カテゴリー「言葉」の625件の記事

2021年10月27日

日本語を読めない日本人って、ザラにいるから

下の画像は、東洋経済の 2018年 12月 26日付 "衝撃!「日本語が読めない日本人」は案外いる" という記事の冒頭だ。"AI に仕事を奪われる、中学生以下の大人たち" というサブタイトル付きである。

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なんでまた、こんな 3年近く前の記事を持ち出したのかというと、私の今月 23日付「人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)」という記事との関連でググられてしまったからだ。

この記事は、次のように始まる。

次の2つの文が表す内容は、「同じ」でしょうか、「異なる」でしょうか。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」

「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

当然、「異なる」が正解です。しかし全国の中学生857人の正答率は、なんと57%。「2択問題」の正答率は当てずっぽうでも50%になることを考えれば、驚異的な低さと言えます。

私としてはこんなのを読んだら、2番目の文の後半に至った瞬間に「おいおい勘弁してくれよ。主語が違っちゃってるだろ!」となるのがフツーと思ってしまうが、何と、全国の中学生のほとんど 2人に 1人はフツーじゃないらしい。いやはや、困ったことだよね。

この記事の 4ページ目の "偏差値と「読めなさ」の強い関連性" という項目では、「生徒の学力を向上させるには、数学の問題を解いたり、歴史上の出来事や年表を暗記したり、化学式や数学の公式を暗記したりするだけではなく、教科書を読む力を高めることも重要である可能性」が示されている。

そういえば私は 2013年 4月 8日付の「学校の授業は、セレモニーのようなもの」で、「小学校の授業というものをまじめに受けたことがない」と書いている。年度初めに教科書が配られるとすぐに読み終えてほとんど理解してしまうので、授業はまどろっこしい「後追い」に過ぎず、退屈でたまらなかったのだ。

この「読むと同時に理解する」というのは、小学生の私にとっては当たり前すぎることだったのだが、後々になって、必ずしも当たり前というわけじゃないと気付いた。同じ文字情報に接しても、それがさっと頭に入るやつと、全然入らないやつがいるという事実を、何度も目の当たりにしたからである。

これ、もっと根本的なレベルで言うと、「文字さえあれば自動的に読んで理解しちゃう」やつと、「文字があってもまともに読めないままスルーしちゃう」やつがいるってことだ。

私は上述の今月 23日付の記事で、「日本語だと読んでも、英語だと完全スルー」という層が多いということを言っているのだが、現実はもっと厳しくて、「日本語でも、うやむやのうちにスルー」という層が結構多いようなのである。

ということは、「ここにちゃんと書いてあるのに、何でわかんないんだよ!」なんて言ってキレたりしちゃいけないってことだ。「書いてあるのにわからない人」に求められたら、ちゃんと彼らの身になって、「あっ、そうだったのか!」と納得してもらえるように、上手に説明しなきゃいけない。

それはある意味、インテリの義務だとまで思う。難しいことを難しい言い回しで述べるのは比較的楽だが、そこから一歩進んで、やさしい言い回しや馴染みやすい譬え話でも説明できるようになることが、人類愛というものだろう。そのあたり、なにぶん

Yoroshiku4

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2021年10月23日

人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)

下の画像は、2019年 7月 17日付の「ファンタスティック過ぎる英語教材」という記事で紹介したものだ。i-smile という英語教材会社が、2年前頃にネット上で大々的に展開した広告の(参照)一コマなのだが、昨日の記事で蒸し返して思い出したので、敢えて別記事として深掘りしてみたい。

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この広告のマンガに登場の若い女の子は、海外旅行の入国手続きで "Have a nice day." と言われて「幅ないっすね」に聞こえ(フツー、そうは聞こえないよね)、何か悪口を言われたのかと悩んでしまうほど英語ができなかったという設定である。そこで一念発起して、i-smile の教材で勉強を始める。

そして何と、「たった 2ヶ月で英語ペラペラ」になり(あり得ないよね)、街で "Exusse me. I want to go to Asakusa." と、妙にこなれない英語で話しかけてきた外国人に、自信満々で応える。それが上の画像である

"Even a train can go on a bus, but where do you go?" (列車さえもバスに乗って行けますが、あなたはどこに行きますか?)というのだから、まことにもって「ファンタスティック過ぎる英語」と言うほかない。おまけに「話せるようになれたんです」という日本語もおかしいし。

