カテゴリー「書籍・雑誌」の14件の記事

2018/07/26

「LGBT には 『生産性』 がない」 という発言について

例の杉田水脈という議員の LGBT に関する『新潮 45』への寄稿記事の問題だが、批判するからには一応記事をしっかり読んでからと思っていたので、タイミング的にはちょっと乗り遅れてしまったかもしれない。

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杉田議員本人も、「批判するならきちんと記事を読んでからにしろ」みたいなことを言ってるらしいので、「そこまで言うんなら、ちゃんと雑誌買って読んだるわ!」と、今日、あちこち用事で出かけたついでに書店に寄り、買って来たのである。上にその証拠写真を貼っておく。

ちなみに『新潮 45』は「特別定価 900円 本体 833円」と表示してあるが、書店のレジでは 1円未満切り捨てで 899円だったよ。おかげで財布の中でジャラジャラしていた小銭を使い切ることができた。

家に帰って一応ちゃんと読んだのだが、結果としては新潮社を無駄に儲けさせただけだった。要するに「買って読むほどのレベルのものじゃない」ってことだ。これから『新潮 45』を買ってみようかと思っている方は、ほかによっぽど読みたい記事があるのでもなければ、止めといた方がいい。

彼女の寄稿記事に関してまともな批判をするとすれば、既にあちこちでなされている通りのことを繰り返せばいいだけで、改めて私がどうこう言うのも馬鹿馬鹿しい。なので今回は、例によって言葉にこだわって絞り込んだ突っつき方をしてみようと思う。

杉田水脈という人は、件の寄稿記事で "LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼らは子どもを作らない、つまり「生産性」がないのです" と、はっきり書いている。「生産性」と、申し訳程度にカッコ付きにはしてあるが、この単語になんらの注釈も付けることなく使っているのだ。

ここでぶっちゃけた結論を言ってしまえば、杉田議員の寄稿記事は大問題になっているが、LGBT に「生産性がない」というのは彼女独自のロジックではなく、お仲間内の悪趣味な決まり文句を、外部に向かってものすごく安易、かつ直接的に発信してしまっただけにすぎないのである。まあ、悪ノリしやすいタイプなんだろうね。

「生産性」という言葉は、一般的には「労働生産性」を指す言葉として使われることが圧倒的に多い。試しに "Weblio" (大辞林) を引いてみると、次のようにある。(参照

せいさんせい 【生産性】
生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献する程度。生産量を生産要素の投入量で割った値で表す。

ここでは「子どもを作る能力」 なんて意味は無視されている。それだけに「同性愛カップルは『生産性』がない」という言い方には、大抵の日本人は強い違和感を覚えるのである。この言い方だと、子どもだけはやたらと何人も作るが、仕事もせずにぐうたらしてるヤツにさえあるらしい「生産性」というものが、LGBT カップルだと、どんなに有益な仕事をしても「ない」とされてしまうのである。

というわけで、杉田議員は朝日新聞が LGBT を支援することに関して「違和感を覚えざるをえません」と書いているが、LGBT には 「生産性」がないとする決めつけの方が、ずっと大きな違和感を醸し出す。

ここで念のため、「生産性」という言葉の元になったと思われる "productivity" という英語について調べてみよう。例によって Weblio で調べると「生産性、生産力、多産(性)」とある (参照)。やはり「子どもを作る能力」みたいなことは出てこない。強いて言えば 「多産(性)」 の中にそうした意味が含まれるのだろうが、ビミョーである。

もう少し念を入れて、"produce" という動詞を調べると、ようやく 「産する、生ずる、製造する、生産する、作り出す、描く、作る、生む、産む、生じさせる」という意味が表示される(参照)。ただ、英英辞書(CUERVO)を引いてみても、「子どもを産む」という意味は直接的には表示されない(参照)。

つまり「生産性」という言葉は、とても広義に捉えれば、かなり端っこの方に「子どもを作る能力」という意味を確かにもつようだ。それは認めよう。しかし「LGBT カップルは『生産性』がない」と、唐突に言ってしまう姿勢には、とても意図的な「ヘイト・スピーチ」的要素があると言うほかない。

で、さらに問題なのは、杉田議員自身が自民党の先輩議員たちに「間違ったことは言っていない。胸をはってればいい」と声をかけられたと tweet したらしいことである(既に削除されているが)。つまり、このようなヘイト的思想は、自民党保守派の間ではとても「当たり前」のこととなっているようなのだ。

