カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の1000件の記事

2021年3月 3日

「刺身の食卓への出し方」と「結婚した意味」

Kana さんという方が、刺身を食卓に出すということに関して、とても真っ当な tweet をしておいでだ(参照)。

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上の画像の tweet をテキストでコピペさせていただくと、こういう内容だ。

今日テレビで、お刺身をパックのまま出したら旦那さんに「刺身はお皿に出してほしい。結婚した意味がない」と言われた人がおり、パックのまま派とお皿に出す派の声を紹介していたんだけど、問題はそこじゃなくてそんなにお皿に出したければ自分で出せってことだと思うなどした。

もし同じ番組を見ていたら、番組が「パックのまま派とお皿に出す派の声を紹介」という流れに移ったという時点で、私も「違う、 そういう問題じゃない!」と声をあげたくなったと思う。

ところが Twitter のスレッドを見ても「お皿に盛った方がおいしそうに見える」とか「最近はパックもおいしそうに盛り付けてある」とか「一手間かける愛情が大切」とかいう視点から、いろいろな反応が寄せられている。「そういう文脈じゃないんだけど」と言うしかない。

このケースの問題を明確にするためのポイントを太字で表示するとしたら、それは夫の「結婚した意味がない」という言葉だろう。要するに「どっちの方がおいしく見えるか」なんてノー天気な話にもっていくようなケースじゃないのである。

私は妻に対して、そんなことは絶対に言わない。誤解されたら不本意なので断っておくが、それは妻に気を使っているというより、そんな馬鹿なことを言ったら、むしろこちらの方が不愉快になってしまうからというだけのことだ。

夫が「刺身を皿に盛られた状態」で食べたいと考えるのは、十分「あり」だろう。ただ、妻がそれを面倒と感じ、「パックのままで十分じゃん」ということなら、夫が一方的に「皿に出してほしい」と要求するのは「わがまま」というもので、さっさと自分でやればいいだけの話である。

自分でやるという発想がなく、妻がやらないなら「結婚した意味がない」とまで言うのは、それは「わがまま」よりヒドい「了見違い」というものだ。繰り返すが、それは「どちらの方がおいしく食べられるか」という話ではないし、「一手間かける妻の愛情表現」とかいう次元の話でもない。

ちなみに「一手間かけた愛情表現」というものを妻が選択し、自らもそれでハッピーだというなら、それはそれで OK だ。しかし、夫の方で「妻なんだから、それぐらいして当然」ぐらいにしか受け取らないとしたら、その「OK」は半分以下の価値にとどまる。

番組の流れが「パックのまま派とお皿に出す派の声の紹介」の方に行ったと知った時点で、私はこの国のピンボケ具合に、ちょいとばかり絶望的なものを感じてしまったよ。そして Kana さん自身も次のように tweet しておいでだ。(参照)。

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要するに、そういうことだね。

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2021年3月 2日

「お辞儀ハンコ」とか「ZOOM の上座/下座」とか

私は「ハンコ文化」というものにまったく馴染めず、勤め人時代からデスクの引き出しに放り込んであった朱肉不要の「シャチハタ」で、ほとんどの用を足していた。押し方も「押してありゃいいんでしょ!」程度のもので、いつもかすれたり斜めになったりしていた。

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ところが世の中には、妙にハンコにこだわりたがる人がいる。自分のハンコにこだわるだけならいいのだが、そんな人にとっては私のようないい加減なやり方が許せないらしい。

「シャチハタじゃなく、ちゃんとしたハンコにしなさい」とか「きれいにまっすぐ押しなさい」なんて説教はしょっちゅうで、それどころか、「シャチハタ使ってるやつは出世できないって、知ってるか?」なんて都市伝説みたいなことまで言い出すのには参った。

そんなわけで、「ハンコはまっすぐきれいに」というのがスタンダードなのだと思っていたが、世の中には上図のような「お辞儀ハンコ」なんてものを求めるビジネス文化があるらしい。それを知ったのはちょうど 2年前ぐらいのことで、このブログにも書いている(参照)。

