カテゴリー「映画・テレビ」の54件の記事

2022年2月13日

"What is this place?" という映画のセリフ

「小太郎ぶろぐ」というブログに"「ここは一体なんなんだ?」という、映画お決まりなセリフだけを集めたマッシュアップ" という記事があるので行ってみたところ、下の YouTube 動画が紹介されていた。

何と言っても、ダイアナ・ロスの "Do You Know Where You're Going To" (自分がどこに行くのか知ってる?)で始まるというのが洒落ている。そしてこの後に、数え切れないほどの ”What is this place?" (ここは一体何なんだ?)が紹介されるというわけだ。

とにかく、約 1分半にわたって数々の映画の ”What is this place?" というセリフが次々に続く。同じセリフでも、それぞれの映画と場面によってずいぶん違うニュアンスになるものだと関心する。

ちなみに ”What is this place?" と ”Where is this place?" (ここはどこなんだ?)の違いというのが、ネット上の複数のページで紹介されている。この 2つの質問文の違いが最も解りやすく説明されているのは、"what is this place?" Vs "where is this place?" というページだと思う。

これ、英語のページなのだが、こんな風に説明されている。

The question What is this place? will get answers like "It's a supermarket", "It's a temple", etc.
The question Where is this place? will get answers like "It's the Bullring shopping-centre in Birmingham", "It's the Church of St Giles in Winchester", etc.

So you can ask either question, depending on what (or how much detail) you want to know.

What is this place? (ここは何なんだ?)という質問への答えは、「スーパーマーケットです」「寺院です」など。
Where is this place? (ここはどこなんだ?)への答えは、「バーミンガムのブルリング・ショッピング・センターです」「ウィンチェスターのセントジャイルス教会です」など。

何を(あるいはどの程度詳しく)知りたいかによって、どちらの質問もできます。

なるほどね。とても実際的でわかりやすい解答だ。

 

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2021年12月20日

「NHK 値下げ」でも、テレビなんか見ないもんね

産経新聞が「NHK 値下げ法案を再提出へ 1月通常国会 剰余金の活用義務付け」という記事を昨日付で伝えている。他の媒体でどう伝えられているかを見ようとして 「NHK 値下げ」でググってみたが、表示された多くは今年 4月の「NHK 値下げ法案 異例の廃案」というニュース関連でしかなかった。

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今年春の国会で提出された値下げ法案は、東洋経済 ONLINE の 4月 16日付記事に寄れば「総務省幹部の違法接待問題に絡んで発覚した、放送事業者の外資規制違反」(参照)という問題があったため廃案となっており、改めて来年早々に審議されるということのようだ。結構トグロを巻いた話である。

このあたりからして、実質上の国営放送である NHK と政府とのイヤらしい関係がうかがわれ、値下げ法案提出に関するニュースを産経新聞がいち早く伝えているというのも、何となく「ふぅん・・・」と言いたくなってしまう。勘ぐり出せば鬱陶しい世界だよね。

NHK 受信料の値下げは、「積み立てた決算の剰余金のうち一定水準を超えた部分を受信料値下げの原資とする仕組みを導入し、実質的に NHK に継続的な値下げを義務付ける」というものになるらしい。NHK の「剰余金」というのは、増える一方なのだそうで、値下げによって批判をかわしたいのだろう。

NHK の受信料というのは、テレビというハードウェアを所有しているだけで徴収されるということになっている。これはどんなに屁理屈をつけても、無茶苦茶な話だ。

我が家ではその昔、アントニオ猪木全盛時代に、「プロレスを見たい」という唯一の理由でテレビを購入し、今は、妻が Netflix を大きな画面で見たいという理由だけで所有し続けている。というわけで、ラジオはしょっちゅう聞いているが、「いわゆるテレビ」というものはほとんど見ない。

この「テレビ離れ」は我が家だけの話ではなく、総務省の有識者会議でも指摘されているように(参照)、とくに若い世代ではごくフツーのことらしい。それでも、テレビを持っているというだけで受信料を払わなければならないのだから、NHK というのは「大名商売」である。