頭の硬い保守派は子どもを産む能力に関して「生産性」という言葉を好んで使いたがる。私自身も彼らの口からこうした言葉が発せられるのを度々聞いていて、その度に不愉快になる。この言い方は、実は保守政治の世界の「ステロタイプで悪趣味な決まり文句」になっているのだ。

フツーに考えれば、彼女の発言は「トンデモ」に違いないのだが、彼女の仲間内は「一体何が間違ってるんだ。当たり前の話じゃないか」と擁護する雰囲気に満ち満ちている。それは間違いない。ということは、いくら批判しても彼女は絶対に反省なんかしないということである。

私としては、彼女だけでなく、彼女の属するサークルをまとめて「馬鹿扱い」するしかないと思っている。

さらにちょっと付け足しだが、保守派だけでなく革新派の中にも、こうした言い方を好んでする連中はいくらでも存在する(参照)。バリバリの日教組の中にさえいる。彼らは「革新派」の仮面を被った「因習派」である。

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2017/01/25

国民の 61%が 『坊ちゃん』 を読んでいるというのだが

私は 2013年 5月に 「漱石文学って、もっと読まれてもいいと思うのだが」 という記事の中で、「『坊ちゃん』 を読むぐらいは日本人の常識で、少なくとも 3人に 2人は読んでいるものと信じていた」 のだが、高校に入って 「クラスの半分もいないみたい」 と気付いたと書いている。

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ところが、ちょっと古い記事で恐縮だが、昨年 10月の毎日新聞の 「読書世論調査」 という記事の見出しに、『坊ちゃん』 は国民の 61%に読まれているとある。もしそれが本当なら、「少なくとも 3人に 2人は読んでいる」 という私の中学校時代の思い込みはほぼ正しかったことになるが、にわかには信じられない数字だ。

毎日新聞の記事をきちんと読んでみてわかったのだが、『坊ちゃん』 を読んだことがあるという回答が多かったのは、国語の教科書に載っているからということらしい。記事中から引用しよう。

「読んだことがある」 人の多い作品は、小中学校の教科書で取り上げられてきた。1906年に発表された「坊っちゃん」 は小中学生向け国語、「アンネの日記」 は 52年に日本語版が刊行され、中学生向けの国語や英語の教材に採用。「坊っちゃん」 は現在も中学国語の教科書に載っており、国民的文学といえる。

なんだ、そうだったのか。私の使っていた中学校時代の国語教科書には 『坊ちゃん』 は載っていなかった (『アンネの日記』 は載っていたと思うが) ので、そんなこととは少しも知らなかった。しかし教科書に採用されているのは、『坊ちゃん』 のほんの一部だろう。

どの部分が採用されているのかと思い、ググってみると、WKIBOOKS というサイトに 「中学校国語/現代文/坊っちゃん」 というページがあり、それによると、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」 という有名な書き出しから、坊ちゃんが松山に旅立つために汽車に乗ったところまでである。

こんな冒頭の部分だけ教科書で読んで 「読んだことがある」 なんて言う人は、こう言っちゃナンだが、ちょっと図々しい。『坊ちゃん』 が実際におもしろくなるのはここから先のことなのだから、ぜひ最後まで読んでみることをお薦めしたい。

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2013/12/05

ビギナー向け最強の野鳥図鑑

一昨年の 11月に 「花の図鑑」 という記事を書いて、『花の名前の手帖』 (ブティック社刊、写真と文: 夏梅睦夫) をおすすめした。春編・夏編・秋冬編の 3分冊で、収められている花の種類が多く、しかも季節別、色別で調べられるので、とても便利である。アマチュア向けとしては、これが最強の図鑑だと私は思っている。

ただ、この 3分冊は既に絶版のようで、かなり大きな書店でも 3冊揃っているところは稀だ。私は春編だけは書店で購入したが、夏編と秋冬編は Amazon で古本を購入した。今となっては、3冊とも Amazon で古本を買うのが一番手っ取り早いと思う。

