カテゴリー「芸能・アイドル」の43件の記事

2021年9月18日

例のドタバタは、小山田圭吾の「キャラ変」失敗劇だった

7月 20日付「今回のオリンピックを象徴するようなドタバタ」で小山田圭吾という男関連のドタバタに触れたという経緯があるので、今回の「小山田圭吾、自身が語ったいじめ行為について経緯説明と謝罪文を公開」という件についても触れないわけにいかないだろう。

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とりあえずは、昨日付で発表された「【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】」というのをざっと読んでみた。このページ、アクセスが多いらしくて、表示されるまでやたらと時間がかかってうんざりしたけどね。

この文章で徹頭徹尾強調されているのは、「自分がいじめに直接関わったわけじゃない」ということだ。以下のように描かれている。

『ROCKIN'ON JAPAN (1994年1月号)』の誌面にて見出しとして記載され、この度多く報道されていた「同級生に排泄物を食べさせた、自慰行為をさせた」といった内容については、私が行わせたり、示唆や強要をしたといった事実は一切ありません。
「排泄物を食べさせた」ということについては、小学校の帰り道に、クラスメイトの一人がふざけて道端の犬の糞を食べられると言い出し、拾って口に入れてすぐに吐き出したという出来事があり、彼本人も含めその場にいた皆で笑っていたという話が事実です。
「自慰行為をさせた」という部分については、中学校の修学旅行の際、ある先輩が、私のクラスメイトの男子に対し、自慰行為をしろと言っている場面に居合わせ、限度を超えた状況に自分は引いてしまったということが事実です。

本心としては「直接関わったんじゃない」というのを、免罪符みたいに振りかざしたかったのかもしれないが、そこまでは至っていない。全体を通してやたら言い訳がましいくどくどした記述の多いのが、やや「往生際の悪さ」を感じさせるものの、辛うじてギリギリのところで踏みとどまれてよかったね。

ただ、これを読んで「なぁんだ、そんなことだったのか」で済めばいいのだが、残念ながらそうはならない。実際のインタビュー(抜粋参照)ではこんな風には語っておらず、その場に居合わせてしっかり楽しんでいたと受け取るのが自然な語り口だったじゃないか。

結局のところ早く言ってしまえば、東スポの見出しにあるように、"小山田圭吾「いじめ自慢」は〝キャラ変〟失敗の産物" とするのが一番納得できる解釈だろう。「〝ポップ小山田〟から〝アングラ小山田〟へのキャラ変」を図るために、必要以上に悪ぶってみせる必要を感じていたわけだ。

今回の「お詫びと経緯説明」でも、自ら次のように書いている。

当時は、自分に対してなんとなく定着してしまったイメージを破り、露悪的なキャラクターを演じることで世間からの見られ方を変えようとしていました。過剰で自虐的なリップサービスを必要以上に行うことで、世間との距離を取ることを意識していました。自分の作品に対する自信のなさも、そういった言動の原因になっていたと思います。

「世間との距離を取ることを意識」とか「自分の作品に対する自信のなさ」というのはこの文脈に直接関係なくて、かなり混乱が感じられるが、まあ、この際正直になるついでに、そんなところまで言ってしまいたくなったんだろう。

ただそうした(かなり自分勝手な)理由があったにせよ、そのために過去の「いじめ体験」(あるいは「いじめ現場居合わせ体験」?」を得意げに語ってしまったというのは、いかにも考えが浅すぎる。今回のオリンピック前のドタバタは、自ら招いたことに変わりはない。

さらに言えば、露悪的に「いじめ自慢」をすることで「ポップ小山田」から「アングラ小山田」にキャラ変にできるなんて考えたのが、そもそもの了見違いである。「アングラ」って、そういうものじゃないんだよね。

今回の騒動に辛うじてポジティブな意味を見出すとすれば、「軽い気持ちでいじめに加担すると、後々になって大変なことになって、人生を台無しにしてしまう可能性まであるんだよ」と世間に認識させたことだろう。これが「いじめ防止要因」効果を発揮するように願いたい。

 

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2021年7月29日

漫才は二人でなければならないか?