このマンガ、i-smile 側としても私がブログで槍玉に挙げたことを伝え聞いたか、ようやく "Oh, my God!" とアセったらしく、慌てて修正したようだ。私の記事にも、約 9ヶ月後の 4月 30日付として、次のように追記している。

書き忘れていたが、私がこの記事を発表して暫くすると、問題の広告の女の子のセリフが ”You can take a bus or train to go to Asakusa." に変更されていた。

いくらこっそり修正してても、私が証拠物件として保存した上の画像が残ってるので、トボけ切ることはできないのだがね。

ただ、今日の話で強調したいのは、この「デタラメ英語」そのものではない。どういうことかというと、"Even a train can go on a bus, but where do you go?" でググってみても、ご覧の通り、私の過去記事 1本しか検索されないってことだ。これには驚いた。

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(これ、Even a train can go on a bus, but where do you go? だけでググると、類推検索でいろいろなページが表示されてしまうので、両側に " " を付けるのをお忘れなく。念のため)

念のため Twitter 内で検索してみても見つからない(参照)。(ただし、遅ればせながら今後話題になることがあれば、それなりの検索結果が表示されるだろうけど)

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英会話教材会社ともあろうものがこんなファンタスティック過ぎる英語を、少なくとも 1ヶ月以上(実際には多分、3ヶ月以上)にわたり、大々的にネット上に晒していたのだから、Twitter で突っつかれて大炎上していたとしても不思議じゃない。しかし実際は、そんなことには全然ならなかったのである。

ということは、あれだけ派手なネット広告だったにも関わらず、このメチャクチャな英語に気付く人はほとんどいなかったってわけだ。要するに人って、案外字を読まないのだね。ましてや英語だとなおさらで、ほとんどまともに読まずに「雰囲気のもの」としてスルーしてしまうようなのだ。

Twitter でことさらな炎上劇を作りたがるユーザーは少なくないと見受けるのだが、そんなわけで、彼らもコンテンツに英語が入ると、格好の炎上ネタでもそれに気付くことすらないのだね。ずいぶんドメスティックな存在みたいなのである。

このことによる教訓は、以下のことである。

かなりビミョーでアブナいことを言いたい場合は、日本語でなく英語で書いておけば、余計な炎上は確実に避けて通れる。

ただし、ほとんど読んでもらえないことも確実ではあるのだが。

 

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2021年10月22日

やっぱり「聞き流すだけ」じゃ、ダメだったみたい

"石川遼でおなじみ、英会話教材「スピードラーニング」が事業終了していた 理由は「諸般の事情」” というニュースが飛び込んできた。この手の英会話教材については、過去に何度か書いてクサした記憶があるが、それにしても「諸般の事情」とは笑ってしまうね。

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自分のブログ内をちょっとググってみただけで、以下の 5本の記事が見つかった。いずれも「胡散臭い」と決めつけるトーンで書いている。

「聞き流すだけ」 という英会話教材を巡る冒険(2012年 3月 14日)
「聞き流すだけ」というおとぎ話(2015年 3月 24日)
東京オリンピックと、英会話熱と、当たり前すぎるお話(2015年 8月 9日)
パソコン教室と、「聞き流す英会話」(2017年 1月 18日)
例の「聞き流す英会話」の CM に関する素朴な疑問(2017年 1月 19日)

スピードラーニング以外の似たような教材に関しては、なんと 9年も前からクサしている。私ってば、こうした類いの教材をよっぽど信用していないようで、一昨年辺りからは「ファンタジー」と決めつけている。

たった 90日で 「英語がペラペラ」 になるなんて(2009年 2月 27日)
ファンタスティック過ぎる英語教材(2019年 7月 17日)
英会話教材はさらなるファンタジー化を遂げている(2019年 7月 29日)

ちなみに、スピードラーニングを実際使っていたという人の tweet を見つけた。こんなようなものである。

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「毎日 5分聞けば片言ぐらいは喋れるようになります」とあるが、この教材は「毎月 3,800円(税別)からの定額制学習プログラム」というのだから、「片言ぐらい」の英語を喋るためとしては、コスパ悪すぎるんじゃないかなあ。

