カテゴリー「文化・芸術」の97件の記事

2019/11/27

スヌーピーの「明るいさみしさ」

今日、「ゆうパック」で荷物を送ろうと郵便局に行ったら、郵便関係の窓口が一人のジイさんに占領されていて、なかなか順番が廻ってこない。この『ちびまる子ちゃん』の友蔵じいさんのような出で立ちのジイさん、年賀葉書を買おうとしてデザインの選択に迷っているらしく、ずいぶん長い間カウンターに張り付いたままだ。

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内心「さっさと選んでくれよ! 後ろがつかえてるんだから」と思いつつ、ちょっとイライラし始めたところで、そのジイさん、「よっしゃ決めた」と言う。「やれやれ、ようやく決まったか」と思ったら、おもむろにハートマーク付きみたいな感じで「”スヌーピー” を 50枚」ときた。

それを聞いてそれまでのイライラはどこかにぶっ飛んでしまい、思わず後ろからハグしちゃいそうになっちゃったよ。スヌーピー、まことにも世代を超えて愛されてる。

というわけで、今日は ”PEANUTS” の話題である。今日の今日まで知らなかったが、この 10月から『完全版 ピーナッツ全集 スヌーピー1950~2000』(全25巻)の刊行が始まっているのだそうだ。発売元は河出書房新社で、「スヌーピー生誕 70周年記念出版」ということである。日本語訳はもちろん、あの谷川俊太郎氏。

これに関連して、HUFF POST に ”スヌーピーと育ったすべての大人たちへ。詩人・谷川俊太郎が語る、PEANUTSの「明るいさみしさ」とは” という記事があって、この中で谷川俊太郎さんは「もう、自分もキャラクターの 1人になってしまったみたいだ」なんて語っている。50年も翻訳し続けると、そんな感じになるのかなあ。

この ”PEANUTS” というまんが、私は多分、中学生の頃から意識し始めた。英語の教材とかにちょくちょく掲載されていて、なんとか読もうとしていたような気がする。吹き出しの中のセリフが英語で、その下に谷川俊太郎訳の日本語が出ていたのがありがたかった。下の画像は、上のニュースに使用されているヘージの右側一番上の拡大版(クリックでさらに拡大される)である。

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このマンガのセリフ、とくに主人公のチャーリー・ブラウンとスヌーピーの言い草がいつも何となくシニカルな哲学っぽい雰囲気で、中学生程度の英語力と感受性では、実は案外難しかった。英語のままでそこはかとなく「ふふふ」と笑えるようになったのは、高校以後のことだったと思う。

スヌーピーって、決して「かわいい一方」の犬じゃないのだよね(上のマンガによると、クッキーは好きでもココナッツが嫌いみたいだし)。谷川氏の語るように、まさに「明るいさみしさ」を漂わせているのである。

そして今気付いたんだけど、私の英語も日本語も、文体的に ”PEANUTS" の影響をずいぶん受けてしまっているよね。スヌーピーの縫いぐるみまでは持ってないけど。

ちなみにたった今、"完全版 ピーナッツ全集 15 スヌーピー1979-1980" (¥3,080)を Amazon で衝動買いしてしまったよ。1冊読んで、全巻欲しくなったりしないか心配である。

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2019/08/11

社会の暗部を無意識の領域から掘り出す

あいちトリエンナーレに関して、昨日の記事の続きである。昨日の記事は柄にもなく細かい客観的事実の積み上げという形になったので、読んでいてつまらないと思われた方が多かったと思う。書いている当人もそれほど楽しくなくて、やや気が滅入っちゃったりもしたし。

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で、今日は「細かい事実」をちまちま積み上げるのではなく、私らしく直観的な話にする。話の入り口は、内田樹氏の 8月 4日付の tweet (参照)だ。彼は次のように述べている。

ふだん隠蔽されている社会の暗部を可視化するのはすぐれて批評的な行為です。今回の愛知の出来事で、日本の暗部が深くかつ広範囲に可視化されました。

「よくぞ言ってくださった!」と拍手を送りたいところである。実は私も「次はフロイトの精神分析的なロジックを借りて今回の企画展を語ろう」なんて思っていた矢先で、その結論は内田氏の tweet とほぼ同じようなところに持っていこうと思っていた。見事に先を越されてしまったけど、相手が内田樹さんだから、まあ、いいか。