やしろぶ」というかなりおもしろいサイトがあり、この中の最新記事が ”国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」” である。ほとんどの国語辞典が漫才は「二人」で行う芸能としていることに対して、徹底的に疑問を述べたものだ。

なるほど、昭和のレツゴー三匹、かしまし娘、チャンバラトリオから、1980年代(この頃も昭和といえば昭和か)のトリオ・ザ・テクノ(いやはや・・・)等々に至るまで、三人の漫才芸にはこと欠かない。ただ個人的には、これらの「トリオ芸」は「漫才」の範疇からはみ出すのではないかと思ってきたのだが。

折しもまさにそのトリオ・ザ・テクノのちょっと前頃に大学院にまで進んで古典芸能なんていうゼニにもならない研究をしていた不肖私めとしては、「漫才が二人なのは当然じゃん!」と思ってしまうのだ。というのは、現代の漫才は伝統芸能「萬歳」の系譜を引いているからである。

萬歳は基本的に「太夫」(たゆう)と「才蔵」(さいぞう)の二人一組で演じられる芸能である。それで、その系譜を引きつつ寄席芸能となった「漫才」も当然ながら二人一組なのだ。これ、日本の常識である。

我が故郷、庄内の地でも、私が小学校に入る前(半世紀以上前!)は正月になると萬歳が門付けに廻って来たもので(あれは「秋田萬歳」だったのかなあ?)、幼い私は大喜びで見ていた。ただどういうわけか、あまり教育にはよろしくないと思われていたようで、夢中で見ていると大人に叱られたりもした。

その頃は「大黒舞」(庄内弁では「でっごぐめ」という)なんてのもあったなあ。今では「〽︎ 明けの方から福大黒、舞い込んだなァ・・・」って歌の方が民謡のスタンダードとして有名になってしまっているが。

と、こんな風に考えているうちに、不意に「ありゃ、萬歳は必ずしも二人一組とは限らなかったりして・・・」などと、ここまでの流れからするとかなり「不都合な真実」を思い出してしまった。それでググってみて動画部門の最上位に出てきたのが、なんともはや、上の三河万歳の動画である。

これ、太夫が一人に、才蔵が二人の三人構成で演じられている。このパターンはあくまでも変則ではあるが、実際にはそれほど珍しくもないのだよね。門付け芸としては大抵二人一組だが、神社での奉納や、少々改まってのパフォーマンスとなると、ご丁寧に才蔵を複数にしてしまうことがあるのだ。

Wikipedia にも、「萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の 2人が 1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などで披露されるものは 3人以上から、多いもので十数人の組となる」とある(参照)。ただ私は「十数人」の萬歳なんて見たことがないけどね。

というわけで、寄席の「トリオ芸」というのも、才蔵が二人バージョンの萬歳みたいな「派生パターン」と考えていいのかもしれないと思い至った次第である。やしろぶさん、常識外れ扱いしかけてごめん。

 

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2021年2月22日

トニー谷の芸というもの

どういうわけか、唐突に「トニー谷」を思い出してしまった。今の若い人は知らないだろうが、昭和 20年代から結構売れっ子だったボードビリアンである。その後に一時的な低迷期もあったようだが、1960年代の「アベック歌合戦」という番組の司会でテレビの世界に復活した。

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上の写真を見ると『おそ松くん』の「イヤミ」を連想する人が多いかもしれないが、作者の赤塚不二夫大先生が自ら語っているように、そのモデルが他ならぬこのトニー谷である。ただ、漫画での名前が「イヤミ」になっていることからもうかがわれるように、当人のキャラもモロに嫌みだった。

この「嫌み芸」のイメージは昭和 30年代初頭に最高潮に達していたようで、たまに見るモノクロの娯楽映画に登場するトニー谷は、とにかく「低俗」を絵に描いたような役柄だった。もっとも当時、私はまだ 10歳にもなっていなかったのであまり明確な記憶としては残っていないのだが。

この「嫌み」な芸風は日本の津々浦々まで知られていたらしく、私が子どもの頃にちょっとシニカルな口の利き方をすると、祖父母に「トニー谷じゃあるまいし!」なんて叱られたものである。とにかく、「嫌われ者」でありながら、わけのわからない人気のあった芸人だったわけだ。

私が明確に憶えているのは 1962年にテレビの世界に登場した「アベック歌合戦」の司会者としてのトニー谷だが、我が家にテレビが導入されたのは 1964年の東京オリンピックがきっかけだったので、実際にはそれほど長い間注目していたわけではない。今思えば、絵に描いたような低俗番組だったし。

