4県で「四国」なのに、7県で「九州」とは?
子どもの頃、「4県で『四国』なのに 7県で『九州』というのは、どうしてなんだろう?」と不思議に思っていた。
長ずるに及んで、明治以前の九州は「筑前国」「筑後国」「豊前国」「豊後国」「肥前国」「肥後国」「日向国」「薩摩国」「大隅国」という九つの国があったので、「九州」というのだと理解できた。
一方の四国は「阿波国」「讃岐国」「伊予国」「土佐国」がほぼそのまま、徳島県、香川県、愛媛県、高知県になったのでわかりやすい。九州の場合は「筑前国」と「筑後国」で福岡県、「薩摩国」と「大隅国」で鹿児島県になったのに、「肥前国」は佐賀県と長崎県に分かれていて、ちょっとややこしい。
もっとも奈良時代以前は、次の 4つの国しかなかったので、ずっとそのままだったら、「四国」と「四州」になるところだった。
- 「筑紫国」(後に「筑前」と「筑後」に分かれた)
- 「豊国」 (同様に「豊前」と「豊後」に)
- 「火国」 (同様に「肥前」と「肥後」に)
- 「日向国」(同様に「日向」「大隅」「薩摩」に)
国が分割される時は、都に近い方に「前」、遠い方に「後」という字が付けられた。上の地図を見れば、その原則がしっかり適用されているのがわかる。ちなみに「吉備国」(今の岡山から広島東部)なんかは「備前」「備中」「備後」の 3つに別れている。
さらに細かいことを言うと、昔は対馬が「対馬国」、壱岐島が「壱岐国」という国で、それぞれ今は長崎県と鹿児島県に属しているのだから、それを入れれば「十一州」と言ってもよかったような気がする。ただ、昔から「九州」というのはこの二つの国を含まずに、「メインランド九州」だけだったのだね。
日本の西の方はこうして結構細かく分けられていたわけなのだが、東北ともなると人もまばらな「最果て」だったから、昔は 2つの国しかなかった。日本海側の「出羽国」と、太平洋側の「陸奥国」だけである。それ以上分けても意味がなかったのだろう。
それが分けられたのはなんと明治元年で、「出羽国」が「羽前」と「羽後」に、「陸奥国」が「岩代」「磐城」「陸前」「陸中」「陸奥」になった。太平洋側は 5つに分けられたのだが、日本海側なんてここに至っても 2つに分けさえすればいいということだったようだ。
その後は明治 4年の「廃藩置県」で東北六県になったわけだが、「羽後国」出身の私の性格がかなり大雑把なのは、この辺りに由来しているのかもしれない。
最近のコメント