カテゴリー「LGBT」の23件の記事

2023年10月 1日

同性婚を巡る「スティグマ」というもの

HUFFPOT に ”国が「スティグマ」を社会に根付かせている。結婚の平等裁判で原告が訴え「景色を変えたい」” という記事がある。結婚の平等、つまり同性婚の法制化を求めて国を訴えている裁判と連動して、同性カップルとその支持者たちが社会にアピールする活動を続けているというものだ。

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この記事で私が注目したのは、見出しにもなっている「スティグマ」という言葉だ。一般的な辞書では「恥辱。汚名。負の印。名折れ。烙印 (らくいん) 」などと説明されているが「非営利用語辞典」というネット上の辞書には、次のように解説されており、言葉そのものの背景やイメージが伝わってくる(参照)。

本来の語義は、ギリシャ語で、奴隷や犯罪者の身体に刻印された「しるし」を意味し、恥辱、汚名、烙印を意味する。身体上の障害や人種・民族・宗教などの集団的特性など、ほかと異なっているがために望ましくないとみなされることを意味して使われている。Goffman, E.(ゴッフマン)は、個人が社会の一員として受けるべき尊敬が否定され、その社会から受け入れ(られ)ない状態のこととしている。

私が若かった 1970年代頃には結婚や婚姻制度に関して、「社会的因習」とする風潮もあったものだ。しかしその「因習」からさえ受け入れを拒否されるほどの「より根深い因習的イメージ」というのが、LGBT には付きまとっている。

こうしてみると、この問題においては「スティグマ」という言葉を使うのがふさわしいとわかってくる。つまり「奴隷や犯罪者」を見るのと同じような視線を同性愛者に送る人が、今でも存在するということだ。

下手すると、同性愛者ってジャニー喜多川みたいな人ばっかりなんて思ってる人もいる。その意味でもあの人のやったことというのは社会に悪影響を与えていて本当に困ったものだが、我々は困った人なら異性愛者にだっていくらでもいるということを思い出さなければならない。

というわけで、今日の記事は要するに、LGBT 関連のスティグマから解放されなければならないということだ。既に解放されている人はほとんど問題ないのだが、根深いスティグマでしかものを見られない人の場合は、なかなか簡単にはいかない。

「個人的に、そういうの嫌い」というなら、それはもう仕方がない。「好きになれ」とまでは強制できないからだ。ただ少なくともそうした否定的言辞をことさらに撒き散らすべきではない。

荒井勝喜という男が総理大臣秘書官をしていた時の「(LGBTは)見るのも嫌だ。隣に住んでいたらやっぱり嫌だ」という発言(参照)や、「同性婚が気持ち悪いと言って何が悪い」という渡辺昇という愛知県会議員 の発言(参照)などは、とんでもないということである。人間の尊厳を否定したものだ。

とはいえ今年 2月 6日の記事で触れたように、同性婚に強硬に反対していたニュージーランドの国会議員が、自身の息子にゲイであることを告白されたのをきっかけに、それまでの過ちを認めて謝罪したというケースもある。

人間というもの、どんなに強い思い込みをもっていても、きっかけ次第でそこから解放されることがある。日本でも同性婚法制化をあきらめてはいけない。

 

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2023年5月 3日

"LGBT" と「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」の差

私はかなり前から ”LGBT” の問題について書いており、今年になってからだけでも 7本も書いている(参照)。ただ、これとビミョーにゴッチャになりそうなテーマに「クロス・ジェンダー(あるいは X ジェンダー)」というのがある。

この関連で私は、「クロス・ジェンダー・パフォーマンス(あるいは XGP)」というテーマで過去に何本か書いている。きっかけは 2008年 12月 13日に書いた ”五木ひろし版 「テネシーワルツ」 のチョンボ ” という記事だった。内容はここでは説明しきれないので、リンク先に飛んで読んでいただきたい。

XGP というのは、要するに日本の「艶歌」とか「ムード歌謡」とか呼ばれるジャンルによくある「男が女の立場で、女言葉で歌う」(逆パターンもあるが)みたいなやつだ。これ、私の知る限りでは欧米の歌の世界ではほとんどない。もしこんなことしたら、「趣味の悪過ぎるジョーク」扱いにされるだろう。

