カテゴリー「言葉」の555件の記事

2020/01/16

"Best regards" が「よろしくお願いします」とはね

先日、仕事上の後輩に「英語で『よろしくお願いします』は、どう言ったらいいんですか?」と聞かれた。辞書を引き引き英語のビジネス・メールを書いていて、最後の「よろしくお願いします」のくだりで、はたと迷ってしまったのだそうだ。

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「そんな言い方、英語にはないよ」と正攻法で答えたのだが、彼は「じゃあ、メールの最後をどう結んだらいいの?」としつこく食い下がる。仕方がないので、「そんなのフツーに "Best Regards" でいいじゃん」とお茶を濁しておいた。

ところがしばらくすると、彼は「あ、本当だ」と、素っ頓狂な声を上げた。「Google 辞書で "Best regards" を引いたら、『宜しくお願いします』とバッチリ出てきました!」と言い、「さすが tak さん、ありがとうございます!」と頭まで下げる。

今度はこちらが驚く番である。「え、そうなの? 本当にそんな風に出てきたの?」と、彼の PC 画面をのぞき込むと、確かに下のように表示されている。(画像をクリックするとリンク先に飛ぶ)

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私はこれまで、"Best regards" は単に英文レターの最後の決まり文句としか思っていなかった。"Dear 誰それ” が「拝啓」だとすれば、"Best regards" は「敬具」みたいなものという理解である。モロに「宜しくお願いします」と翻訳しちゃったのは、Google の「乱暴な英断」と言っていいだろう。

「よろしくお願いします」は多分に日本語独特の「雰囲気のモノ」でしかないから、具体的に「何をどうよろしくなのか」と聞かれても、まともな説明なんて誰もできない。そして根が日本語より具体的な言葉である英語には、そうした「曖昧な言い草」を「一言でバッチリ言い換えられる表現」なんてない。

「My スキ 英語」というサイトの "英語で「よろしくお願いします」|6つの場面で使い分ける!" というページは、その意味でとても実践的な解説である。場面ごとにいろいろなうまい言い方が提案されていて、"Best regards" というのは、その中の 1つということになっている。

というわけで、日本語の「よろしくお願いします」は便利すぎるほど便利な言葉である。英語ならいろいろな表現を使い分けなければならないところでも、この一言でたいてい済んでしまうのだから、日本語という「雰囲気言葉」の最大の強みというほかない。

あまりにも便利でビジネス・メールでもつい多用してしまうので、私は PC でもスマホでも「よろおね」と入力すれば「よろしくお願いします」に変換されるよう、単語登録している。おかげでこれまでに、時間を何千秒節約できたか知れない。

しかもさらなるバリエーションがあって、「よろしくお願いいたします」は「よろいた」、「宜しくお願い申し上げます」は「よろもう」で短縮登録してある。「よろもう」の場合のみ、ビミョーなニュアンスを尊重して「よろしく」ではなく「宜しく」と、よそ行きに変換されるのがミソだ。

いっそのこと「べすりが」で "Best regards" に変換されるように、登録単語を増やしてしまおうかと一瞬思ったほどだが、まともに考えれば、それはあまり意味があるとは思えないね。

 

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2020/01/05

「常在戦場」という言葉

ラジオを聞いていると、「書き初めにはどんな言葉を書かれましたか」という問いに「『ジョウザイセンジョー』と書きました」と答える人がいた。一瞬、「浄財のマネーロンダリング?」なんて素っ頓狂なことを考えてしまったが、「そういえば『常在戦場』って言葉もあったな」と思い直した。

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個人的には「常に戦場に在る」なんてのは真っ平ご免だが、改めてググって見ると、出てくるわ出てくるわ。山本五十六の揮毫から長岡藩の家訓、歴史小説や読む気がまったくしないビジネス書のタイトルに至るまで、日本のオッサンたちは「常在戦場」が大好きなようなのである。