フロイト精神分析は詳細に語り出したらキリがなくて、なかなか私如きの手には負えないが、要するに「無意識の領域にある抑圧的記憶を意識化させることで、神経症的症状を消すことができる」というメソッドであると、極々単純に理解している。アメリカ映画なんか見ていると、米国のインテリはみんな精神分析医にかかってるんじゃないかと思うほどで、「彼らも大変なのね」と同情するのだが、実は日本も大変なのだ。

要するに神経症的症候の多くは、意識化することに苦痛を憶えてしまうような記憶を、無意識の奥に抑圧して閉じ込めておくことから生じる。なにしろ閉じ込めた先は「無意識」というところで、当の本人すら気付いていない心の領域だから、合理的な「意識」でどうあがいても解決できない。

仕方がないから、治療の過程ではある程度の心理的苦痛を感じてまでも、それまで無意識の底に抑圧していた(要するに隠蔽していた)記憶を呼び覚まして、きちんと「意識化」することで解決する。

というわけで、私としては「美しい日本精神」を謳い上げているだけでは、意識的に生きようとすればするほど日本人は神経症的になってしまうほかないと思っている。本当に「美しい日本人」として生きようとするなら、認めたくない「歴史の暗部」の要素も、無視したり無理矢理に「国民的無意識の奥底」(と言えるかなあ)に閉じ込めて「なき物」とするよりも、きちんと意識化して「落とし前」を付けておかなければならない。

こんなことを言うと、「いつまでも韓国に屈辱的な『謝罪外交』を続けろというのか」と攻撃したがる人が、ネットの世界にも多く見られるが、そんな意味で言っているのではない。「あったことは事実として客観的に認めて、その上できちんと客観的議論をしなければならない」ということである。

いわゆる「謝罪外交」とは、「一応謝った形にしたんだから、もういいじゃないか」とばかりに再び無意識の中に封じ返し、表面的には「なかったことにしてしまおう」という行為である。そんなことをしているからご覧の通り、日本社会は「社会的神経症」の様相を呈している。

 

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2019/08/10

あいちトリエンナーレの企画展中止に関して、原則的な一言

一昨日の "「表現の自由」と「自己責任」についてのエクストリームなご意見” という記事に basara10 さんが付けてくれたレスに、結構長文の返事を書いた。書くのに結構いろいろ調べたので、単なるレスにしておくのはもったいないということで、もうちょっと付け加えて本日の記事にさせていただく。

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basara10 さんは「やはり許可した知事や芸術監督を選んだ委員は批判されても仕方ないと思う」と述べておいでだが、「表現の自由」もあれば「批判の自由」もあるので、それは当然だと思う。ただ批判するのは OK だが、行政側が「中止してしまえ」と言うのはほとんど「検閲」に等しく、「表現の自由」の否定につながる。

というわけで、愛知県としては企画展中止に関する検証委員会を立ち上げる方針と発表された(参照)。これはいいことだと思う。このまま「あれって、中止になっちゃったんだよね」だけで済ませるわけにはいかない。

ただ、私が今イチ腑に落ちないのは、河村たかし市長の「展示中止」を求めた発言に対し、「憲法 21条違反の疑いがある」と主張した大村秀章愛知県知事自身が、実はこの展示会の実行委員長を務めていて、展示中止を決めた当事者であるということだ。それほど表現の自由を大切に思うなら、中止以外の選択もあっただろうにと思うのである。

で、今回の問題を整理すると、「表現の不自由展・その後」の企画実行に関しては、芸術監督の津田大介氏の力が大きい。そして誰が彼を芸術監督にしたのかということについては、愛知県のサイトの「あいちトリエンナーレ2019の芸術監督が決定しました」というページに、次のようにある。

