カテゴリー「学問・資格」の46件の記事

2022年12月 4日

性教育は学校なんかに頼ってもしょうがない

毎日新聞に "性教育「10代の実態に合わず」 NPO が文部省に見直し求める署名" (昨日付)という記事がある。43,000筆の署名で、11月 30日に提出したのだそうだ。でもまあ、その程度のことで日本の性教育が変わるなんて、期待できないだろうなあ。

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性教育の国際水準は「包括的性教育」(comprehensive sexuality education)と呼ばれ、ユネスコなどが 2009年にまとめたガイダンスによれば、性交や避妊法は 9~12歳(つまり小学生)で学ぶべきこととされているという。

2009年といえばもう 13年も前のことだが、日本では今でも中学校の学習指導要領に「妊娠の経過は取り扱わない」という記述があり、「歯止め規定」なんて呼ばれてるんだそうだ。小学校で教えるべきことに、中学校でも「歯止め」をかけてるというのは、一体何を怖れてるんだろう。

私は 1959年に小学校に入り、1968年に中学校を卒業するまで、「性教育」なんて受けた覚えがない。小学校 5〜6年の頃、女子生徒は別室に集められて何やら密かに指導されてる気配があったが、その間、男子生徒は別室で「ひまわりの生長」みたいなカンケーのない教育映画を見せられていた。

そんなような扱いだから、男子生徒は「妙にねじ曲がった興味津々状態」になり、その過程で「性はイヤらしいもの」といった観念を持ってしまう。これって、完全に「教育に悪い」よね。

私自身は幸いにも性に関しては、「毎日小学生新聞」とか「毎日中学生新聞」に連載されていた専門家による記事のおかげで、まともな知識をもっていた。毎日新聞って当時としてはかなり真っ当なスタンスだったのだね。

さらに、母親の購読していた婦人雑誌の中綴じに直接的な情報があったりもしたので、結構深いところまで知っちゃってたのである。母親は、息子がそんなのを読んでいても「面倒な性教育の手間が省けるわ」と思ってか、スルーしてくれていた。ウチって、結構「ススんでた」のかもしれない。

というわけで私はかなり早熟なヤツとして育ってしまって、『性と文化の革命』なんか気取ったりしてた。性体験も同級生の誰より早かったけど、みっともないことにはならなかったしね。

ここまでの結論。日本の性教育に関しては、学校なんかに頼ってもしょうがないってことだ。

 

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2022年11月22日

大学も、なめられたものだ

今日は何だかんだと忙しく、夜の 8時半過ぎにこのブログの更新をしていなかったことに気付いて「何かネタはないかなあ」とはてなブログを覗いたところ、「帝京大学の教員云々」というのが多い。一体どういうことなのかとクリックしてみたら、こんなようなニュースがきっかけだったようだ。

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要するに、この大学の教員がゼミ学生を募集するにあたり、女子学生なら文句なしに採用し、男子学生は不利な選考をしていたという話である。たまたま女性に間違われやすい名前(「聖奈」というらしい)の男子学生が応募したところ、上の画像のようなメールが来たというのだ。

このメールと、喫茶店での話の録音がインターネットに晒され、大問題になっている。機械的に分類すれば、「逆セクハラ」とか「アカハラ」とかいう部類の話になるのだろうが、大学という場でこんなことがまかり通っていたというのだから、基本的には「チョーがっかり話」である。

で、さらに「がっかり」してしまうのが、このニュースの「関連記事」としてトップに挙げられている 【“生娘シャブ漬け戦略”発言に「もう我慢しない」。吉野家と早大に対策求める署名2万9千筆を提出】という話だ。

これ、私自身も今年 4月に "「本音」を語って「露悪」に陥った、吉野家常務発言" という記事で触れているので、よく覚えている。

牛丼チェーン「吉野家」の役員(当時)が講師として登壇した早稲田大学主催の社会人向け講座で、「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、絶対に(牛丼を)食べない」なんて発言していたというものだ。

この発言 から2ヶ月余り経ち、「実際に講座を受講した女性らが吉野家と早稲田大学に対して▽意識改革▽セクハラなどの実態調査▽コンプライアンスのルール策定や教育の徹底ーーなどを求める 2万9200筆の署名を送付した」ということで、ようやく少しは救われる。

今回の帝京大学の件もしっかり対応しないと、大学ってなめられっぱなしになってしまうだろう。

 