まあ、この言葉が大好きなオッサンたちにしても、決して「戦場に在りたい」とか「戦争大好き」なんてストレートに考えるわけではないらしい。いくら「アスペルガー一歩手前」の私でも、そこまで曲解しようとは思わないのである。これは「心構え」を説く場合の比喩的表現なんだろう。

「デジタル大辞泉」には、次のように解説されている。(参照

じょうざい‐せんじょう〔ジヤウザイセンヂヤウ〕【常在戦場】
  いつでも戦場にいる心構えで事をなせという心得を示す語。

さらに "bizwords.jp 意外と知らないビジネス用語の意味と使い方" というサイトには、次のようにある。(参照

「『常在戦場』の気持ちで、日々活動をすることは極めて重要だ」「『常在戦場』の心構えで、一層の緊張感を持たなければならない」……。
このように政治家や経営者が好んで使う「常在戦場」という言葉。

(中略)

「常在戦場」という言葉は、政治家、特にいつ解散があるかわからない衆議院議員が心構えとして好んで使う言葉です。

なるほど、この言葉には何となく生臭いイメージが付きまとうと思っていたが、政治家が選挙対策として好んで使いがたるためだったのか。彼らにとっての選挙というのは、一種の「戦争」だったのだね。付き合いたくない世界である。

何だかんだ言っても戦争というのは、結局は「富や資源の奪い合い」から起きるのである。有限のモノの中で、自分の支配下にあるものの比率を高めたいなんて思うから、奪い合いになり、戦争しなければならなくなる。つまり戦いの中に貴重な資源を無駄に注ぎ込んで逼迫するという自己矛盾が戦争である。

私は「常在平和」で行きたいと思う。ただ、「平和」という言葉は常に手垢にまみれる運命にあって、そうしたマンネリズムが「常在戦場」なんて悪趣味を呼ぶ契機にもなるから、よほど注意しなければならない。お気楽に「平和、平和」と唱えていれば済むってわけでもないようなのである。

それでも「常在戦場」なんてことは言いたくないなあ。

 

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2019/12/29

「とらまえる」という言葉

今月になってケッタイな挨拶の絶滅に関して 2本も書いた("喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる" 、"ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと")ためか、「そういえば最近、『とらまえる』も聞かなくなったなあ」と気付いた。

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この言葉については、13年も前に ”「とらまえる」 の考察” のタイトルで描いている。

「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」同様にめでたく絶滅してしまったのかと思い、試しにググってみたら、電話代行サービス(って、一体どんなサービスなんだ?)業者のサイトの今年 1月 31日付の記事に「消費増税をとらまえる」というのがあったので、まだしぶとく生き残っているのだと知った。

ググってみたところでは、「とらまえる」という言葉を聞くと「もやもやする」とか「しっくりこない」とかいう思いを表明しているページが圧倒的に多い。とはいいながら、あまりにも世の中で堂々と使われてしまっているので、『広辞苑』にまで載ってしまったようで、web 版では次のように説明されている。(参照

とらま・える【捕らまえる】トラマヘル
〔他下一〕
(「とらえる」と「つかまえる」との混交した語)つかまえる。「狙ひよつて這ひよつて、―・へてみたれば、興がつた鶉で」(狂言歌謡)

なんと、この「とらえる」と「つかまえる」との混交は狂言歌謡の昔から発生していたということで、道理で関西方面の方がこの言葉の使用率が高い気がする。それもあって、これを関西方言と捉えて(とらまえて?)いる人も少なくないようなのである。

しかし私の個人的な印象からすると、これは通俗マーケッターと行政関係のお役人が好んで使う言葉という気がしている。「前 京丹波町議会議員 山崎裕二 活動誌 ブログ版」というサイトの 2015年 2月 18日の記事には、次のように描かれている (参照)。

調べてみると、大学の先生(研究者)にも 一部、使用ケースが垣間見られました(私の前職ですが、学内や学会で唱えている先生はいませんでした)が…議会答弁で頻繁に出てきますので、あえて行政用語にカテゴライズしてみました。「会議録 とらまえ」などで検索すると、ワッと出てきます。