そんなわけで個人的な意識としては、NHK ラジオは毎朝聞くのでそっちの方の受信料を払っているのだというつもりになって、ストレスから逃れている。

今持っているテレビがいつの日かおシャカになったら、妻にはタブレットか何かで Netflix を見てもらうことにして、新しいテレビなんかは買わずに済ませたい。そうすれば、晴れて NHK 受信料なんてものとは縁を切ってしまえる。「いつの日か」ということではあるが。

 

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2019年6月 1日

国民の愚民化と、マスコミの劣化の相関関係

"元テレビマンが「愚民がマスコミを劣化させている」なんて言っちゃうんだ。そんなテレビマンが視聴者を愚民だと侮ってた時代があって、視聴者にどんどん見放された結果が今なんじゃないでしょうか" という tweet があって、じゃあ、その元の tweet はどんなんだろうと思って遡ったら、画像のようなものだった。(画像をクリックすると別画面で拡大表示される)

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物議を醸しているのは toriiyoshiki というドキュメンタリー番組専門のTVディレクターだったという方の tweet で、こんなようなことを言っている。

元テレビマンとして申し上げるが、いまのテレビは本当に酷い。志の低さに吐き気がするほどだ。しかし、何かのメディアが伝えていたが、政治ネタを扱った途端に視聴率がガタ落ちという現実もある。マスコミが国民を愚民化しているのではなく、愚民がマスコミを劣化させている、という気がしなくもない。

問題は「マスコミが国民を愚民化しているのではなく、愚民がマスコミを劣化させている」というくだりで、それに対して omion さんは「そんなテレビマンが視聴者を愚民だと侮ってた時代があって、視聴者にどんどん見放された結果が今なんじゃないでしょうか」と反応しているわけだ。

私はいつも言うのだが、どちらかが一方的な原因となって相手を変えてしまうなんてことはない。物事というのはお互いに影響し合って変わっていくものなのだ。だからマスコミが一方的に国民を愚民化しているわけではなく、視聴者が傲慢なマスコミを一方的に見放したというわけでもない。

要するに時代そのものが変わっているのだ。「政治ネタを扱った途端に視聴率がガタ落ちという現実」というのも事実なのだろうが、政治ネタでもこなし方によっては面白くもなる。マスコミの政治ネタのこなし方が下手なこともあって国民が政治に関心を失い、それによってマスコミの政治の取り上げ方がますます下手くそになる。堂々巡りだ。

ジャニーズのタレントやお笑い芸人がニュース・ショーのキャスターをやっても、政治ネタの取り上げ方が変わったわけでもなんでもなく、タレントの方がテレビの世界におもねているだけなのだからしょうがない。それだったら、まだ思いっきり正攻法の政治番組を見る方が質は高い。

そんなわけで、「フツーの国民」が見ておもしろいと思える政治ネタがテレビの世界には存在しなくなり、ネットの世界の方がおもしろかったりする。ところがネットはネットでかなり無責任な言いっぱなしが多いので、功罪相半ばしてしまうというわけだ。

とまあ、世の中ってこんなふうに、いつもいつも不満を内在しながらチマチマ、あるいはドラスティックに変わっていくものなのだろう。

ちなみに我が家のテレビは今、アンテナが壊れてしまったのか地上波放送の受信ができない状態になっているが、映らなくても全然不満がない。それで金をかけて修理しようという気になれないでいる。

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2019年4月30日

「怪獣ラドン」が "Rodan" である理由

平成最後の日という特別な日だが、へそ曲がりの私としては、あえて軽い話題でいこうと思う。怪獣映画の話だ。大好きな人にとっては全然軽くないかもしれないが、ご容赦のほどを。

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TOHO CINEMAS MAGAZINE(文法的にはちょっと引っかかるところのあるタイトルだが)の 4月 14日号の冒頭は「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」という特集で、そのしょっぱなに「4大怪獣が激突!」というページがある。4大怪獣とは、ゴジラ、キングギドラ、ラドン、モスラなんだそうだ。

