カテゴリー「音楽」の101件の記事

2024年8月19日

高石ともやさん、ありがとう

今朝、はてなブックマークをチェックしていたら、"【速報】高石ともやさん死去、82歳 フォーク歌手「受験生ブルース」" という記事が見つかり、本当に驚いてしまった。亡くなったのは 17日午後 3時半だそうだ。

私は中学 1年のの頃からギターの弾き語りを始めていたのだが、本格的にやり始めたのは高校 1年で高石ともやさんの歌を知ってからだった。 

最初に触れたのは、深夜放送でヒットしていた『受験生ブルース』。夜更けになると山形県庄内の地でも辛うじて電波を拾える深夜放送で、雑音混じりの歌を必死になって聴いていた。あの頃は「アングラ・フォーク」なんて言われていて、私がずっとアンダーグラウンド志向となった出発点である。

その後、高校 2年の時だったと記憶するが、労音主催のコンサートで、高石ともや、岡林信康五つの赤い風船のジョイント・コンサートを聞き、すっかりフォークソングというものに入れあげるようになった。一時は私もシンガーとして、ライブハウスなどで歌っていたほどである(参照)。

高石ともやさんはその後ナターシャ・セブンを結成して、カントリー・アンド・ウェスタン的なテイストを強調するようになった。私はブルースを追っていたので「ちょっと違ってきちゃったかな?」という気もしていたが、聞いてみればさすがにスゴい。

ナターシャ・セブンのメンバーの圧倒的演奏テクニックと、ともやさんのスゴい歌唱力の合わせ技で、「こりゃ、かなわんわ!」と思わせるほどだった。とにかく、ともやさん、歌がうまい。うますぎる!

とにかく、私の人生、とくにモノの考え方に大きな影響を与えてくれた人だった。心から冥福を祈る。ありがとう!

 

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2024年6月12日

『ドレミの歌』の「シ」と "tea" の謎が解けた

実は長い間の疑問があった。それはほぼ 60年にわたって抱き続けてきた疑問なのだが、『ドレミの歌』のオリジナル版(英語版)の歌詞についてである。

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『ドレミの歌』の出だし、「ドはドーナツのド」はペギー葉山の訳詞によるもので、オリジナル版では "Doe, a deer, female deer" (ドゥは鹿よ、牝の鹿)と歌われる。「鹿」は英語で "deer" だが、「牝鹿」は "doe" になるのだ。以下、こんな具合である。

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一見して気付くように、日本語版では「は幸せよ」と歌われる部分が、英語のオリジナル版では「ティはジャム付きパンに付いてる飲み物よ」である。

英語では「」が「ティ」のようで、実際にそう歌われてるんだからそう信じるしかない。ただ、どうしてそうなるのかまで納得したわけではなく、ずっと心の底に引っかかっていた。

"Do, Re, Mi..." は、実はイタリア語である。英語ではフツーは音階を "C, D, E..." で表す(ドイツ語もほぼ同様だが、「注記」を参照のこと)のだが、米国人でも "Do, Re, Mi..." にはある程度馴染みがあり、『ドレミの歌』はちょっとオシャレにイタリア式なのだが、なぜか「」が「ティ」なのだ。

ずっと不思議でしょうがなかったのだが、このまま死ぬまで不思議がっていてもしょうがないと思い立ち、おもむろにインターネットで調べたところ、長年の謎があっという間に解けてしまったのである。Yahoo 知恵袋にある nan**** さんの解答が分かりやすいので以下に引用させていただく。

音感を鍛えるのには、メロディーを「ドレミ・・・」で歌うのが有効ですが、♭や ♯ のあるメロディーは困ります。

英語圏では、♯ は母音を i、♭ は母音を e に変えて発音するようにして、メロディーを音階で歌えるように工夫したそうです。ド♯ は di レ♯ は ri という要領です。