ちょっと前、旧町議員だった方が何気なしに使われており、いまだに染まっているなぁと首を傾げるとともに、前例にしたがって、脈々と受け継がれる行政文化のようなものを感じ、生理的にブルっとしました。

「生理的にブルっとしました」という感覚は、私もよくわかる。わかりすぎるほどわかる。

というわけでこの「とらまえる」という言葉は私の印象に反して、決して滅びてはいないようなのである。どうやら私の方が、この言葉が多用される世界から離れて暮らすようになっただけらしい。おかげで生理的にブルッとこないで済んでいるのはありがたいことだ。

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2019/12/19

ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと

下の画像は "bokete" というサイトにあった「ボケ」の投稿(参照)。ああ、私も「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」というケッタイな挨拶が横行していた頃に、こんな意表を突くボケを(イントネーションに気をつけて)カマせてみたかったが、今となっては叶わぬ夢である。

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というわけで、昨日の "「喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる" の続編をしつこく書く。この挨拶に関して当時は、2つの代表的な「見当外れ」が見られたという話だ。

1つ目は "「いらっしゃいませ、こんにちは」というのは、言葉の順序が違う” という反応で、ググって見ると今でもいくらでもヒットする。要するに「こんにちは」と言ってから「いらっしゃいませ」と言うべきだというお話で、城島明彦という作家までそんなようなことを言っている(参照)。

これについて私は 16年も前に書いた "「いらっしゃいませこんにちわぁ」の怪  この違和感には根拠がある"  記事で、言葉の順序が違うなんて次元の話ではないと指摘している。

煎じ詰めて言えば、「いらっしゃいませ」は丁寧語で、「こんにちは」 は親近感のあるときに使う言葉だから、一緒くたに使うのはおかしくて、どうにも据わりが悪いのである。詳しく説明しようとするとやや長くなるので、詳細は上述の記事に飛んでお読み頂きたい。

2つ目の決定的な「見当外れ」は、ビジネス・コンサルタントの言い草である。私の 16年前の記事には、コンサルタント会社のアホな「寝言」が紹介されている。彼らは「いらっしゃいませ」に「こんにちは」を加えることの「意義」を次のように言っている。

  • 「貴方に向かって、あいさつをしています。貴方を出迎えています」という感覚を与えることができる。
  • お客様も「こんにちは」と答えてくれる。一方通行ではない、会話のスタートとなる。
  • お客としても、「いらっしゃいませ」だけでは、どう返事をしていいかわからないで、黙っている自分を「いやだなァ」と感じたりしている。お客さまだって、何か声を出したいのだ。

これらに私はいちいち真っ当な「ツッコミ」を入れているので、これも上述の記事に飛んで読んでいただきたい。ちなみにここで引用したコンサルタント会社自身のサイトの記事は、今ではことごとく削除されている。そりゃそうだ。こんな寝言、恥ずかしくて残せないやね。私にコピペされたのを身の不運と諦めるがいい。

昨日の記事の最後には、ファミリーマートの澤田貴司社長が「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」の挨拶を廃止したという趣旨の記事を紹介した。昨日も書いたようにこの記事は出典、根拠が示されていないので鵜呑みにするのは危険だが、澤田氏の手法からすると、「十分 ”あり” かも」と思える。

そしてもしこれが事実で、さらに澤田社長が世間の反応を見ようとして「いらしゃいませ、こんにちは」のキーワードでググっていたとしたら、私の記事を読んでくれていた可能性が高い。とにかく私の記事がバカスカヒットするのだから、まんざら手前味噌とばかりも言えない。

10数年にわたるアホな業界慣習も、しつこく批判し続けるヤツがいて、さらに個別企業の上層部にたった 1人でもまともな感覚の人がいさえすれば、あっさり改められるなんてことがあるのだ。ついでに言うと、胸の前で両手を握ってペコリと会釈するなんていう、見てる方が恥ずかしくなる接客動作も、ありがたいことに消え去ったようだし。

