カテゴリー「音楽」の93件の記事

2023年3月28日

「ラップ」と「トーキング・ブルース」

そのうち書こうと思いながらつい書きそびれているテーマというのがあって、今日はそんな中の一つを書こうと思う。「ラップ」と「トーキングブルース」についてだ。

というのは、昨日 YouTube でおもしろい動画を見つけたからである。トム・パクストン(Tom Paxton)がまさに「ラップ」と「トーキングブルース」について語っているのだ。彼について若い世代は知らないと思うが、1960〜70年代からアメリカン・フォークソングを聞いている人なら知っているはずだ。

この動画の中で彼は、「ラップというのは、我々がかつて『トーキング・ブルース』と呼んでいたもの」と語り、その後に「ラップはアーバン(都会的)だ」としている。ふむふむ、確かにこの 2つは根っこの部分に共通したものを感じてしまうよね。

彼の曲の一つに ”What Did You Learn in School Today?" (1964年)というのがある。こんな歌だ。いやぁ、ジャケットの写真が若いなあ!

ちなみにこの曲、高石友也が「学校で何を習ったの」(1967年)と訳して歌っている。内容はほぼそのままのチョー名訳で、途中で何を習ったのか並べ立てる部分が、ちょっとだけトーキング・ブルース調である。吉幾三の『俺ら東京さ行くだ』(1984年)の登場するずっと前の話だ。

そしてこのトーキング・ブルースの大御所的存在が、あの Woody Guthrie (ウッディ・ガスリー)で、数々の録音を残しているが、下に紹介するのは "Washington Talkin' Blues" という曲。「1929年に砂嵐に追われてワシントンに移住したものの・・・」という内容の歌だ。

Woody Guthrie が出たら、次は当然、Bob Dylan である。代表的なトーキング・ブルースは、デビューアルバムに収められた "Takin' New York" だ。

冒頭の「ワイルドな西部の最愛の街からニューヨークに来るまで、いろいろなアップダウンを見てきたけれど、ここでは人々は地下に潜り、建物は空に昇る」というフレーズが、後にノーベル文学賞を受賞することになる才能を感じさせるよね。音だけでなく、意味的にも韻を踏んでいる。

そして現代の「ラップ」(rap)となるわけだが、個人的にはギター 1本の弾き語りでやるのがトーキング・ブルースで、ヒップホップのリズムに乗ってやるのがラップだと思っている。

【3月 29日 追記】

ちなみに日本人が「ラップ」って言うと、平板アクセントで "luppoo" みたいな感じになっちゃう(「ラ」がほぼ確実に "L" の発音になる)から、英語ではまず通じないよね。これ、"rap" の「ラップ」に限らず、「包み」(wrap)でも「膝」(lap)でもそうだから、おもしろい。

 

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2022年5月17日

ピアノの黒鍵から、オクターブ、コードを考える

先日、友人のカメラマンと食事しながら話していると、彼が「ピアノの鍵盤は、視覚的にどうしても納得がいかない」と言い出した。黒鍵が 2つ並びと 3つ並びの繰り返しで、写真的にどうしてもバランスが取れない」と言うのである。うむ、視覚派らしい主張だ。

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「だって、『ミ』と『ファ』の間に黒鍵入れても、その音は『ファ』と同じだから、無駄になっちゃうからね」と言うと、彼は驚いたように「えっ、そうなの?」と言う。

「そうだよ。『ド』の半音上は『ドのシャープ』だけど、『ミ』の半音上は『ファ』なんだよ。『シ』の半音上も『ド』になっちゃう。だから、『ミ』と『ファ』、『シ』と『ド』の間には黒鍵入れてもしょうがないんだよね」