このあたりのことについては、上述の パソコン教室と、「聞き流す英会話」 という記事で以下のように述べている。

パソコン教室に通っても添付ファイルすら送れない知人が最近、「スピードラーニングをやってみようかと思っている」なんて言い出したので、「そんなものやっても、せいぜい道案内ぐらいしかできないと思いますよ」と答えておいた。

すると彼は、「いやいや、道案内できるようになるだけでも立派なものじゃないですか」なんてことを言う。

「その程度は、中学生英語でいけるはずなんですけどね」と言うと、黙り込んでしまった。

うぅむ、また余計なことを言ってしまったかな。

というわけで、日本では大学を出ても「英語の道案内」程度のことがファンタジーみたいなのである。ファンタジーの教材がファンタジーなのも、仕方がない。

 

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2021年10月17日

「こよなく〜」の「こよ」って何だ?

先日某所で「日本人がこよなく愛する秋晴れの空」というキャプション付きのきれいな写真を目にして、「いや、秋晴れの空を愛するのは日本人に限らないだろう」と思ってしまった。そして同時に「そういえば、『こよなく』の『こよ』って、一体何だ?」と、とてつもなく気になってしまったのである。

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「こよなく」という語を Weblio で引いてみると、上のようなことになった(参照)。同じ小学館の辞書でも、品詞の解説の仕方がビミョーに違う。

『デジタル大辞泉』:副詞(形容詞「こよなし」の連用形から)

『精選版 日本国語大辞典』: 形容詞「こよなし」の連用形。現在では副詞的に用いられる

というわけで、「こよなし」(現代語的には「こよない」)という形容詞が元であり、単純に「『こよ』というものがないほどに」というような意味ではないと確認できた。そりゃそうだよね。それではと、語源の視点から調べてみたところ「広辞苑 無料検索」というページでこんな説明があった(参照)。

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なるほど、「越ゆなし」(越えるものがない)から来ているのか。ようやく納得である。しかしことはそれでは済まない。なんとこんなページにも行き当たった。

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語源に関して "「越ゆるもの無し」とも「此より勝るもの無し」とも言われ・・・" とあるのは、広辞苑と共通するからいいが、この説明に続く文がかなり奮っている。こんな具合である。

日本は古来、比較対象を明確に見据えることをせぬ「絶対文化圏」につき、「こよなし」も比較級というより絶対最上級的ツキヌケ独善讃辞の色彩が濃い。

おぉ 、「絶対最上級的ツキヌケ独善賛辞」と来たか。 こりゃまたすごい! "Far more than everyting in the world" (この世のすべてのものより遙かにスゴい)みたいな恐ろしいまでのことを、日本人は「こよなし」のたった四文字でさらりと言ってきたわけなのだね。

いやはや、そんなにヘビーな言葉だったとは知らなんだ。となると、秋晴れの空を「こよなく」というほど愛するのは、やっぱり日本人しかいないのかもしれない。私のイチャモンの付け所が間違っていたようだ。

しかしよく考えると、秋の青空だの、紅葉だの、複数のものをノー天気に「こよなく - 越ゆるものなく」愛するというのは、論理的にはあってはならないと言わなければならない。このあたり委細構わずどんどんやっちゃうのは、やはり日本人の「雰囲気志向」ゆえなのだろう。

最近、いろいろなことにかこつけて「雰囲気」の力のスゴさに言及している(例えば昨日の記事や、10日前の「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」など)が、「こよなく」の場合も、「大切なのは、文字通りの意味より雰囲気」という原則が遺憾なく発揮されている。

ちなみに、上述の「絶対文化圏」というのは、ググってみても特定的な言い方としては「父権絶対文化圏」とか「上の言うことは絶対文化圏」とかいう言い方しか見当たらないが、これも「雰囲気的な絶対」と受け取っておく方が無難そうなので、そのあたり、どうぞ

Yoroshiku4

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2021年10月10日

英語学習/くずし字解読 と AI 翻訳

Quora に「英語学習はオワコンでしょうか?」という質問が寄せられている(参照)。「あと 5年もしたら会議で日本語喋ったら勝手に相手の言語に翻訳されて、メールも送信ボタン押したら勝手に翻訳されると思うのでこれからビジネス英語を学ぶ意欲が湧きません」というのである。