そうすると ソ♯ が si になってしまうので、英語圏では シ を ti に変えました。

なるほど、「シ」をまんま "Si" と言ってしまうと、"ソ♯" と同じ発音になって区別がつかないので、敢えて "ti" にしてしまったというわけか。積年の疑問の解け方が呆気なさ過ぎて不満なほどだ。

とはいえ、昔はこんなに容易には調べがつかなかった。インターネットのある世の中って本当にありがたい。

【注記】

英語では「シ」の音は "B" だが、ドイツ語だと "H"(ハー)で、♭ が付いた場合に限り "B"(べー)になる。つまりドイツ語式で「べー」と言ったら、それはとりもなおさず英語式での "B♭" (ビー・フラット)のこと。詳しくは こちら を参照。

 

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2024年5月25日

永遠の『おどるポンポコリン』

先日の明け方、まだ眠りから覚めないうちにどういうわけか頭の中で『おどるポンポコリン』の無限のリピート再生が始まってしまい、当人としても夢の中で大ノリしていた。そして起きてからもそれはしばらく鳴り続け、朝飯を食い終わる頃になってようやく一段落したのだった。

鳴りひびいていたのは『ちびまる子ちゃん』のテレビ放送が始まった 1990年当時のものだから、当然ながら "バージョン 1" で、演奏はあの B.B.クィーンズ。いくら夢の中とて、ノってしまわないはずがない。

この『ちびまる子ちゃん』、長女が幼い頃に読んでいた少女漫画雑誌『りぼん』に載った連載第一回目をたまたま目にして、家族でファンになってしまった。というわけで、我が家は最も古くからの年季の入った『ちびまる子ちゃん』ファンである。

この連載第一回目は 1986年の話だから、テレビ放送が始まったのは 4年後ということになる。このエンディング・テーマは、作詞がさくらももこさんご本人で、歌詞の積極的なまでの無意味さと脈絡のなさは、ここまでくると天才的とさえ思えてしまう。

しかし時代は変わるもので、作者のさくらももこさんが亡くなってから 5年以上の月日が経ち、さらにアニメでまるちゃんの声を担当していた TARAKO さんまで急逝された。

今月 22日付の記事で、時代というのは「要するに『登場人物が入れ替わる』ことで変わるのである」と書いた(参照)。ただし音楽や漫画、アニメなど、「作品」として残っているものは、それに再び触れることで「失った時間を取り戻す」ことができる。

まことにもってありがたいことである。

 

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2024年4月13日

シルヴィ・ヴァルタンは、ラクダに食われていたのだ

昨日の昼頃、妻とラジオを聞きながら昼食を摂っていたら、シルヴィ・ヴァルタンの『アイドルを探せ』が流れた。懐メロも懐メロ、1963年のフランス映画の主題歌としてシルヴィ・ヴァルタンが歌い、世界的に大ヒットした曲である。

曲が始まったところで私が「ラクダに食われる歌、久し振りに聞くね」と言うと、妻は「何それ?」と言う。「あれ、知らないの? じゃあ、とにかく 1番の最後まで聞けばわかるよ」と私は応えた。上の動画をクリックすれば、まさにその辺りから聞くことができる。

これ、私の周辺ではリアルタイムの 中学 1年生だった頃、誰が言い出したともなく「"ラクダに食われどせ" って聞こえるよね」と話題になり、『アイドルを探せ』といえば「ラクダに食われる歌」ということで定着してしまっていたのである。

実際の歌詞はフランス語の原題 "La plus belle pour aller danser"(ダンスに行くのに一番きれいに)だから、カタカナでは「ラプベルプアレドンセ」ぐらいはずなのだが、当時の雑音の多いラジオで聞いていた少年少女の耳には、どうしても「ラクダに食われどせ」だったのだよね。

というわけで私としては昨日という日まで半世紀以上にわたり、「あの曲、多くの日本人に『ラクダに食われる歌』として親しまれていたんだろう」と信じていたのである。ところが妻は「そんな風には聞いてなかった」という。ただ、「そう言われてみれば、確かにそう聞こえるね」と笑って納得していた。

