カテゴリー「アニメ・コミック」の7件の記事

2024年2月14日

今どきの定期券事情を巡る冒険

私はかなり前から いしかわ じゅん マンガのファンで、”毎日新聞朝刊の 「サクラダ・ファミリア」(聖なる桜田家)” (2015年 2月 5日付)を書いた当時は紙の新聞で読んでいたが、今は新聞購読を止めてしまったので、恐縮ながら金を払わずネット(参照)で読んでいる。

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というわけで、『桜田です!』も連載開始から既に 7年が経ったのだね。上は今月 12日付のもので、桜田家のお母さんの「寝ぼけネタ」は定番だが、この日はお父さんまで春の陽気のせいで寝ぼけてしまっている。

お父さんが定期券を持たずに会社に行こうとしたので、お母さんが寝ぼけまなこで探し当て、それをもって自分が「じゃあ、いってきまーす」なんて出かけようとしてしまうというオチだ。後ろでお父さんが半分寝ながら「いってらっしゃ〜い」なんて言ってるのも、なかなかの風情である。

我が家ではこのマンガに夫婦で笑った後で、「ところで今の定期券って、一体どんなの?」という話になった。私は 2011年(あの東日本大震災の年だ)に勤めを辞めてフリーランスになって以来、12年以上にわたって定期券なんて持ったことがないから、今どうなってるのか全然知らないのだよ。

ちなみに昔の紙の定期券って、こんな感じだった(参照)。何と今の世の中では、こんなものが売り物になってしまうのだね。

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素材は単なる紙だった定期券が、いつの頃からか改札口の無人化に伴い磁気カードに変わったのを今でも覚えている。入場する度にいちいち定期入れから取り出して、改札口のスリットに通してやらなければならないのが面倒だったなあ。そして何と、この磁気カード式の定期券は今でも現役のようなのだ(参照)。

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もっとも今は IC カード(JR 東日本で言えば ”Suica”) が当たり前になってるから、定期券も「Suica 定期」が定番になってるんだろうと検索してみたら、やはりそうだった。今は多くの人がフツーに自動販売機で Suica 定期券を購入して(参照)、フツーに「ピッ」とタッチして改札を通っているのだね。

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ただ、私は最近では Suica アプリを iPhone に入れて「モバイル Suica」として使っているのだから、「モバイル Suica 定期」ってものもなければ困る人が多いだろう。そう思って調べてみたら、これもやっぱりあった(参照)。

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Suica アプリを自分で操作し、クレジットや Apple Pay で定期を購入できるというのだから、自動販売機に並ばなくてもいいというメリットが大きそうだ。しかし桜田家のお父さんは、スマホは持ったのに定期券は忘れてるというのだから、Suica アプリなんて使っていないんだろう。

ちょっと調べたところ、「鉄道会社のアプリ利用率は 1割、ICカード利用は約 8割――スパコロの調査から(首都圏 1都 3県対象)」という記事が見つかった。2021年 6月の記事だからちょっと古いが、やっぱり Suica などの IC カードって、明確な「カタチ」があるだけにアプリなんかより強いようなのだ。

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モバイル IC カード(いわゆる「Suica アプリ」みたいなもの)の比率は 20代でも 22.6% だったのだから、全体的な比率は今でもそれほど大きくは変わっていないのではなかろうか。もしかしたら、いしかわ じゅん先生の脳内の定期券は Suica ですらなくて磁気カード止まりだったりして。

もっともかく言う私だってこんなようなことは今回調べてみて初めて知ったのだから、必要のないことなんて全然知らなくてもそれほどの不都合はないようなのだね。

とはいえ、直接必要のないことでもいろいろなことに興味を持って調べてみるというのは脳の活性化にいいという話もあるから、たまにはこんなような酔狂をしてみる意味はあるのだろう。

 

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2022年11月 5日

漫画家は 赤塚不二夫、いしかわじゅん、いしいひさいち の 3人でいい

近くの大手チェーン系ブックストアに立ち寄ると、売り場のかなりの部分(多分、半分近く)が漫画(今は「コミック」なんていうのかな)で占められていることに驚く。しかもそれは、販売ではなくレンタルだったりするようで、今は「本屋」と「貸本屋」が合体しちゃってるのだね。