なんで花の図鑑なんかが必要なのかというと、私がこのブログの他に 「和歌ログ」 なんていう酔狂な文芸サイトを運営していて、毎日和歌なんてものを詠んでいるからだ。和歌をやろうとすると、花の名前を知らないでは済まないのである。この図鑑のおかげで、花の名前に疎かった私も、今では人並みまではこぎつけることができた。

同様に、鳥の名前も知らないでは済まないのだが、これまでは手頃でしかも調べやすい鳥の図鑑が見つからなかった。しかし、ようやく見つけたのである。『山野の鳥』 『水辺の鳥』 という姉妹編で、いずれも日本野鳥の会の編集・発行によるものだ。

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しかも、どちらも本体価格 600円という手頃さで、コンパクトな作りなので、どこにでも持って行ける。そして見分け方がとてもわかりやすく解説してある。立ち読みした他のどんな図鑑よりもわかりやすい、かなりありがたいものなのである。ビギナー向けとしては、やはり最強だと思う。

この図鑑を入手して初めてわかったのだが、私は知らず知らずのうちに、野鳥の名前は結構知っている人になっていたようなのである。これはひとえに、30年以上前につくばの地の田園地帯に転居して、ごく自然に鳥たちに接してきたおかげである。

花でも鳥でも、親しむための第一歩はその名前を知ることだと思う。名前を知って、一歩 「お近づき」 になれる。名前を知ってお近づきになれなければ、歌に詠むこともできない。その意味でも、図鑑は手放せないものになっている。

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2013/03/06

iBooks 日本版スタートと、Kindle との違い

Apple が日本版 iBookstore の開設を正式に発表した。(参照

2~3日前から「ひっそりとオープン」というニュースが、これまたひっそりと伝えられていて、iBook アプリの "store" ボタンをクリックしてもいつもと変わらないが、次に「ランキング」をクリックすると、日本版電子書籍がずらりと出てきていた。それで「ああ、始まりつつあるんだな」と思ってはいたのである。

そして今日の正式発表以後は、"store" ボタンをクリックしただけで、日本版のストアが表示される。さらに「カテゴリ」ボタンをクリックすると、「ビジネス/マナー」「フィクション/文学」「マンガ」「ミステリー/スリラー」「ライトノベル」の 5カテゴリーが表示される。

ちなみに「ミステリー/スリラー」と「ライトノベル」は文学扱いされていないのが興味深い。確かにこの 2つを「フィクション/文学」の中に入れてしまうと、オーソドックスな文学ファンにとっては探しにくくてうっとうしいだろうから、しかるべしである。ただ Kindle の充実したカテゴリーに比べると、これっぽっちではまだまだ見劣りがする。

とはいえ Kindle の場合は、あくまでも Amazon のサイトの中の「Kindle 本」に行って選んだり購入したりするというシステムで、Kindle アプリは「閲覧」のためと、はっきり切り分けられている。一方 Apple の場合は、PC 版 iTunes からは iBooks に入れるが、iPhone アプリの iTunes からは、今のところ入れない。

この辺りが、Amazon と Apple のコンセプトの基本的な違いのようだ。Amazon の場合は、とにかく Amazon のサイトで買ったものを、Kindle アプリで読む。Apple の場合は、電子ブックを買って読むなら、わざわざ iTunes まで行かなくても iBooks だけでこと足りる。

元々書籍からスタートした Amazon と、音楽からスタートした iTunes の違いなのかもしれない。いずれにしても、Windows 版の iTunes は重いので、iBooks だけで済むのはありがたい。

 

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2012/10/26

Kindle ストアで、さっそく 2冊購入した

Kindle ストアが日本でもオープンしたので、私もさっそく iPhone アプリの "Kindle" をインストールしてみた。こういうことに関しては、私はちょっとだけ新しもの好きなのだ。「ちょっとだけ」というのは、やってはみるけど、すぐにはまりまくったりはしないということだ。

例えば私は、2007年 12月という、比較的早い時期に Twitter のアカウントを取得しているが、ぼちぼち実効的に始めたのは 2010年 1月からである。この間の約 2年間は、自分がTwiiter のアカウントを取得したことすら忘れていたので、改めて始めようとした時に、「Twitter の中に自分の偽物がいる!」と思ってしまったことを、記事にしている (参照)。

というわけで、私は iPhone と iPad に "Kindle" をインストールしてはみたが、実際に 電子ブックを 10冊も 20冊も(電子ブックの場合、「冊」といっていいのかなあ?)買いまくったかといえば、そんなことはない。なぜかといえば、買いたい本があまりないからである。