とすると、「ラクダに食われる歌」って超ローカルな話題だったのだろうか? とても気になってしまい、「アイドルを探せ/”ラクダに食われどせ”」という 2つのキーワードでググってみた結果が、下の画像である。
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驚くべきことに「一致はありません」と表示されてしまった。ということは、『アイドルを探せ』が「ラクダに食われる歌」と思われていたのは、日本中探しても私の周辺だけだったということなのか。信じられない。

ここで私は殊勝にも気を取り直した。これって、そんな昔のくだらない記憶を敢えてウェブに書き込む人が今までいなかったというだけのことに違いない。ウェブ上にないということが実際にもなかったということとイコールじゃないはずだ。かく言う私だって、こんなこと今まで書いたことがなかったのだし。

というわけで今日はこんなような馬鹿馬鹿しい話を、多分日本で初めてインターネット上に書いているわけなのである。

この記事をきっかけに、少なからぬ人が「ああ、そうそう、そんな風に聞こえてたよね」と思い出されることを期待する。そして是非それをコメントとして書き込んでいただきたい。ナンセンスな記憶ではあるが、それを共有することで世代的共感にまで高めることができれば幸いだ。

【同日 追記】

試しに「アイドルを探せ/"ラクダに食われ"」でググってみたところ、たった 1件だけ表示されたのだが、クリックしてもリンク先が消滅しているようなのが残念。

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くにまるジャパン」で盛り上がったネタというので、やはり気付いている人は気付いているようなのだ。ただ、残念ながら「ラクダに食われなせぇ」とは聞こえないなあ。最後の単語は "danser" だからね。

 

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2024年4月 6日

チャック・ベリーの曲のイントロと手拍子を巡る冒険

TBS ラジオに金曜の 8:30 から 14:00 という 5時間半にもわたる長時間だが『金曜ボイスログ』という音楽+ウンチクの番組があり、かなりオススメである。臼井ミトンというミュージシャンがパーソナリティを務め、さらに私がご贔屓の音楽ジャーナリスト高橋芳朗氏が脇を固めている。

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この番組、昨日は「イントロ・クイズ」なんていう一見ベタに聞こえそうな特集をしていた。実際は古今東西の曲のイントロについて「さすが!」というほどのウンチクが語られていたのだが、高橋芳朗氏による「チャック・ベリーの曲のイントロ、どれも同じに聞こえる」という話には笑ってしまった。

確かに思い出す限り、全部「ソラシドドドド・・・・ソソララソソララ」(こう書いちゃうと興醒めだけど)で同じみたいな印象がある。決してすべてが同じというわけではないのだが、代表的な 3曲を挙げるだけでもこんな具合だ。(初めの数秒聞くだけで納得する)

Johnny B. Goode (1958年録画)

Back in the USA(1959年録画)

Roll Over Beethoven(1965年録画)

改めて「どれがどの曲のイントロ?」と言われても区別が付かない。まあ、この 3曲はイントロだけでなく曲そのものも 12小節のブルース形式がベースなので、ほとんど似たようなものなのだが。

ただ私は "Jonny B.Goode" のイントロだけはピンポンで正解できた。これだけはちょっとキーが低目で耳に残ってるのだよね。(動画だと B♭に近いキーで聞こえるが、ギターを弾く指の動きは A っぽい)

で、今回 YouTube で彼の動画を探してみてわかったことなのだが、彼の時代というのはちゃんとしたテレビ・ショー(下の 2本)に出る時は、スーツにネクタイ(真ん中はループタイだが)がお約束だったみたいなのだね。ロックンローラーと言えどもそのドレス・コードは破れなかったようだ。

それにヘアスタイルも七・三分けとかリーゼントだから、パーマかポマードで固めてたんだろう。まあ、当時の流行と言えばそれまでだが、いずれにしても 3本の動画のすべてで、ノリノリの "duckwalk" (ダックウォーク)が見られるのは嬉しい。