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ちなみに私の個人的な感覚では、「漫画」と言ったら 赤塚不二夫いしかわじゅんいしいひさいち の 3人がいてくれればいいと思ったりしている。要するに上の画像に象徴されるような趣味なので、今のブックストアにズラリと並んでいる下のような絵を見ると、正直言ってうんざりしてしまうのだよ。

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よく見れば確かにビミョーに違っているのだが、ぱっとみた限りではどれもみな同じに見えて、「ちょっと遠慮しときますわ」となってしまうのだよね。若いコミック好きには申し訳ないが、やっぱり『天才バカボン』とか『バイトくん』とか『薔薇の木に薔薇の花咲く』とかの方がずっといい。

私は小学校 5年生の頃から『おそ松くん』読みたさで、少ない小遣いを何とかやりくりして『少年サンデー』を買い始めた。それからというもの、赤塚ワールドにどっぷりとハマり、イヤミの「シェー!」や、バカボンパパの「これでいいのだ」の生き方が身についてしまったというわけだ。

その後、 1960年代末から 70〜80年代にかけては、私より少し年上の「団塊の世代」の連中が、『巨人の星』とか『あしたのジョー』なんかを夢中で読む時代になった。いわゆる「スポ根もの」の絶頂期である。

ところが、私は『巨人の星』の星飛雄馬なんて、「勝手に力み返ってな!」と思うばかりで、まったく思い入れがなかった。『あしたのジョー』は少しマシという気もしたが、いずれにしても夢中で読む気にはなれなかった。どちらも、いいところで気を持たせて次週につなぐ「引き延ばし」が露骨だったしね。

中には「梶原一騎原作の『巨人の星』は下世話なスポ根ものだが、高森朝雄原作の『あしたのジョー』は素晴らしい」なんていうヤツもいたが、高森朝雄は梶原一騎の別名で、どちらも同じ原作者だとは知らなかったようなのだね。そんなわけで、「付き合ってても疲れるばかり」と言うほかなかった。

そうした中で、70年代後半から登場した いしかわじゅん と いしいひさいち は、赤塚不二夫が全盛期を過ぎた後の漫画界において大きな救いとなった。私は、ああした「単純な線の絵」しか受け付けないカラダなのである。それに、吹き出しの中のセリフが手書き文字というのもいいなあ。

 

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2015年2月 9日

毎日新聞朝刊の 「サクラダ・ファミリア」(聖なる桜田家)

毎日新聞で、いしかわじゅんさんの 4コマ漫画『桜田です!』が始まっている。1月 22日に "「桜田です!」新・朝刊漫画 いしかわじゅんさん作 来月1日スタート" という 「社告」 (なんだか大げさな気もするが) があり、嘘紛れもなく、今月 1日にスタートした。

最近は紙の新聞なんてあまり見ないのだが、私は「薔薇の木に薔薇の花咲く」以来のいしかわじゅんファンなので、なんと、毎朝楽しみに新聞を開くようになった。

漫画は東京都武蔵野町に住む桜田家の人々を中心に展開する。ごくフツーのサラリーマンぽいお父さん、漫画家であるらしいのだが、まだそれらしき動きをみせていないお母さん、長女は小学 6年生の美少女、カレンちゃん、その弟の小学 3年生のハル。そして猫の正ちゃんもいる。この正ちゃんは、作者の飼っている実在の猫そのままのようである。

さらに新連載にあたっての記事 "桜田です!:「登場人物の動き楽しみ」新連載、いしかわさん意欲" という記事によると、近所には陶芸家のおばあちゃんも住んでいるらしい。桜田家の全貌が明らかになり、さらにそれぞれが勝手に動き出すようになるには、もう少し時間がかかるようだ。

最初の週は、桜田家の朝から始まる。第 1回の 1コマ目は、てきぱきと家族の朝食の世話をするお母さん。しかし 2コマ目であっさりとそのイメージは裏切られ、それはベッドの中で朝寝を貪るお母さんの夢だったと知る。実際の家族は淡々と、朝食抜きで会社と学校に出かける。

2回目は、長男のハル。授業で「一番興味をもっていること」を発表することになり、ハルはつい「今日の給食のオカズは何かです」と口走る。その一言で、周囲の友だちには「今日も母ちゃん起きられなかったんだな」とさとられ、女の子には優しく「チョコ食べる?」なんて声をかけられる。

3回目は、長女のカレン。美少女だけに、女の子には「カレンちゃん、うちのクラスのファッションリーダーよね」と噂になり、男の子には「俺のタイプ」などと言われているが、その実態は「昼までもたん」とつぶやきつつ、授業中に教科書の陰で黙々と早メシをする少女なのであった。