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2022年10月23日

"さんすうテスト" レベルの問題で冷や汗かいた

「えのげ」というサイトに【「嘘でしょ…」ある通信制高校の数学テストが “さんすうテスト” だと話題に】というブックマークがある。見てみると、Twitter に m さんという方が「みなさん通信とはこういう所です」として、ある通信制高校の「数学 I」の試験問題の画像を紹介している。

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「“さんすうテスト” だと話題に」と、「算数」をわざわざひらがな表記しているほどだから、小学校 1〜2年生レベルの問題なのかと思いつつ安易に写真の問題を見て、「ヤ、ヤバい!」とアセった。この程度は一瞬で答えられなければいけないんだろうが、実際問題として、ちょっと考えてしまったよ。

まあ、(1)〜(3)はほぼ一瞬だったが、(4)の「(−9)÷(−3)」は、「ありゃ、3 かな、そうだよね、−3 じゃないよね」と、一瞬以上の間が開いた。さらに(5)と(6)の「(−3)²」と「−3²」の違いなんてことになると、やや冷や汗ものである。

上の写真からは外れていて、Twitter の元記事写真にある、(7)と(8)の分数計算は、さすがに通分というのを忘れていなかったのでひょいひょいっと解けたが、問題はこれで終わりじゃなさそうだ。元記事写真からも外れている (9)以後の問題は、さすがにもっとややこしいんじゃなかろうか。

私は 11年前の ”「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ” という記事でも書いたように、「数字」というものに極端に弱い。というわけで、きっとさらに冷や汗をかきそうである。

いずれにしても通信制高校を馬鹿にしちゃいけない。個人的な知り合いの中にも、子どもの頃に経験した「いじめ」などのせいで対人恐怖症になり、高校は通信制だったという人が複数いる。彼らは後に障害を克服して、世間で「難関」と言われる大学に入り、立派な仕事に就いた。

ちなみに元々の tweet だが、「みなさん通信とはこういう所です」とあるので、「みなさん通信」ってどういう通信なのかと思ってしまったよ。読点を入れて「みなさん、通信とは・・・」とすべきだろうね。ついでに言えば「所です」も、「実際にある特定の場所」じゃないので「ところです」の方が望ましい。

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いずれにしても問題は、安易に通信制を差別するような感覚が、ややもすると「いじめ」の元凶になってしまいがちなことである。

 

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2022年8月15日

「同じ 38℃」でも、気温と湯温で感じ方の違うのは?

先月 28日にヨーロッパの軒並み 40度以上という熱波に関して、「45度なんて、風呂でもアツ過ぎて耐えられない」という記事を書いた。この時は密かに「うぅむ、このタイトルはツッコミどころあるかも」と思いつつ、つい「えいや!」 でこのまま行ってしまったわけである。

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それで今でも「風呂の湯温と気温では、感じ方がかなり違うよね」と、忸怩たる思いが残っているわけなのだ。ところが何と、この問題を愛知県刈谷市の中学生たちがまともに掘り下げてレポートしているのを見つけてしまった。

タイトルはまさに「38℃の日は暑いのに38℃の風呂に入ると熱くないのはなぜか」というもので、これでしっかりと、第 43回自然科学観察コンクール(シゼコン)の文部大臣奨励賞を受賞している。しかもこのコンクール、昨年が 第 62回目というのだから、20年も前の話じゃないか。

これは確かに、とても不思議な問題である。きちんと理窟立てて説明するのは、かなり難しそうだが、それを中学生たちがやってしまったのだから、なかなかのものではないか。

ネット上に掲載されている研究発表を読んでみると、どうやら「外部温」(周囲の温度)、「皮膚温」(体表面の温度)、「深部温」(体の内部の温度)というのがポイントのようなのである。中学生たちはこの「深部温」というのをオムロン耳式体温計“けんおんくん” で測定している。

まず、38℃ の風呂に入った場合、瞬間的には温かく感じる。そして皮膚温がすぐに湯温の 38℃まで上昇するが、深部温との差が小さいことに加え、幼い頃から慣れてきた 40℃ ほどの湯温との違いもあって、ぬるく感じるのだと結論づけられている。

一方、38℃ という気温の部屋に入ると、皮膚温は風呂の場合よりゆっくりと上昇して 8分くらいで 36℃ ほどになるが、やがて発汗効果により下がり始め、34℃~35℃ で安定する。その結果、直接接し合う外部温と皮膚温の間に、3〜4℃ほどの差が生じる。