トニー谷がサンバもどきのリズムで拍子木を打ち鳴らしながら、ノー天気に「♫ あんたのお名前何てェの?」と問いかけると、素人の出場カップルが「♫ 〇⚫△◇と申します」と答え、いろいろ話になった後に、とても人前で歌うようなレベルじゃない下手な歌をデュエットで歌うというものだった。

その歌を審査員が採点するのだが、はっきり言って点数付けるに値するような代物じゃなく、あんな番組がどうしてウケたのかさっぱりわからない。強いて言えばトニー谷の、あの賑やかでノー天気なリズム感にテキトーに悪趣味を散りばめた芸のスタイルが、時代の「ツボ」だったのかもしれない。

当時の私としては何と言っても、ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツの「シャボン玉ホリデー」が最高と思っていて、その系譜を引くのがタモリと信じている。ただ、そのタモリの「ハナモゲラ語」は、よく考えればトニー谷のデタラメ英語「トニングリッシュ」の系譜でもあるのだろう。

そう言えば、インチキ外国語では、系譜はちょっと違うものの 藤村有弘 というのもいた。『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョの初代の声の人である。私はインチキ・イタリア語の「ドルチャメンテ・ゴチャメンテ・・・トルナラトッテミーヨ」というのが好きだったなあ。

よく考えてみると、タモリはジャズのテイストとお笑いをミックスしたクレイジー・キャッツ(参照)と、シニカル芸のトニー谷の両方の系譜をうまくブレンドして、独自に昇華してしまったのかもしれない。その意味では、トニー谷は芸能史的に無視できない存在ではある。

いずれにしても、よくわからない存在なのだが。

そう言えば、小学校の頃に算数の授業でソロバンをさせられた時、私はトニー谷流で「ビギンのリズム」をかき鳴らす練習ばかりして怒られていたなあ。そのせいで、ソロバンを使った計算は今でもできない(参照)。

【2月 26日 追記】

Wikipedia 「トニー谷」で「舞台裏」の項に、そろばん芸について次のような記述のあるのに気付いた(参照

そろばんを使った芸も本来は坊屋三郎のアイデアで、坊屋は芸を盗まれたことに激怒していたという。

しかし私としては、坊屋三郎ではウォッシュボード(アメリカの洗濯板)を使った芸は印象に残っているものの(参照)、そろばん芸を見た記憶はないんだがなあ。そろばん芸は同じようなリズム効果を発揮するものの、ウォッシュボード芸よりずっと下世話な印象ではある。

あるいは私が坊屋三郎のそろばん芸を知らないだけなんだろうか。

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2020年6月13日

グルメな男は浮気に走りやすいというのだが

最近のニュースをチェックしていると、芸能関係の分野で「渡部建/浮気」という話が頻発して、「それ、誰?」と思っていた。「ずいぶん話題になってるみたいだけど、一番疎い分野だから、何も書けんわ」で、済んでいたのである。

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今でも、この渡部建というタレントに関してはさっぱり関心がないのだが、President Online の「渡部建失墜の衝撃! なぜグルメな男は浮気に走りやすいのか」という記事には、ちょっと興味をもってしまった。というのは、私ってばいわゆる「グルメ」じゃないので、いろいろ考えてしまったのである。

よくわからない話なので、記事からの受け売りに過ぎないが、この渡部建というタレント、有名なグルメで、恋愛心理学にも精通しているんだそうだ。で、グルメは浮気に走りやすいという話につながってしまっている。

この記事の筆者は田中絵音という女性で「日本合コン協会会長」という素晴らしい肩書である。彼女によると、いわゆる「グルメ」における "「色んな種類のメニューを味わいたい」という欲求が恋愛に置き換わると、多くの女性と交際したい=浮気する" ということになるのだそうだ。

これ、「表面的なもっともらしさ」と「その奥の強引さ」を併せ持つという、世間話のネタとしてはある意味最強の論理である。なるほど、こういう話のもって行き方をすると、世の中ではウケてしまうのかと、勉強になった。まあ、個人的にはあまり役に立たない勉強ではあるけれど。