4回目はお父さん。会社で「桜田さんの奥さん、漫画家なんだって?」「漫画家って、締め切りに追われて何日も寝られない日が続いたりするんでしょう」などと声をかけられるが、家に帰ればいつも「くかー」と寝ている妻しか見たことがなく、「本当に漫画家か?」とつぶやく。

5回目は問題のお母さん。ベッドで目を覚ますと、時計は 7時半を指している。必死に飛び起きてバタバタと朝食の支度をし、「朝ご飯お待たせ〜、セーフ!」と言うが、すぐに夜の 7時半過ぎと気付き、へたり込んで落ち込む。家族は優しく「いいんだよ、晩ご飯として食べればいいんだから」と慰める。

6回目、夜になって寝る時刻になると、家族は猫の正ちゃんと一緒に寝たがり、奪い合いをする。朝になると、正ちゃんは布団の外に押し出され気味だが、家族の足だけが正ちゃんの体温を求めて集まっている。正ちゃんは「おれはコタツか」と心の中で呟いている。

で、第 2週目に突入した昨日(7回目)は、ハルの学校での休み時間のお話。かくれんぼに関する脱力極まりないエピソードである。お母さんがかくれんぼの鬼になっても、あっという間に全員を見つけ出せる秘密とも言えない秘密が明かされるが、その秘密というのが詳しく書くのも馬鹿馬鹿しいほどの脱力加減である。

とまあ、何ともユルい桜田ファミリーである。私はこの漫画を密かに 「サクラダ・ファミリア」 (聖なる桜田家) と呼んで毎朝の楽しみにしている。

 

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2015年2月 7日

『ひみつのアッコちゃん』の『スキスキソング』と『庄内おばこ』

知ってる者にとってはあまりにも当たり前すぎて、どうってことのないお話でも、それを初めて知った者にとっては「大発見」になり、大はしゃぎしたくなったりする。

今では滅多に聞かなくなったが、昔々のアニメ、『ひみつのアッコちゃん』のエンディングテーマ、『スキスキソング』(歌は、懐かしの水森亜土)というらしいんだが、私は半世紀近く前にこの歌を初めて聴いたときから「ファンキー・バージョンの『庄内おばこ』 じゃん」と、ごくフツーに思っていた。

私はどういうわけか、子どもの頃から民謡や落語など、シブい芸能の類いには結構詳しかったのである。『スキスキソング』が『庄内おばこ』なのは私にとってはあんまり当たり前すぎたので、別宅サイトの 『庄内力養成委員会』<「庄内力チェック」の質問 25 で、あっさり触れるぐらいに済ませていた。

ところがこれについて、あたかもちょっとした発見のように書いてあるページがいくつか見つかった。今や「おいおい、知ってるか!」と言いふらしたくなるようなお話になってしまっているようなのである。それで私としても、改めてここで書いてみる気になったわけだ。

『庄内おばこ』というのは私の故郷、庄内の民謡で、「おばこ」とは「若い娘っこ」のこと。庄内弁では「あねちゃ」が年長の女性(姉妹なら姉)で、「おばちゃ」は年少の女性(姉妹なら妹)を意味する。決して「オバちゃん」のことではない。

日常の庄内弁では「おばちゃ」が普通で 、「おばこ」なんて滅多に言わないのだが、何にでも「こ」を付けたがるお隣の秋田県の『秋田おばこ』にひきずられてか、庄内でも『庄内おばこ』を作ったんだろう。いずれにしても仕事歌の類いじゃなくて座敷歌だと思う。

よく知られた (いや、今となっては「知る人ぞ知る」というレベルか?) 1番目の歌詞は次のようなものである。

おばこ来るかやと(アコリャコリャ)
田ん圃のはんずれまで出てみたば(コバエテコバエテ)
おばこ来もせで(アコリャコリャ)
用のないたんばこ売りなどふれて来る(コバエテコバエテ)

「田ん圃のはんずれまで出てみたば」 は 「田んぼのはずれまで出てみたら」ということで、「たんばこ売り」 は「煙草売り」の庄内弁発音。囃子詞の「コバエテ」は「来ればいいなあ」といった意味だが、これは庄内弁の中でも古語である。現代庄内弁では「来いばいちゃ」 になる。