つまり「同じ 38℃ という温度」でも、風呂の場合は、湯温、皮膚温、深部温の差が小さいが、38℃ という気温の中にいると、外部温と皮膚温の差が風呂の場合より明らかに大きい。そのために異なった感覚になるというのだ。なるほど、なるほど。納得である。

ただ気温の場合は、38℃ まで上がらなくても 30℃ ぐらいで十分暑く感じるのだが、そこにはやはり、22℃ ぐらいの気温を「快適」と感じる人体の「つくり」ということもあるのだろう。さらに「高湿度」という要素も加わると、汗の蒸発による冷却機能も落ちるので、ムチャクチャに不快と感じるわけだ。

猛暑日に長時間にわたって炎天下にいたりすると、体温そのものも上がってしまって、風邪を引いて高熱を発した時みたいなしんどい状態になってしまうのだろう。違いは、熱せられるのが内側からか外側からかということだけだ。

それにしても、今年の夏の暑さは異常というほかない。先月のヨーロッパみたいに気温が 45℃ 越えなんてことになったら、熱めの風呂以上だから、本当に耐えきれない。

 

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2022年5月21日

「三角関数」と「金融経済」は比較対象たり得ないよね

藤巻健太という日本維新の会所属の衆院議員の「三角関数よりも金融経済を学ぶべきではないか」という tweet がずいぶん話題になっている。この人、それで結局一体何を言いたいんだかわからないので、私としては今日まで放っておいたのだが、一応ここらでちょっとだけクサしておくことにする。

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まず最も基本的なことを言えば、「三角関数」という「数学の中の一命題」と、「金融経済」という「一定の範囲をもつ学問分野」とは、直接的な比較対象たり得ないってことだ。つまり、どっちがより重要かという議論の対象にはならないのである。

彼の発言に対する批判の声の中に「三角関数は金融経済においても使われることがある」という指摘が見受けられるのは、つまりそういうことだよね。

そもそも単純比較してはいけない事項を一緒くたにして、「金融経済の方が重要」みたいに論じていること自体がこの人の頭の悪さを物語っているし、さらに下記のような下手な言い訳みたいな tweet まで付け足して、火に油を注いじゃってる。

三角関数は例えば木の高さを測るのに使われる。
1人が木の高さを測ればいい。
残りの99人は、木の高ささえ知っていればいい。
99人にとっては、安全のために木を切る必要があるのか、どう切るのか、あるいはどうやって木を紙に変えるのか、その紙をどう流通・管理・販売していくかの方が遥かに大事だ。

100人のうちの 1人が木の高さを測って、その結果が残りの 99人に明確に伝わるなんてことは、まずない。半分ぐらいに伝わるのがせいぜいで、残りは蚊帳の外だ。だったら、忘れた頃に別件で木の高さを知る必要が生じた時のためにも、残り半数の中に三角関数をわかってるやつが少なくとも数人いる方がいい。

さらに彼は、「残りの 99人」にとっては「安全のために木を切る必要があるのか、どう切るのか、あるいはどうやって木を紙に変えるのか、その紙をどう流通・管理・販売していくか」の方が重要だとしている。しかし実際には、そんなことをまともに考えられるのは、99人中 10人にも満たないだろう。

「金融経済」とやらを学校教育で学んだとしても、この 10人が 30人に増えるとは思われないし、「どうやって木を紙に変えるのか」に至っては、金融経済の範疇じゃない。

「三角関数なんて学校で教わったけど、あんまりよく覚えてないし、使ったこともない」と言うのと同様に、あるいはそれ以上に、「金融経済なんて学校で教わったけど、あんまりよく覚えてないし、使ったこともない」となるのが関の山だ。

結論。三角関数と金融経済の、どっちの方により学ぶ価値があるかなんてことは、命題として成立しない。要するに、学びたいヤツがしっかり学べばいいのだ。

私はワセダで「芸術学」なんてものを専攻したのだが、「すべからく芸術なんて役に立たないモノよりも金融経済を学ぶべし」なんてことを言うヤツが目の前に現れたら、心の底から軽蔑させていただくので

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2021年12月 6日

「シリカゲル」は「尻陰る」じゃないことを巡る冒険

ずっと気になっていることに、乾燥剤「シリカゲル」の発音がある。「ゲ」の音をちゃんとした濁音じゃなく、軽く鼻濁音で発音する人が多いので、「尻陰る」みたいに聞こえてしまうのだよ。まるでお猿の赤いお尻が青くなってしまったみたいな印象である。