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昨日の記事で「くずし字」が AI によって瞬時に現代の文字に変わるというプログラムに関して肯定的に述べている私としては、質問者の気持ちがわからないではない。しかしながら、「英語学習がオワコン」と言ってしまうのは短絡的すぎるとも思うのである。

ちなみに昨日の記事には案の定、らむねさんからコメントがついた。本文中からリンクする 1月 5日付記事に彼が付けてくれた「AI に古文書を解読させる試み」紹介コメントへの私のレスに関して、実にソフトに「撤回と謝罪」を要求してくれたものだ。この時の私のレスはこんなものだった。

それにしても、人の書いた文字を人が読めずに AI に頼るというのは、なんだかムカつきますね ^^;)

いやはや、「10ヶ月経ったら、言うことが違ってしまってるじゃないか」と言われても仕方がないことで、お恥ずかしい。しかしながら、言い訳がましいかもしれないが、この「AI に頼る」ことへの「ムカつき」感覚は、私個人としては、決して解消してしまっているわけではないのだ。

それは、昨日の記事でも次のように書いていることで、少々察していただきたい。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。

そうなのだ。不肖私としても、古文は草書体で読みたいという思いには、十分に共感してしまうのである。しかしながら、私自身が決してスラスラと読めるわけではないし、さらに広範な層への訴求というコンセプトを重視すれば、AI で古文を読む試みを否定してはならない。

ここで冒頭の Quora の質問の件戻るが、「会議での発言が瞬時に相手の言語に翻訳されて伝わる」という世の中が来るというのは、私も「そうだろうな」と思うし、そんな時代はかなり近いだろう。いわば「AI 同時通訳システム」だ。

しかしながら、だからといってビジネス英語を学ばなくてもいいということにはならないだろう。それは、言葉というものは翻訳されたとたんに別のニュアンスをもってしまうことが往々にしてあるからだ。勿論、ビジネス英語に関してはそうした要素は最小限に抑えたいところではあるが。

私の 10月 7日付の記事は「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」というものだが、まことにも、言葉というのは良かれ悪しかれ「雰囲気」の要素が強く、無視できない。文学作品でも、別の翻訳で読むと印象がかなり変わってしまうことまであるのだから。

やはりリアルのコミュニケーションというのは、翻訳を介さずに同じ言語で丁々発止する方がいい。翻訳を通すのはどうもかったるいし、ピンボケになってしまいがちというのは、私も何度か経験したことがあるからね。

で、ここで 5度目の「しかしながら」という接続詞を使いたくなってしまう(今日の記事は「しかしながら」(however)のオンパレードで、歯切れの悪いことおびただしい)のだが、私は AI による同時通訳は決して否定しないのである。

それは古文書を AI で読むのと同様に、「セカンド・チョイス」として歓迎しておきたいのだ。誰もが英語で上手にコミュニケーションできるわけではないという現実があるのだから、それは当然である。

さらに付け加えれば、日本語のほかに英語を学ぶことのメリットもあると言わなければならない。他言語を学ぶことで母国語での思考とは別の視点による考え方ができて、「思考の重層性」が獲得できる。上手に使いこなせば、人間としての「厚み」みたいなものも身につくだろう。

まあ、ここで言う「他言語」は別に英語でなくてもいいのだが、事実上、最も汎用性のある言語は英語ということで納得していただきたい。

で、古文書を変体仮名ですらすら読むことのメリットも、似た感じではある。ただ、そのメリットは現状では 0.01%の日本人しか実現していないというのだから、その意味では、古文書 AI 翻訳のメリットは、英語の AI 翻訳と比べても圧倒的に大きかろう。

余談だが、もし変体仮名が今の世にも現役で生きていて、新聞が昔の「瓦版」みたいなものだったら、日本語は断トツで「世界一習得困難な言語」の座に君臨していることだろう。なにしろ、こんなだから(下の画像は「地震速報」みたいなものの一部拡大図で、全体像は こちら)。

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見出しは「大坂つなみ」(これ、「大阪」という表記じゃなかった頃の瓦版)。全体として漢字は読みやすいのだが、かなは手強いよね。

 