ただそう言えば、この類いの話はハンコだけではない。最近は ZOOM を使った会議でも余計なことを言い出すオッサンがいたりする。

ZOOM の場合、フツーはそのネット会議をセットしたホスト(主催者)の顔が一番左上になるが、これに対して「自分の顔を上座に置いて部長の顔をずっと下座にしてしまうとは、無神経にもほどがある」なんて怒り出したりするのである。

そんな余計なことを気にするよりも、まずはひっきりなしの雑音を入れないために、自分の発言しない時はマイクを確実にミュートにしてくれと言いたいところである。それに「上座」というのは「向かって右側」だから(参照)、そもそも文句を言われる筋合いじゃない。

実は 2020年 9月に、ZOOM にも参加者のビュー表示位置を固定できるという(余計なお世話的)機能が装備されてしまった(参照)。ただこの新機能の本来の意義は日本流の「上座/下座」文化の要請に対応したものではなく、司会者や主要発言者の位置をわかりやすくするためということだ。

ありがたいことに、この機能はまだ一般に知れ渡っているというわけではない。しかしそのうちおっさん連中の耳に入ったら、「きちんと上座/下座を配慮して並べ替えろ」なんてことをしつこく言い出すに決まっている。

そうした連中が定年でいなくなるのは間近だから、それまでは知らん顔で「これは仕様で、仕方ないんです」と、トボけていたいところだ。(私はフリーとして、定年過ぎてもウロウロ出入りしているんだけどね)

 

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2021年2月26日

「数学嫌いの若者」に関する考察

東洋経済 ONLINE に "「数学嫌いの若者」が生みだされ続ける根本原因 小学校時代の算数の教え方がその後を左右する" という記事を見つけて、「我が意を得たり」とばかりに読んでしまった。ちなみに私は「極端な文系」ということになっていて、数学は苦手である。

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この記事を書かれた 芳沢光雄 先生は、数学嫌いになる問題の一端に小学校時代の「かけ算九九」の授業があるとして、次のように指摘されている。

3×4=12の「サンシジュウニ」ならば、3+3+3+3=12 を示した後に暗記させるものである。ところが、困った指導が一部で行われて、3×4=12 のような意味を示す前に九九を全部暗唱させていたのである。

私の小学校 2年生の頃の指導は、まさにそれだったように思う。授業では「九九の意味と必要性」なんて一度もまともに説明されず、ふと気付くと、ただひたすら「九九を早く暗唱できるようになった子がエラい」みたいな雰囲気になっていた。

そんなわけで学校の休み時間でも登下校の途中でも、みんな異様に大きな声で競争のように「九九」を唱えて(というか、叫んで)いるのだった。申し訳ないけど、私は気恥ずかしくてその環の中には到底加われなかった。

「かけ算九九」って要するに「単純記憶」の勝負で「考える必要」がまったくないというより、下手に考えるとそれが邪魔になってしまうぐらいのものだから、誰でも抵抗なく入れたのだろう。しかし、ただ単に憶えるなら「寿限無」の方がずっと楽しいけどね。

私としては「九九」の喧噪の中でひたすらポカンとしながら、「『9×9=81』なんて、9を 9回足せばわかるじゃん」と思っていた。実際に九九のペーパーテストでも、九九を完全に暗唱できないくせに このやり方であっさり満点だった。(さすがに、その後しばらくして自然に覚えられたが)

で、芳沢先生の指摘によれば、これこそ正しいアプローチだったわけだ。そのお墨付きをもらっただけでも、この記事を読んだ甲斐があるというものである。「九九」って数学に必要な論理思考とは別の筋肉しか使わないみたいなのだね。

というわけで、私は「理数が苦手」とはいいながら「論理思考が苦手」というわけでは決してなく、むしろ得意と言っていいほどだ。このことは 2011年 7月の "「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" という記事に書いている)

定理や公式の意味はことごとくきちんと理解できるし、相対性理論とか素粒子論などの文献を読むのもほとんど苦にならない。

これらの分野に関しては、その辺の「数学や科学は、誰が考えても答えが一つだからいいんだ」なんてノー天気なことを言っているフツーの理数系よりは、きちんと理解しているという自信がある。