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よく見かける乾燥剤入りの小袋には、横文字で "SILICA GEL" という表示のものもちゃんとある。これをカタカナで分かち書きすれば「シリカ・ゲル」になるのが一目瞭然で、鼻濁音にはなりようがない。

しかし実際には「シリカゲル」という一続きの表示が圧倒的に多いので、鼻濁音が蔓延しているわけだ。ちなみに私の妻と 3人の娘も、しっかりと「尻陰る」式発音である。

試しに「シリカゲル 尻陰る」の 2語で検索すると、ものすごい数のページがヒットする。中には「尻嗅げる」なんてバージョンを掲げる人もいる(参照)から、世の中、本当に油断がならない。

それどころか、逆に乾燥を防ぐには「シリテラス」というものが効くなんて話まで出てくる(参照)。この既出がなかったら、来年のエイプリルフールに使いたかったぐらいの秀逸ネタだ。

こんなことになったのは、"silica" と ”gel” が一繋がりのカタカナ表記のほかに、そもそも ”gel” をいい加減なドイツ語風に読んだからということもある。ただ、ドイツ語 ”gel" の本来の読みは「ゲール」に近いらしいが、ウェブ上で聞く限りは「ギエル」と聞こえるんだがなあ(参照)。

”Gel” は英語なら「ジェル」になるから、初めから英語読みで「シリカジェル」ということにしていたら、「尻陰る」にはならずに済んだだろう。しかし小袋入りの乾燥剤はどうみても、いわゆる「ジェル状」からほど遠い粒々だし、化学物質はドイツ語風の方がもっともらしいってこともあるのだろうね。

ところで、「シリカ」というのは、「シリコン(ケイ素:Si)」の酸化物で、別名「二酸化ケイ素(SiO2」と言うらしい(参照)。じゃあ、「シリコンバレー」って、「ケイ素盆地」ってことだったのだね。そんなこんなで、半導体の主原料となる「シリコン」と「シリカゲル」の関係が初めて理解できた。

私のような極端な文系って、放っといたらこのあたりの知識がサル並みである。

 

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2021年5月13日

電気ナマズの「直列」って・・・

昨日の昼頃、クルマを運転しながら TBS ラジオの「赤江珠緒のたまむすび」という番組を聴いていたところ、テーマは「算数・理科の時間ですよ!」というものだった。小学校の算数や理科で習ったことでも、ずいぶん忘れてしまっているという話である。

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この日のお相手の博多大吉はこれに関連して、前日に放映された「火曜は全力」とかいう TV 番組での「電気足湯」なる罰ゲームの話を始めた。彼は番組内の罰ゲームで、電気ナマズの入った水槽に足を入れることになってしまったのだという。

恐る恐る足を入れる直前に水槽内を見ると電気ナマズが縦に並んでいるので、彼は「電池で言うと直列に並んでる!」と口走り、ますます恐怖を募らせてしまったという。ただ実を言えば、電池の直列と並列ではどちらの電流が強いのか、しかとはわからなかったらしい。

そんなわけで、TV 番組中に話をそれ以上おもしろく膨らませることができず、内心悔やんだと告白していた。お笑い芸人もなかなか大変だ。小学校の理科で習った常識(電流の強いのは、もちろん直流)を忘れると、商売に差し支えることまであるのだね。

帰宅してググってみて、その番組のビデオを見つけた(参照: 視聴可能なのは今月 18日 22時までということで、それ以後はクリックしても表示されないのでよろしく)。上の写真はその中の 2カットである。

ビデオの初めの方はつまらないので飛ばしに飛ばし、問題の場面になるのは最後に近い 44分 30秒あたりからだが、よく見ると 2匹のなまずは確かに縦に並んではいるが、上の写真で示したように、互いに頭をくっつけるように向かい合ってるじゃないか。これじゃ「直列」もへったくれもない。

いや、これはもしかして、番組スタッフが見た目のみ恐ろしげにして、実際は安全のために電流が打ち消し合って感電しなくなるように配慮したんだろうか?(まさかね)

それにしても、これで終わらせてしまってはもったいない。新たな疑問として浮かび上がったのは、「電気なまずの発する電気って、直流なんだろうか、それとも交流なんだろうか? もし直流だとすれば、頭と尻尾のどっちがプラスでどっちがマイナスなんだろう?」ということだ。