私はこのこれらの中で『モスラ』だけは劇場で見たことがある。1961年公開とあるから、小学校 4年生の時だ。筋はさっぱり印象に残らず、ひたすらザ・ピーナッツの『モスラの歌』だけを覚えている(これは隠れた名曲: 参照)くらいだから、昔から怪獣映画とは親和性に欠けているのだろう。米国の『キングコング』も見てないし。

ちなみに、ゴジラのアルファベット表記が "Godzilla" というのは、1998年にハリウッド版が制作されたぐらいだから、よく知られている。"Zillion" という英語(「無数」という意味合い)の連想も働いて、まさに 「神の化身」的ニュアンスの名前にできたのはできすぎというぐらいのものだ。

そしてこの雑誌の写真で初めて知ったのが、「ラドン」の英語スペルが ”Rodan” ということだ。この名前はラドン温泉などでよく知られる放射性元素の "radon" にちなんでいるのだとばかり思っていたから、「え、そうだったの?」と驚いてしまった。念のために書き添えておくが、『考える人』でお馴染みの彫刻家ロダンは "Rodin" なので、ここでは関係ない。

「ラドン」が "Rodan" になった理由として想像されるのは、”Radon” と表記してしまうと、英語読みでは「レイダン」に近い発音になってしまうからじゃなかろうか。発音の違いのせいで、日米の怪獣映画ファン同士で話が合わなくなったらまずい。だったら ”Rodan” と表記する方が、ずっと「ラドン」に近い発音となる。

ところで明日からは「令和」という元号になるのだが、正直言って慣れるまで相当時間がかかりそうだ。

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2018年12月30日

『マイ・ブルガリアン・ベイビー』というダサダサの歌

ほぼ半世紀にわたって年に何度か、ふと口をついて出てしまう超ダサイ歌がある。「ホイホイホイホイ、マイ・ブルガリアン・ベイビー、ホイホイホイホイ、マイ・ブルガリアン・ドール…」というテキトーなロックンロールで、タイトルは  "My Bulgarian Baby" (「ブルガリアのかわいこちゃん」とでも訳しておこうか) という。

今日、ちょっとした気紛れで大した期待もせずにググってみたら、なんと見つかってしまったのが上に貼り付けたビデオだ(参照)。長年会っていなかったノー天気な友人に、街でばったり会ってしまったような感覚である。

1966年から 70年頃まで、ロバート・ヴォーン(ナポレオン・ソロ役)とデヴィッド・マッカラム(イリヤ・クリヤキン役)のコンビで放映された 「0011 ナポレオン・ソロ」(原題 "The Man from U.N.C.L.E.")というスパイ・ドラマは、日本でも一世を風靡した。そしてその派生シリーズに「0022 アンクルの女」(原題 "The Girl from U.N.C.L.E.")というのがある。

「0022 アンクルの女」の方のヒロイン、エイプリル・ダンサー役は、後に『荒野の七人』にも出演したステファニー・パワーズで、吹き替えは野際陽子。上のビデオのケージの中で踊っているのがエイプリルで、途中でボールペン型無線機で交信する相手は、ナポレオン・ソロの上司でもある、レオ・G・キャロル扮する ウェイバリー課長。ああ、懐かしいなあ。

この回のストーリーは、ビデオを見る限りではブルガリアかどこかの国の賓客を迎えるに当たっての警備のお話だったようで、彼女の相棒のマークは既に敵につかまっている。そんなことはすっかり忘れてしまっていたが、繰り返し流れていた、歓迎の歌という設定の割には脱力的なまでの迷曲 "My Bulgarian Baby" は、半世紀以上経った今でもしっかり覚えているのだから、不思議なものだ。

この動画のある YouTube のページには、ちょっと泣けてくるコメントが付いているので、その中から 3つほど紹介しておこう(当然ながら全部英語なので、ざっと翻訳しておく)

Jeanmarie Nuno : この歌は何年も私の心にこびりついていて、息子が赤ん坊の頃によく歌っていたんですが、ある日彼が『ママ、Bulgarian Baby の歌、歌って』と言い出しました。

Ari Meyers: これは私の父が歌っていた子守歌です。父は 16歳の頃にこれをテレビで見て心に残ったらしく、月日が経ってからは自分の子供たちに歌ってくれていたのでした。

