古文漢文は社会で役に立たないか?
シャイニング丸の内という人の「古文漢文は社会で役に立たない」と言わんばかりの、半年前の tweet(参照)が「文春オンライン」で採り上げられ(参照)、それをきっかけにして、ギャグ的話題にまでなっている。実はギャグというほどでもなく、単に稚拙な tweet でしかないのだが。
この tweet が「ギャグ」になってしまったのは、末尾の "他の学問は役に立ってますが、漢文については眠いときに「春はあけぼの」というくらいしか使ってない" というフレーズのせいだ。大方はすぐに気付かれるだろうが、「春はあけぼの」の出典は決して「漢文」ではなく、和言葉で書かれた日本古典の『枕草子』であり、その文脈は「眠気」とはリンクしない。
「眠いときは」ということから類推すると、この人がぼんやりとイメージしたのは多分、孟浩然『春暁』の「春眠暁を覚えず(春眠不覺曉)」というフレーズだったのだろう。結構な「古文漢文音痴」のようだ。
さらに言えば、この人は古文漢文に疎いだけではなく、現代文に関しても弱いようだ。「古文漢文が役に立った経験は少なくともありませんね」 というフレーズはどうにも据わりの悪い言い方で、例えば 「少なくとも私に関しては、古文漢文が役に立った経験はありませんね」などと言い換えるべきである。
この人は「勉強した」と自ら言っているわけなのだが、悪いけどこちらとしては、「そんなに勉強しても、この程度の知識と文章力なのだね」と言うほかない。やっぱり、もう少し古文漢文をしっかり勉強しておけばよかったね。
こんなような下手な言い方をしてしまったせいで、この tweet は単に個人的な印象というレベルを越えた「一般教養」の問題として、あちこちで批判されてしまっている。まあ、確実に言えるのは、古文漢文が役に立った経験がないというのは、そうした知識をベースとしたソフィスティケイティッドな会話をしたことも、能や歌舞伎を楽しんだこともないからなのだろう。
というわけで、この tweet は「古文漢文を馬鹿にすると、こんなところでお里が知れてしまう」というサンプルになってしまい、「やっぱり古文漢文もしっかりやった方がよさそうだね」という反語的エビデンスとして機能する羽目になったようなのである。
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