で、『アッコちゃん』の『スキスキソング』だが、「アッコちゃん来るかと団地のはずれまで出てみたが/アッコちゃん来もせず用もないのに納豆売りが」となって、「おばこ → アッコちゃん」、「田ん圃のはんずれ → 団地のはずれ」、「たんばこ売り → 納豆売り」と変わっただけである。

作詞者の井上ひさしは山形県育ちの人なので、庄内おばこのインスピレーションで行こうと思ったんだろうね。

ちなみに庄内弁では、「おばこ/おばちゃ」は「オバちゃん」のことではないと書いたが、じゃあ、正真正銘の「オバちゃん」 は何というのかといえば、「ががちゃ」(「かあちゃん」の意味もある)になる。

兄、弟、おっちゃん(あるいは「親父」)は、「あんちゃ」「おんちゃ」「だだちゃ」で、日本一おいしい枝豆、 「だだちゃ豆」 は、「オヤジ豆」 ということになる。

以上。

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2011年1月17日

神戸新聞社の例のキャラが萌えない本当の理由

ululun さんの記事で、神戸新聞社の「緊急雇用創出事業に基づくアルバイト募集」の募集告知(参照)というのを知った。一部では既にかなり話題になっているらしいが、「右のキャラクターがいまいちいけていない(萌えていない)理由を 3つあげなさい」という例のアレだ。

リンク先をみていただければ一目瞭然だが、本当に「いけていない(萌えない)」キャラなのである。ただ、その萌えない理由を 3つ、言葉で挙げて説明するというのは、なかなか難しい。ululun さんも、"イラストにすると「わかりやすい」ものも文章にすると今ひとつ伝わりにくい" と書いておられる。

それで私も、次のような tweet をした。(参照

例の萌えない理由を三つ書くとかいうアレ、あれこれ言うよりも「こんなんで萌えるわけない」という言い切りで十分なんじゃないかなあ。一目瞭然の感覚的事項を下手に説明すると、その言葉によって裏切られる。

こう書いたのは、告知広告のイラストを見れば、それが「萌えない」ということは一目瞭然なので、わざわざ言葉で説明する必要がないと判断したからである。「萌える絵」はいくらでもあって、それらと見比べれさえすれば、イヤでも一目で違いがわかる。こうしたことは、あえていろいろなことを説明しようとすると、かえってわからなくなる。

Togetter をみると、「髪型とキャラ像があってない」「目が死んでる」「生気がない」「単色すぎる」「髪の色と服が同色」「表情がない」「属性が想像できない」「へただから」とかいうのから、「鼻が高すぎる。鼻と口の位置が上すぎる」とかいうやや専門的なものまで、いろいろな意見が書かれている。

だが、こうしたポイントを備えていながら、それでも十分萌えるというキャラも中にはあるはずだから、一つ一つの事項を挙げても、究極的な答えにはならない。やはり、「一目見ればすぐわかる」というしかないような気がする。「萌える」という、極めて感覚的な事項を言葉で説明するのは、本当にむずかしいのだ。

ただ、これを少し視点を変えて論じると、例のキャラが萌えないのは、「神戸新聞社からの『萌えないキャラを描いて』という注文に、イラストレーターが忠実に応えて描いたから」ということができると思う。ある意味、ちょっとした職人芸である。

イラストレーターが「萌えないキャラ」という注文に対応するためにどんな手法を使ったのかというと、「パーツ」としての「萌え要素」を、少しずつビミョーに換骨奪胎的にズラして備えたキャラを描くことによって、「萌えない」という要素を満たしたのだと推察される。

ミク的なスタイルを少しズラしてダサダサにし、大きな目に瞳をいれずにぼんやりさせてしまうことで存在感を希薄にし、顔や体のバランスを少しずつ貧弱方向にズラすことで「フィジカルな萌え感」を微妙に裏切っている。

そうした手法によらずに、個人のイラストレーターの主観で「萌えない絵」を描いてしまったら、もしかしてそうしたテイストに逆に限りなく萌えてしまう人間がいないとも限らない。しかし、既存のティピカルな萌え要素を少しずつ裏切るという手法なら、大抵の場合は「萌えない」で済む。

「萌えない」の最大公約数を作るには、「萌える」のそれぞれのパーツをちょっと足したり引いたりしてアレンジするだけでいいのだ。絶世の美人がちょっと顔をゆがめるだけで、がっかり顔になったり、流行から外れたばかりのスタイルが一番もっさりして見えるのと同じ理屈である。