ただ、この記事に書いているように、私の場合は「数字数式認識障害」とでも言いたくなるような欠陥があるみたいなのだ(「識字障害(Dyslexia)」に類したものだろうか)。それで、同じ生きていくなら数字の世界ではなく文系の世界で論理を貫いて行こうという気になって、今日に至っている。

というわけで、私は決して「数学嫌い」じゃないのに「数字に弱い」だけで、世間から「極端な文系」扱いされ続けているわけなのだよね。まあ、ここまできたら別にそれでもいいけど。

【2月 27日 追記】

本文で触れた「九九のペーパーテスト」では、完全に暗唱できない私が満点なのに、しっかり暗唱できている子が「70点」とか「80点」とかしか取れていないのが、不思議でしょうがなかった。

あれって多分、「さんしちにじゅういち」と「3×7=21」が、頭の中でリンクしていなかったんだろうね。何しろ「使う筋肉が違う」ので。

 

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2021年2月17日

赤いスイートピーは前々からあったと認めざるを得ない

昨日の「ロンドンの霧と、赤いスイートピー」という記事は、後からいろいろ書き足して混乱させてしまい、申し訳ない。ただいずれにしても、「赤いスイートピーは、聖子ちゃん以前から世の中にちゃんとあった」と認めざるを得ないようなのだ。

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その根拠は、昨日の記事にも掲載したが、1986年 7月に発行された "Sweet Peas - Their History, Development & Culture" という本の表紙である。ご覧のように、しっかりと赤いスイートピーが載っている。

この本自体は聖子ちゃんの歌の出た 4年後の復刻発行だが、そのオリジナル版は1926年に発行されていて、赤いスイートピーが「1800年ころには既に存在していた」との記述があるらしい。文字の記述だけではアヤシいところがあるが、こうして画像で出されたら、認めないわけに行かない。

つまり、広く流布している「赤いスイートピーが開発されたのは 2000年以後」というのは、俗説ということだ。ちなみに株式会社大田花き花の生活研究所という会社の「花研コーヒーブレイク」というブログの 2006年 1月 21日付の記事にも、次のようにある(参照)。

赤いスイートピーは歌がヒットしてから開発されたという説がありますが、これは誤りです。実際には赤いスイートピーがリリースされる180年以上も前に既に存在していました。赤にもいろいろあるので、真っ赤とは限りませんが、赤系の品種です。行政にお勤めでスイートピー研究の権威の方のお話なので、間違いないと思います。

ただ、赤いスイートピーは三重県伊勢市の花農家、中川猛さんの品種改良によってこれほどまでのヒット商品になった(参照)わけなので、中川さんの尊い努力は否定されるものではない。これは重要ポイントだ。

ちなみに驚いたことに「花研コーヒーブレイク」の記事によると、今のところ存在しないのは黄色のスイートピーで、街で見かける黄色の花は、あれは染めてるんだそうだ。いやはや、油断も隙もない。

「じゃあ、1986年の本の表紙も、赤く染めたスイートピーなんじゃないか」なんて無粋なことまでは、私としては言わないでおく。

以上、そういうことなのでなにぶん

Yoroshiku4

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2021年2月14日

今回の地震は、"Prep" 情報よりずっと大きかったよ

今月 6日に "「震度 0 が およそ 5秒後」に来ると言われてもなあ・・・ " という記事を書いた。"Prep" という地震情報アプリがうるさすぎるという話だったが、らむね さんの助言コメントのおかげで「震度 3」以上の情報しか受け取らないという設定に変えることができ、少しは落ちついていた。

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ところがその 1週間後の寝入りばな、久しぶりに手首の Apple Watch がブルブルと振動し始めた。画面を見ると「震度 3 の地震が 58秒後」と表示されていて、それが刻々と「53秒後」「45秒後」・・・ と更新される。かなり忙しい。

「まあ、震度 3ぐらいなら大したことないわ」と高をくくっていたところ、「6秒後」と表示されたあたりから早くもぐらぐらと揺れ始めた。フライングである。そしてその揺れはなかなか収まらずにどんどん強くなる。