「えっ、そんな変な区切り方しないで、均等に上がったり下がったりすれば、黒鍵なんていらなかったのに!」

なるほど、それはもっともな疑問である。しかし実際には、そんな区切り方をするわけにいかない。

「そんなことしたら、ピアノの横幅が広くなりすぎて大変だよ。それに人間の自然な音感にそぐわなくて、コードも自然に聞こえないかも」

「コードって何?」

「和音のこと。『ドミソ』とか『ファラド』とか『ソシレファ』とかをいっぺんで鳴らすといい感じの響きになるでしょ。1オクターブを均等割にしちゃったら、不自然に響くんじゃないかなあ。実際には聞いたことないけど」

彼はこの説明に半分納得し、半分納得できないという風情だったが、これ、確かに不思議な話である。どうして人間の耳って、いわゆる和音が心地良く聞こえるようになってるんだろう。

それを考えるには、「オクターブ」を理解しなければならない。オクターブというのは、例えば「下のド」から「上のド」までのことで、「ドレミファソラシド」の 8音あるから「オクターブ」という。(8本足のタコが「オクトパス」なのと同じ語源で、暦の ”October” も同様:参照

音楽の基本の音は、どういうわけか「ラ」ということになっていて、音名では ”A” (日本語では、イロハの「イ」)という。いわゆる「ド」は、そこから数えて 3番目だから "C" で、日本語では「ハ」だから、これを主音とすると ”C major(ハ長調)" とか "C minor (ハ短調)" なんてことになる。

そして、ピアノの真ん中辺りの ”A” の音の周波数は 440Hz で、それより 1オクターブ下は 220Hz、1オクターブ上は 880Hz ということになっている。これ、ギターのチューニングでも基本の音になっているほど大切なもののようなのだ。

1オクターブ上がるごとに周波数が倍になって、どんなに長く延ばしてもズレないから、人間の耳には「オクターブ違いの同じ音」に聞こえるのだろう。そしてその間をうまい具合に区切ったので、「ドミソ」とか「ファラド」もいい具合に響くのだという単純な理解で、そんなには外れていないと思う。

ただ、現在の音階に辿り着くまではいろいろ微妙な変化があったようで、「平均律」とかいう妙に数学的すぎる区切り方を経て今の心地良い音階になったようだ。

音楽というのも、なかなか大変なことのようなのである。

 

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2022年5月11日

"Hey Jude" の歌詞(「ラ〜ラ〜ラ〜」じゃないのよ)

先日、運転しながらカーラジオを聞いていたとき、何の番組だか覚えていないのだが、歌詞に「ラララ」の付いた歌を集めて流すという企画をしていた。ちなみに昔、TBS ラジオで「ラ・ラ・ラ ♪ 日ようび」という番組があったが、これはとっくに終了しているので、関係ない。

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で、Mr.Children の『ラララ』とか、大黒摩季の『ら・ら・ら』とか、いろいろな曲を流した後で、「でも、極めつけはやっぱりこれですよね! 『ラララ』がものすごく長いんですけど」なんて言って、The Beatles の ”Hey Jude” を流し始めた。

この時、前半はカットされて、いきなりのように後半の「ラララ〜」(と思い込まれている)辺りから流れ始め、キャスター(残念ながら名前は知らない)まで一緒になって「♫ ラ〜ラ〜ラ〜 ララララ〜」と、ノー天気なノリで歌い始めたのだった。

私は運転しながらどえらくシラけてしまい、「おいおい、"Hey Jude" の後半の部分は、『ラララ』じゃなくて『ナナナ』なんだけどなあ」と呟いていたのである。「ラララ」と思っている人が多いようだが、あれ、実は "na na na....." なのだよね。

嘘だと思うなら、下のビデオの開始後 4分あたりから後を再生して聞いてみてもらいたい。よく聞けば "na na na....." だとわかると思う。

実際の音を聞いても「ちょっと、ビミョーすぎて・・・」と言うなら、もう手っ取り早く原語の歌詞のページに飛んでみればいい。一番上の写真をクリックして、ずっとスクロールすれば、下の画像の部分が表示されるはずだ。確かに「ナナナ」でしょ。