さらに "予約の取れない店を予約できる「マメさ」と「コミュ力」" というのが、この男の重要ポイントであるとも書いている。なるほど、なるほど、そうした「マメさ」と全然縁のない「面倒くさがり」の私は、浮気さえマトモにできないのだと納得すれば、話が早いわけね。

こうしてみると、私が妻と結婚できたのはまるで奇跡のような話に思えてしまう。しかし考えてみると、妻も世間一般でいうところの「マメな女性」というわけじゃないので、似た者同士ということで、この奇跡が実現しちゃったのだと思うしかない。

というわけで、お互い気楽なのが一番という結論に達して、結局のところ、恋愛論の足しには全然ならないのであった。

 

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2020年6月10日

太田光(いや、ドド君か)は、どうやら弥生人ぽい

TBS ラジオの日曜お昼の番組『爆笑問題の日曜サンデー』、15時台の『あなたとやりとり ドミンゴドミンゴ』のコーナーで、太田光扮する(と思われる)「ドド君」が、毎週都々逸を披露している。

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都々逸というのは「七・七・七・五」の音韻律によって三味線に合わせて歌われるもので、「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」とか、「惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里」とかいう、アレである。そしてドド君の都々逸、こう言っちゃナンだが、滅茶苦茶ヘタくそなのだよね。

ドド君の都々逸を効くと、私はついワセダで伝統演劇を専攻していた頃の、武智鉄二氏の講義(時期は 1970年代半ばだったと思う)を思い出す。武智鉄二氏といえば、1980年代の『白日夢』の映画化で話題になったが、本来は演劇評論で名をなした人だ。

武智氏の講義については、2017年 5月 10日付の「三味線やギターを手にすると、縄文人の血が騒ぐ」という記事で書いているので、よろしければ参照していただきたい。彼の講義で今でも印象に残っているのは、「三味線の盛んな土地の人は歌がうまい」という話である。

三味線は沖縄に「サンシン」として上陸し、そこから「三味線」として日本中に広まった。上方や江戸で盛んになったのは当然だが、博多から北陸、津軽にかけての土地で、どういうわけか妙に盛んになっている。そう言われれば、すぐに「越後瞽女」や「津軽三味線」が思い浮かぶだろう。

武智氏によれば、これらの土地に住んでいるのは「縄文人」の血を色濃く引く末裔で、一方、山陽から上方、東海、関東にかけての人たちは、「弥生人」の血を引く系統だという。そして武智氏は、縄文人系は概して三味線との相性がよくて歌が上手いが、弥生人系は、歌が得意じゃないという。

縄文人系は三味線を抵抗なく受け入れ、メロディに強いが、対照的に弥生人系はメロディに弱い。縄文人は三味線を駆使した津軽民謡などの自由自在な歌を苦もなくこなすが、一方の弥生人はそうはいかないので、「謡曲」(あの「能」の音楽ね)みたいに、メロディのない一本調子の曲をもっぱらとした。

ちなみに「都々逸」というのは、三味線に合わせて歌われるもので、結構メロディが重視される。で、太田光は都々逸特有のメロディをこなすのが、悲しくなるほどに下手っぴいなのである。というわけで、太田光の出身地を調べてみると、埼玉県上福岡市だというではないか(参照)。

ここで「ははあ、なるほど!」と合点がいった。太田光は、どうやら弥生人の血を色濃く引いているようなのだ。それで、いつまで経っても都々逸をこなせないのだね。多分、謡曲ならなんとかイケると思うのだが。

あ、いや、弥生人ぽいのは、あくまでも「ドド君」だったね。失礼。

【6月 11日 追記】

武智氏の「弥生人/縄文人」に関する説は、彼の『古代出雲帝国の謎』といいう書に詳しく書かれている。

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2020年1月18日

テレビがつまらなくなったのは

朝食をとり、一応テレビのスイッチは入れてみる。ニュースや天気予報をチェックした後で、時々「何か面白い番組はないか」とザッピングしてみるが、そんなものがあるわけもなく、すぐにスイッチを切ってラジオを聞く。

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さらに夜になってしまうと、テレビはどの局も愚にもつかないバラエティやうっとうしいドラマばかりとわかっているので、スイッチを入れる気にもならない。結局ラジオを聞きっぱなしになる。