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2021年10月 9日

文語体と草書体(くずし字)における「文化革命」

十三年半前のことなれど、このブログの記事を文語体にて書きしことあり。「ATOK の文語モード試しみむとて」といふ記事なりき。下の画像よりのリンクも可なり。

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いきなりの擬古文調で戸惑われたかもしれないが、私は「和歌ログ」などという文語体の和歌を詠むブログも毎日更新しているので、ほんのたまにはこんなことも生じる。ちなみに画像右側の「くずし字」は、「毛筆は悪筆なれど今様に QWERTY にて古語の歌詠む」という歌である。

なんでまた唐突にこんなテーマで書き始めたのかというと、"源氏物語が好きすぎて AI くずし字認識に挑戦でグーグル入社  タイ出身女性が語る「前人未到の人生」" という記事にかなり感動してしまったからである。これは素晴らしいニュースだ。

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彼女は日本の古典文学が好きすぎて、タイから単身留学した。上の写真は Zoom でのインタビューの時のものなのだろうが、源氏物語絵巻の背景からもかなりの「本物」と見受けられる

しかし彼女は来日してワセダの大学院で学んだものの、最初は草書体(いわゆる「くずし字」「変体仮名」)が読めないために「F」の成績を取って泣いたこともあるという。そこで一念発起してかな文字を草書体で書く書道を習い、ものにしたというのだから、かなりの根性だ。

かく言う私も、同じ大学で草書体に苦労した経験があるので、彼女のことは他人事と思えない(今年 1月 5日付の「草書体で書かれた古文書というもの」という記事参照)。ただ、日本語が母国語ではない彼女の努力は私どころのものではなかっただろう。

そして彼女は今、「AI くずし字認識」というプログラムに挑戦し、Google に入社するという。

記事によれば、「現在、くずし字をきちんと読める人は日本の人口のたった約 0.01%、約数千人しかしない」のだそうだ。だとすると、「多少は読める」という程度の私は、せいぜい数万人ぐらいのうちの 1人なのだろう。

それでも日本人の 0.1%ぐらいの比率なのか。これって、英字新聞を読める日本人の数よりずっと少ないだろう。てことは、英字新聞と古文書の両方を、とつおいつながら読める(正直言って、英字新聞を読む方がずっと楽だが)私って、結構スゴいじゃないか!(と、我ながらびっくり)。

それほどまでに難しい「くずし字読み」を AI によって広めることができるというのは、まさに「文化革命」という気がする。

しかし彼女はインタビューの中で、「『AIによるくずし字認識は望ましくない』『こんな研究は良くない』という国文学研究者が何人かいました。古典文学を広めようと頑張っているのに、自分が所属する分野の人たちに反対されるのはつらいです」と語っている。うぅむ、これは結構厄介な問題だ。

こうした「何人かの国文学研究者」というのは日本人の中の 0.01% という「特殊権益」(あるいは「密かな楽しみ」)を、自分たちの狭いサークルの中で占有したいなんて思ってるんじゃあるまいか。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。しかし時代の要請の AI 認識を否定するというのは、ある意味で「選民思想」に通じる考え方だとまで思う。そうした意識が「古典嫌い」を育ててしまうのだよ、きっと。

というわけで、彼女の試みに精一杯の拍手を送り、応援したい。いつの日か、Google のサイトで古文書の画像をアップすると、瞬時に現代の文字に置き換わるなんていうサービスが始まることを期待して。

 

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2021年10月 7日

写真はイメージです/言葉は雰囲気です

栗の美味しい季節になった。クルマで長距離運転して口寂しくなった時などのために、パッケージに小分けされたゆで栗を買ってきて重宝しているが、気になるのは、パッケージに印刷された「写真はイメージです」という言葉である。

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この言葉、ありとあらゆるパッケージや広告に使用されている気がするのだが、私としては「写真がイメージなのは当たり前じゃん!」としか思えない。バリエーションとして「画像はイメージです」なんていうのもあるが、画像がイメージなのもさらに当たり前である。

ちなみに "image" という単語を「英ナビ」で調べると、「表象、心像,イメージ、画像,写真,映像;彫像,偶像・・・」なんて出てくる(参照)から、意地悪く読めば「写真は写真です/画像は画像です」ということにしかならない。ナンセンスの極みみたいな文言である。

私はその昔、ワセダで「芸術学」なんて学問を専攻していて、「写真論/映像論」は「イメージ論」として学んだ。そんなわけでこの文言に関する「なんじゃこりゃ?」感は、人一倍強い気がするのである。