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ちなみにこれ、その昔の 1970年代頃は ”da da da..." と表示されることもあった。何しろ当時は、英語の歌の歌詞表示って、聞いた人が聞こえたように書き写して出版するなんてことがフツーにあったからね。それでも、"la la la..." というのは見たことがない。

そして最近はさすがに、Paul の書いた通りの "na na na....." が正解ということで、しっかりと定着したようなのである。

ところがこの番組を聞いているうちに、ますますシラける事態に至った。このキャスター、いかにも英語っぽく歌おうと下手に気取ったみたいで、やたらキザな調子で「♫ ゥラ〜ラ〜ラ〜、ゥララララ〜」なんて感じでやり始めたのである。太字の部分、発音が "la" じゃなくて ”ra" になっちゃってるのだ。

”Na” の発音は、舌を上顎に付けるから、同じく舌を付ける "la" と聞き違えても「ま、しょうがないか」と思ってあげてもいいが、"ra" はまったく違う発音で舌を付けないから、このデタラメ混在は気になる。というより、気に障る。気に障りすぎて、「不愉快の域」に達する。

多くの日本人は ”L” と ”R” の発音が区別できないという定評があるものの、"na na na..." を "la la la..." と間違えた上に "ra" を混ぜこぜにしてしまうとなると、リアルタイムで The Beatles を聞いて育った世代としては、「おいおい、こりゃもう、許せんなあ!」と思ってしまうじゃないか。

「頼む、スタジオのマイク、切ってくれ!」てなものだ。

というわけなので、"Hey Jude" を歌うときは、発音に十分気をつけようねということで、その辺り、どうぞ

Yoroshiku4

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2022年4月 7日

桃太郎の歌には 2種類あって…

このブログの人気記事に、"童謡『桃太郎』の歌詞が、最近変わったらしい" というのがあって、結構なアクセスを集めている。もう 8年近く前に書いたものだ。

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ただ、今日の記事ではこの件を蒸し返したいわけじゃなく、『桃太郎』の歌にはもう一つあるということに触れてみたいのである。「♫ 桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち〜」という歌詞で始まるものだ。

ちょっと調べてみたところ、こちらの方が古いらしい。こんな感じである。

  • 「♫ 桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち〜」の方
    作詞:田辺友三郎、作曲:納所弁次郎
    初出:1900年(明治 33年)「幼年唱歌(初の上)」(参照

  • 「♫ 桃太郎さん桃太郎さん お腰につけた黍団子〜」の方
    作詞者 不詳、岡野貞一 作曲
    初出: 
    1911年(明治 44年)5月の『尋常小学唱歌(一)』(参照

というわけで、「♫ 桃から生まれた桃太郎〜」の方が 11年も前に発表されているのだが、世間的には「♫ お腰につけた黍団子〜 」の方がずっと知られている。私の妻も、古い方は聞いたこともないなんて、すげないことを言っている。

ただ、すげないという点に関しては私も妻を責められない。というのは、私も「♫ 桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち〜」以下の歌詞をちっとも知らないのである。

自分で歌うといつも、「♫ 桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち〜 向こうの山のふもとまで、どちらが先に駈けつくか〜」となり、「ありゃ、いつの間にか『うさぎとかめ』に変わっちまった」なんて思ってしまうのである。「もしもしかめよ、かめさんよ〜」の、いわゆる『もしかめ』だ。

ただ、今回改めて YouTube で古い方の『桃太郎』を探し出して聞いてみたところ、いつも『もしかめ』になってしまうのは無理もないこととわかった。何しろ、メロディがそっくりなのである。こんな感じだ。

今だったら「盗作」と言われかねないほどだが、『もしかめ』の方も調べてみると作曲は同じ納所弁次郎で、初出は『ももたろう』の翌年、1901年(明治 34年)の『幼年唱歌 二編上巻』 だそうだ(参照)。自分で同じようなメロディを使い回しちゃったみたいなのである。引き出しが少なかったのかなあ。

それにしても、昔の童謡の歌詞って、ビミョーにというか、露骨にというか、軍国趣味なのが多いよね。

 

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2022年3月13日

”Tatoes" という言葉の意味がやっとわかった!