現状の日本版 Kindle ストアは、郊外のステーションビルによくある書店みたいなもので、ベストセラーとハウツー本とコミックしか置いてないみたいな印象なのだ。よく言われることだが、本好きという種族は、ベストセラーをあまり買わないのである。だから、ステーションビルの書店では買う本が見つからないと同様、Kindle ストアでも見つからない。

書籍のカテゴリー分けにしても、例えば「人文・思想 - 文化人類学・民俗学」というカテゴリーを覗くと、トップに表示されるのは "あなたの 「ふつう」 はだいじょうぶ? 女のマナー常識 555 (PHP文庫)"、"お墓は、要らない (学研新書) "、"お嬢様ルール入門 正統派マナーから気になるライフスタイルまで (PHP文庫) " というようなことで、ちょっと脱力だ。

もっとも、ステーションビルの書店と違うのは、「0円」という値段の品揃えが結構あって、これは「青空文庫」的なコレクションである。こっちの方がずっとおもしろい。私はさっそく、和辻哲郎の「古寺巡礼」をダウンロードして読み始めた。これが、私の Kindle での最初の購入である。(購入といっても、無料だが)

新・リストラなう日記 たぬきちの首 のたぬきちさんは、「電子書籍で読まれるべきは、紙ではもう手に入らない本なのだ」と喝破しておられて、本日付の記事で、深沢七郎・著『風流夢譚』の Kindle 版が出ることを期待しておられる (参照)。

そして、さすが Amazon である。その日のうちに出ている (参照)。著作権はまだ切れていなくて、315円の値段がついているが、たぬきちさんのおっしゃるように、これが Kindle のベストセラーになったら素敵だろう。

そう思って、私は既に紙媒体の海賊版『風流無譚』を持っている(蛇の道は何とやらである)のだが、ついぽっちりしてダウンロードしてしまった。まあ、315円なら、スタバのコーヒー 1杯分くらいだからいいだろう。これが、私の Kindle での 2冊目の購入となったのである。

 

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2011/11/13

私の中の漱石シンドローム

夏目漱石の『三四郎』を、久しぶりに青空文庫で読んだ。しかも i文庫HD というアプリを使い、iPad の画面で読んだのである。ありがたいことに、著者が亡くなって 50年以上経ち、著作権フリーになった文献の多くを、青空文庫で無料で読むことができる。

これでは文庫本を買うものなどいなくなるだろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい。「ファウスト」編集長の太田克史氏は、日本では既に文庫本という利便性と経済性を兼ね備えた市場があるので、電書書籍市場が拡大しないと言っている (参照)。

うぅん、そうかなあ。私は少なくとも、青空文庫で無料で読むことのできる「スタンダード」に関しては、文庫本の出る幕がなくなりつつあると思う。とはいえ、電子デバイスで本を読むのは、紙の本で読むよりもずっと小難しいノウハウが必要と思いこんでいる層がまだ多いというのも、驚くべき事実だけれど。

『三四郎』を初めて読んだのは、中学 1年の時だったと思う。私の文学開眼は、小学校 5年生の時に読んだ『坊っちゃん』で、以後、漱石の小説は立て続けに読んだ。

当時は今以上に世間知らずだったから、日本人が 100人寄れば 100人とも『坊っちゃん』ぐらい読んでいると思っていた。しかし実際にはそんなことはなく、読んでいる者は 20人もいないだろうと、後々になって薄々勘付いた。

小学校 5年から 6年になる春休み頃に、『吾輩は猫である』を通しで読んだが、これを読んだ者なぞ、大人だけをとってみても、100人に 1人もいないだろうということも、後々になって気付いた。

それを覚るまでは、日本人なら誰にでも「トチメンボー」とか「ダーターファブラ」とかいうジョークが通じると思っていたが、そんなのが通じるのは、せいぜい 500人に 1人ぐらいのものと知った時にはショックだった。漱石は「国民作家」などと言われているが、それが本当なら、日本の往来を歩く者は非国民ばかりである。

まあ、私は年端も行かないうちから漱石なんぞに親しんでしまったおかげで、『草枕』の那美さんとか、『三四郎』の里見美禰子とかみたいなタイプの女性に弱いという深刻な副作用まで起こしてしまったのである。それを克服するまでちょっと時間がかかったのだが、それは、まあいい。