学識経験者7名から構成される「あいちトリエンナーレ芸術監督選考委員会」を設置し、2回の議論を経て、芸術監督の選考を行い、同委員会の推薦を受けて、あいちトリエンナーレ実行委員会運営会議において芸術監督を選任した。

その「芸術監督選考委員会」なるもののメンバーは、同じページに五十嵐太郎、加須屋明子、建畠晢、中井康之、藤川哲、水野みか子、港千尋の各氏であると紹介されている。このメンバーによる会議は平成 29年の 5月 1日と 6月 4日の 2度開かれており、ここでの議論の結果に基づき、7月 18日開催の実行委員会運営会議の席上で津田大介氏を推薦。そしてこの会議においてそのまま正式決定され、8月 1日には彼の就任が発表された。

つまり、2年以上前から芸術監督の人選は議論されており、開催のちょうど 2年前に津田大介氏と発表された。津田氏はこの芸術監督の依頼には「思わず二度見しましたが」と Twitter に書いている(参照)ほどだから、先立っての「生臭い話」はあまりなかったのだろうと思われる。そして企画展にはほぼ 2年の準備期間があったわけだ。

で、コトの成り行き上「あいちトリエンナーレ実行委員会運営会議」ってどんなのかと調べると、今から約 1年半前の「平成 30年 3月 22日(木)」の会議に関する情報が、やはり愛知県のサイトにある(参照)。「今年度 3回目」とされているが、3月のことなので、「平成 29年度の 3回目」ということだろう。年度末になって「3回目」というのだから、ずいぶんのんびりしたペースである。

この回の議題は「あいちトリエンナーレ 2019 の開催概要について」「平成 30年度事業計画及び収支予算について」ということなので、多分、これが実質的なスタートラインになったのだっただろう。ただし開催時間は「午後 1時 30分から午後 2時 10分まで」のたかだか 40分間なので、かなり形式的なものと思われる。主催者側のお約束通りのご挨拶と原案の読み上げをしたら、あとは「シャンシャンシャン」で承認するぐらいの時間しかない。

過去のリリースを見ても毎回この程度の時間なので、突っ込んだ議論など行われるはずもない。実行委員の名簿を見ても、大村秀章知事自身を委員長として、以下、お役人/地元財界/団体代表と学識経験者が選ばれていて、いかにも「無難なメンバー」という感じだ。

というわけで、「芸術監督選考委員会」の「かなり『攻め攻め』の案」を、「実行委員会」が、「まあ、いいんじゃないの、知らんけど」と簡単に承認してしまったものと想像される。その後の企画の進展にしても、あまり関知していなかったんだろうね。そして実際に蓋を開けてからびっくりしてしまったというわけだ。

ただ、「蓋を開けてみてびっくり」とはいえ、そこには公費を使って正式な会議を開いて芸術監督を選任した当事者としての責任というものがある。そこでこの記事を「かなり原則的な一言」で締めようと思う。

それは「実行委員会としては、形式的な会議とはいえ、仮にも正式に依頼した芸術監督の企画なんだから、きちんと全うさせてやるのが当事者責任というものじゃなかったのかなあ」ということだ。

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2019/08/08

「表現の自由」と「自己責任」についてのエクストリームなご意見

Twitter で MASA さんという方が表現の自由ということについてとても共感できる tweet をしておいでで、かなり活発なスレッドになっている (参照)。その中に shunsuke_m さんという方の tweet がある。

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まず、スレッド主の MASA さんの最初の tweet は次のようなものだ。

表現の自由については、イタリアの地震で家屋が崩壊して人が下敷きになった時、仏の雑誌が「ラザニアの具になったイタリア人」の風刺画を掲載した時、「私は表現の自由を尊重する。そしてこの風刺画が最低だと発言する自由が私にもある」と言ったイタリア上院議長が正しいと思います。

けだし名言である。これに対して共感・賛同のレスが多く付いているが、その中に shunsuke_m さんという方の次のような発言がある。

表現するのは自由です。ただその表現の結果あなたがどうなるかは自己責任です。てことでもあるんだけどな。

これに関してはちょっと聞き捨てならないと感じた。自分の表現について自己責任を負うというのは、別に shunsuke_m さんに言われるまでもなく当たり前のことである。ただし「その表現の結果あなたがどうなるかは自己責任です」というのは、エクストリームすぎる見解だ。聞きようによっては脅迫とも受け止められかねない。