さらに強調すべきなのは、当時のテレビ・ショーに映し出される観客って、今となっては考えられないことだが「100% 白人」ってことだ。観客に限らず、チャック・ベリー本人以外は全員白人である。一番上のダンス・パーティ風のシチュエーションでもそうで、しかも男は全員ネクタイ着用だ。

笑っちゃうのは、1958年録画の "Back in the USA"(上から 2番目)では、客席にいらっしゃるお上品そうな紳士淑女たちのハンド・クラッピング(手拍子)が、しっかり「頭打ち」(1拍目と 3拍目)なのである。ロックンロールのビートがまったく身体化されてなかったんだね。

米国といえど 1950年代はこの程度だったわけだが、それから 7年後の 1965年録画 "Roll Over Beethoven" (一番下)になると、さすがビートルズ以後だけに、客席の手拍子がアフタービートに変わりつつある。とはいえ頭打ちもずいぶん残っていて、全体としては無残なほどバラバラだ。

ちなみに日本では、21世紀となった今でも年齢層に関わりなくこんな感じになることが多い。ド演歌の手拍子みたいに手をすり合わせることまではさすがにないものの、このジャンルでのリズム感は米国から半世紀以上遅れてる。

上の動画だと、ブルーノ・マーズが日本の観客(ほとんど若手ばっかりだと思うのだが)の「1、3拍」の手拍子にシラけて踊りづらくなってしまい、ステージ上から「2、4拍」を指導するなんてことになっちゃってる。2022年でこれだ。

これに比べれば、続いて映し出される半世紀以上前のエノケン時代の方がずっとマシだ。ただ途中でオッサンたちが混じってしまうと、一瞬でなし崩し的に盆踊り風になってしまうのが泣くほど哀しいが。

以上、今日はちょっとしたマニアック・ネタということで失礼。

 

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2024年3月 6日

遠き幻の芸能、「散楽」を巡る冒険

ATOK で「さんがく」と入力して変換しても「山岳」だの「産学」だの「産額」だの「算学」だのとしか変換されないのでかなりムカついてしまい、「散楽」をしっかり単語登録した。「数学」ならぬ「算学」なんて言葉の方がずっとマイナーだと思うけどなあ。

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JAPAAAN のサイトに "雑技団?演舞?大河『光る君へ』で頻繁に登場する「散楽(さんがく)」いったい何なのか知っていますか?" という記事がある。へえ、今どきは大河ドラマに「散楽」が登場するのだね。たださすがに NHK だけあって、散楽師が上半身裸で登場するわけにはいかないようだ。

ちょっとググってみたところ、芸能考証担当の友吉鶴心氏による解説コラムが見つかった(参照)。この解説記事、かなりわかりやすいのでオススメしておく。

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ちなみに「散楽」は高校の日本史の教科書に載っていたように思って検索してみたところ、最近は音楽の教科書の方に移っているらしい。教育芸術社の「平成29年度 高等学校用教科書 音楽」の P76 に「伝統音楽の流れ」として「散楽」という言葉が登場している。

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(クリックすると、別画面で拡大表示される)

この図は全体的な流れを表すものとしては、「浄瑠璃」とか「長唄」の系譜が無視されている点を除けばかなりよくできているが、「散楽」そのものに関しては言葉がちょこっと登場するだけだから、授業を受ける生徒たちはチンプンカンプンだろう。

私は「演劇学」なんていう変わった学問を専攻して「文学修士」なんて役にも立たない学位を得ているので、「散楽」というのは言葉だけは馴染んでいる。「言葉だけ」というのは、「実際の散楽」なんて見たこともないからだ。つまり、今となっては幻の芸能なのである。