知ってる人はとっくに知ってて「何を今さら」と言われてしまいそうだが、私にとって半世紀以上にわたる謎だったことが、今日ようやく解けた。それは "tatoes" という英単語の意味である。これまでは辞書を引いても出てこなくて、どうにもわからなかったのだ。

この言葉は ”Carry Me Back to Old Virginny" (邦題:『懐かしのバージニア』という米国の歌の、出だしから 2行目に出てくる。こんな感じだ。

Carry me back to old Virginny.
There's where the cotton and the corn and tatoes grow.

直訳すれば「俺を懐かしのバージニアに連れ戻してくれ。コットン、トウモロコシ、そして tatoes の育つ所に」となる。この "tatoes" というのが手に負えず、長い間「テイトウ」というわけのわからない特産品があるんだろうぐらいに思っていた。

それがインターネットの時代の今、ネット辞書の Weblio で見つかった。こんな具合である。(決して こちら の方ではない。念のため)

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何だ、"potatoes" (「ジャガイモ」の複数形)の古風な口語だったのか。「わからない特産品」だなんて思っていたのは、見当外れもいいところだった。

で、この際だからとよく調べてみたところ、この歌は元々は黒人奴隷の歌とわかった。

上の動画の Ray Charles バージョンでは ”There's where this heart of mine long to go." (俺の心がどうしても行きたい所)となっている部分、元は "There's where this old darkey's heart..." (黒い俺の心が・・・)だったらしい。そうとはちっとも知らなかった。

歌詞に出てくる英語でもう 1つわからなかったのは、サビの部分に出てくる "massa" という言葉だ。こんな感じである。

Theres Where I labored so hard for old Massa.
(俺が "old massa" のために重労働していた所)

この "massa" は "master" (主人)の訛りで、雇い主の白人ことであるらしい。そしてこの言葉も、Ray Charles のバージョンには出てこない。ちなみに、Louis Armstrong は "for old master" と歌っている。

ここまで来ると、この歌のいろいろなバージョンをこれまでよりずっと深く聞くことができそうだ。

【同日追記】

いろいろなバージョンをあたってみた。まず、Jerry Lee Lewis のロックンロール版。

あとはスタンダードなバージョンとクラシック調のものも。

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2021年9月15日

んoon、最高じゃん!

今日の午後 6時半過ぎ頃から、TBS ラジオの「アフター 6 ジャンクション」を聞きながらクルマを運転していたところ、7時頃からの "Live & Direct" というコーナーに登場した ”んoon" というバンドを聞いて驚いた。というか、シビれたね。

ラジオを聞いていた限りでは、バンド名の ”んoon" は、「ふぅん」みたいに聞こえたが、彼らのサイトには次のようにある。

んoon(ふーん)2014年結成。バンド名の由来は、感嘆(あるいは無関心)を表す日本語の擬態語「ふーん」から。(発音アクセントは「不運」と同じ。)「ん」は "h" であり、ハープのアウトラインでもある。直観と思いやりをコアコンセプトに、ジャンルを無駄にクロスオーバーさせるより、その境界面に揺蕩うことを重視する。

聞いてみれば、まさにここに書いてある通り、ジャンルをどうこう言うのが無意味に感じられるほど、彼らの独特の世界が表現された音楽である。クールではあるが、同時に「ノリノリ」でも聞けるところがいい。

なにしろ、ボーカルの JC さんが素晴らしい。さらに、ベースがやたらとエグい。その上、何と、ハープなんていう楽器が加わっている。この演奏力は、そのへんのポッと出のバンドとはレベルが数段階違う。