「おいおい、こりゃ、震度 3なんてもんじゃないぞ!」と、アセリ始めたところで、本棚から本が 10冊ぐらいバサバサッと落ちた。妻もかなり怯えている。なにしろ 10年前のトラウマがあるし。いずれにしても今回の地震は、Prep にかなりサバ読まれてしまった。

ようやく収まってネットの地震情報を見ると、震源地は福島沖で、最大震度は 6強と出ている。そりゃ大地震じゃないか。茨城県内は概ね震度 4だが、土浦、つくば周辺だけは 5弱となっている。道理で揺れたわけだ。

落ちた本を書棚に戻し、家の中を点検したが、壊れているところはない。停電にもならずに済んでいるし、Radiko の情報では福島で廃炉処理中の原発も持ちこたえてくれたらしい。というわけであとはぐっすりと寝た。

朝になると仙台に住む妻の従姉妹からメールが来ていて、「今度こそ終わりかと思った」とある。10年前より強い揺れと感じたらしい。部屋の中は崩れた壁土でザラザラだそうだ。

上の図を見ても、福島から宮城にかけては赤丸から暗赤丸(震度 6弱〜 6強)が多いから、さぞかし恐ろしい思いをしただろう。

それにしても、福島沖で発生した地震が 1分そこそこで、つくばの地まで伝わって来るのだから、ものすごいスピードだね。クルマだと高速道路を使っても福島市まで 3時間ぐらいかかるから、地震の速さはクルマの 200倍(時速 2万キロ?)ぐらいなのか。

こう考えたら、脳内で福島辺りからウチまでの風景の変化がものすごい速さでコマ送りされて、クラクラしてしまった。

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2021年2月 9日

「本を速く読む」ということ

「東洋経済」2月 5日付に "本を読むのが「遅い人&速い人」の決定的な違い" という記事がある。"誰でも速読が可能になる「たった1つ」の仕草" という気になるサブタイトル付きだ。

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この記事で紹介されているのは、『LIMITLESS 超加速学習 人生を変える「学び方」の授業』(Limitless: Upgrade Your Brain, Learn Anything Faster, and Unlock Your Exceptional Life)という本の著者で脳トレーナーでもあるジム・クウィック(Jim Kwik)氏の「科学的に正しい速読のやり方」だ。

ここで触れられている「速く読むことを阻んでいる壁」というのは、次の 3点である。

壁その 1: 返り読み ー 無意識に前の文章に戻っては読み直すことで、「うろうろ読み」とも言う。

壁その 2: 子どもの頃と同じ読み方 ー 読む量が少なく難易度も低かった子どもの頃に教わった読み方から変わっていない。

壁その 3: 頭の中で音読してしまう ー 「サブボーカライゼーション」というらしいが、これをしてしまうと、読書速度を毎分わずか200語に制限するため、読む速度が「考える」速度ではなく「話す」速度に抑えられてしまう。

3番目の「頭の中で音読してしまう」と読むのが滅茶苦茶遅くなるというのは、とてもよくわかる。原文に従って一語一語忠実に翻訳することを「逐語訳」というが、速く読むときは、いわば「逐語読み」をしないのだ。

喩えて言うと、英文を読む時にいちいち頭の中で音読したり、日本語に翻訳しながら読んだりしていては日が暮れてしまうから、英語のままでキーワードのつながり具合に注目しながらざっくり理解して、どんどん読み飛ばすみたいなイメージである。

この記事の他にもいろいろなサイトで「速読術」が語られているが、ほぼ共通しているのは文章を「視覚的に "塊" として見る」ということだ。「丹念に読み込む」なんてことはせずに、目に映るページを「言葉のかたまり」として飲み込み、そのままどんどん先に進んでいく。

そんなわけで、急いでいる時には 1ページ分の内容を 4〜5秒でざっと捉えて読み進むなんてざらである。文芸作品のように、文体と内容を合わせてしっかりと味わう必要のあるものだと話は別になるが、とりあえず内容さえ把握すれば済むという場合は、このやり方で済ませている。

とにかく速く読む場合には「こんな読み飛ばし方だと、本当は内容を理解できてないんじゃないか」などと、自分を疑っちゃいけない。もし後になって「あれ?」なんて思うようなことがあったら、もう一度該当ページを開いて確認すればいいだけと割り切ることだ。まあ、そんなことは滅多にないけど。