とにかく、今回久しぶりで『三四郎』を読んで、私の中には「漱石シンドローム」みたいなのが確実にあるなと、改めて確認してしまったのである。

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2011/10/29

ああ、ゴチャゴチャ言わずに電子書籍化してもらいたいなあ

"「こんなの論外だ!」アマゾンの契約書に激怒する出版社員 国内130社に電子書籍化を迫る" という記事が BLOGOS の記事が話題になっている。記事の内容は、アマゾンが日本の出版業界にとっては到底受け入れがたい横暴な条件で、電子書籍化を要求しているというものだ。

それに対して、日本の出版業界はかなり反発していて、アマゾンのもくろむ日本の出版業界への電子書籍での参入は、当面大きな抵抗に阻まれることが予想されるというのである。

私は出版業界の中身については全然詳しくないので、かなり安易な立場からかもしれないということを十分に自覚しながらも、「消費者の立場から」という「伝家の宝刀」的な言い方をさせてもらうとすれば、「難しい話はどうでもいいから、日本もさっさと電子書籍化を進めてくれよ」 ということになる。

出版業界の現状は、これまでの「紙の媒体で売る」というビジネスモデルに最適化しているのは当然だから、電子書籍化なんてことはしたくないのだろう。しかし、全ての消費者とは言わないし、圧倒的多くの消費者ですらないかもしれないので、ここでは慎重に「少なからぬ消費者によって」ということにしておくが、電子書籍化は確実に望まれている。

私は自分の部屋の書棚にぎっしりと収納された本を見るに付け、「ああ、これが小さなハードディスク(あるいは別のデジタル・メディアでもいい)に入ったら、なんと楽だろう」とため息をつく。

先日の東日本大震災では、書棚の本がガラガラに崩れ落ちて、それをきちんと系統立てて収納しなおすのにかなりの手間がかかった。これが例えば、iPad の中に入っていて、それがどっかのクラウドにバックアップされているのだとしたら、余計な力仕事はせずに済んだのだ。

もちろん、電子書籍に向かない出版物もある。例えば現状での地図、図鑑などだ。紙の媒体としての地図や図鑑は、パラパラとめくれる利便性において、電子書籍に勝る。しかし検索と表示の手法が進化すれば、これらもデジタルの方が有利になるかもしれない。

ごくフツーのテキスト中心の書籍ならば、電子書籍の方がずっと有利だ。もちろん、読みやすさで言えば紙の媒体の方が上回るかもしれないが、「モノ」 としての取り扱いのしやすさということまで考えれば、デジタルの圧倒的勝利である。

読みたい時にさっとダウンロードして、読み終われば収納にスペースをとらず、読み返したくなれば、いつでも即座に取り出すことができる。

日本での電子書籍化にあたっての最大の問題点は、市場の規模ということだろう。

英語の書籍ならば、ほとんど全世界を相手にすることができるが、日本語書籍の市場は人口 1億 2000万ほどの日本国内にほぼ限られる。しかも、その中で電子書籍を読むことのできるデバイスを持っている人口は、まだまだ多くない。

その上、この国では「本は紙の媒体で持ちたい」という伝統的(?)消費者が少なくないので、電子書籍の可能性は未知数だ。そんな市場を相手にするのは、リスクが大きいだろう。

その辺のショッピング・センターの、大規模でない書店の品揃えをみると、日本の書籍市場の中身が推定できる。よく売れる本というのは、その時々のベストセラーと、メジャーな雑誌と、コミックだけだ。ちなみにコミックは一部で電子書籍化が進行中らしいが、私はあまり興味がないので、ここでは取り上げない。

一番問題なのは、私のようなタイプのちょっと物好きな消費者 (ここでは書籍の話だから 「読者」 と言う方がいいかもしれないが) にとっては、その辺の書店では買う本がないのである。というわけで、私のような読者が本を買うのは、都心に出た時に大型書店で本あさりをするか、目的の本が明確な時にアマゾンで注文するかしかないのだ。

もし日本市場で電子書籍化が進んだら、まずアマゾンなどで注文した時に、本が届くまで待つ必要がなくなる。注文したらその場でダウンロードできるのだから、すぐに読み始められる。さらに、大型書店でするしかなかった本あさりが、いつでもどこでも、手元のデバイスでできるようになる。