これからずっと彼らの音楽を聴いていこうと思ったのだよ。皆さんにもおススメするので、よろしく。

 

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2021年8月12日

中国では「カラオケ検閲」が始まるらしい

ロイターが「中国、違法な内容のカラオケ曲を禁止へ」というニュースを伝えている。元記事は "China to bar songs with 'illegal content' from karaoke venues" というもので、話はちょっと横に逸れるが、"karaoke" って、本当にちゃんと国際語になってるのだね。

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記事には「国家の結束や主権、領土の一体性を危険にさらすものや、カルトや迷信を拡散する内容で国の宗教政策に違反する曲、賭博や麻薬のような違法な活動を奨励するものが禁止対象に含まれる」とある。こんなことを言ったら、国の都合で大抵の曲は「禁止曲」に指定できてしまう。

要するに「カラオケ検閲」である。1970年頃の日本でも当時のフォークソングが何曲も「放送禁止歌」に指定されたなんてことがあったが、近頃の中国では「カラオケ禁止歌」ということになるのだね。もっとも中国では、ちょっとでも問題のある歌は、元々放送では流れていないのだろうけど。

下手すると、中国のカラオケ店に用意されている曲は「やんわりとした中国共産党讃歌」みたいなものしかなくなってしまいそうだ。そんなことになったら、私みたいな者だけでなく、まともな感性をもった人間ならカラオケ店に行こうなんて思わなくなるだろう。

こうなったら、人々は「歌いたい歌は、カラオケ以外で歌う」というスタイルに移行するほかない。つまり自前の楽器で伴奏するのだ。私としては、その方がずっと楽しいと思う。

私の世代の若い頃は、カラオケなんて言ったら場末のスナックでオッサンがママさんと調子っぱずれにデュエットする艶歌みたいなものしかなかった。今のカラオケはずいぶん変わったようだが、私があまりそそられないのは、心の底の方にあの気持ち悪いイメージが残っているからである。

当時、歌いたい歌はギターなんかで弾き語りするものだったのである。フォークソング・ムーブメントは、そうして盛り上がった。最近の曲の多くは、ギター 1本で歌うにはアレンジが複雑すぎて、ある意味気の毒である。

それでいつの頃からか、若い世代でもギターの弾けるヤツがものすごく少なくなってしまった。これって、ある意味「文化の衰退」といえると思う。

話を戻せば、ギター弾き語りで歌う中国版「プロテスト・ソング」が紹介されたりしたらおもしろいと思う。とはいえそうなると、今度はギターを弾いただけで「反体制派」として弾圧されるなんてことになりかねない。あの米国でさえ、一時はそんなような時代があったのだから。

ただいずれにしても、民衆はどうにかこうにかして負けないのだよ。

 

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2021年7月27日

「君が代斉唱」という表現を巡る冒険

東京オリンピックが始まっているが、私は「どうぞご勝手に」と言っていることもあって、ほとんど関知していない。ただ、無人島で暮らしてるわけじゃないので、何らかの形で情報は入ってきて、付き合うともなく付き合わされている。

開会式の「君が代斉唱」が MISIA だったというのは、翌日になって初めて知った。それは毎日新聞の「毎日ことば」というサイトで "国歌を「斉唱」か「独唱」か" という記事を読んだからである。なるほど、しっかり言葉にこだわれば、あれは「独唱」であって「斉唱」じゃないよね。

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というわけで毎日新聞的には、「歌手のM I S I Aさんが国歌を斉唱した」の「斉唱した」の部分を、「歌った」と校正している。おそらく「独唱」と表現するのはことさら過ぎると判断したのだろう。