そこで私はほんの短く「表現して殺されても自己責任ですか?」というレスを書いた。するとそれに対して「でしょwその覚悟ないなら黙ってなて話ですよ」と、大きなフォントで返事があった。

この段に及んで私は、「ああ、この人と議論しても無駄だな」と思った。放っておこうと思ったが、一応けりをつけるために、次のようなレスを書いた。

ということは、死ぬ覚悟のない者には表現の自由がないと解釈されても仕方がないということですね。あなたの言う『自己責任』において

「その覚悟ないなら黙ってな」と言うのだから、文脈上、「殺される覚悟のない者には表現の自由がない」と言っているものと受け取るのが自然である。あるいはもう少し控えめに言っても、「殺される覚悟のない者にも表現の自由はあるが、その自由を行使せずに黙っていなければならない」ということだ。「行使できない自由」なんて、自由の名に値しないから、結局それは「表現の自由」の否定に変わりはない。

自分の発言にまともに責任を負うには、まず自分で自分が何を言ってるのかをわかっていなければならない。

ちなみに、多くの芸術家は「自分の表現において死ぬ覚悟」ぐらいは持っている。芸術とは本来、そのくらいの厳しさがある。ただ、一般論としてすべての発言者に「死ぬ覚悟」を求めるのは行きすぎだ。スレッドではこの後にもいろいろゴチャゴチャ続きがあるようだが、私はこのレベルの議論にこれ以上関わるほど暇じゃない。 

よって、このスレッドへの書き込みはこれでおしまい。

 

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2019/08/06

「あいちトリエンナーレ」のすったもんだに、敢えてもう一言

「あいちトリエンナーレ」の「慰安婦少女像」についてのすったもんだに関しては、3日前に面白くもなんともない原則的な考えを書かせてもらった(参照)が、世間ではあれからますますすったもんだの度合いを増している。この展示会の実行委員長はほかならぬ大村秀章・愛知県知事のようなのだが、この人が 5日になってから記者会見で、展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らを「憲法違反の疑いが濃厚と思う」と批判した。

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私としても 3日前の記事で "「表現の自由」は最大限に尊重されなければならない" と書いた通り、行政側の人間が展示中止を求めるなんて、あってはならないことと考えている。その意味で、河村たかし名古屋市長にはかなり幻滅だ。

こんなことを書くと、「お前は売国的輩に与するのか」なんて批判されるのがお約束みたいになっているが、そんなことではないというのは、3日前の私の記事を読めばわかるはずだ。わからないとすれば、それはヒステリックになりすぎているからだ。

正直なことを言えば、私だってあの「慰安婦少女像」を見れば多少不愉快な気分になる。それは否定しない。あの作品は芸術的なレベル以上に政治的な観点で話題になりすぎているきらいがあると思う。しかし、だからと言って「展示を中止しろ」などと迫るのは自分として「倫理的敗北」だから、そんなことは決して言わないのである。

展示する側にはそれなりの考えがあるのだから、それは尊重されなければならない。そしてその「展示者側の考え」は、この展示会の芸術監督を務めた津田大介氏によって既にきちんと説明されている。「個々の作品の意味」に加えて、「展示中止に追い込まれた作品の集合」としての、二重の意味を持たせた展示なのである。

問題はその説明を文字通りに受け取る前に、「態度がチャラチャラしている」などという表面的な理由ではねつける側の感情的な反応だ。そこからいろいろな中傷が発生する。津田大介氏のあの一見「チャラい」態度は彼自身のスタイルなのだから、それはそれとして「好き嫌い」を越えて受け止めればいいのだ。

展示を見る者としては、展示者の発信する意図と展示そのものをきちんと受信した上で自分の態度を決めればいい。そのためには、展示が中止されてはならない。受信する前に潰してしまっては、元も子もない。