そしてふと気付けば、日本維新の会公認で立候補して当選し、今や国会議員にまで上り詰めてしまった、かの中条きよしという人の歌にも、この「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」というのがやたら多いのだ。最大のヒット曲であるらしい「うそ」という歌はその代表格である。何しろこんな歌詞だ。

折れた煙草の吸いがらで
あなたの嘘がわかるのよ
誰かいい女(ひと)出来たのね 出来たのね

国際標準(と言っていいかわからないが)的には、男がこんな歌をマジで歌ったらゲイと思われるだろうが、どうしてどうして、近頃の中条きよし先生本人は、どこから見ても「オッサンそのもの」である。

で、こうしたタイプの「ムード歌謡」をいかにも好みそうな、少なからぬ自民党の保守的なオッサン連中は、「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」に関しては「当たり前」と思っていても、"LGBT" にはかなり偏見があるみたいなのだ。このあたり、私にはよくわからんことなのである。

というのは、私は「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」は「気持ち悪いじゃん!」と思ってしまうが、"LGBT" の人たちとはごくフツーに付き合えるのだ。

どうやら、「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」と "LGBT" というのは、表面的には共通点があるように見えても、その本質は全然別のようなのである。というのは、「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」で歌われる「女」というのは、「男にとってとても都合のいい存在」のように思えるのである。

もっとはっきり言えば、女という存在を、一旦オッサンにとって都合のいい存在にまで落とし込み、その歪んだプロセスを通して「かなりお水っぽい形での美化」を実現させているのである。これでは "LGBT" と重ねて論ずることなんて、とてもできない。

そもそも突き詰めて考えれば、日本文化は本来 ”LGBT” 的な側面を色濃く宿して発展してきた。こちら とか こちら を参照していただければ、さほど抵抗なく理解できるだろうと思う。

ところが前世紀頃から「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」的な価値感がオッサンたちに支持されてしまうという妙な変形を遂げたために、おかしくなってしまったようなのである。「男が男にとって都合のいい女の立場で歌う」ことは OK でも、”LGBT” は NG ということになってしまったのだ。

ちなみに 2021年 3月 23日付の "『夜明けの歌』と、クロス・ジェンダー・パフォーマンス" という記事でも触れたように、美川憲一が『夜明けの歌』を「夜明けの歌よ アタシの心に・・・」と歌うのは、XGP ではなく、むしろ「自然なこと」と思えて気持ち悪くもなんともない(参照

ということなので、このあたりは、どうぞ

Yoroshiku4

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2023年3月 5日

同性婚を認めない人たちのもつ「危機感」らしきもの

BBC NEWS JAPAN の 3月 3日付に "岸田首相、同性婚を認めないのは「国による不当な差別ではない」と発言し批判される" という記事がある。既に知られたことだが、日本は主要 7カ国(G7)で唯一、同性婚を認めていない国であり、この問題に関する保守派の発言にはかなりメチャクチャ感がある。

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保守派が同性婚を認めたがらないのは、彼らの「結婚」というもののコンセプトが「男性と女性が一緒になること」という固定観念の外に一歩も踏み出せないことによるだろう。「だって、結婚って、男と女のするもので、それ以外にないじゃないか!」と言うほかできないのである。

しかし今や、世界の趨勢は同性婚を認める方向に進んでいるのだから、このコンセプトは既に崩壊している。同性同士のカップルで法的に認められた「家族」という単位をつくることが認められないないのが「差別」であるということは、常識となりつつあるのだ。

同性婚を認めても異性愛者の権利が蹂躙されるわけでも、利益が損なわれるわけでも何でもない。彼らは彼らの価値感に従って、異性同士で結婚すればいいだけのことだ。しかし保守派はどうしてもそれが理解できないようなのである。

問題は、保守派にとって「結婚」というもののコンセプトを更新することは、彼らの価値感すべてが否定されてしまうと感じられているらしいことだ。同性婚を認めてしまうと、自分たちの依って経つ基盤が崩壊してしまうというような「勝手な危機感」を抱いているみたいなのである。

だから彼らは、この問題に関してヒステリックにならざるを得ない。いくら冷静に理を尽くして説明しても、彼らには理解できないのだ。同性婚容認派が日本国民の過半数となっているにも関わらず、こればかりはどうしようもない。

こうなったら頭の柔軟な人たちに政権を担ってもらうしかないのだが、日本の選挙における投票率を考えると、それも難しいんだろうなあ。やれやれである。

 

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2023年2月12日

校則で「男女交際」は禁止しても LGBT なら OK ?