昨年の "「いらっしゃいませ、こんにちは」 という挨拶を聞かなくなった" という記事には、当ブログの長年の読者 tokiko さんが過分なコメントをしてくださったが、まんざら「買いかぶり」でもなかったかもしれないと、今になって気付いた。さすが tokiko さん、これは一介のブロガーにとっての希望となり得る。

 

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2019/12/18

喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる

人間というのは、不快なことに関してはかなり敏感に反応するが、当たり前のことには鈍感になる。そりゃ「当たり前は当たり前」で、いちいちことさらに反応していたら疲れてしまうから、当然の話だろうけどね。

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今は昔、平成の御代のこの国のサービス・チェーンは「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」という、世にもケッタイな挨拶に席巻されていた。私はこれについて何度も違和感(というか、もっとストレートに言うと「気持ち悪さ」)を表明する記事を書いている。

私だけではない。インターネットの世界には「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」という挨拶への疑問や嫌悪を示す記事が溢れていたし、もちろんその多くは今も削除されずに残っている。私の記事も含めてね。

ところが平成最後の師走となった昨年の暮れ、この挨拶がいつの間にかあっさり絶滅していることに気付いた。昨年 12月 22日の ”「いらっしゃいませ、こんにちは」 という挨拶を聞かなくなった” という記事で私は「ストレスが軽減されて、かなり清々している」と、大歓迎している。

問題はここからだ。あれからほぼ 1年経ってググってみても、この「絶滅現象」に関するまともな指摘ほとんどなくて、私の上述の記事以外、見つけるのに苦労するほどなのである。まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」だ。

この気持ち悪い挨拶に私が初めて触れたのは、 "「いらっしゃいませこんにちわぁ」の怪  この違和感には根拠がある" (2003/11/15)という記事で、16年以上も前の話だ。この記事の後半で私は、この挨拶はビジネス・コンサルタントと称する連中が世に広めたものだと見破っている。

当時、日本経済は 2000年まで続いた「第三次平成不況」からようやく立ち直って、企業がビジネス・コンサルタントという怪しい連中にカネを払うことを厭わなくなっていた。このため調子に乗った彼らがいろいろと愚にも付かないことを言い出し、それを業界が盲目的に受け入れたのである。まったく、無駄遣いもいいところだ。

この関連で、「ブラックバイトを辞めたくなったら - バイト天国」というサイトの "『いらっしゃいませこんにちわあ!』に違和感" という昨年 6月 13日付のページの末尾に、次の記述を見つけた。

日本で最初に「いらっしゃいませ。こんにちわぁ~」の挨拶を定着させたのはサンクスだと言われています。そのサンクス(サークルKサンクス)が今ではファミリーマートに吸収され、なんと、ファミリーマートの澤田貴司社長はこの「いらっしゃいませ。こんにちわぁ~」式の挨拶を止めるように発表しました。業務の簡略化の一環だそうです。

ファミリーマートの社長もこの挨拶には違和感を感じていたのでしょう・・・。

この記事は出典、根拠が示されていないので鵜呑みにするのは危険だが、澤田貴司氏といえばユニクロでの経歴がよく知られていて、そこからするとこうした発想は「あってもいいかもね」と思う。

今となっては遠く過ぎ去った悪夢でしかないが、「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」というケッタイな挨拶は、少なく見積もっても 15年以上に渡り「時代の徒花」として世を席巻していたわけだ。「なにはともあれ、結果オーライで、よかった、よかった」と言うほかない。

 

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2019/12/09

カタカナ英語を巡る冒険 その 4: 発音記号というもの

「カタカナ英語を巡る冒険」というタイトルで書き始めたらなぜかハマってしまって、せいぜい 2回で終わるつもりだったのに 4回目になってしまった。今回は一応の締めくくりとして、「発音記号」というものについて触れておこうと思う。