これについては、Wikipedia の「デンキナマズ」の項で調べてすぐに合点がいった。こんな風にある。

デンキナマズは体表を包むように発電器官が発達している。頭部がマイナス、尾部がプラス極となっている。

発電器官が、頭部がマイナスになるように直列に並んでいるということで、ということは直流なんだろう。じゃあ、なぜ直流なのに「ビリビリッと」感電してしびれてしまうんだろうか? いや、電気ナマズに感電したことはないから、「ビリビリッと」かどうかはわからないが。

それに関しては、「デンキウナギ」の項の記述から類推された。(ちなみにデンキウナギはナマズとは逆に、頭部の方がプラスらしい)

この高電圧は約 1000分の1秒ほどしか持続しない。(中略)しかし、1分以上も電気を発生させ噛み付いてきたカイマンを感電死させたという報告もされている。

多くの細胞が瞬間的に電気を発生させるので、「ビリビリッと」くるとすれば、パルスのような効果が発生してるんだろう。

というわけで、昨日は思わぬところで「ちょっとだけ小学校の理科以上」のお勉強をさせてもらったのだった。

 

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2018年8月20日

古文漢文は社会で役に立たないか?

シャイニング丸の内という人の「古文漢文は社会で役に立たない」と言わんばかりの、半年前の tweet(参照)が「文春オンライン」で採り上げられ(参照)、それをきっかけにして、ギャグ的話題にまでなっている。実はギャグというほどでもなく、単に稚拙な tweet でしかないのだが。

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この tweet が「ギャグ」になってしまったのは、末尾の "他の学問は役に立ってますが、漢文については眠いときに「春はあけぼの」というくらいしか使ってない" というフレーズのせいだ。大方はすぐに気付かれるだろうが、「春はあけぼの」の出典は決して「漢文」ではなく、和言葉で書かれた日本古典の『枕草子』であり、その文脈は「眠気」とはリンクしない。

「眠いときは」ということから類推すると、この人がぼんやりとイメージしたのは多分、孟浩然『春暁』の「春眠暁を覚えず(春眠不覺曉)」というフレーズだったのだろう。結構な「古文漢文音痴」のようだ。

さらに言えば、この人は古文漢文に疎いだけではなく、現代文に関しても弱いようだ。「古文漢文が役に立った経験は少なくともありませんね」 というフレーズはどうにも据わりの悪い言い方で、例えば 「少なくとも私に関しては、古文漢文が役に立った経験はありませんね」などと言い換えるべきである。

この人は「勉強した」と自ら言っているわけなのだが、悪いけどこちらとしては、「そんなに勉強しても、この程度の知識と文章力なのだね」と言うほかない。やっぱり、もう少し古文漢文をしっかり勉強しておけばよかったね。

こんなような下手な言い方をしてしまったせいで、この tweet は単に個人的な印象というレベルを越えた「一般教養」の問題として、あちこちで批判されてしまっている。まあ、確実に言えるのは、古文漢文が役に立った経験がないというのは、そうした知識をベースとしたソフィスティケイティッドな会話をしたことも、能や歌舞伎を楽しんだこともないからなのだろう。

というわけで、この tweet は「古文漢文を馬鹿にすると、こんなところでお里が知れてしまう」というサンプルになってしまい、「やっぱり古文漢文もしっかりやった方がよさそうだね」という反語的エビデンスとして機能する羽目になったようなのである。

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2018年5月17日

苦手なのは「数学」じゃなく、「数字」なのだった

いつの頃からか数学というものにコンプレックスがあって、数字の連なりをみただけでぞっとする。7年近く前に "「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事を書いているほどだ。そんなわけで、日頃から「因数分解なんて、きれいさっぱり忘れちゃったよ」なんて自嘲的に言っていたのだった。

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ところで今日、京都駅地下街の本屋にふらりと立ち寄ったら、「中学校 3年分の数学が教えられるほどよくわかる」という本が店頭に平積みにされていた。こんな本がよく売れるほど、数学の苦手な人が多いと見える。

「どんなんだろう。これ読めば、少なくとも因数分解まではしっかりわかるようになるだろうか?」と手に取ってパラパラッと立ち読みしてみた。すると意外なことに、内容があまりにも簡単すぎて読んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるほどなのだ。途中を飛ばして「因数分解」に関するページを読んでも、「なんだ、こんなの当たり前じゃん!」と思うばかりなのである。

というわけで私は今日、「中学 3年で習った因数分解は、全然忘れてない。今でも当たり前に理解してるじゃん」と、自己認識を新たにしたのだった。私が数学が本格的に苦手になったのは、高校以後のことのようなのである。