私のような読者が読みたい本の多くはテキスト中心だから、電子書籍化にはそれほどの手間がかからないだろう。どうせ今どきのことだから、印刷の前段階ではデジタル化されているはずなのである。

極端にいえば、編集段階での最終原稿をそのままテキスト・ファイルでダウンロードさせてもらってもいいと思うほどだ。こちらで勝手に読みやすいフォーマットに変換しちゃうから。それでは簡単にコピーされちゃうのが問題というなら、特殊処理をした PDF でもなんでもいい。

ベストセラーにはほど遠いような範疇の書籍ほど、紙の本のカタチにしない方がコスト的に有利なはずだ。在庫だって本のカタチにしない方がいいし、ロングテイル対応にしても簡単にできる。

だからあまり数が売れないような、よほどの物好きを対象としたものほど、紙の媒体とはせず、しかも電子書籍のフォーマットにすらとらわれずに PDF か何かで、ちゃちゃっと対応してもらいたいと思うのである。

ああ、ごちゃごちゃ言わずに、本は電子書籍でダウンロードするのが当然という世の中になってもらいたいものなのである。好事家向けの本までそうしろとは、もちろん言わないから。

 

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2008/12/05

『ガンをつくる心 治す心』 という本

ガンをつくる心 治す心』(主婦と生活社・刊、土橋重隆・著、本体1,300円+税)という本を読み終えた。

近頃やたら忙しいので、行き帰りの電車の中でしか読めなかったが、それでも 1日半でサクサクっと読み終えた。非常に読みやすく、その上、含蓄に富んだ本である。

私がこの本に興味をもったのは、表紙に記された 「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」というキャッチコピーのせいである。で、かなりカルト的なものなのかと思ったら、著者の土橋重孝さんという方はれっきとした医学博士で、しかも内視鏡手術の第一人者だというのである。

そのプロ中のプロのお医者さんが、ガンについて「西洋医学にも代替療法にも治癒させる力はない!」と言い切っておられるのである。「なんて率直なお医者さんなんだ」というのが、最初の印象だった。私は率直な人というのは、たいてい信頼に足ると思っているのである。

この本の主要な論点を私なりにまとめると、次のようなことになると思う。

  • 西洋医学においては、医者の仕事の 8割は「診断」であり、正しく診断されさえすれば、治療法は同じようなものになる。
  • 診断に際しては、病気という「起きてしまった現象」のみに注目し、その原因、とくに患者の内面的なことまで踏み込むことはほとんどない。
  • とくに進行ガンは西洋医学で「完治」することはなく、「5年生存率」をいかに上げるかに終始している。
  • しかし、末期の進行ガンが治ってしまうということが、現実にある。それらのケースはすべて、病院の治療とは別のところで起きている。本人の心が変わったことで治ったとしか思われない。
  • 多くのガンは「心身症」として捉えられるべきであり、内面の変化、すなわちガンになった心理的原因が取り除かれることで完治する可能性がある。
  • ガンが治るには、それまでの生活習慣、心的傾向などを「改善」するのではなく、思い切って「リセット」することが必要だ。

これ以上のことを知りたい場合は土橋さんのウェブサイトに行かれるのがいいし、よりダイジェストでお知りになりたいというなら、船井幸雄ドットコムのインタビューページを読むのが手っ取り早いだろう。

「船井幸雄」と聞いただけで、「トンデモの疑似科学はごめんだ」 と敬遠したくなる人も少なくないと思うが、このページだけは読んで損はないので、オススメしておく。

私が面白いなあと思うのは、この本の著者の土橋氏ご本人が、長年「西洋医学という科学」の最前線に立って素晴らしい実績を上げておられながら、自ら「科学的でない」というメソッドでガンというものを見つめておられることだ。

「科学的でない」といっても、トンデモの疑似科学というわけでもない。臨床と患者自身へのインタビューの積み重ねによって、データ分析した結果には違いないのである。ただ物理的とか化学的とかいうものではないので、ご当人は「科学的でない」とおっしゃっているのだろう。