2月 8日付の ”雪が降っても「ジャンパー着るな」の指導に呆れた” という記事に、らむね さんがおもしろいコメントを寄せてくれている。さすが教育関係に詳しいだけのことはある。

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彼は校則を教員にも適用するように一度検討すると、ヘンテコさがわかると言う。

全ての教員は「”職務に集中するため”、防寒着を着てはいけない・下着は白とする・スーツワイシャツネクタイ以外認めない・靴下は三つ折りにせよ・男女交際禁止」とかね。明らかにおかしいでしょ。

この鋭い指摘に、私は「そりゃ、名案ですね。 とくに『男女交際禁止』というのが際立ちます」とレスを書かせてもらった。実際、堀越学園の女子生徒が「男女交際」を理由に自主退学に追い込まれたことが、昨年ネットで話題になっていたしね(参照)。

ちなみに今回の広島の中学校の問題で「かなりキテるなあ」と思ったのは、記事本文の次の点である。

この学校の校則には、寒い時のセーターやマフラー、手袋などは記載されているが、ジャンパーやコートは記載されていないので、学校側は「認めていない」ということのようなのだ

つまり「校則で明文化されているモノ・コト」は問題なく認めるが、「明文化されていないモノ・コト」となると、「たとえ世の中にはフツーにあっても、学校においてはあってはならない」というのである。

これ、文字通りに受け取って、それを一度ひっくり返すしてみるとおもしろい。「禁止項目」として明文化されていないことは、「やっても OK」ということになる。

ということは、「男女交際」は禁止でも、LGBT は校則で禁止されていないから OK ということになる。つまり堀越学園でも「男女交際は校則違反だから自主退学勧告」ということになっても、「LGBT は校則違反というわけじゃないから、ノー・プロブレム」ってことだ。

全国の中学・高校の同性愛者は、堂々と交際しても、少なくとも「校則違反」として問題とされることはないわけだ。「男女交際禁止」を謳っても、「同性交際禁止」なんて校則のある学校はないだろうからね。

この論理が「おかしい」というなら、「男女交際禁止」を初めとする数々の妙な校則も、そもそもおかしいってことに気付かなければならない。

さらに「おかしい」ということで言えば、件の堀越学園の女子生徒が交際していたのは「同じ学年の男子生徒」とされている(参照)が、この男子生徒の方が「自主退学勧告」されたという報道はついぞ見つからなかった。

もし女子生徒だけが退学に追い込まれていたのだとしたら、とんでもない大問題のはずなのだが、ニュースはこの点にはまったく触れていない。実際はどうだったんだろう?

 

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2023年2月 7日

LGBT について「差別発言」する人の考え違い

このところ集中的に LGBT に関して論じたことで、「差別」ということについて考えさせられてしまった。例の「顔を見るのも嫌」発言で更迭された元首相秘書官のニュースは、概ね「差別発言」というトーンで報じられている(参照)ようだが、私としてはむしろ「馬鹿発言」と言いたい気がしている。

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見識のある LGBT の方々の間でも、「差別された」と感じるより、むしろ「今どき、どうしようもなく馬鹿な奴がいるな」と呆れてしまった向きが多いんじゃなかろうか。軽はずみな発言というのは、発した者と受け取った者の意識の違いによって高圧的になったり愚かになったりしてしまう。

私の好きな東京カリントのラジオ CM に次のようなものがある(参照)。

(大阪アクセントで)「東京カリントは、大阪で食べても東京カリントと言うんですか?」
(東京アクセントで)「はぁい、東京カリントは大阪で食べても、東京カリントと、言うんですねぇ!」

これ、「大阪で食べても」だからいいのである。あるいは京都でも、札幌でも博多でもいいだろう。しかしもし、「東京カリントは、北千住で食べても東京カリントと言うんですか」なんて言ったら、ことはちょっとややこしくなる。(変な話になってしまって、東京カリントさん、ごめんなさい)

これって、ブラック・ジョークのつもりで言ったとしても、北千住の人は怒ってしまいかねない。つまりビミョーな話なのだ。

翻って今回の元首相秘書官発言は、「大阪や北千住で東京カリントを食べるのは問題だ」と言ってしまったようなもので、それで周囲から「はあ?」と呆れられてしまったわけだ。これぞ、私が「馬鹿発言」と言いたい所以である。