ただ、記憶を辿ってみると、中学時代でも数学の試験の点数は、他の科目に比べてよくなかった。それは理論的にはしっかり理解していても、ちょっとしたミスが多かったからだと思い当たったのである。なにしろ「数字数式認識障害」と言うほど数字には弱いもので、実際の計算でミスしちゃうのだ。

というわけで、店頭で本のタイトルだけに惹かれて衝動買いしてしまったら、2000円以上を無駄遣いしてしまうところだったが、「自分は数字は苦手でも、中学 3年までの数学の理窟ぐらいは、『教えられるほど』しっかり理解してる」ということがわかったのが収穫だったとしておこう。

 

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2018年1月24日

南方熊楠のことは 「一人ビッグ・データ」 と呼ばせてもらう

昨年暮れから上野の国立科学博物館で開催されている「南方熊楠生誕 150周年記念企画展 南方熊楠 100年早かった智の人」という展示会を見てきた。"An informant-savant a 100 years ahead of his time" という英語タイトルがすごくいい。"informant-savant" というのは 「資料・情報の大御所」 とでも訳したらいいのかなあ。日本語原文の「智の人」より具体的で相応しい言い方だと思う。

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南方熊楠という人をフツーの人名辞典的に理解しようとしても、まず無理で、私もこれまで、「スゴいけど、よくわからん人」と思ってきた。で、今でもその思いは基本的に変わらないのだけれど、今回の企画展を見て、「ああ、だからこの人、『よくわからん』のだな」というところは見えてきた。

つまりこの人、「一人ビッグ・データ」なのである。子どもの頃から天才的な記憶力の持ち主で、一度読んだことは後になってからそのまま筆写できたというのだからすごい。その能力を遺憾なく発揮して、古今東西の博物学などの書物を「抜書」という形で筆写しまくり、自家薬籠の知識として蓄えてしまった。

またその「抜書」というのがすごい。虫眼鏡を使って読みたくなるような細かい字で、びっしりと書き込んであるのだ。私なんか、展示された「抜書」の細かい字を見て、頭がクラクラしてしまったよ。よくもまあ、こんなことを日本、米国、ヨーロッパを舞台にしてまで何十年も続けられたものだ。

こんなに細かい字で百科辞書にも収まらないほどの知見を書き留め続けていられたのも、自分の「癇癪持ち」の性分を鎮めるためというのである。実はこれ、一種の「ビョーキ」が昇華したカタチなんじゃなかろうか。

で、既存の知識を「抜書」するだけでなく、実際のフィールドワークも精力的にこなして、結構な生物学的発見もしちゃってるのだから、またまたすごい。ただ、いくら発見しても既存のアカデミズムと別の世界で生きていたので、「発見者」として名を残している部分は少ないらしいのである。

で、そんな「名誉」的なことには案外無頓着で、ひたすら自分なりの方法論でやってきたらしい。そしてその知見集積と処理の仕方が、現代のコンピュータを駆使したデータ処理の手法に通じるものだったようなのだ。そりゃそうだろう。それだけの膨大なデータを処理しようとしたら、ごくフツーの三段論法や散文的処理の仕方では追いつかない。

フツーなら「詩的直感力」の領分になってしまいそうなところである。例えば柳田国男なんか、かなり詩人(歌人)だし、折口信夫となると、詩人・歌人としての資質の方が大きいと思っている。しかし南方の場合は、あくまで個別サンプルのデータをもとにして、「ビッグ・データ」的な情報処理を行ってしまっているのだよ。

こんなのだもの、そりゃ、近代的な学問の世界からははみ出してしまったのも当然だろう。フツーのアカデミズムの世界では生きられなかったのだ。まさに「100年早かった」んだろうね。

それが今になって急「具体的な注目」を浴びてしまっている。学問的アプローチや情報処理の仕方が、ようやく追いついてきたのだろう。で、我々に残されたタスクは、彼の残したビッグ・データをどう運用・解釈して、具体的な知見とするかということなのだろう。

ただそれに取り組むには、彼の膨大な「抜書」をすべて「読み起こす」作業を完成しなければならない。「読み取って、改めて書き起こす」ということを、ここでは便宜的に「読み起こす」と言ったのだが、彼は何しろ昔の人なので、「抜書」も変体仮名駆使しまくりで、ほとんど「古文書」の域に近いから、今の理科系研究者には手強いかもしれない。

このまま「一人ビッグ・データ」として残る期間がやたら長くなって、「スゴいけど、よくわからん人」と思われ続ける可能性も高いよね。

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