Evan Stansbury: 本当にとんでもないお話だったけど、この妙にキャッチーな曲は、半世紀も経つというのに記憶にこびりついてます。

日本人の私でさえずっと耳についていて、つい口ずさんでしまうことがあるのだから、本国の米国ではそんなケースがもっとずっと多いのだろう。ダサイ歌詞とダサイ曲の絶妙の取り合わせというのは、ある種の麻薬である。

【念のため付け足し】

"My Bulgarian Baby" は、実際には 「マバゲァリアン・ベイビー」 と聞こえ、歌う時もそんな感じの方が英語の発音に近いので、その辺りよろしく。ただ、ちょっと真似して歌っているうちにはまっちゃって抜けられなくなっても、私は関知しない。

 

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2017年2月22日

視聴者投稿のタテ位置動画に思う

最近テレビでニュースを見ていると、視聴者から提供されたと思われる動画が登場することがある。そこで気になるのが、こうした素人から提供された動画は、ほとんどがタテ位置 (ケータイを縦に構えた際の、縦長の構図) ということだ。

中にはタテ位置でしかるべしという必然性のあるものもたまにはあるのだが、ほとんどはそうじゃない。ニュースになるような動きのある絵というのは、被写体が横に移動しているものが圧倒的多数なので、それをタテ位置で表示されると、イラっとしてしまう。

上に貼った写真なんかでも、縦位置だと残念なことになる。ヨコ位置だったら新幹線の横に伸びる姿と、背景の富士山がスッキリと映り込むのだが、こんな構図のタテ位置で動画を撮るとしたら、無神経にもほどがある。しかし、その無神経タテ位置動画が、世の中に溢れているのである。

例えばクルマの窓から外の景色を撮影していた際に、たまたま反対車線の多重衝突事故を写してしまったなんていうケースがタテ位置動画なんかだったりすると、「なんで、横に走っているクルマから景色を撮るのに、初めからヨコ位置で構えておかなかったんだよ!」と言いたくなってしまう。

これって、ケータイを片手で構えることで身に付いてしまった習性なんだろうと思う。とくに人物を撮る時には、片手でタテ位置に構えるのが自然なんだろう。

しかし横に長いものが横に移動しているのを動画で撮影する時には、90度傾けてヨコ位置にしてもらいたいのである。とくにテレビニュースに投稿しようなんて思うなら、是非そうしてほしい。何しろテレビ画面はヨコ位置なのだから。

テレビニュースにタテ位置動画が登場すると、数秒も経たないうちにズームで上下をカットし、ヨコ位置で表示されることが多い。そうした編集をしたくなる気持ちは、とてもよくわかる。

しかし、今の世の中、とくに若い人にとってはタテ位置画像というのがデフォルトになってしまっているようで、中には「テレビ画面もタテ位置になる」なんて言ってる人までいる。これは道具が人間の感覚を変えてしまうという好例になると思う。

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2016年11月16日

昔のビデオでもの悲しい郷愁に浸る

BS 放送に力が入っているのは、NHK と WOWOW などの BS 専門局ぐらいのもので、フツーの民間放送はショップチャンネルや QVC などのテレビショッピングの他は、韓国ドラマや昔の時代劇の再放送なんかでお茶を濁している。で、たまたま昔の時代劇なんかをちらっと見ると、その解像度の低さにびっくりしてしまう。

我々は今、ハイビジョンやらフル・ハイビジョンやらの高解像度の映像に慣れてしまっているが、昔のテレビの解像度なんて、めちゃくちゃ低かった。試しに YouTube で昔の CM なんかを見てみると、その画像の粗さとコピーのダサさに唖然としてしまう。

レナウンの「イエイエ」なんて、名 CM として語られたりするが、改めて見てみれば、こんなものである。「これがニットのトータルルック、上の色と下の色がぴったり」 とか 「ボンネルで作ったヤング・カジュアル」 とかのダサダサ・コピーとそれに見合うお笑いみたいな振り付け、それにレナウンの現状を重ね合わせると、もの悲しさが先に立つばかりだ。