内容的には物真似、軽業、曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、広範囲の芸を含んでいて、それらの総称として「散楽」と言われていたもののようだ。それだけにそれぞれの芸が特化発展した結果として、総称としての「散楽」というのは消滅したと考えていいのだろう。

ちなみに「散楽」から続く「猿楽」というのは「能楽」に発展する元になった芸能で、この「猿楽」の時代に観阿弥・世阿弥という天才が出現して、今の「能・狂言」のうちの「能楽」につながった。今の能では宙返りみたいな軽業的要素はすっかりなくなっているが、どのあたりで消えてしまったんだろう。

ただ、世の中というのはなかなか大したものである。「散楽」という芸能を現代風に復活させている人たちがいるというのだからおもしろい。ずいぶんスマートな感覚になってはいるが、「散楽」の精神はしっかりと受け継いでいるように思われて、なかなか素敵じゃないか。

 

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2023年10月19日

クラシック・コンサートでの「咳」を巡る冒険

音楽関係の情報が多い amass というサイトに「クラシック・コンサートでの咳 通常時よりも 2倍も多く しかもその多くがわざとしている 研究結果」という記事がある。「おいおい、それってホントかよ !?」と言いたくなるが、確かにクラシック・コンサートって、観客の咳の気になることが少なくないよね。

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ドイツのハノーファー大学の Andreas Wagener 教授によれば、「クラシックのコンサートでは、観客の咳が通常時よりも 2倍も多く、しかもその多くがわざと咳をしている」という研究結果になったのだそうだ。その心理状態の分析がおもしろいといえばおもしろい。

咳の量は、演奏のゆっくりとした静かな瞬間や馴染みのない曲、複雑な曲の時に増える傾向があり、教授はこれを「咳の雪崩」と称している。ただ、この雪崩のスイッチは切ることができるらしい。記事には次のようにある。

ピアニストのアルフレート・ブレンデルは、かつて観客に「咳を止めるか、私が演奏を止めるか、どちらかです。コンサートが終わるまで咳をしないでください。私はこの音楽をとても愛しているのだから」と呼びかけたところ、その後、コンサートは中断されませんでした。

ふぅむ、てことは、観客の咳の多くはしなければしないで済むもののようなのだ。つまり逆に言えば、観客は「わざと咳をしている」と捉えることもできる。

ちなみにコンサートでの咳が気になるのはやはりクラシック音楽の場合で、ギンギンのロックなんかの場合は全然気にならない。さらに言えばちょっと落ちついた感じのポップスでも、咳はあまり聞こえない。記事の末尾には結論めいたこととして、次のようにある。

指揮者のコリン・デイヴィスは、観客が咳をするのは退屈だからだと思うと語っています。教授は、退屈な場面では咳をする観客が増えることを確認しています。それは「観客が処理すべき情報が少なくなり、その結果、喉の潜在的な炎症に観客が気づく確率が高まるから」と述べています。

なるほど、なんとなくわかるような気がする。咳って、退屈な時間における一種の「気晴らし」とも言えそうなのだね。それって必ずしもコンサートの場面に限らないが、突き詰めて言えば、クラシックのコンサートは「咳以外に何もできない退屈な時間」の代表格なのだろう。

最後に断っておくが、私はこの記事でクラシック音楽がつまらないと言ってるわけでは決してないので、そのあたりのところはくれぐれも

Yoroshiku4

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2023年10月16日

最近の人はアコースティック・ギターを弾かないのだね

島村楽器が 2023年度上半期の「売れた楽器ランキング TOP 10」というのを発表している(参照)。「コロナの規制緩和によりバンド系、管楽器系楽器が好調」なのだそうだ。

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発表された  BEST 10 は以下の通り。

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1位がホルンというのは意外だが、これはコロナ禍が収まって学校行事が復活し、吹奏楽の演奏機会が増えていることによるのだそうだ。前々からの管楽器は、4〜5年間放っておかれておシャカになってしまったんだろうか。