そして今日に至ってふと思いついて、「写真はイメージです」というキーワードでググってみたところ、同じような感覚の人が少なくないと確認でき(参照)、ちょっと安心した。そりゃそうだ。これを「変な言い方」と思わない方がおかしいだろう。

調べてみると、この文言はどうやら消費者からのクレームを防止するための「苦し紛れ」みたいなものとわかった。Quora には、スイスタジオ代表の渡辺剛さんという方の次のような説明が出ている(参照)。

この一文を入れていないと、「チラシのようなキレイなモデルのようになれると思ったのに(怒)」みたいなお叱りをうけてしまうであろう事が日本市場では予測できます。

いやはや、「そりゃ消費者がおバカすぎだろ!」と言いたくなるが、商品そのものの写真撮影の予算も時間もないときは、フォトストックの中から使うこともあるらしく「大体こんな感じですよ」ということになるらしい。要するに、次のような言外の意味をそれとなく表現しているもののようだ。

「写真はイメージです。(よって、まったく写真の通りに仕上がることの保証はできません。広告はあくまでもイメージアップ用です。嘘ではありませんが、大体こんな感じになりますよ、でもそうでないケースもあるかもしれませんねって感じです)」

というわけで、「写真は単なるイメージでありまして、そしてこの文言自体も単なる『雰囲気のもの』なのであります」ということのようなのだ。私は「雰囲気のもの」という言葉をよく使う(参照 1参照 2)が、これ、かなり便利な、まさに「雰囲気のもの」そのものの文言である。

ちなみに、クレーム防止策としての英語圏での決まり文句は、実際の英米人からの回答で、以下の例のようになると示されている(参照)。

Product image for illustration purposes only. Actual product may vary.
(商品写真の目的は単に例を示しているだけ。実際の商品はいろいろ)

This photo is a simulation.
(この写真は模擬的なものです)

This photo is for illustrative purposes.
(この写真は例を示すという目的)

さすがに英語は「雰囲気のもの」以上の具体性があるようだが、そのまま日本語に置き換えてしまうと「雰囲気を損ねる」と捉えられてしまうのだろうね。それで日本では、具体性より「雰囲気」に頼ってしまうのだろう。

【同日 追記】

「雰囲気」を「ふいんき」と読む人が増えているが、正しくは「ふんいき」なのでよろしく。とはいえ、この誤読が将来定着してしまいそうだという話を、3年半前の "「雰囲気」の読みが「ふいんき」で定着するのは 2035年頃" という記事で触れているので、併せてお読み頂きたい(ただし、日付にご注意)。

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2021年10月 5日

「いらち」って、関西方言と言い切っていいの?

昨日の記事で「麻生さんは結構いらちみたいだから・・・」と書いて、念のため「いらち」という言葉から Weblio 辞書にリンクを張らせてもらった。リンク先を Weblio にしたのは、"動詞「いらつ」の連用形の名詞化" と、極めて適切な説明が 3つの辞書から引用してあったからである。

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ただ「いらち」でググってみると以下のように、この言葉を「関西方言」としているページが目立つ。

大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊(冒頭で"「いらち」とは関西地方の方言" としている)

関西人の皆様、「いらち」は標準語ではありません 全国調査の結果→約半数が「使わない」

笑える国語辞典「いらち」の項(関西地方の方言としている)

【関西弁】どういう意味なのかわかりにくい関西の言葉ランキング(2020年調査)TOP20!(「いらち」は 13位にランクインしている)

ほかにも「『いらち』は関西方言」としているページはあまたあるが、この「関西方言」ということに私はかなり反発してしまうのである。「関西方言」というより、「古来よりの標準語」である上方言葉を、ほかの地域ではこなしきれなかったということなんじゃあるまいか。

なにしろ現在の「標準語」とされているのは、明治以降に新首都東京の「山の手言葉」を基本として作られたものであって、それ以前は東国の「江戸言葉」でしかなかった。その「江戸言葉」の中に、「いらち」という単語が見当たらなかったので、「いわゆる標準語」から外れてしまったのである。

「いらち」は、同じ「関西弁」と称される中でも「いちびり」や「めばちこ」などの俗語とは違い、「苛つ(いらつ)」という正しい日本語(既に「古語」と化してはいるが)の連用形の名詞化という、はっきりとした根拠のある言葉なのである。これを「関西方言」として片付けるのは、あまりにも忍びない。