本日のネット・ニュースには、"74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表" というタイトルの文春オンラインの記事がある。「『慰安婦』少女像の展示に賛成ですか? 反対ですか?」というアンケートを行った結果、「回答者の 74.9%が『反対』と答えた」という内容だ。

私はこのアンケートそのものに、大きな違和感を抱いている。これについては本来、「賛成」も「反対」もないではないか。出品者が展示するというのだから、それはそれとして認めるほかない。認めた上で自分のまともな考えを発信すればいいのである。問われるべきなのはむしろ「展示中止に賛成か反対か」ということだろう。

文春オンラインの記事には「反対」と答えた 40歳女性の次のような意見が紹介されている。

「表現の自由は勿論認められるべきだが、芸術祭なのだから芸術性の欠片も感じられず政治性しか伝わらない表現はお門違い。この慰安婦像に何らかの芸術性は全く感じられないという人が大多数だからこそ問題になっているのでは。そもそもこれのどこが芸術作品なのか説明して欲しい」

「この慰安婦像に何らかの芸術性は全く感じられないという人が大多数だからこそ問題になっているのでは」という言い方は、それこそ私の言うところの「敗北」である。そもそも前衛的芸術作品の多くは、発表当初は「あんなの芸術じゃない」と非難されてきたのである。40歳にもなって「どこが芸術作品なのか説明して欲しい」なんて言うようでは、そもそも芸術には関わらない方がいい。

というわけで、私はこの展示会の参加アーティスト 72人の抗議声明(参照)を、強く支持する。

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2019/08/03

あいちトリエンナーレの「二重、三重の敗北」

HUFFPOST が、「あいちトリエンナーレ」を視察した河村たかし・名古屋市長が「平和の少女像」の展示中止を要請したと、8月 2日付で伝えている(参照)。その結果として、本日限りでの展示中止が決まった (参照)。

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「トリエンナーレ」とはイタリア語で「3年に 1度」という意味だそうで、あちこちに「なんちゃらトリエンナーレ」といういろいろなイベントがあり、「あいちトリエンナーレ」は 2010年から国際芸術展として開催されているらしい。ちなみに「2年に 1度」の「ビエンナーレ」ってのもあるよね。

今回のすったもんだは「表現の不自由展・その後」という企画展の一環として「平和の少女像」が展示されたことに端を発している。この像に関しては Wikipedia の「慰安婦像」という項目に詳しく述べられていて、世界各地にいろいろなバージョンが設置されて、論議を呼んでいるようだ。それが今回の「表現の不自由展・その後」につながったわけで、趣旨が趣旨だけにいろいろややこしいことになっている。

この企画のタイトルの「その後」というのは、2015年に東京練馬区のギャラリーで開催された「表現の不自由展」を受けたものとの意味が込められているらしい。

この展示会は、芸術展での展示が中止になったり、雑誌などへの掲載を拒否されたりして「消された」作品を集めたものだった。そしてその「消された理由」は、「美術館などが抗議や嫌がらせにおびえて『自主的に』取りやめた」というのが多いという。

最近の京アニ放火事件のような例もあるので、「安全確保」の意味から「消された」というより、主催者自らが「取り下げた」という例が増えているのだろう。まさに「表現の不自由」とは複雑な問題である。

個人的には、「表現の自由」は最大限に尊重されなければならないと思っている。たとえ不愉快な表現があったとしても、それを「消してしまう」のではなく、「批判と議論」によって深い意味を探る契機にすべきだと思う。それが嫌だというなら、無視するほかない。

問題は「無視するだけじゃ、けったくそ悪い」という心理で、そこから「中傷/嫌がらせ/脅迫」みたいなことにつながってしまう。私としてはそんなことをするのは実は「敗北」に他ならないと思ってしまうのだが、「まっとうな批判と議論」というのは難易度が高いので、現実は安易な「中傷/嫌がらせ/脅迫」の方に走りがちだ。

そこで主催者側も「自主的に展示中止」ということになってしまうのだが、これではお互いに「敗北」だ。じゃあ、この「敗北」に対する「勝利」ってどんなことなんだと問われそうだが、こうした問題に関して「勝利」なんてなかろう。ただ「当たり前」があるのみだ。