ただこの順位は販売数量によるものではなく、前年比(数量ベースか金額ベースかも不明)を基準にしているようで、その意味では結構紛らわしいデータである。数量ベースで捉えれば、ギターの方が多いのかもしれない。

さらに以外なのは、エレキギターとエレキベースが 3位と 4位に入りながらアコースティック・ギターが圏外ということである。最近の若い子はアコースティック・ギターで弾き語りなんてしないもののようなのだ。

売れるのはエレキギターとエレキベースというのだから、「バンド系」である。「マルチエフェクター」とか「コンパクトエフェクター」とかで音をコントロールしながらギンギンに演奏するのがフツーになっているのだね。

ちょっとググってみたところ、ne+e というサイトの ”ズバリ質問 !「ギター」弾けますか?” というページに、質問への回答が「弾ける 6.5%、少し弾ける 16%、弾けない 77.5%」だったとある。つまり 4人に 3人以上はギターを弾けないということだ。

そして「弾けると回答した人の世代別割合」というのがさらに興味深い。「10代 16.7%、20代 1.9%、30代 7.0%、40代 2.9%、50代 9.4%、60代以上 18.5%」で、10代と 60代以上が際立って高く、あとは 1ケタ台でしかない。20代なんて、100人のうち弾ける人が 2人いないってことだ。

60代以上で弾ける人の割合が 18.5% となっているが、私の年代の「70代前半」に絞り込めば多分 20%を越えるだろう。ギターは「多少は弾けて当たり前」みたいな楽器で、弾き語りができるぐらいは珍しくも何ともなかった。

ところが今やギターって、「弾く楽器」じゃなくて「聞く楽器」になってしまったのだね。「残念」と言う以上に「情けない」気がしてしまう。

10代の 16.8% が弾けるというのが救いだが、それにしてもエレクトリック・ギターが主体なのだろう。アコースティックなんて触ったこともないかもしれない。

 

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2023年3月28日

「ラップ」と「トーキング・ブルース」

そのうち書こうと思いながらつい書きそびれているテーマというのがあって、今日はそんな中の一つを書こうと思う。「ラップ」と「トーキングブルース」についてだ。

というのは、昨日 YouTube でおもしろい動画を見つけたからである。トム・パクストン(Tom Paxton)がまさに「ラップ」と「トーキングブルース」について語っているのだ。彼について若い世代は知らないと思うが、1960〜70年代からアメリカン・フォークソングを聞いている人なら知っているはずだ。

この動画の中で彼は、「ラップというのは、我々がかつて『トーキング・ブルース』と呼んでいたもの」と語り、その後に「ラップはアーバン(都会的)だ」としている。ふむふむ、確かにこの 2つは根っこの部分に共通したものを感じてしまうよね。

彼の曲の一つに ”What Did You Learn in School Today?" (1964年)というのがある。こんな歌だ。いやぁ、ジャケットの写真が若いなあ!

ちなみにこの曲、高石友也が「学校で何を習ったの」(1967年)と訳して歌っている。内容はほぼそのままのチョー名訳で、途中で何を習ったのか並べ立てる部分が、ちょっとだけトーキング・ブルース調である。吉幾三の『俺ら東京さ行くだ』(1984年)の登場するずっと前の話だ。

そしてこのトーキング・ブルースの大御所的存在が、あの Woody Guthrie (ウッディ・ガスリー)で、数々の録音を残しているが、下に紹介するのは "Washington Talkin' Blues" という曲。「1929年に砂嵐に追われてワシントンに移住したものの・・・」という内容の歌だ。

Woody Guthrie が出たら、次は当然、Bob Dylan である。代表的なトーキング・ブルースは、デビューアルバムに収められた "Takin' New York" だ。

冒頭の「ワイルドな西部の最愛の街からニューヨークに来るまで、いろいろなアップダウンを見てきたけれど、ここでは人々は地下に潜り、建物は空に昇る」というフレーズが、後にノーベル文学賞を受賞することになる才能を感じさせるよね。音だけでなく、意味的にも韻を踏んでいる。