念のため改めて説明すると、こんな感じになる。

合唱 複数のパートに分かれて歌うこと。ハーモニーなどの効果が発生する(コーラス)
重唱 各パートが 1人ずつの場合は、重唱と言う
パートが 2つの場合は二重唱(デュエット)
3つの場合は三重唱(トリオ)
4つの場合は四重唱(クァルテット)
斉唱 2人以上で同一のメロディを歌うこと(ユニゾン)
独唱 1人で歌うこと(ソロ)

で、『君が代』は原則的に全員が同じメロディを歌うので、「合唱」にはなりようがない。2人以上の複数で歌ったら「斉唱」、1人だと「独唱」という、2パターンしかない。

10年ぐらい前だと「君が代合唱」なんていう表記がよく見かけられ、当ブログでも 2010年 8月 7日付の "「君が代合唱」って?" という記事で批判的に触れた。ただ、さすがに最近はこの誤表記はかなり減っている。

ところが今回の MISIA のパフォーマンス(ソロ)は、至る所で「君が代斉唱」と表記されてしまっていて、例えば こちらのページでも、見出しに「MISIA の国歌斉唱は賛否両論」とある。

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これ、いろいろな行事で、参加者全員で歌う『君が代斉唱』という言い方が定番になっているので、独唱の場合でもつい舌や筆が滑ってしまうのだろう。そのあたり私としては理解できなくもないし、大した実害もないので、ことさらに目くじら立てようとは思わない。

というのは、今回の場合でも、MISIA のソロに合わせて参加者が自然に小さく口ずさんだりしたら、それは結果的に「斉唱」みたいなことになるからでもある。別に「黙って聞け」と言われてるわけでもないだろうしね。もっとも、NHK の動画を見ても、そのあたりビミョーでよく聞こえないが。

ちなみに 2年前のサッカー試合での平原綾香のパフォーマンスは、 ”平原綾香 国歌独唱” というタイトルで YouTube に登録されているが、再生してみると、彼女がリードを取る形になって開会式参加者が自然に歌い始めている。で、図らずも結果的に「斉唱」になったわけだ。

ただ、この時の平原綾香の歌は通常より 4度も下で歌われているので、一緒に「斉唱」するにも「低すぎ感ありあり」で、さぞかし歌いにくかっただろうと思う。今回の MISIA のパフォーマンスも、ちょっとビミョーではあるが、通常より半音低い(最初の音が C#)。

最近の女性はアルトの人が多いようで、通常のキー(D で始まる)だと高すぎてしまうのかなあ。絶対音感がある人には、ちょっとむずがゆいかもしれない。

 

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2021年7月22日

『我は海の子』という歌

ラジオ体操の第一と第二の間で、軽く首を回したりする際に、バックグラウンドでピアノが既成の曲のメロディを奏でるが、昨日はそれが『我は海の子』だった。NHK、文句の出にくいクラシックな季節感を、さりげなく採り入れたがる。

今の子供たちはこんな歌は知らないんじゃないかと思っていたが、Wikipedia によれば 2007年に「日本の歌百選」に選出されており(参照)、今でも小学校 6年生の音楽の教科書に載っているようだ(参照)。

ただ、私の頃(昭和 30年代)でも歌詞の意味をまともにわかって歌っている子なんてほとんどいなかった。クラスの 2割ぐらいは、1番の最後の部分、「我がなつかしき 住家なれ」を、「わ〜がなつか〜しき すみな〜かれ〜」なんて歌っていたし、あろうことか、教師もそれには無頓着だった。

何しろ初出は 1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』というから、110年以上前の歌である。歌詞が基本的に古色蒼然とした文語というのも頷ける。

そもそも出だしの「我は海の子 白波の / さわぐいそべの松原に」というのでさえ、子ども時代にはきちんとわかっていなかった。私はちょっとおませだったから、「白波の」なんて聞くと歌舞伎の『白浪五人男』を連想して、「問われて名乗るもおこがましいが〜」なんて言いたくなっていたものである。

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白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場