どんなにゆっくり読んでも、わからない人はわからないのだから、「速く読める」という事実をありがたいと思う方が大切だ。これは実感である。

若い頃に比べて目が疲れやすくなったので、長時間にわたって細かい字を追い続けるのはちょっと辛くなったが、今でも結構分厚い本を 2〜3時間で読み終えることならできる。逆に「逐語読み」なんてしていたら、目が疲れて 1時間もたない。

 

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2021年2月 3日

デスクワーク(PC作業)用の眼鏡を新たに誂えた

このほど、デスクワーク(PC作業)用の眼鏡を新たに誂えた。下の写真の右側である。左はこのところずっと使ってきたクラシック・デザインの遠近両用眼鏡で、これからも末永く普段使いするつもりだ。

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これまでは、遠近両用の眼鏡が 1本あれば十分に事足りると思っていた。ところがさすがに最近では、これでは目が疲れてしまうのである。デスク上の PC 画面に焦点を合わせ続けるのが結構しんどいのだ。

遠近両用眼鏡というのは言うまでもなく、レンズの上の方を通して見ると遠方に焦点が合い、下の方を通せば近くに焦点が合う。そしてデスク上の PC 画面は近くにあるので、視線を下げてレンズの下の方を通して見なければならない。

ノート型 PC だと画面は低いところにあるのでまだ楽なのだが、最近はデスクトップ PC を使っているので、顔を比較的上に向ける姿勢をキープしつつ、視線のみを下げなければならない。ところが、これが長時間にわたると首筋が凝ってしまうのだよ。

それでこのほど、PC 画面までの距離(大体 70cm ほど)に合わせた固定焦点レンズの眼鏡を新たに誂えたというわけだ。せっかくだからブルーライト・カット機能付きである。

結論を言うと、これはヒットだった。PC 画面を見るのに首の角度を一定に保つ必要がない。仰向こうが俯こうが、視線を上げようが下げようが、ありがたいことに PC 画面にしっかりと焦点が合うのである。

遠近両用のメガネをかけて PC 作業に目がショボショボしてしまっている方は、固定焦点レンズの眼鏡を試すことをオススメしたい。ただし購入の際には、自分の目とデスク上の PC 画面との距離をしっかり測って行くのをお忘れなく。

 

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2021年1月31日

充電池(エネループ)の電圧に関するトリビア

もう 6年半も前に書いたことになる「Belkin の Bluetooth テンキーが言うことを聞かなくなったら」という記事に、今月 27日に佐古邦彦さんという方からコメントがついた。充電池(エネループ)だとパイロットランプが点灯するだけで動作しなかったが、新しい電池に交換したら回復したという。

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そこに当ブログ常連、らむねさんが「エネループだと電圧が低いからじゃないですかね」と書き込んでくれた。そもそも規格が1.2V しかないというのである。ちなみに普通の乾電池は 1.5V であるらしい。いやはや、そういうこととは、ちっとも知らなかった。教えてくれた らむねさんに感謝である。

BELKIN のテンキーというのは要求する電圧がかなりシビアのようだ。そしてエネループの電圧はそのギリギリのところなので、ちょっとした環境によっては「パイロットランプは付くが、動作しない」という、一見摩訶不思議な現象が生じていたと考えられる。

で、「フツーの乾電池と同じぐらいの電圧の充電池ってないのか?」と検索してみたところ、あるところにはあるもので「Melasta 単3形充電池」というのが見つかった。電圧は 1.6V というから、乾電池よりちょっとだけ高い。

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これなら無駄に乾電池を買う必要がなさそうだ。8本入り、充電器付きで 2,177円という価格もリーズナブルである。

近いうちに購入して使ってみようかな。

 

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2021年1月27日

「風水」を巡る冒険

3日前の記事を書きながら、クルマの「希望ナンバー」といわれるものには「風水」とやらに由来して人気の数字が結構あると知った。個人的にはまったく縁遠い話だが、こだわっている人は案外いるらしい。世の中、知らないところで何が起きているか、まったく油断がならない。