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「発音記号」という言葉でググってみると、"英語の発音をよくしたいなら「発音記号」を覚えよう” といった類いのページがどっさり検索され、私もそれについては基本的に賛成だ。とくに中学校時代は新しく学ぶ単語の発音はほとんど発音記号で覚えたので、「とても便利でありがたいもの」というイメージがある。

こんなにも便利な発音記号なのだが、中学校の英語教育では驚くほど軽視されているようで、昔から今に至るまで、誰に聞いても「授業でまともに教わった覚えがない」と言う。実際、私の知り合いでもほとんどが発音記号なんてチンプンカンプンのようなのだ。実にもったいない話である。

確かに私も、昨日の記事で触れた「上野先生の英語塾」以外ではまともに教わった記憶がない。中学校の英語教師は「カタカナ発音」よりひどい「ひらがな発音」だったから、発音記号は「タブー扱い」でほとんど触れなかった。下手に触れたりしたら、自分の発音がいかにデタラメかをさらけ出すことになる。

というわけで同級生の多くが、英語の教科書にカタカナで振り仮名を振っていた。私は「カタカナで単語を覚えたりしたら、英語じゃなくなっちゃう」と認識していたので、決してそんなことはしなかったが、多くの場面で「カタカナ」は英語を覚える際の簡便な道具となっていたようなのだ。

で、当然にも、こうした悪循環に陥る。

まともな発音ができる英語教師が少ない

教師は教育現場で発音記号に触れたがらない

生徒が発音記号を覚えない

仕方がないのでカタカナに頼る

発音がカタカナ式で固定される

英語をカタカナで覚えた生徒でも教師になれてしまう

(最初に戻る)

こんな感じで、日本の「カタカナ英語」は「抜きがたいもの」として固定化されてしまったのだろう。古代においてモロコシの漢文をそのまま理解しようとせず、読み下すのに「返り点」なんかを駆使して言葉の順序をひっくり返したりした結果、中国語とは別物になってしまったような現象が、近代において英語でも発生してしまったのだ。

というわけで、日本人の多くが "read" も "lead" もカタカナで「リード」としか認識しないカラダになったので、「日本人は "R" と ”L” が区別できない」というのが国際常識となり、"Apple" が 「アップル」、"McDonald's" が 「マクドナルド」という、似ても似つかない発音に固定された。 

当時の英語の試験で、「次の単語のうち、下線部の発音が他と異なるものはどれか」なんて問題がよく出た。「次の単語のうち」というのは、例えば

"1. urban, 2, arm, 3, earth, 4. early"   なんていうようなものだ。

私は「自分では 4つともまったく同じように『アー』としか発音できない教師が、どうしてこんなのをいけしゃあしゃあと出題できるんだろう? 」と、不思議でしょうがなかった。教師は「自分でできないこと」を、平気で生徒に要求するのである。

あまりにも腑に落ちなかったので、ある時「先生はどうやって区別しているの?」と聞くと、「発音記号を見ればわかる」なんて言うのだった。ということは、発音記号に【ǝ:】【ɑ:】という違いがあると認識しても、その違いが自分自身の発音にまったく反映されていないことに、いささかの気持ち悪さも感じないで済んでいるらしい。

「本音と建前」を使い分ける、ある意味「便利な」日本流文化というのは、英語試験にまでしっかりと浸透している。

ちなみに私はつい最近まで、「発音記号」というのは日本独特のものなのかもしれないと思っていた。というのは、英英辞書や米国の辞書を見ると、見慣れた発音記号とは別のシステムで発音が示されているのである。例えば、こんな感じだ。(写真は "Oxford English Dictionary")

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改めてググってみると、Wikipedia の「発音記号」の項に次のようにある。