確かに、物理や化学のように厳密なものではなく、「解釈のしかた」 という問題もあるので、「トンデモ」 と思ってながめればそんな風に見えるという人もいるだろう。この辺りはもしかしたら、「科学」と「疑似科学」のクロスオーバーしてしまう領域かもしれないので、機会があれば、改めて慎重に書いてみたい。

なにしろ、私は一部には「疑似科学側の人間」と思われているフシがあるので、少しは注意しなければならない。

土橋氏は末期ガン、進行ガン治療の現場という、もっとも患者に近いポジションにいたため、これまでの西洋医学的発想にはない「ガンになった内面的原因」を患者自身に聞くというインタビューを数多くこなされた。

これによって収集された多くのケースを分析し、ガン患者にはある心的傾向があり、そして患者の受けたストレスの種類によって、ガンになる部位にもある傾向が生じることを発見されたのだ。心と体というのは、かくも密接な関係があるようなのだ。

そして、そのガンをつくる心的傾向を「リセット」あるいは「フルモデルチェンジ」することで、医者が見放した末期ガンが治ることがあるという事実を紹介されているのである。

いや、この言い方は少し正確でないかもしれない。というのは、ガンが治った患者は「ガンを治すために、それまでの心的傾向を、強い意志をもって、無理矢理に変えた」というわけではないようなのだ。

どちらかというと、「ガンを治そう」なんてことはしなかったのである。それよりも、自然にもっと別の方向に心が向いたのだ。

例えば、病気のことは忘れて自分以外の誰かのために尽くそうとしたり、感謝を捧げたり、どうせ死ぬならと、それまでのあくせくした生活をさらりと捨てて、残りの人生を楽しむことにしたり、とにかく「ガンと闘う」なんてことは全然しなかったようなのだ。

土橋氏によると、ガンを治そうとしたり、闘おうとしたり、あるいはさらに進んで、ガンにならないように、日常生活でも極力気を付けたりするというのは、ガンをつくった心的傾向と同じなのだそうだ。そうした「真面目な心」が、ストレスをつくり、ガンをつくるというのである。だからガンが治るには、「ガンを忘れる」 ことなのだそうだ。なるほどね。

で、「真面目な心」の人がガンになりやすいということは、裏返せば「いいかげんな人」はガンになりにくいということのようなのである。それを読んだ私は、「ああ、いいかげんな男でよかった」と、胸をなで下ろしたのであった。

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2007/09/06

「現代用語の基礎知識」 偉い!

新語辞典の 「イミダス」 と 「知恵蔵」 が 2007年版を最後に、休刊するそうだ (参照)。

この 2つは、どうせ 「柳の下のドジョウ」 を狙った物まね企画だから、消えてしまっても別に感慨はない。その点、しぶとく発行を続ける「現代用語の基礎知識」は、さすが草分けである。根性が違う。偉いのである。

以前は、3年に 1度は「現代用語の基礎知識」を買っていた。毎年買うほどの必要はないが、3年に 1度ぐらいは更新して「本棚の常備薬」みたいな位置づけにしておくと、ふとした書き物の参考資料にするのに便利だったのである。

ところがいつの間にか、物まね企画が出てきたのだ。集英社の「イミダス」の出たのが、1986年だという。朝日新聞社の「知恵蔵」は、その 3年後の 1989年だ。私は書店にこれら後発の 2つが、草分けの「現代用語の基礎知識」を押しのけるようにして平積みにされるのを見て、毎年不愉快な思いをしていた。

あぁ、これからはこの不愉快な思いから解放される。

物まね二番煎じを社是としているようにみえる集英社は、まあ、しょうがない。しかし朝日までが「知恵蔵」なんていうナンセンスな名前の新語辞典を出したのは、不愉快極まるのである。

私は「老舗大好き」の人間である。いや、別に古くからあるというわけじゃなくても構わない。そのジャンルで最初にきちんとマーケティングしたブランドをリスペクトするという態度を貫きたいのである。

悲しいことに、発行部数で後発の 2つの後塵を拝して苦しんでいた「現代用語の基礎知識」だが、2008年版からは、持ち直す。いかに縮小したとはいえ、このジャンルのシェアを独り占めできるからだ。辛抱強く続けるのは、それだけで価値がある。

とはいえ、私自身は新語はインターネットで調べればすぐに解決するので、今後、新語辞典を買うことはないだろうけど。いや、来年版だけは、ご祝儀の意味も込めて「現代用語の基礎知識」を買っちゃおうかな。