つまり、このキャラが萌えないのは「萌え要素を少しずつ裏切って萌えないように描いたから」というしかない。決して「下手だから」というのではなく、クライアントの要求に極めて忠実に応えた結果なのである。ここまで微妙に萌えない絵を描くというのも、なかなか大変だったろうと思われる。

 

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2010年12月11日

「角を矯めて牛を殺す」 漫画・アニメ規制

Twitter をのぞいたら、東京都の青少年・治安対策本部参事の浅川英夫という人の都議会でのナンセンスな答弁に、漫画家の島本和彦という人が素晴らしいツッコミをした件が大変な話題になっている (参照)。

例の 「青少年健全育成条例の改正案」の審議の過程で、浅川参事が「小説は読む人によって様々な理解がある。その点、漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできない」という信じられない答弁をしたことに対し、島本和彦氏が「じゃあ『あしたのジョー』が最後になんで真っ白になって笑ってるのか解釈を」 と切り返したのだそうだ。

確かにうまいなあ、このツッコミ。

ただ私としては、何に限らず、誰が読んでも見ても同じものなんてこの世にあり得ないという当たり前すぎるほどの知見を持ち合わせない人が、都議会の答弁に立つ地位にあることに、開いた口がふさがらないほど驚いた。

で、結局この条例改正案は、民主、自民、公明の 3会派が「慎重な運用を求める」などの付帯決議を付けた上で賛成する方針を固めたのだそうで、15日には成立する見込みらしい。

これって、石原都知事が自分の趣味にもっともらしい理屈をつけて押しつけているという印象で、しかも、都知事は若い頃の自分の小説作品からみると結構な「転向」をされている印象でもあるし、ずいぶん馬鹿馬鹿しいことのように思えてしまうのである。

ただ、この馬鹿馬鹿しいことで商売に影響の出る人が結構いるので、反対意見がずいぶん出ている。多くの大手出版社が、東京アニメフェア 2011 への出展をボイコットすると表明しているらしい。このフェアは東京国際アニメフェア実行委員会という組織の主催で、その実行委員長は、石原慎太郎ということになっている。

「不健全な漫画やアニメ」 のみを排除して、「健全な漫画やアニメ」のみを育成しようなんてことは、虫のよすぎる了見である。そんなことはできるはずがない。「角を矯めて牛を殺す」と、ことわざに言うとおりである。石原都知事は、自らがプロモートする東京最大の地場産業の活力を、自らが削いでしまおうとしているように見受けられる。

 

 

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2005年4月16日

世俗の高み~声優のキャラ

本宅サイトの 8万ヒットは、週末になるという私の予測を裏切って、金曜日の昼過ぎに達成された。踏んでくれたのは、博多発の世俗の高み、kumi 嬢であった。

BBSの 「80000」 というタイトルに 「踏んだかも・・」 という最上級シンプルのカキコに幻惑され、キリプレ和歌はまだできない。

ところで、「ドラえもん」の声優が入れ替わったという話は聞いていたが、新しい声の放送を初めてみた。確かに「全体的に甲高くなった」という評判通りだった。

我が家の末娘は、当初は「今度のドラえもんの声はむかつくよ」なんて言っていたが、近頃は善き理解者で、暖かく見守っているようである。ふむふむ、なるほど、そのうちに板について、新しいドラえもん像が確立されるだろう。

思えば、大山のぶ代さんという声優は偉大な存在であった。(現役の人に対して過去形の表現、甚だ失礼なのは十分承知の上で、こう書かせていただいた)

「んもう、しょうがないなあ、のび太君」なんて言いながらも、のび太のドジに対して決して必要以上の怒りは見せず、ある種、母親のような愛深さをもって接する「ドラえもん像」は、大山のぶ代さんなくしてはあり得なかったキャラなのだと、今にして初めて気付く。

今度のドラえもん(水田わさび)は、なんとなく「ドラえもん度」が薄いような気がするが、それは、偉大なる大山さんの直後ということで、仕方のないことだ。こぶ平の正蔵を、先代正蔵の林家彦六と比べても詮ないのと同じである。

今はまだ、ドラえもんを演じることで手一杯で、あの「愛深さ」 は表現しきれていないが、そのうちに新しいイメージの「愛」が醸造されるだろう。それを期待しよう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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