この「当たり前」ができなかったという意味で、今回は明らかな「敗北」なのである。さらに今回の「あいちトリエンナーレ」の展示中止は、「行政の関与」で決定されたということもあるので、「二重、三重の敗北」として象徴的に示されていると思う。

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2019/01/20

『ぐりとぐら』 って、御伽草子のオマージュだったんだね

「来年のことを言うと鬼が笑う」 と言われるが、我ながら気の早いことに、「来年は子年だから、ざっと年賀状用ネズミの画像の目星を付けとくか」 なんていう気になって、ちょっと画像検索してみたところ、おもしろいものが見つかった。子年になるのはずっと先だが、出し惜しみをせずにここで公開してしまおう。

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「ネズミ 浮世絵」 のキーワードで画像検索をかけたところ、上に掲げた画像の上半分にある 『野鼠の草紙』 (「氏」 の下に 「巾」 と書くのは、「紙」 の異体字) というのが見つかった (参照)。一見してどこかで見たことがあると思ったら、そう、あの名作絵本 『ぐりとぐら』 の表紙とそっくりだったのである。

『野鼠の草紙』 というのは、「洞田創研究室 (Hajime Toda Laboratory)」 というブログ・サイトの 2014年 8月 1日付の記事で紹介されているので、説明を少し引用させていただく。

今回ご紹介するのは、明治二年に刊行された 『野鼠の草紙 (ノネズミノソウシ)』 である。これは、合巻形式の草双紙であるが、文明開化の影響か、紙を横長に使った点に特徴がある。 なお、この 『野鼠の草紙』 の内容は 「根津の国のかくれ里に住む山鼠、小栗忠衛門と小倉屋忠吉が森で卵を見つけて “かすていら” を造る」 というたわいのないものであったが、それゆえに年少の子供に大評判となり、多くの続編が出たという。

『野鼠の草紙』 というのは、明治 2年の刊行のようだが、現代の 『ぐりとぐら』 の方も、森の中で大きな卵を見つけ、それで大きな 「カステラ」 を作ったというストーリーが、まったく共通している。急にタイムトンネルを潜ったような気持ちになってしまうじゃないか。

室町時代から連綿と連なる古典文化の 『御伽草子』 の一環として 『鼠草子』 というものがある。それは 「日本文化と今をつなぐ。Japaaan」 というサイトの "御伽草子 「鼠草子」 はネズミをとことん擬人化させた室町時代の物語" という項でばっちりと紹介されている

ということは、『ぐりとぐら』 って、『御伽草子』、とくに 『鼠草紙』 へのオマージュとして書かれたという意味合いもあったわけだね。世の中、よく調べてみるとなかなかおもしろい。

【1月 21日追記】

下のコメントをご覧になっていただけばおわかりのように、これはすっかり騙されてしまったようだ。

『野鼠の草紙』 の 「の」 の字が、完全に今のフォントであることに 「???」 という気はしていたのだが、そこにもっとこだわればよかったなあ。

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2019/01/18

日本での Subway 不振に見る 「文化の違い」

近所のショッピング・センター内で買い物しながら軽く昼食にしようとフード・コートに立ち寄ると、Subway がクローズしているのに気付いた。たまたま休業の日に当たったのかと思ったが、よく見ると 「事情により営業を中止」 という貼り紙がしてある。

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何となく様子が尋常じゃないので iPhone で検索してみると、Subway の FC 店運営会社が破産してしまったという記事が見つかった。破産宣告の前から、続々と店舗が閉鎖されているらしい (参照)。 いやはや、そんなこととは全然知らなかったよ。

上述の記事によると、日本の Subway 不振の要因としては、価格の高さ、商品提供の遅さ、注文の難しさ、店舗の老朽化が挙げられている。ただ、最近ではショッピング・センターのフード・コートでの展開が増えているので、「店舗の老朽化」 は決定的なものじゃないだろう。個人的には Subway の価格は言うほど高くないと思うが、「商品提供の遅さ、注文の難しさ」 というのは、案外大きいかもしれない。