ちなみに上述の "大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊" という日本経済新聞の記事は、次のような記述で締めくくられている。

梅田駅の外に出ると広い横断歩道があり、大阪府民がいらちとの評判を世の中に広めた有名な待ち時間表示付き信号がある。ここが表示付き信号の発祥かは分からなかったが、青信号に変わり大勢が速足で渡り始める姿をみていると、大阪府民はやはりいらちだと感じた。

というわけで、「いらち」という言葉は大阪人の気質と切り離しては語られない。これは「いら」と、やや「ち」をやや強調する関西特有のアクセント(東京人はどうしても「いらち」と、平板で発音してしまう)とともに、標準語に取り入れられにくい要素なのだろう。

典型的な江戸弁の場合は「いらち」ではなく、「気が短い」というのだろう。「てやんでぇ、俺ぁ、江戸っ子で気が短けえんでぇ!」ということになる。しかしこれ、「いらち」と似たようなものなのかもしれないが、ニュアンスには大きな違いがある。

「いらち」というのは、やや自嘲的なニュアンスを含む奥行きあるが、「気が短い」というのは、ただひたすら単純で、軽薄なまでに外向きである。このあたりからして、東西の気質と文化の違いは大きいと言うべきだろう。

 

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2021年10月 4日

ピーラー(皮剥き)から哲学に至る道

「野菜のピーラー(皮剥き)」についての tweet(参照)がちょっとした話題だ。ジャガイモの新芽をとるのが、なぜか両側に付いているというのである。これの種明かしが秀逸で、私も笑わせてもらった。

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この器具の名前は「ピーラー」というのだが、新芽をとるための部分は「新芽取り」というのだそうだ。ここまで言えば、察しのいい人は「なるほどね!」と膝を打つと思うが、念のため最後まで言わせてもらうと、「新芽取り — シンメトリ(対称形)」ということで、左右対称で当然というわけだ。

なるほど、これは秀逸な洒落である。ただ、実際のところは右利きでも左利きでも使いやすいようになっているだけなんだろうけどね。

ところで「非対称」は「アシメトリ」だが、うまく洒落で対応できる日本語はなさそうだ。残念。あまり残念なので無理矢理に調べてみたところ「足目」という正体不明の言葉が見つかった。「世界大百科事典内の足目の言及」という注釈付きで、次のようにある。

【ガウタマ】より
…50‐150年ころの人。別名アクシャパーダ(足目)。ゴータマともいう。…

「ゴータマ(ガウタマ)・シッダルタ」のお釈迦様とは別人だが、天竺の人には違いなく、「アクシャバータ」というのを中国語で書き表すと「足目」になるらしい。ただ、これだけではチンプンカンプンなので、さらに「ガウタマ」で調べると、こんなふうに出てきた(参照)。

アクシャパーダ・ガウタマ - ニヤーヤ学派の祖で、『ニヤーヤ・スートラ』の作者とされる人物。

お恥ずかしいことに「ニヤーヤ学派」というのは「どっかで聞いたことがあるかも」程度なので、これも Wikipedia に頼ってみると、こう書かれている(参照)。

ニヤーヤ学派(ニヤーヤがくは、梵: Naiyāyika)はインド哲学の学派。現代では六派哲学の1つに数えられる。ニヤーヤは理論(あるいは論理的考察)を意味し、インド論理学として代表的なものであり、論理の追求による解脱を目指す。

で、足目先生の『ニヤーヤ・スートラ』は、この学派の根本テキストであるという。さらに「六派哲学」となると完全に初耳なので Wikipedia で調べると、こんな具合である(参照)。

六派哲学(ろっぱてつがく、梵: Ṣad-darśana [シャッド・ダルシャナ])はダルシャナ(darśana、日本ではインド哲学と訳す)のうち、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称。インドでは最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。

ほほう、すごいものだったのだ。ちなみに「ヴェーダ」というのは、ヒンドゥー教の聖典のことらしい。

さらにいろいろリンクを辿ると、東京中野区の哲学堂公園にある三祖苑というスポットには、哲学の三祖「中国の黄帝、インドの足目仙人、ギリシアのタレス」の石碑が祀られている。上でつい「足目先生」と書いてしまったが、それどころじゃなく「仙人」とまで言われるお人だったのだね。