そして現代の「ラップ」(rap)となるわけだが、個人的にはギター 1本の弾き語りでやるのがトーキング・ブルースで、ヒップホップのリズムに乗ってやるのがラップだと思っている。

【3月 29日 追記】

ちなみに日本人が「ラップ」って言うと、平板アクセントで "luppoo" みたいな感じになっちゃう(「ラ」がほぼ確実に "L" の発音になる)から、英語ではまず通じないよね。これ、"rap" の「ラップ」に限らず、「包み」(wrap)でも「膝」(lap)でもそうだから、おもしろい。

 

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2022年5月17日

ピアノの黒鍵から、オクターブ、コードを考える

先日、友人のカメラマンと食事しながら話していると、彼が「ピアノの鍵盤は、視覚的にどうしても納得がいかない」と言い出した。黒鍵が 2つ並びと 3つ並びの繰り返しで、写真的にどうしてもバランスが取れない」と言うのである。うむ、視覚派らしい主張だ。

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「だって、『ミ』と『ファ』の間に黒鍵入れても、その音は『ファ』と同じだから、無駄になっちゃうからね」と言うと、彼は驚いたように「えっ、そうなの?」と言う。

「そうだよ。『ド』の半音上は『ドのシャープ』だけど、『ミ』の半音上は『ファ』なんだよ。『シ』の半音上も『ド』になっちゃう。だから、『ミ』と『ファ』、『シ』と『ド』の間には黒鍵入れてもしょうがないんだよね」

「えっ、そんな変な区切り方しないで、均等に上がったり下がったりすれば、黒鍵なんていらなかったのに!」

なるほど、それはもっともな疑問である。しかし実際には、そんな区切り方をするわけにいかない。

「そんなことしたら、ピアノの横幅が広くなりすぎて大変だよ。それに人間の自然な音感にそぐわなくて、コードも自然に聞こえないかも」

「コードって何?」

「和音のこと。『ドミソ』とか『ファラド』とか『ソシレファ』とかをいっぺんで鳴らすといい感じの響きになるでしょ。1オクターブを均等割にしちゃったら、不自然に響くんじゃないかなあ。実際には聞いたことないけど」

彼はこの説明に半分納得し、半分納得できないという風情だったが、これ、確かに不思議な話である。どうして人間の耳って、いわゆる和音が心地良く聞こえるようになってるんだろう。

それを考えるには、「オクターブ」を理解しなければならない。オクターブというのは、例えば「下のド」から「上のド」までのことで、「ドレミファソラシド」の 8音あるから「オクターブ」という。(8本足のタコが「オクトパス」なのと同じ語源で、暦の ”October” も同様:参照

音楽の基本の音は、どういうわけか「ラ」ということになっていて、音名では ”A” (日本語では、イロハの「イ」)という。いわゆる「ド」は、そこから数えて 3番目だから "C" で、日本語では「ハ」だから、これを主音とすると ”C major(ハ長調)" とか "C minor (ハ短調)" なんてことになる。

そして、ピアノの真ん中辺りの ”A” の音の周波数は 440Hz で、それより 1オクターブ下は 220Hz、1オクターブ上は 880Hz ということになっている。これ、ギターのチューニングでも基本の音になっているほど大切なもののようなのだ。

1オクターブ上がるごとに周波数が倍になって、どんなに長く延ばしてもズレないから、人間の耳には「オクターブ違いの同じ音」に聞こえるのだろう。そしてその間をうまい具合に区切ったので、「ドミソ」とか「ファラド」もいい具合に響くのだという単純な理解で、そんなには外れていないと思う。

ただ、現在の音階に辿り着くまではいろいろ微妙な変化があったようで、「平均律」とかいう妙に数学的すぎる区切り方を経て今の心地良い音階になったようだ。

音楽というのも、なかなか大変なことのようなのである。

 

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