出張先のホテルでも朝起きて一応テレビを点け、やはりニュースと天気予報を見て、すぐにスイッチを切る。どうしてテレビはこんなにつまらなくなったのだろうと思う。

茂木健一郎氏の「ぼくが地上波テレビを見なくなったワケ」(2019/3/15 付)というコラムが話題になっていると聞き、行って読んでみた。彼は日本の地上波テレビがつまらないのは、番組企画がジェンダーや年齢層にとらわれているからだという。うむ、言いたいことはわかるが、正直、インパクトに欠けるなあ。

彼の視点はどちらかというと制作者側に寄っていて、「最新のトレンドって、そういうことじゃないんだけどなあ」という発信の意味が強い。しかし日本の番組制作者は長らく「ジェンダーと年齢層」を切り口にした発想しかしてこなかったんだから、今さらそれを変えろと言っても戸惑うばかりだろう。

私が一番しっくりきてしまったのは、昨日の TBS ラジオで神田松之丞が言い放った「テレビなんて、IQ 30 の連中にもわかるようなことしかやらないから」という「核心を突いた暴言」だった。さすが松之丞。誤解を恐れずに言えば、これに尽きるね。

「"シャボン玉 ホリデイ" よ、もう一度!」は、叶わぬ夢と思っていたが、探してみるものである。YouTube で "50年前の音楽ショー「シャボン玉ホリデー」" というのを見つけた。1964年 8月に放映されたもので、私自身もしっかりと見覚えがある。

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半世紀以上も前に、こんなにもお洒落で質の高い音楽ショーが、毎週日曜夕方にフツーに放映されていたのだ。ビデオは 26分以上の長尺だが、見て損はない。開始 20分辺りには、植木等による伝説の至芸、「お呼びでない?」も出てくるしね。

このビデオを Youtube に登録された terashu1 さんのコメントを読めば、この番組がいかに上質なものだったかわかる。こんな番組を小学生のうちに毎週タダで見られた私は、いい時代に生まれついたわけだ。

毎週異なったスタンダード曲を、一発撮りで苦もなくハモって踊れるザ・ピーナッツは、今の世に現れたら「神」である。こんなのを日曜ごとに夢中で見てたんだから、「洋楽センス」が育まれるわけだよね。

「メンバーが交代で下手なソロ取って、リフはユニゾン」という最近の安易なアイドル・ソングを聞くにつけ、「後ろでフラフラ下手な踊りやってる暇があったら、少しはハモれよ!」と言いたくなるのも当然というものだ。複数で歌ってハモらないなんて、もったいなくてため息がもれる。

音楽ショーだけを取ってみても、今のテレビは安易すぎるというのがわかろうというものである。「ジェンダーと年齢層」というより、要するに「気合いの問題」だ。

 

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2019年11月22日

中身を遙かにしのぐ外見をもって生まれた不幸

近頃の巷は「桜を見る会」と「沢尻エリカの薬物問題」という 2つのスキャンダルの話題で持ちきりだ。私としても、「桜を見る会」については 今月 15日の「そんなにまで安倍晋三と一緒に写真に写りたいのかね」という記事で触れたので、沢尻エリカの方の話についても書こうとしていたのだが、特殊事情でなかなか書けなかった。

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特殊事情というのは、私はこの沢尻エリカという女優については基本的な情報をほとんどもっていなくて、ラジオで彼女の薬物疑惑を伝えるニュースを聞いた時点ではどんな顔だったかも思い出せないほどだったのである。これじゃ、書きようがない。ごめんね。こういう話に疎くて。

で、さすがにググってみるしかないかもしれないと思ったのだが、私ってばこの方面にはほとんど痴呆で、まったく要領を得ない。何しろ彼女の名前すらまともに覚えてなくて、ひたすら「沢口」というキーワードで調べようとしていたものだから、「沢口靖子」という女優しか検索できなかったのだ。靖子さん、おバカなオッサンでごめん。

ようやく、相手は「沢口」じゃなくて「沢尻」なんだとわかったのが昨日のことで、Google の検索窓に 「さわじり」と入力したら、さすがにそれだけで「沢尻エリカ」と変換されて、ニュース記事がこれでもかというほどどっさり表示された。それにしても「沢尻」って、珍しい苗字だよね。

4日がかりぐらいでようやくヒットした検索結果の「画像」というのをクリックすると、「ああ、この顔なら知ってる。見覚えがある」と、やっと世の中の関心のスタートラインの 100メートル後方ぐらいの位置まで辿り着いた。これで何とか世間の端っこの方でフツーの話題に混ぜてもらえそうだ。