既存のアルファベット(通常はラテン・アルファベット)を基本にして、不足する字は文字の変形やダイアクリティカルマークの付加によって補うもの。この方法は現在もっともよく行われており、なかでも国際音声記号 (IPA) が広く用いられている。

(中略)

日本で出版される英語辞典は国際音声記号またはそれを多少変更・簡易化した記号を用いるのが普通だが、アメリカの英語辞典はそれとは大きく異なる発音記号を用いることが多い。

へえ、そうだったのか。英語の発音記号にもいろいろなバージョンがあるのだね。それでもまるっと覚えちゃえば、カタカナ英語にはならずに済むのだが。

 

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2019/12/08

カタカナ英語を巡る冒険 その 3: 中学校の英語教育

「カタカナ英語を巡る冒険」シリーズ 3回目として、自分自身がカタカナ英語にならずに済んだという幸運に感謝しつつ、その経緯をまとめたいと思う。

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今から 15年も前の 2004年 10月 25日に、"「地震」「英会話」「プラモデル」の三題噺" という記事を書いている。一昨日の記事でも書いたように、私は 1964年、小学校 6年生の時に「新潟地震」に遭っている。その地震の救援物資としてもらったのが、なぜかその年の東京オリンピックを当て込んだ英会話教材の「ソノシート」ってやつだった。

どうして「地震の救援物資」が英語教材なんだかさっぱりわからないが、ともあれたまたま巡り会ったソノシート教材のおかげで、私は小学校 6年生で録音されたネイティブの発音を真似て、英語の初歩は身に付けてしまったのだった。そして中学校時代は上野先生という素晴らしい先生の英語塾に通い、さらに磨きをかけることになる。

その頃には、ビートルズやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーなどの英語の歌を、それぞれの歌真似(訛りまで再現して)で歌えるようになっていた。帰国子女ってわけじゃないが、耳が良かったのか英語の歌はスルリと真似できたのである。

中学校 3年の修学旅行の際には東京タワーで出会ったアメリカのオバチャンと、割とスラスラ会話ができてしまった。この辺りのことは、11年前に "英語の授業と東京タワー"という記事に書いている。

そのオバチャンが後日、米国からプラモデルを送ってくれたので、15年前の記事のタイトルになったわけだ。そして何と、最近ふと思いついてググってみたら、あの時のソノシートと同じもの(上の写真)が オークションにかけられ、500円で落札されているのを発見してしまった(参照)。

この懐かしいデザインのソノシートが、英語を学ぶそもそものきっかけとなったのだから、個人的には 500円では「安過ぎ」と思うほかない。ただ「オリンピック・レコード集」というタイトルでは、「オリンピック記録集」ってことになっちゃうのが痛恨だよね。

こうして小学校 6年でネイティブの発音を身に付けてしまった私は、中学校に入学すると英語教師のムチャクチャな「カタカナ発音」に仰天してしまった。いや、あれは「ひらがな発音」と言う方がいいかもしれない。実際の英語を知らないからこそ、あれで恥ずかしげもなく英語教師でございますと言っていられたのだろう。

中学校時代に英語で苦労したのは、試験で 100点を取ることではなく(100点以外取ったことがない)、授業のリーディングの際に「(心ならずも)なるべくカタカナ発音で読む」ということだった。ともすれば自然に英語らしい発音になってしまうのだが、それだと教師の不興を買って妙な言いがかりを付けられるのだからたまらない。

その教師がある日の授業で動名詞と不定詞の用法に関し、あろうことか「"I stopped reading." と "I stopped to read." は同じ意味」と言い出した(記事末尾参照)。これにはさすがに堪忍袋の緒が切れてしまい、「英語の教師のくせにデタラメを言うもんじゃない!」と、猛然と抗議した。

彼は授業の最後まで自分の間違いを認めず、「お前は生徒のくせに生意気だ」なんてことまで言い出した。これで完全にブチ切れた私は生意気ついでに、「職員室に戻って『指導要領』の『不定詞の副詞的用法』という項目を読んで出直さないと、このまま一生恥かくことになるぞ!」と言ってやったのだった。