この分野では釈迦、ソクラテス、キリスト以降しか知らなかった(孔子はちょっと苦手)私としては、「世の中知らないことだらけ!」と、浅学の身を思い知ってしまったよ。そしてそれ以前への端緒が、洒落みたいな話から開かれることもあるのだね。まさに「アシメトリ(足目取り?)」の様相でおもしろい。

先月 6日の記事で、昔はよく江古田の日大芸術学部に顔を出していたと書いたが、ワセダから江古田まで行くのに、中野から池袋行きの都営バスに乗ると、途中に「哲学堂」というバス停があった。それでこの名前には馴染んではいたのだが、降りたことは一度もない。

今度、向こうの方に行くことがあったら、ついでに寄り道してみたくなった。

 

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2021年10月 2日

「台風一過」という四文字熟語への違和感

下の写真は今朝の 6時過ぎの東の空。昨日の夕方から夜半までは台風 16号の影響でかなりの風雨だったが、やがて静かになり、日が昇り始めるとご覧のような快晴だった。川面に波もなく、鏡のように朝日が映っている。

211002

朝のラジオではキャスターたちが判で押したように「関東地方は『台風一過の青空』が広がっています」と言っている。まあ、そう言いたくなるのも無理もない。ほかにどう言ったらいいんだというほどの「台風一過」ぶりである。

ところでこの言葉、子どもの頃は決まって「台風一家の青空」なんて書くやつがいて、「バカだなあ、それは昔からある言葉で『台風一過』と書くんだよ」と嗤われていたものだ。ただ私としては、これには少なからぬ違和感を覚えていたのである。

というのは、どの放送を聞いても「たいふうっかの青空」と、「っか」の方にだけアクセントをおいて発音する人が多かったからだ(ちなみに、今も多い)。「台風一過」なら、「たいっか」と、2箇所にアクセントをおいてもらいたいものだと、ずっと思ってきた。

思うにこの「台風一過」という四文字熟語、日本語としてまだこなれ切っていないんじゃあるまいか。いにしえの昔からそう言い習わしてきたわけじゃないんだし。

何しろ「台風」という言葉が生まれたのは、明治時代のこととされ、英語の ”typhoon" を取り入れる際にその音を生かして気象用語の「台風」となったと言われている。元々は中国語の「大風」のようだが、それがダイレクトに取り入れられたのではなく、英語を介したものというのが定説だ。

さらにこの「台風」という気象用語が一般にも知られて定着したのは、どうやら大正を経過して昭和初期になってからのことらしい。徳島県立文書館のサイトに『初めて名前が付いた台風 “室戸台風”』というページがあり、次のように書かれている。

「台風」という言葉自体も、それが定着するまでには色々な呼び名があり、その言葉が定着したのは 室戸台風襲来の数年前、昭和初期と言われています。

なんだ、ということは、日本人が「台風」という言葉をフツーに使うようになってから、まだ 100年経っていないんじゃないか。言葉としては新参者もいいところだ。

ということは、「台風一過」という四文字熟語が生まれたのは少なくとも昭和初期より後ということになるので、さらに新参者の言葉である。誰が言い始めたのかは今となっては知るよしもないが、何となく「ことさら感」のあるもったいぶった言い方だ。

ちなみに「一過」という言葉は『大辞林』には次のようにある。

いっか — くわ【一過】

① さっと通り過ぎること。「台風 —」
② 一度ざっと目を通すこと。
③ ほんの僅かの間。「— ばかりでほんのうわきといふものだ/洒落本/夜鄽行灯」

つまり「台風一過」というのは「一つの台風が(一度)過ぎてしまった」というような一般的な認識とはビミョーに違って、言葉そのものとしては「台風がさっと通り過ぎた」ということを言うようなのだ。ふぅむ、なるほどね。

これ、結構な被害を蒙った地域の人にしてみれば「決して『さっと通り過ぎた』というわけじゃないよ」と言いたくなるかもしれないが、まあ、何しろ新参者の言葉なので、しっくりくるという段階にまで至っていないのだね。「台風一過の青空」という決まり文句以外にあまり使い途がないのも道理だ。

というわけで、この言葉に関する私の違和感もむべなるかなと納得した次第である。

 

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