銀座で食べようが、大阪で食べようが、北千住だろうが、つくばだろうが、東京カリントはおいしい。そして世の中の多数派である異性愛者だろうが少数派の LGBT だろうが、素敵な人は素敵なのだ。今どきはローマ教皇も同性愛者に「神の子」として理解を示している(参照)。

まあ、中には東京カリントが嫌いな人もいないではないだろうが、それならそれで食べなければいいだけの話である。記者たちに向かって「見るのも嫌」なんて言う必要はさらさらない。

 

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2023年2月 6日

当ブログの LGBT に関する "coincidence"

2月 3日付の「同性婚を認めても、別に不利益を被るわけじゃない」という記事に、山姥さんが「子供らがどういう性自認、性的指向を持つのか(持っているのか)は分かりませんが、素敵な人と出会い共に歩んでいって欲しいものです」というコメントを残してくれた。これには共感する人が多いだろう。

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このコメントに私は、次のような返信をした。

子どもの幸せを祈るなら、性的指向がどうのこうのとは言えませんよね。
例の総理秘書官には、「自分の子が LGBT だったら、顔を見るのも嫌になるのか?」と聞いてみたいものです。

「例の総理秘書官」というのは、その翌日付の「総理秘書官は、 LGBT を「見るのも嫌」だそうで」という記事で批判した荒井勝喜という元秘書官(さっそく更迭されたので)のことである。

そしてこのレスを書いた直後に何気なく HUFFPOST を覗いてみたところ、「NZ 国会議員が同性婚反対したことを謝罪していた」という記事が見つかった。"同性婚に反対した議員「ゲイと告白した息子に約束した」。過ち認め謝罪するニュージーランドでの演説が話題に" というものである。

そもそも 3日付の記事自体が、先月 28日の一人で静かに気持ち悪がるだけなら、お前の勝手だが」という同性婚に関する記事への回答みたいなものだった。そして今回の山姥さんへのレスへの真っ正面からの回答が、またしてもニュージーランドの国会演説にあったのだから驚きだ。

こういうのって、英語で "coincidence" という。英和辞書的には「偶然の一致」とか「同時発生/同所共存」とかいう意味だが、もうちょっと深いニュアンスがあるだろう。「神の思し召し」とまではあからさまに言及されないが、それに近い感覚があると思う。

というわけで、"coincidence" も同じテーマで 2度も続いてしまうと、これはもう、コメントへのレスだけで済ませず、ちゃんした記事にして書かないわけにいかないという気がしてしまったわけだ。なにしろ「思し召し」っぽいからね。

荒井元秘書官の息子は、ワセダの卒業式の夜に酔っ払って不祥事を起こしてしまったらしいが、性的指向については不明である。その息子がもしゲイだったりしたら、荒井元秘書官は「顔を見るのも嫌だ」なんて言えるだろうか? 「親子の縁もこれっきりだ!」なんて言っちゃうのだろうか?

これは荒井元秘書官に限らない。あちこちで散々「アンチ LGBT」的発言をしている人たちは、「ウチの子は絶対に LGBT じゃない」なんて確信を持って言えるのだろうか? 仮に自分の息子や娘、あるいは孫が LGBT ということがわかったとしたら、彼らはどう反応するつもりだろうか。

こうした可能性について思いを巡らせてしまったら、これはもう、迂闊に感情的な発言なんてできるもんじゃないよね。この方面の多様性を素直に認めておけば全然問題じゃないのに。

というわけで、「LGBT」というのは現代の重要テーマになっているという認識に至ったので、このほど当ブログの重要なカテゴリーの一つとして登録させてもらった(参照)。そのあたり、どうぞ

Yoroshiku4

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2023年2月 4日

総理秘書官は、 LGBT を「見るのも嫌」だそうで

荒井勝喜という総理大臣秘書官が、LGBT について「見るのも嫌だ。隣に住んでいたらやっぱり嫌だ」と発言したと、NHK が伝えている(参照)。さすがに撤回謝罪したというが、「よく言うよ」ってなものだ。

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私は昨日付の「同性婚を認めても、別に不利益を被るわけじゃない 」という記事の末尾で次のように書いた。

これに反対する人って、隣に円満なゲイカップルが暮らしているという状況には我慢できないのだろうか。仲が悪くていつも怒鳴り合いの夫婦喧嘩をしているカップルがいても、きっと我慢するのだろうに。