2〜3日後に彼は「よく調べたら、お前の方が正しかった」と、こっそり内緒話のように言ってきた。当日中には理解できず、そのくらい時間がかかったようなのだ。「それは授業中にみんなの前で言ってくれ」と申し入れたのだが、それについてはトボけ通されてしまった。彼は人生で出会った中で、最も尊敬に値しない教師の一人である。

というわけで、私にとって「カタカナ英語」というのは田舎の中学校の英語の授業を蘇らせる「悪夢」でしかなく、耳にするだけでストレスなのである。


【言うまでもないことながら、念のため】

I stopped reading the book.  (私は本を読むのを止めた)

I stopped to read the book.  (私は本を読むために立ち止まった)

"Stop" という動詞では、動名詞と不定詞が同じ意味にならない。

 

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2019/12/07

カタカナ英語を巡る冒険 その 2: 「英語アナウンス」と言っても

下の写真は昨日京都から帰ってきた際の、新幹線特急券である。今どきは特急券も自動販売機で購入できて座席だって自由に選べるから、いつも「4号車 13番 A席」にしている。

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4号車はいつも比較的空いていて、13番はとくにガラガラ。隣の B席(3列シートの真ん中)なんてさらに埋まりにくいから、余裕たっぷりに乗車できるのだ。数字で縁起を担ぐ人って少なくないので、JR の窓口でも「4号車 13番」は積極的には売りにくいのだろう。

おっと、昨日の「英語を巡る冒険」の続編を書くつもりだったのに、いきなり横道に逸れかけた。今日は新幹線のナマ英語アナウンスの中身が、いかに「どーでもいい」ものかを考察する。

英語アナウンスは、例えば次は京都に停車するケースだったら、お約束の日本語アナウンスに続いてすぐに、次のように流れる。

We are stopping at Kyoto station.  The door on the left side will open.(次は京都駅に停まります。左側のドアが開きます)

要するにこれだけ。たった二言なのだよ。しかも外国人には英語と気付いてすらもらえないレベルのカタカナ英語なのだから、昨日の記事の画像として使用させてもらった朝日新聞のビデオニュースの「新幹線で肉声英語のアナウンス」なんて見出しさえおこがましい程度のお話だ。

次の停車駅なんて、昔からドアの上の電光掲示板に日英 2カ国語で何度も表示されるし、どちらのドアが開くかなんて、少なくとも私は気にしたことがない。停車したら開いた方のドアから降りればいいだけの話なのだから。

上述のビデオニュースのタイトルは "新幹線で肉声英語のアナウンス” に続いて ”流暢でなくても好評" となっているが、こういうのを世間では「提灯記事」というのだ。ある意味、流暢じゃないからこそ、必要以上に大きな変化に見えているだけなのだろう。フツーにしゃべればフツーの話でしかないのに。

一方、昨日の記事の最後で紹介した文春オンラインの記事は "東海道新幹線の英語アナウンスは逆効果? 問われる「英語の質」" と疑問を投げかけている。ただ、サブタイトルで "グローバル化に向けて歓迎すべき流れだが……" と、半分は矛を収めているのだが。

実際のところは昨日の記事で次のように書いた通りと思うほかないのである。

この "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

「英語アナウンス」が実際に外国人に通じてるかどうかなんてのはどうでもいいことで、要するに「グローバル化と見せかけるための稚拙なアリバイ作り」なのだ。

文春が言うような「英語の質」が問われているわけですらない。だって仮にものすごく流暢な英語でアナウンスしたとしても、内容なんて上述の通り「言わずもがな」のことでしかないのだから。

 