上にはめ込んだ小さな画面だと、粗さは辛うじて目立たないが、直接 Youtube のサイトに行って(参照)全画面モードにしてみると、これがもう、どえらい粗さなのだ。画像表示というのは恐ろしいもので、「そんなに解像度上げたって、シワが目立つだけでしょ」 なんて言ってても、慣れてしまうと元の粗さには戻れない。

とくに昔のビデオを今の大きなテレビ画面でみると、その粗さがますます目立ってしまい、もの悲しいまでの想いにとらわれる。テクノ社会では、昔のイメージに積極的な意味を付加する努力を怠ると、ペシミスティックな方向にのみ流れてしまいがちだ。

その点、音楽は強いもので、60年代のビートルズの曲が今でも新鮮に聞こえたりするし、クラシック音楽なんて不朽の輝きをもっている。動画というジャンルは、テクノロジー的にはごく最近になってようやく使い物になる段階に到達したのかもしれない。

 

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2016年6月12日

『笑点』について

Nifty News に 「たけし"笑点"の番組作り批判」 という記事があった。あの番組のレギュラーになるとギャラが大幅アップするらしいし、答えのほとんどは番組の裏側にいる作家が作っているというのは、前々から知る人ぞ知る話だったから、まあ、たけしの批判は何も目新しいものではない。

私の知り合いにも『笑点』のファンは何人もいて、あの番組をみて無邪気に笑っているらしいが、ほとんど 65歳以上の高齢者である。若い世代では、せいぜい「たまに見て、大喜利のことも知ってはいる」程度のものだ。

で、不思議なのは『笑点』のファンだから、落語も好きなのかというと、どうもそういうわけではないらしい。信じられないことに、70歳を過ぎて、「大喜利は笑えるけど、古典落語は難しくてわからない」なんていう人がいくらでもいるのである。彼らの子どもの頃のラジオ番組なんて、落語と浪曲がやたら多かったはずなのに、一体何をして育っていたのだろう。

子どもの頃はむずかしくてわからず、年頃になって以後は落語や寄席芸なんて遠い世界のことになって、辛うじて『笑点』の大喜利で何十年も笑いながら、じいさん、ばあさんになってしまったというのだろうか。なるほど、この番組の視聴者の年齢層がものすごく高いというのも頷ける。

視聴者の年齢層が高いから、出演者も年寄りが多い。出演者の新陳代謝が進まないのも当たり前だ。見る人が年寄りばかりなのだから、出演者が頻繁に変わったら付いていけない。そしてたまに若い出演者に変わっても、新しめのギャグは通じないから、年寄り連中におもねる。そして暇な年寄りが毎週見るから、視聴率は高いまま維持されている。

若い作家が考えたギャグを、年寄りの出演者がしゃべって、それを聞いた年寄りたちが無邪気に笑っているという構造なのだ。この番組のファンの年寄りたちが、実は古典落語をわかっていないというのも、こう考えれば道理である。つまり「寄席芸入門」的な役割すらほとんど果たしていない。

そのくせ出演者の営業ギャラはやたら高くなっていて、「利権の巣窟」と化しているというのだから、たけしの批判も当然だ。繰り返すが、何も目新しいことじゃないけど。

 

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2016年2月 7日

懐かしのシネサロン

なぜか急に、故郷酒田の「グリーンハウス」という映画館のことを思い出した。小さな田舎町の映画館ではあるが、知っている人にとってはとても大きな意味をもつ。その素晴らしさは、あの淀川長治さんが絶賛したというほどのものだった。詳しくは Wikipedia の記事をご覧いただければわかる。

Wikipedia の記事にもあるが、グリーンハウスは昭和 51年 10月 29日の酒田大火の火元となって焼失した。映画館 1軒が消滅しただけではなく、吹き始めていた強烈な冬の季節風に煽られて火は上ではなく横へ横へと広がり、風下の 1767棟が焼け落ちた。繁華街の中心だったこともあり、私の高校時代までの思い出の街並みが、たった一晩で消え去った。

私は中学後半から高校時代に至るまで、グリーンハウスに入り浸った。とくに足繁く通ったのは、客席 14席というミニシアター、「シネサロン」 。正確な金額は忘れたが、当時 200円以下の低額で、田舎の一般の劇場では絶対にかからない、もっといえば都会の名画座でもあまり見られないような、ハイブロウな洋画が見られたのである。