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とりあず Wikipedia で「風水」に当たってみると、冒頭には次のように書かれている(参照)。

風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、「気の流れを物の位置で制御する」という思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。

のっけから「気の流れ」なんて言われても「合気道」をやった私にさえ漠然としてよくわからないし、いかにも込み入って面倒くさそうだ。皆さん、よくまあこんなようなことに分け入っていけるものだなあ。

ところがもう少し読み進むと、こんなことが書いてある。

日本においては風水が完全に成立する唐代以前の一部の理論のみが陰陽道や家相として取り入れられて、中国本土とは別の形で独自の発展を遂げた。近年、日本国内で風水という名称で行なわれている占いの多くは、風水そのものではなく、家相術や九星気学などのアレンジに過ぎない。

ほほう、つまり日本には「正統派風水」と「なんちゃって風水」があるってわけね。

そしてさらにもう少し先まで読むと、こんなことが書いてある。

日本では「風水」の語が現代までほとんど知られず、目崎茂和は「風水の無い風土」と表現していた。しかし、1994年に荒俣宏の『風水先生』が刊行され、風水が大きなブームとなり、その概念が広く知られるようになった。

へえ! 荒俣宏氏に関しては注目していた時期もあったが、『風水先生』についてはすっかりスルーしてしまっていたようだ。当然ながらその「大きなブーム」とやらもスルーしたまま、今に至って「クルマのナンバー」で驚いてしまっている。

要するに日本ローカルの「いわゆる風水」関連は、人々の話題にのぼったこと自体が比較的最近の話で、「いろんな人がいろんなことをもっともらしく言ってる状態」と思っていればいいようなのだ。

で、今後もあまり興味を抱けそうに思われないので、このお話はとりあえずこれでおしまい。

 

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2021年1月26日

葬儀会社の広告入り自治体封筒というもの

"大阪のコロナ陽性者に市から葬儀会社の広告入り封筒「配慮が足りなかった」と担当者" という記事は、さすがに大きな声では笑えなかった。この葬儀会社のフリーダイヤルの番号にたまたまだが「567」という数字が入っていたというのも、ダメ押しっぽい。

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記事によると大阪市では、2006年度から「収入確保のため業務用封筒に広告を掲載するようになった」ということのようだ。「市 封筒 広告」の 3つのキーワードで検索すると、同様の取り組みをする自治体の少なくないことがわかる(参照)。

こうした「自治体広告」の中で、業種として葬儀社の広告が多いのかどうかは、検索しても調べがつかなかった。ただフツーに考えれば世の中に死なない人はいないのだから、広告効果としては抜群に高いかもしれない。

この記事に登場するコロナ陽性者の Aさんは、「自分を否定されたように感じ、思い出すたびに涙があふれてくる」とコメントしている。恐縮ながらシリアスに受け止めすぎのような気もしないではないが、中にはそうした人もいるのだから、注意するに越したことはないだろう。

市の担当者のコメントによれば「封筒はこれしかないので、特に広告のことは意識せずに使っていた」とのことだが、市の保健所から配慮するよう連絡があったため、「今は古い封筒をかき集めて対応している」という事態になっているらしい。お役所もなかなか大変だ。

とはいえ「封筒はこれしかないので」というのは、ちょっとヤバいんじゃないかなあ。今回はたまたまコロナウィルスの陽性者への連絡で問題になったわけだが、例えば高齢者の保険関係の通知とかでも、できればあまり使わせたくはないよね。個人的には「おお、気が利いてるな」と笑っちゃうところだが。

解決策としては、複数の広告主を募って通信の内容によって使い分けるということも考えられるが、ことさらにそうすればしたで、「俺に送られて来た通知は葬儀会社の封筒だったんだが、何か含むところでもあるんか?」なんて、さらに面倒なこと言い出す人がいそうだ。

まことにも人の心は難しい。

最後に余計なことかもしれないが、この件を紹介した記事の写真(冒頭参照)に、自分のカメラ(スマホ?)の影がしっかりと映り込んでいるのが気になる。封筒の広告に限らず、こうした細かい点にはさりげなく気を配りたいものだよね。

 

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