これを書いた時点では、まさかその日のうちに総理大臣秘書官から、それに対する正面切ってのヤバすぎる回答が出てくるとは思ってもいなかったので、驚いてしまった。これには先月 28日付の「一人で静かに気持ち悪がるだけなら、お前の勝手だが」という記事を突きつけるほかない。

この 28日付の記事では、「同性婚が気持ち悪いと言って何が悪い」と発言した渡辺昇という愛知県会議員について、「ちょっと気持ち悪い顔つきの野郎だな」と書いた。売り言葉に買い言葉というやつである。

ここまで来たら今回の主役となった荒井秘書官に対しても、「そんなことを言うやつの顔は見るのも嫌だ」と言わせていただく。ついでに言えば、電車で隣の席に座られるのも嫌だ。この男の顔の気持ち悪さに関しては、前述の渡辺昇議員以上のものがあるからね。(下の写真は文春オンラインより)

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この男、私と同じくワセダ出身だというから嫌になる。さらにこいつの息子もワセダで、卒業式の夜に酔っ払って不祥事を起こしているというじゃないか(参照)。

彼は文春の取材に応えて「息子は身体が大きくて人相も悪いもので・・・」と言っているが、人相の悪さは親父譲りなのだろう。

 

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2023年2月 3日

同性婚を認めても、別に不利益を被るわけじゃない

HUFFPOST に"「同性婚を認めても、関係ない人にはただ今まで通りの人生が続くだけ」。ニュージーランド元議員のスピーチに注目集まる" と言う記事がある。内容を読む以前に、見出しを見ただけで「そりゃ、まったくその通りだよね」と思うばかりだ。

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このニュース、HUFFPOST では 今年 2月 2日付として取り上げられているが、Morris Williamson 氏がこの演説を行ったのは、10年も遡る 2013年に、同性婚を認める法案の最終審議と採決の際に行ったものだという。彼が進んでいたのか、世間が今でも遅れているのか、どちらも言えそうな話である。

HUFFPOST の記事には同氏の演説の翻訳が全文紹介されているが、要点は次の発言に尽きるだろう。

今、私たちがやろうとしていることは「愛し合う二人の結婚を認めよう」。ただそれだけです。

明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今まで通りの人生が続くだけです。

このブログでも先月 28日付の「一人で静かに気持ち悪がるだけなら、お前の勝手だが」という同性婚に関する記事の告知 tweet がかなりリツイートされた。「同性婚が気持ち悪い」という人は、一人で静かに気持ち悪がっていればいいという話である。

たとえ「気持ち悪い」と思っても、それをことさら声高に吹聴したり反対したりする必要はない。なぜなら、同性婚が認められても別に気にしなければいいだけの話だからだ。別に「お前も同性婚に賛成しろ」と強制する法律じゃないんだしね。

これに反対する人って、隣に円満なゲイカップルが暮らしているという状況には我慢できないのだろうか。仲が悪くていつも怒鳴り合いの夫婦喧嘩をしているカップルがいても、きっと我慢するのだろうに。

 

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2023年1月28日

一人で静かに気持ち悪がるだけなら、お前の勝手だが

Buzz Feed に "「同性婚が気持ち悪いと言って何が悪い」SNS の差別投稿で謝罪の愛知県議 → また差別コメントを投稿" という記事がある。こんなナンセンス発言を繰り返しているのは、愛知県の渡辺昇という県会議員である。

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問題の事実は、端的には記事の冒頭で以下のように紹介されている通り。

昨年10月、「同性結婚なんて気持ち悪いことは大反対!」と SNS に書き込み、謝罪した愛知県議が 1月 24日、再び SNS に「同性婚が気持ち悪いと言って何がいけないんですか」などと書き込んでいたことがわかった。

これには「一人で静かに気持ち悪がるだけなら、そりゃお前の勝手だが、それを県会議員の看板背負ってことさらに SNS に書き込むというのは、やっちゃいけないことだよ」と言うほかない。それって、あまりにも思いやりに欠ける所業だ。

たとえば私は上に掲げたこの議員の顔写真を見て、正直なところ「ちょっと気持ち悪い顔つきの野郎だな」という印象を抱いた。こうしたことはフツーだったら絶対に口外しないが、今回はまあ、話の行きがかり上で敢えて書いてしまう。