昼食をファーストフードであっさり済ませようという日本人の多くは、一言二言で簡単に注文するか、あるいは自動販売機でチケットを買って、サクッと商品を受け取り、後は黙々と食ってしまいたいというニーズなのかもしれない。そこへ行くとパンの種類とその中身、野菜の量、ドレッシングに至るまで多くのチョイスの中から好きな組み合わせを店員に口頭で伝えるという Subway 方式は、かなり異質だ。

讃岐うどんチェーンでも多くのチョイスはあるが、トッピングを無言でチョイスして自分で皿に取り、最後に支払いをする。ところが Subway では 「キャベツは多めにね」 とか 「パセリは要らない」 とか、口頭で細かな好みを伝えるうちに、自分なりのオーダーを確定していくというプロセスを辿る。この辺りの 「ハイタッチ (下の注参照) な多様性尊重」 が、「おまかせ文化」 の日本人にはうっとうしく感じられてしまうのかも知れないね。

日本での Subway の不振というのは、こうした 「文化の違い」 によるところが大きいと思う。ただ、Subuway の店頭に自動販売機が置かれ、チケットで注文を決めちゃうなんてことになったりしたら興醒めだ。それで馴染んじゃうと、米国の Subway では注文できなくなっちゃうなんてことになるだろうしね。

【注】
「ハイタッチ」 は両手を挙げた者同士で 「ポン」 とやることだと思われているが、これは和製英語で、本来の英語の "high touch" の意味は、「人間的な触れ合い、感性を大切にする」 ということに近い。その対極が "high tech" (ハイテク)。

これはちょっと冗談ぽい話だが、私は約 7年前の "「ハートアタックグリル」 という命がけのジャンク" という記事に、ニューヨークの Subway での様子を次のように書いている。

日本でもおなじみのチェーン、Subway でサブマリンスタイルのサンドイッチを注文する時、「ハーフサイズ」 (日本の Subway では基本の大きさ) と言うと、カウンターのおねえちゃんがびっくりして目を見開き、"Really?" (本当にそれでいいの?) なんて聞いてくる。

余計なお世話だと思ったが、見ていると、スキニーな若い女の子でも、倍の 「ワンフット・サイズ」 に、じゅるじゅるの肉をはち切れんばかりにはさみこんだやつを、当然の如く注文しているので、"Really?" と聞きたくなるのももっともな話かもしれないと、妙に納得してしまったりする。

日本では Subway の店員が 「本当にそれでいいの?」 なんてフレンドリーに聞いてくるってことは、決してないよね。

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2018/12/29

「世界一の映画館」 という映画が上映される

昨日の毎日新聞夕刊の "「世界一の映画館」 上映" という見出しを見て、思わず 「ヒャッホー!」 と声を上げてしまったよ。私の故郷、山形県酒田市にあった映画館 「グリーンハウス」 をテーマとしたドキュメンタリー映画が、全国で上映されるというのである。(下の写真をクリックすると、記事全体が拡大補表示される)

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グリーンハウスという洋画専門 (ほんのたまに、珠玉の邦画も公開されたが) の映画館は、中心街の 1774棟を焼失させた 「酒田大火」 (1976年) の火元になったということもあり、その後はあまり大きな声で語られることはなかったが、私にとってはとてつもなく大きな存在だった。なにしろ高校時代は週に一度以上の頻度で (定期試験の前夜だろうがなんだろうが) 入り浸っていて、私の 「センス」 形成に大きな影響を与えた存在だったのである。

このグリーンハウスで特筆すべきは、「シネサロン」 という定員 14名のミニ・シアターである。大量動員は見込めないが、映画好きなら絶対に見逃せないという 「コアな作品」 を選んで上映する趣旨で、今の私のセンスが形成されたのは、この小さな空間のおかげといっていい。このことについては一昨年 2月に 「懐かしのシネサロン」 というタイトルで書いているので、ここでは敢えて繰り返さないけどね。

映画評論家の故・淀川長治さんはこのグリーンハウスを 「世界一の映画館」 と評していたという。本当に世界一だったかどうかは知らないが、淀長さんがそう言ったのだから、まんざら出鱈目でもなかろう。私はその 「世界一の映画館」 に入り浸っていたというだけで、かなりの幸せ者である。