彼女の姿の写った写真のあるページを眺めると、なるほど、「むっちゃ綺麗なねえちゃん」である。これだけ綺麗なら、ルックスの魅力だけで十分に世間を渡って行けそうだ。余計なことをしなければ、死ぬまで「伝説の女優」扱いしてもらえたじゃないか。

大昔の女優で言えば、原節子なんて死ぬまでそれでもてはやされた。彼女自身もおバカじゃないから、その役割をしっかりと演じきった上であの世に行った。しかしそういう生き方を、沢尻エリカはできなかったってわけだ。

彼女は、自分の力量だけでは自分自身の美しさを引き受けきれなかったのだね。きっと。

自分以外の何か余計な要素を引っ付けていないと、自分の恵まれすぎた資質が重くてしょうがなかったのだ。それでついナチュラルに振る舞うことができず、生意気ぶったり、ドラッグに逃げたりするしかなかったのだよね。気の毒に。

人間ってのはよほど厄介なもので、中身以上の外見をもって生まれてしまうと、それはそれで不幸の要因ということになってしまうのだよ。ああ、自分の見た目がフツーのオッサン以上のものじゃなくてよかった。おかげで気楽に生きられるってなものである。

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2019年8月 2日

例の吉本興業社長の 5時間超の記者会見ビデオ

吉本興業所属のお笑いタレントの「闇営業」問題については、ほとんど関心がないのでこのブログでも完全無視の態度だったのだが、急にちょっとだけ興味が湧いた。いや、興味が湧いたというのは「闇営業」の経緯とその後のお笑いタレントの動向についてではなく、例の 5時間以上に及んだという記者会見そのものについてである。

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というのは、知り合いのフリーカメラマンがその 5時間超の記者会見にずっと張り付いていたというので、「それはそれは、ご苦労さんでした」という話になってしまったからである。彼は結構芸能ネタの撮影取材をしているとは聞いていたが、そんな記者会見の撮影までしているとは知らなかった。

「うんざりした?」と聞くと、「いやはや、疲れましたね。いくら何でも長すぎですよ」と言っていた、しかしカメラマンというのは記者とは違って、意識が話の内容なんかより「憔悴しきった様子」とか「どぎまぎした表情」とかにフォーカスしているので、それはそれで集中してシャッターを押しまくっていたようではある。

で、「どんなような会見だったんだろう」とググってみると、記者会見の始めから終わりまで 5時間以上を中継した動画が見つかった。

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YouTube にアップされていたビデオ(参照)を覗いてみると、上の写真のように、中継時にビデオ画面の右側にリアルタイムで書き込まれたチャットが、延々と同時進行で流れている。ということは、かなりの人数がずっと中継を見ながら茶々を入れていたわけだ。すごいなあ。何だかんだ言っても、日本は平和な国である。

こちらは 5時間以上もこんなビデオを眺めている暇がないから、飛ばしに飛ばして見ただけだが、印象に残ったのはこう言っちゃナンだけど、芸能マスコミというものの質の低さだ。記者は吉本側に遠慮しいしい核心から外れた質問ばかりしているし、吉本側はそれらの質問に対してちっとも的確な答えになんかなっていないが、岡本社長がとにかく延々としゃべりまくっている。

「遠慮しいしい」の東京マスコミと「内容はともかくしゃべりまくる」大阪のオッちゃんの対決なのだから、かみ合わないのは当然で、結局は大阪のオッちゃんの方のペースで進んでしまっている。記者側は「無駄に疲れさせられた」だけで、それは吉本側の「無駄に疲れて帰ってもらう」という目的通りだったと言えるだろう。

カメラマンたちが「正直言って、ジャニーズと吉本にはいい印象なんてない」と口を揃えるのも道理という気がしてしまった。

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2017年9月21日

安室奈美恵の引退というニュース

昨日から愛媛県に出張している。移動の途中、スマホの速報で、「安室奈美恵、引退表明」というニュースを知ったが、それほど大ニュースとは思わなかった。「ふぅん、そうなの?」程度の印象である。