小学生の頃は「自分は海、なかんずく白波の申し子で、礒辺の松原で賑やかに騒ぎまくりながら育った」みたいな意味かと思っていた。ところが中学生ぐらいになってようやく気付いたのは、この部分、どうやら意味の区切りと曲の区切りが不自然なほど一致していないようだということである。

つまり意味としては、「我は海の子 / 白波のさわぐいそべの松原に・・・」と区切るべきで、その後の部分とつなげて、「自分は海の子であり、白波のさわぐ礒辺の松原に煙をたなびかせる粗末な家が、懐かしい住処なのだ」というようなことだとわかったのは、かなり成長してからである。

さらに、楽譜に添えられる歌詞は基本的に平仮名なので、2番目の「千里寄せくる海の氣を / 吸ひてわらべとなりにけり」は、20歳を過ぎるまで「海の木を / 梳いて〜」だと思っていた。海岸に打ち上げられる流木を燃料にするために、髪を梳くように選定していたのかなんて、無理矢理に想像していたよ。

この記事を書くに当たって、上述の Wikipedia の歌詞の項目で確認してみたところ、『我は海の子』は正式にはなんと 7番まであるとわかった。つらつら読んでみると、5番目あたりから「鐵より堅きかひなあり」「はだは赤銅さながらに」など、唐突にマッチョなイメージが強調され始める。

とくに 6番の「浪にたゞよふ氷山も/來らば來れ恐れんや / 海まき上ぐるたつまきも / 起らば起れ驚かじ」なんて、大袈裟な悪趣味というほかない。昨今に至っては温暖化で南極の氷山も減少したし、竜巻云々は逆にリアル過ぎて、メタファーとして歌うのさえ気恥ずかしいほどのナンセンスと化してしまった。

そして 7番の「いで軍艦に乘組みて / 我は護らん海の國」に至って、「ほぅら、結局これを言いたかったわけね」となる。海辺で生まれた無邪気で素朴な子も、やがて立派な軍人に育つのだという事大主義的モチーフで、これがあったからこそ明治の教科書に載ったのだろう。

この 7番は、戦後に GHQ の検閲でカットされ、最近はもっぱら 3番までしか歌われないというのも、無難な路線なのだろう。私としても、この歌は先に進むほど大仰なステロタイプの羅列でしかなくなり、芸術的価値は下がる一方だと思う。

ギリギリの 3番目にしても「不断の花のかをりあり」の「不断の花」ってどんなものだか想像もできず、私はずっと「普段の花」と思っていたぐらいだから、せいぜいこのあたりで終わらないと違和感が強まるばかりだ。正直なところ、どうしてこれが「日本の歌百選」に入っているのか理解に苦しむ。

とにかく難解でもったいぶった歌詞だから、ノー天気な替え歌もいくつかあった。最も知られているのは「我はノミの子シラミの子 / 騒ぐ背中や脇腹に」というやつだろう。元歌と韻が共通していて、秀逸のパロディである。

ああ、そういえば今日は「海の日」って祝日だったのか。

【当日 追記】

Wikipedia によれば、この歌は作詞者・作曲者ともに不詳だが、作詞者として 宮原晃一郎(1882年 - 1945年)と、芳賀矢一(1867年 - 1927年)の 2人の名が挙がっており、「最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている」とある。

そう考えると、冒頭に児童文学者である宮原の原作の素朴な趣が残っているが、先に進むほど、国文学者で国定教科書の編纂にも関わったという芳賀の権威主義的キャラがどんどん押し出されて、「いい加減にしろや」と言いたくなるのも、もっともなことと納得される。

 

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2021年3月 1日

絶対音感があっても音痴の人がいる

先日、ラジオを聞きながら高速道路上を運転している時に、「絶対音感があるのに、あまつさえピアノは超絶うまいのに、歌うとモロに音痴」という人物の弾き語り実演を聞いて思わず運転席からずり落ちそうになり、マジにいのちの危険を感じてスピードを落としてしまった。