エイブラハム・リンカーンは「40歳過ぎたら自分の顔に責任をもたなければならない」と言ったと伝えられる。そしてこの渡辺昇という議員は 1968年 11月 ⒏日生まれ(参照)というから、現在 54歳だ。ということは、自分の顔にしっかり責任持たなければならないという考え方もできるわけだ。

ただそれはそれとして、通常の場面では「お前は気落ち悪い顔つきだ」なんて正面切って言うのは失礼だろう。私だってこんなことは行きがかり上とはいえ、今回初めて書いた。

というわけで、「自分の責任」とも考えられる「顔つき」についてさえ「気持ち悪い」なんて言わないのが一応の礼儀ということになっているのに、「自分の責任」とは言えない LGBT 的な資質関連のことで「気持ち悪い」なんてことさらに公言するのは、やっぱりどうかしてる。

それからもう一つの問題は、この渡辺昇という議員、「同性婚が気持ち悪いと言って何がいけないんですか。世の中には同性婚を気持ち悪いと思う人がほとんどです」などと投稿していることだ。自分の勝手な印象を「世の中」の名を借りて正当化しようとしている。

マイノリティのあり方をマジョリティの価値感で単純かつ一方的に悪く言うのは、「いじめ」の原点である。さらに一昨日の記事で書いた、森喜朗の暴言・失言の根底にある「これは世間一般の感覚なんだから、自分は決して悪くない」という「責任逃れ」の意識とも共通する。

私はこれについて、"実は決して「世間一般の感覚」ってわけじゃなく、自分自身の頭の悪さから導かれた「見当違い」ということがほとんどなのである" と書いている。渡辺昇という人に関しても、同じことを言いたい。

いずれにしても私は、こいつにとっての「世の中のほとんど」という範疇からはみ出した存在のようで、実に幸いなことだ。世の中、多様だからおもしろいのである。

 

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2022年9月11日

「LGBT を隠して生きろ」という理不尽さ

HUFFPOST の【 「ゲイはみんなエイズを持っている」という偏見も。消防士を辞めた僕は、“無意識の我慢“ に疲弊していたと気づいた】という記事を読み、栃木県下野市議会議員の「(LGBTを)静かに隠して生きていただきたい」という発言の理不尽さがますますわかった。

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問題の発言は 今月 4日の「そう思うのは自由だが、政治家なら隠して生きてね」という記事で触れたのだが、石川信夫という幸福実現党所属の市議が市議会の一般質問で LGBTQ の人たちに関し、「できたら静かに隠して生きていただきたい。その方が美しい」なんて口走ったというものである。

この市議の発言が LGBT 差別に他ならないというのは、冒頭で紹介した HUFFPOST の記事を読めばわかる。この記事に登場するのは平田金重さんというゲイの元消防士である。

彼は子どもの頃から自分の性的志向を認めることができず、「普通」に憧れて生きてきたという。だから SNS で知り合った同性の KOTFEさんに告白された時にはどうしていいか悩み、混乱するばかりだった。

しかし彼を失うのが辛かいとわかって同棲を始め、「時間を共有するうちに 2人でいることがかけがえのないものになり、1、2年かけてKOTFEさんを好きになっていった」と書かれている。その間も勤務先の消防署では自分がゲイであることを隠し続けていたが、ついに昨年、新しい挑戦のために退職した。

退職して初めて、ゲイであることを隠すことで「無意識の我慢が自分を疲弊させていた」ことに気付いたという。人のためになる消防士の仕事に大きな生き甲斐を感じていた彼が退職したのは、この「疲弊」も大きな要因となっていた。

職場での会話の中には、「ゲイはみんなエイズ持っとるわ」「息子がゲイだったら嫌やわ」といった心ない発言が少なくなかった。「彼女おらんのか?」と聞かれ、合コンや性風俗にも誘われていたという。これらは彼にとって「言葉の暴力」だっただろう。

石川市議の発言は、LGBT は自分の性的志向を隠し、心ない言葉にも黙って耐えて、静かに生きろというものだ。それは「表現の自由の否定」であり、大きな「言葉の暴力」でもある。「LGBT には人権がない」と言っているのと同じことだ。

信仰者であり、政治家でもある人がこうした理不尽を言うのは、私には驚き以外の何ものでもない。

【追記】

紹介した HUFFPOST の記事の後篇【独身は半人前、「ゲイだとバレたら働けなくなる」元警察官が、“男社会“から抜け出した理由】が今朝発表されたので、オススメしておく。

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