スクリーンの大きさは、畳 1帖より一回り大きい程度のものだったかなあ。私はあのこじんまりとした空間の小さなスクリーンで、昔の名画や、興行的な大成功を収めたわけではないが玄人筋には好評をもって迎えられたアバンギャルドな映画を、毎週のように見ていたのである。思えばませたガキだった。おかげで今でもハリウッド大作とかアクション大作みたいな映画は全然性分に合わない(参照)。

私はこのシネサロンをたまらない懐かしさで思い出す。できることなら、もう一度でいいからあの小さな空間で映画を見たい。そしてその 「もう一度でいいから」 見たい映画は、『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』にとどめを刺す。

これはペーター・ヴァイスの前衛的な戯曲の映画化で、フランス革命時にジャコバン派に属して過激な共和制を主張していたジャン=ポール・マラーが、シャルロット・コルデーというジロンド派を支持する若い女性に浴槽で滅多刺しに遭って暗殺された事件を描いている。ただしその描き方が劇中劇になっていて、事件当時シャラントン精神病に実際に入院していたマルキ・ド・サドが、この病院の患者たちを俳優として使い上演しているという設定になっている。

とまあ、設定からしてかなりややこしいうえに、劇中劇(いや、この場合は映画中劇という方がいいかな)の演出がまたとびきり前衛的なので、わからない人にはさっぱりわからなくて、死ぬほど退屈ということにもなるだろうが、演劇好きにはたまらない映画だった。高校生の私は「こういう演劇に浸りたい!」と思いながら、わくわくして見ていた。

ああ今どき、あんなに心躍るような前衛的フィルムを、劇場映画として見られることは稀になってしまった。そうした稀なタイプの映画を、もう一度小さなハイブロウなシネマ空間で見たい。私の小さな、しかし途方もない願いである。

 

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2015年12月19日

『スターウォーズ』 の新作が話題だが

『スターウォーズ』の新作公開とやらで巷はえらい話題だが、申し訳ないことに私はまったく興味がない。『スターウォーズ』だけでなく、『ロッキー』、『ジョーズ』なども、全然見る気がしない。

先日カーラジオで聞いていただけなので、誰がそんなことを言っているのかも忘れてしまったが、アメリカン・ニューシネマは 1967〜8年から 1976年までのものなんだそうだ。で、1976年前後からアメリカ映画は新しい段階に入る。そういえば、スピルバーグの『ジョーズ』は 1975年、ジョン・G・アヴィルドセンの『ロッキー』は 1976年、 ジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』は 1977年の公開だ。

私は音楽的にはリアルタイムでザ・ビートルズとボブ・ディランで育ち、映画は同様にアメリカン・ニューシネマで育った。『俺たちに明日はない』 『卒業』 『イージーライダー』『明日に向かって撃て』『ファイブ・イージーピ・ーセズ』『真夜中のカーボーイ』『スケアクロウ』『ロンググッドバイ』なんかは、私にとっての「映画のスタンダード」である。

何しろ私は、これらのアメリカン・ニューシネマを一渡り見てから遡る形で『サウンド・オブ・ミュージック』とか『第三の男』とか『マイ・フェア・レディ』とか『街の灯』とかの 「クラシック」を見たのだよね。こんな形で遡ったから、私の中にはジョン・ウェインの西部劇みたいな「アクション大作」の系譜はないのだ。

これが、私が『スターウォーズ』にも『ロッキー』にも 『ジョーズ』にも興味を抱けない理由である。同様に『ミッション・インポッシブル』にも『マトリックス』にも興味が向かない。

4年前に間違って、トムクルーズの『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』というのを見てしまったが、映画を見てあれほど後悔したことは、後にも先にもない。それは、こちらの記事に書いた通りである。

ならば、日本映画ならどうなるかというと、それはもう、小津安二郎監督作品ということになってしまうのだよね。要するに「ハリウッド大作」みたいなものには、ちっとも興味が向かない体になってしまっているのだ。

 

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