聞いていたのは TBS ラジオの「赤江珠緒のたまむすび」という番組で、そのコーナーのテーマは「絶対音感を持ってる人は、もれなく音楽の才能があるのか !? 」というもの。登場したゲストは元アイドルであるらしい山口めろんという女性だった。

彼女は日大芸術学部音楽科ピアノコース出身で、ヤマハ・ヤングピアノコンテスト金賞受賞という輝かしい経歴があるという。

このくらいになると「絶対音感がある」なんて当たり前で、取り立てて言うほど特別なことじゃない。彼女自身も「ピアノをずっとやっていると、『ド』の音が『ど〜』に、『レ』の音が『れ〜」に聞こえるなんて、あまりにも当たり前すぎて、子どもの頃はみんなそうなんだと思ってました」と言うほどだ。

ただ、彼女はスタジオに持ち込んだ簡易キーボードで「ド」の音を出しながら、それに合わせて(いるつもりで)「ど〜」と言うのだが、何だか「そこはかとない以上」の違和感がある。キーボードで出す「ド」が本日只今の「ド」なら、彼女の「ど〜」は、アサッテの世界あたりから聞こえてくるのだ。

そしていよいよ実際に弾き語りをさせてみると、スタジオ内の雰囲気が一瞬にして崩壊する。その様子は上述の番組ページの写真で確認できるし、実際の彼女の弾き語りの案配も、上の YouTube 動画で聞ける(視聴注意)。

あまりにも音痴過ぎて、初めはふざけてわざとやっているのかと思ったほどだが、実際は歌がまともに歌える人が音痴の真似をするのは結構難しい。どうやら彼女はピアノは超絶技巧だが、歌わせるとナチュラルで「ド音痴」のようなのだ。

ピアノも歌も両方まともにイケるという人が案外少ないことは、私としても経験的に知っている。ピアノの先生をしているような人でも、歌わせると「う〜ん、ちょっとね・・・」という人は、はっきり言ってかなり多いし。

ただ、ここまで落差の大きい人間がいるというのは、この歳になって初めて知った。彼女の場合、耳で聞いて苦もなく当たり前にわかる音程と、自分が出す音程の認知は、ほとんどリンクしないみたいなのである。器楽と声楽では使う筋肉がよっぽど違うのだね。

ちなみに私の場合、「やたら中途半端な絶対音感」を持っている。「レ」と「ソ」の音(音名で言えば D と G の音)なら、聞けば一発でわかるし、その他の音もそこから辿って認識できる。

例えば「ファ」の音を聞いたら、自分が体の中に持っている「レ」の音から「レ、ミ・・・」と辿って合わせて行き、0.5秒で「ファ」とわかる。さらにそこから自分の持っている「ソ」にするっと上がれれば、「うん、間違いない!」と確信できるというわけだ。

この程度で「絶対音感」と言うのはちゃんちゃらおかしいだろうが、まともに絶対音感をもっている人がどんな感じなのかは、なんとなくわかる。「体の中にあるんで、わかっちゃうんだよね」というほかないのだろう。

「レ」と「ソ」の音だけ一発でわかるのはどういうことなんだろうと、今さらのように考えてみて、中学生の頃から始めたギターのおかげなんじゃないかと思い当たった。

私の場合、ギターのチューニングは最初にピアノなどの絶対的な音程に合わせて第4弦の「レ」と第3弦 の「ソ」を決める。そして、それを基にして、両隣の 2弦ずつは相対音感で合わせて行く。この作業を長年繰り返しているうちに、「レ」と「ソ」だけはしっかりと体に入ってしまったようなのだ。

幼い頃からずっとまともにピアノをやってきた人なら、12音階すべてが自然に体に入っているのだろうね。ただ、それを自分の声で出せるかどうかというのは、また別のお話のようなのだが。

 

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