ。尿入りペットボトルというのは、今回のみならず時々ニュースになる。
もう一つは "ビールの空き缶 3000本を山に捨てたか... 金沢市に住む 65歳の男を逮捕「自分で飲んだ。他にも捨てた」" というニュースだ。大量の空き缶をわざわざ山の中まで運んで捨てるというのは、軽い気持ちでできることじゃない。
路上に捨てられた尿入りボトルの多くは過密労働のトラック・ドライバーによるものと言われるが、今回のケースは話が違う。フツーに考えれば路上に捨てるよりトイレに行く方がずっと面倒がないのだから、別の心理が働いているとしか考えられない。
PRESIDENT Online の 【「1本あれば 100本はある」ゴミ屋敷から出てくる "ションペット" という爆弾" 】 という記事によると、「ゴミ屋敷」には尿入りペットボトルが大量にあることが多いのだそうだ。孤独死現場の第一人者という石見良教さんが、記事中で次のように語る。
"家" の共同体意識がなくなり、常に自分、個だけの動きとなったのだと感じます。 誰とも関わりを持たない、持ちたくない、ゴミをため込むことにより他を寄せ付けず、威嚇するのです。私は "ゴミシェルター" と言っています。
ゴミがシェルターなら、その中でも尿入りペットボトルは最も強力な「城壁材料」なのだろう。そしてそのペットボトルを路上に捨てるという行為からは、シェルターあるいは自己領域の拡大という意識が感じられる。かなり歪んだ自己主張である。
一方のビールの空き缶というのも、心理としては共通しているような気がする。わざわざ山の中に持って行って捨てるより「不燃ゴミ」として出す方がずっと楽なのだが、そこはそれ、山の中に人知れず自分の領域を残すことに意味があるのだ。ある意味、そこは自分の「別荘」になるのだろう。
いずれにしても共通するのは「人を寄せ付けない孤独」ということのような気がする。
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