日本の歌におけるクロスジェンダー・パフォーマンス
ちょっと古いが、朝日新聞の 2023年 3月 15日付に "女性アイドルはなぜ「僕」と歌う? 日本語が生む「ジェンダー交差」" という記事がある。有料記事だが、冒頭部分を読んで女性アイドルの歌は一人称が「僕」になる場合が多いと確認すればそれで OK だ。
これに関連する話を、私は 17年半程前の「五木ひろし版 「テネシーワルツ」 のチョンボ」「テネシーワルツの CGP」という記事で 2日連続して逆の視点から論じている。
洋楽では、歌い手のジェンダーによって歌詞を変える("he" を "she" に置き換えたりする)。これはごく当然のことなのだが、五木ひろしは非常識にも、『テネシーワルツ』を女の立場(クロスジェンダー・パフォーマンス= CGP)で歌っているのだ(詳しくは、上述のリンク先を参照)。
これは何も明確に意図してのことじゃなく、おそらく英語歌詞の意味と国際的な歌の常識を理解しないまま江利チエミのバージョンで歌ったため、図らずも「女歌」になってしまったものと推測される。まったくもう、艶歌じゃあるまいしね。
一方、日本の歌、とくに艶歌やムード歌謡などでは男が女の立場で歌うという CGP が多く、カラオケなんかでも妙に切々と情感込めて歌う男がいたりする。私は LGBT にはまったく偏見がないのだが、これだけはかなり苦手で、「勘弁してくれ」と思ってしまうのだよね。
艶歌だけじゃなくニュー・ミュージックと言われる分野でも、この「苦手意識」は変わらない。私が『神田川』なんて歌が嫌いのは、やっぱりこのせいなのだよ。妙に甘ったるい声で「🎵 あなたはもう、忘れたかしら〜」なんてやられると、もうゾッとしてしまうのである。
ここで冒頭に触れた朝日新聞の記事に戻るのだが、近頃の女性アイドルの歌は「僕」という一人称で歌われる場合が多い。そしてこれが興味深いところなのだが、艶歌や『神田川』などの CGP とは、雰囲気がかなり異なるのである。
艶歌の CGP はやたらジメッとしてしまうのだが、女性アイドルが「僕」で歌うと、カラッとした感じになる。そう言えば、大昔のことだが水前寺清子の「いっぽんどっこの歌」というのも、「俺」という一人称でずいぶんカラッとしたパフォーマンスだった。
こうして見ると、日本の歌の世界では「男」と「女」のイメージというのがかなりステロタイプ化されていて、CGP になるとそれがさらに際立つというのがわかる。ちなみにこの件については、3年ちょっと前の 【”LGBT” と「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」の差】 という記事もよろしく。
ただ同じことなら、私としてはカラッとした女性アイドルの CGP の方が、別に好きいうわけじゃないにしてもまだ抵抗がない。ジメッとした艶歌の「女歌」はどうもね。さらに言えば、それを『テネシーワルツ』でまでやらないでもらいたいものなのだよ。




















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