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ところが今朝、ビジネスホテルのテレビのスイッチを入れて驚いた。いつもはニュースを聞くのにラジオを聞くのだが、ホテルの部屋にはラジオがないので、ごく自然にテレビを見てしまう。するといきなり「安室奈美恵引退」でギンギンに盛り上がるスタジオの光景が映し出された。「へえ、案外大変なニュースなんだね」と思いつつ、リモコンのボタンを押してチャンネルを変える。

すると、次のチャンネルも「安室、安室」の大合唱である。「まあ、それはいいから」と、もう一度リモコンのボタンを押す。するとまたしても「安室、安室」である。結局、民放の朝のニュースショーは、全局「安室、安室」だったのだ。

「こりゃ、ダメだ」と思い、NHK に変える。すると画面は「赤羽特集」である。東京下町、赤羽の大特集で、「1000円でベロベロに酔える」という「センベロ」が売り物の飲み屋が登場している。まったくの別世界。そして民放が束になって、NHK の「センベロ」に襲いかかっている。

BS なら多少まともなニュースショーを流してくれているかもしれないと思ったが、このホテルでは BS が映らない。結局、「センベロ」か「安室」かの選択肢しかない。しばらく「センベロ」に付き合ったが、やっぱり厭きてしまい、再び民放に帰ったが、何分待ってもどの局も、「安室賛歌」の大合唱が続いている。とにかく延々と続いている。

登場するタレントたちが、「自分はいかに安室奈美恵を愛しているか、いかに青春を安室奈美恵に捧げたか、いかに安室奈美恵のファッションを真似しまくったか」を、これ以上ないほど熱っぽく語っている。すごいものだ。

ここに至って、さすがに降参した。もう認めるしかない。安室奈美恵の引退は、確かに大ニュースなんだろう。言われてみれば、私としても「下らん!」 なんて全然思わない。悪くないと思う。彼女はグレートなんだろう。確かにそうなんだろう。

はい、認めました。素直に認めました。

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2016年10月22日

ギリギリのタイミングで 「お笑い Big 3」 を語る

既に遅すぎるかもしれないが、今のうちに書いておかないと、あっという間に「それ、何のこと?」なんて聞き返されるようになりそうなので、アリバイ作りみたいな意味でもここらで書くことにする。何かというと、「お笑い Big 3」 についてである。

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「お笑い Big 3」の顔ぶれについては、もう時期的に異論が出ても不思議じゃないが、まあ、ちょっと前までは、「さんま、たけし、タモリ」の 3人と相場が決まっていた。いくらあまりテレビを見ない私でも、彼らの番組は嫌でも目に飛び込んできていた。

で、この 3人の芸風を私なりに一言で言ってしまうと、こんな感じになる.

さんま: 小さなことを膨らませて笑いを取る。

たけし: 小さなことを異化させて笑いを取る。

タモリ: 大きなことを小さくして笑いを取る。

この 3つのうちでは、さんまの芸風が一番わかりやすいわけだが、はっきいり言って私の好みではない。ストレートすぎて、ひねりを感じないのである。だから聞いているうちに面倒くさくて付き合いきれなくなる。

そこへ行くと、たけしの芸風はかなりひねりが効いている。だが、異化の方向性が決まりきってくると、それはマンネリに陥りやすい。だからいわゆる「お笑い」よりも映画などを作る方が、「作風」という一段上のレベルに昇華されたものとして、世間に認められやすくなる。とはいえ、はっきり言って私の好みではないのだけれどね。

タモリの芸風は、さらにひねりが効いている。せっかくの大きなことも敢えて小さくして、身も蓋もなくしてしまうのだ。その小さくする手法が、決して矮小にしてしまうというのでもなく、ちょっと見過ごしていたようなエアポケットに放り込んでしまうというスタイルなので、意表をついたおかしみになる。

さんまは相変わらず賑やかなお笑い芸人のままのようだが、たけしとタモリは、近頃ではお笑い枠からのはみ出し方をより強めているように見える。たけしは映画作家としての方が評価される方向にあり、タモリは『ブラタモリ』で見せる「ペダンティスト芸人」としてのスタンスを既に築いてしまった。

ただ、たけしとタモリにしても 「お笑いは男子一生の仕事にあらず」 みたいなスノッブな感じとは一線を画していて、いつでも一瞬にしてお笑いの土台に戻れる中身を維持しているので、気障にならないでいられるのはさすがである。

 

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