ちなみに「イミダス」と「知恵蔵」 は、有料のウェブ版を継続するらしいが、ウェブの世界では無料でいくらでも調べられるので、そんなものに金を払うのは、私の感覚ではナンセンスである。本の形になっているものだからこそ、金を払う気にもなるというものじゃなかろうか。

分厚すぎて邪魔ではあるけれど。

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2007/03/22

翻訳の難しいアメリカ小説

村上春樹訳による 「ロング・グッドバイ」 が出たんだそうだ。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 「グレート・ギャッツビー」 に続くアメリカ小説翻訳の第三弾ということになる。(この点については、最後の 「追記」 参照)

私は 「ギャッツビー」 の原書は読んでないが、「ライ麦畑」 と 「ロング・グッドバイ」 は、たまたまペーパーバックで読んでいる。

書棚の中から、この 2冊はすぐに見つかった。「ライ麦畑」の表紙は、赤茶色にタイトルと著者名だけという超シンプルなデザインだが、「ロング・グッドバイ」 は、かの有名なカクテル、ギムレットがフィーチャーされてスタイリッシュ。両方の著者のキャラがよく出ている。

この 2冊は、23~4歳の頃に相前後して読んでいる。30年も前のペーパーバックが、書棚からすぐに見つけ出せるというのは、あれから何度も繰り返し読んでいるからだ。もちろん、通しで読み返すのではなく、部分的にだが。

「ライ麦畑」 の方は、とても読みやすい。読みやすすぎて、翻訳するのは大変だ。どう訳しても、原書の雰囲気からは離れてしまう。主人公である 16歳のホールデン・コールフィールド少年のキャラは、日本語にした途端に裏切られてしまう。

それは、このペーパーバックの表紙に、何の画像も使われていないのと同じことだと思うのだ。何らかの画像を使った途端に、それはホールデン少年のイメージを裏切ってしまう。

だから、私は野崎孝訳は何だか違うと思ったし、村上訳も「やっぱりね」という感じだった。この小説は、申し訳ないけど、英語で読むのが一番だ。

で、今度の「ロング・グッドバイ」である。これは、ちょっと読みにくい。同じスラング満載でも、「ライ麦畑」は何となくわかるが、チャンドラーの世界はかなりペダンティックなので、わからないと、さっぱりわからない。

それでも(あるいは、「それだけに」かな?)、日本語にはしやすいと思う。ホールデン君のあまりに直截的な物言いに比べて、チャンドラーの言葉にはある程度のクッションがあるからだ。

そういえば、以前、杉浦日向子さんが亡くなったとき、彼女の有名な「にじよじ」という世界のアメリカ版として、「ロング・グッドバイ」の中の一節を翻訳してとりあげたことがあった (参照)。

俺は夕方前に店を開けたばかりのバーが好きだ。店の中の空気はまだ涼しくて清潔だし、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡を覗いて、ネクタイが真っ直ぐで、髪の毛がきちんとしているかどうか確かめている。俺は、カウンターの奥の小ぎれいなボトルと光沢のあるグラスを眺めながら、これから始まる時間について考えるのが好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作ってパリッとしたマットに置き、小さく折ったナプキンを添えるのを見るのが好きだ。そして、それをゆっくりと味わう。静かなバーの夕刻の、最初の静かな一杯 − 素晴らしいじゃないか。

ありゃりゃ、我ながらベタすぎる翻訳だなあ。直訳すぎるし。清水訳なんか、多分かなり意訳してスタイリッシュにこなしてるんだろうと思う。この部分、村上訳ではどうなってるんだろう。

蛇足だが、「にじよじ」 のキーワードでググると、私のどうでもいいエントリーが 494,000件中のトップにランクされている(参照)ことを、たった今、知った。なんとも畏れ多いことである。(Google の検索結果より直接的な固定リンクは、こちら なのだが)

【追記】

「ロング・グッドバイ」 が村上春樹のアメリカ小説翻訳第三弾というのは単行本ベースで言ったつもりだったのだが (彼はそのほかにも尋常じゃないほどの数の翻訳を雑誌で発表しているので)、単行本でも、まだまだあったようだ。だから、第三弾というのは、間違いです。ごめんなさい。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

 

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