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2019/12/06

カタカナ英語を巡る冒険 その 1 : 新幹線の英語アナウンス

奈良の吉野の山奥への出張を終えて帰宅した。ところで最近、新幹線に乗る度にそこはかとなく気になっているのが「英語の車内アナウンス」である。191206

前々からお馴染みの こんな感じ(← クリックで YouTube 動画が再生される)のネイティブ・スピーカーによる(保母さんが園児たちに諭すような感じの)録音のアナウンスも継続されてはいるが、 今はそれに加えて日本人車掌によるナマの英語アナウンスも流される。ただ、そのほとんどが「見事なまでのカタカナ英語」なのだ。

ネット界隈では「上手な人からカタカナ英語の人まで幅がある」なんて記述を目にする。しかしよく新幹線に乗る私でも、カタカナ英語以外のアナウンスは 1度も聞いたことがなく、ほとんど こんな感じ である。(4番目のアナウンスは比較的マトモだが、"L" と "R" の区別が付いていない)

上の写真のクリックでリンクする動画は、かなりわざとらしさが目立つが、JR 東海の英語アナウンスの練習風景ということになっている。ところが左側の指導担当者自身が相当なカタカナ英語で、飛行機の CA の英語も平均的にはかなりひどかったりするが、それを凌駕するレベルである。

これは朝日新聞によるニュース動画で、一応きちんと現場取材でやらせ動画を撮影しているわけだから、JR としては「ニュースにしてもらうのだから歓迎」というスタンスだったのだろう。「とりあえずちゃんとした英語原稿なんだから、お恥ずかしいものにはならない」程度以上のことは考えていなかったとしか思われない。

動画の中で指導担当者は「アクセントを間違えても気にしないでください。外国人のお客様は理解しようとしてくれています」などと、もっともらしいことを言っている。しかし現場に遭遇すれば、その期待は甘すぎるとわかる。

現場では日本語アナウンスに続いてすぐに英語アナウンスになる。日本人客なら少なくとも 「急に日本語じゃなくなったから、ここから先は英語(のつもり)なんだろう」ぐらいには思ってくれるが、日本語を知らない外国人客には、単にミステリアスな東洋の言葉の連続にしか聞こえないはずだ。

つまり「JR の車掌が英語でアナウンスをしている」という事実に気付いているのは、案外日本人だけかもしれないってことだ。ということはこの "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

このサービス、昨年 12月から始まったというのだから(参照)、既に 1年経過している。そしていつの間にかカタカナ英語のままで妙に早口になってしまい、ますますわからなくなってしまっている。

下手に慣れると逆に劣化してしまうという典型例だ。

ちなみに、このことについては過去にも 2度触れている。

新幹線の 「ムダに流ちょうすぎるカタカナ英語」 アナウンス
  (この記事に添えた録音は、かなりスゴい!)

新幹線の英語アナウンスが肉声になったようだ

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2019/12/04

”Snoopy" って、「うろうろ詮索しまくる」犬ってことなのだね

先月 27日の記事で "完全版 ピーナッツ全集 15 スヌーピー1979-1980" (¥3,080)を Amazon に発注したと書いたが、翌日ちょうど留守にしていた時に届いたようで、すったもんだの挙げ句、29日の日暮れ時にようやく届いた。3cm 以上の厚みのある本で、かなり読み応えがあり、しばらく楽しめそうである。

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ところで、12月 2日に "snoop" という英単語について次のような tweet をした。(参照

単純な英単語でも、知らずに生きてきたということが案外多い。恥ずかしながら最近、今さらのように知ったのは ”snoop” という単語の意味が「こそこそうろつく、嗅ぎ回る」だってこと。
そうか、「スヌーピー」って、そういうことだったのか。

”Snoopy" という固有名詞は知っていても、その元になった "snoop" という英単語の意味については、全然気にしたことがなかった。それだけ ”Snoopy というキャラが独立した魅力を発揮していて、敢えて名前の意味まで「詮索」してみる気になれなかったのである。

ところが、改めて調べてみると、こういうことだった(参照)。

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なるほどね。この単語、私があえて詮索する気になるのを待ちわびていたのかもしれない。

 

 

 

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より以前の記事一覧