私のセンスがかなりバタ臭くなったのは、このグリーンハウスで見た数々の洋画のおかげに違いない。そのくせ修士論文で歌舞伎をテーマとしちゃったこともあり、以後ずっと和洋二本立てで生きてきている。

ちなみにこの毎日新聞の記事には淀川長治さんと大杉漣さんの顔写真が載っている。淀長さんが亡くなたのはかなり前だが、大杉漣さんは今年初めに急逝してしまった。というわけで、この毎日新聞の記事は、「今は亡き三本立て」 である。

せめて急には死にそうにない私が、時々話題にして語り継がなければならないような気がしている。というわけで、下の画像をクリックすると、予告編の見られるページに飛ぶ。それにしてもこのストーリーに登場する人には 「佐藤さん」 という苗字が多いなあ。

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【12月 30日 追記】

上の本文で 「定期試験の前夜だろうがなんだろうが」 と書いているが、それについて、14年前に書いた記事が見つかった。(下の URL をクリック)

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2004/09/post_14.html

あの伝説の記録映画 『ウッドストック』 を見た時のことで、この記事にある 「地元の映画館」 というのが、何を隠そう、このグリーンハウスだったのである。

 

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2018/11/04

「誰かの弾くギターに合わせて、すぐにハモって歌い出せる」 世代

7年半以上前、ってことは、あの東日本大震災の前ということだが、「SMAP がハモらないのは」 という記事を書いた。その SMAP も今は解散してしまっているので、ずいぶん昔の話だが、この中で触れられている内容は、今でも古くなっていない。それは、東アジアには 「ハモって歌う」 という文化が根付いていないということだ。

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この記事の冒頭を以下に引用してみよう。

だいぶ前のことだが、森山直太朗がラジオにゲストとして出演しておもしろいことを言っていた。「母の世代は、どうして集まるとすぐ車座になるんだろう。そして、どうして誰かの弾くギターに合わせて、すぐにハモって歌い出せるんだろう」 と、子供の頃から不思議に思っていたというのである。

そして彼はずっと、「自分の世代には、車座になってハモって歌える歌がない」 と感じてきたのだそうだ。ふぅん、そうなのか。そうなのかも知れない。私の世代にとっては、集まってみんなで歌い出すのは案外自然なことで、しかも複数の人間が集まって歌うのにハモらなかったら、何だか損をしているような気さえしてしまうんだがなあ。

この記事の中で私は、「代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン」 というのが、日本のアイドル・グループの定番スタイルのようだとしている。さらにこれは韓国の場合でも同様のようで、つまり、東アジアでは 「ハモって歌う」 という文化がないということのようなのだ。

そして最近、私はこの 「代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン」 というスタイルが、とくにアイドル・グループの専売特許というわけじゃなく、ずっと昔からごく当たり前に踏襲されてきた 「伝統的スタイル」 なのだと知った。というのは、いわゆる 「デュエット・ソング」 というものを聞き、「これこそまさに、『代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン』 の決定的スタイル!」 と気付いたからである。

同窓会の二次会などでカラオケに繰り出すと、必ず誰かがペアになって、 『銀座の恋の物語』 なんてのをご機嫌で歌い始める。申し訳ないがはっきり言って、私としてはこのタイプの曲は 「違和感の塊」 でしかないし、従って、団塊の世代以前のアイドル扱いとなっている石原裕次郎という人についても 「古い時代の人」 と思うばかりで、まったく思い入れがない。

とにかく、こうしたタイプの、典型的な 「代わりばんこにソロ取って、サビはユニゾン」 というスタイルは、「気持ち悪くて仕方がない」 のである。というわけで、今のアイドル・グループの曲にしても同様に 「気持ち悪さ」 が先に立ってしまうのだ。

いみじくも森山直太朗が言っているように、「誰かの弾くギターに合わせて、すぐにハモって歌い出せる」 という私の世代は、日本の音楽文化においてはちょっと異端的な位置付けにあるのかもしれない。

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