カテゴリー「言葉」の611件の記事

2021年8月 2日

今さらだが、安倍晋三の皇室に関する意識を疑う

一昨日の記事で、恐縮ながら安倍前首相の「滑舌の悪さ」について触れた。東京 2020 大会の開催を決めた IOC 総会のスピーチの冒頭で、"Mr. President" (ミスター・プレジデント)を「ミスター・プレゼント」とやっちゃってる。

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この関連でググってみたところ、"「已む」読めなかった? 安倍首相が歴史的儀式で驚きの大失言" という AERA の記事(筆者は田岡俊次)が見つかった。

平成 31年(2019年)4月 30日、「退位礼正殿の儀」での「国民代表の辞」で、安倍首相(当時)が、「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません」というところを、「〜願っていません」と言っているというのである。これでは意味が逆になるので大問題だ。

YouTube  に登録された動画を確認してみると、確かに「〜願っていません」と聞こえる(11分過ぎ頃)。何度聞き直しても間違いない。

この記事で田岡は、安倍は「教養のある官僚」の書いた原稿の「願って已みません」の「已」の読みがわからず、「いません」と読んでしまったのだろうと推測している。「云々」が読めなくて「でんでん」と言っちゃうような人だから、あり得なくもない。

ただ私としては、このあたりはもうちょっと素直かつ常識的に考えたい。いくら「教養のある官僚」でも「今どきの人間」だし、一応「読み手(「でんでん」なんて言っちゃう人)の教養」まで配慮するだろうから、「已みません」という表記は考えられない。下の首相官邸の tweet (参照)もあるし。

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問題の動画を見ると、彼が口ごもり始めたのは「願ってやみません」の直前、「末永くお健やかであらせられますことを・・・」(10分 50秒頃)あたりからであることに注目したい。この部分、実際に声に出して読んでみればわかるように、アナウンサーの練習課題にしたいほど発音が込み入っている。

安倍としては当然口がついていけずにメロメロになってしまい、「あられますことを」と口走った後に、やっと「あらせられますことを」と言い直した。ただここでアセったせいか、その続きの「願ってやみません」の発音が、ドサクサ紛れ的に端折られてしまったようなのである。

ただ、彼の「代表の辞」はこの部分だけでなく、冒頭の「謹んで申し上げます」からして、まったく「謹んで」なんかおらず、「ツッシンで、モーシャゲます」と、さりげなくも無遠慮に端折られている。その後の「皇室典範特例法の〜」も「コーシキてんぱん〜」としか聞こえない。

彼はどうやら、”ts, d, s, r, y, m" の子音の発音と、日本語の原則、「仮名 1文字= 1拍・同じ長さ」(参照)のキープが苦手のようなのだ。ということはたとえアセらなかったとしても、「やみません」が「いません」に端折られる(下参照)ぐらい、自然の成り行きだったかもしれない。

【や/み/ま/せん → やぃ/ま/せん → い/ま/せん】

「滑舌の良し悪し」は身体的にある程度しかたのないことだから、差別的にどうこう言うつもりは毛頭ない。ただ、彼は普段「右側の政治家の代表」みたいな顔をしているのだから、こうした「荘厳な式典」の原稿は、もっと意識して慎重かつ丁寧に読むのが当然ということぐらいは、言わせてもらってもいいだろう。

「どうせ形式的な式辞だから」とばかり、無造作に本番に臨んだのがバレバレという点で、神経を疑ってしまうところである。

一昨日の記事で触れたように、「言い違い」や「トチり」には、深層意識内にある無意識の思いがひょろりと顔を出してしまいがちというのが定説だ。ということは、少なくとも彼の深層意識では、普段口にしているほどには皇室を尊重していないのではないかと疑われても。仕方のないところである。

 

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2021年7月30日

「謝らない謝罪」それは「遠回りな開き直り」

Newsweek 日本版の ”「謝らない謝罪」が日本で蔓延している” という記事に共感した。「その言葉への違和感」として望月優大氏の書いたものである。

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多くの読者は、見出しを見ただけで何のことだかすぐにわかるだろう。そう、例の「誤解を生じさせてしまったことについてはお詫びする」とか、「誤解を与えたのであれば申し訳ない」とかいう(かなり都合良すぎる)決まり文句のお話だ。

世間はとくに最近、この類いの妙なアポロジーに溢れていて、私もかなり気になっていたところである。記事によれば、英語には "non-apology" ("non-apology apology" とも)という言葉があり、オックスフォード大学が運営する辞書サイト "LEXICO" では、次のように説明されている(参照)。

謝罪の形式を取りながら、問題行為や混乱発生に関する責任を認めることや悔悟の念の表明にはなっていない声明(tak-shonai 訳)

つまり、形だけは謝罪のように見えても、言外に「俺、別に悪くないもんね」と語っている詭弁的なコメントを指す。

そのココロは、「そんなつもりはなかったのに、お前らが面倒なことをゴチャゴチャ言いやがるんで、鬱陶しいから一応形だけは謝っといたるわ」ということだ。これ、要するに「遠回りな開き直り」である。

森喜朗が 2月に東京五輪・パラリンピック大会会長を辞任した際の以下のような「〜けれども」「〜だが」の連続する戯言(参照)は、ただでさえみっともない non-apoiogy の中でも最低の部類と言っておく。

まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして。

菅首相も昨年末の多人数での会食についてツッコまれ「国民の誤解を招くという意味では、真摯に反省している」なんて言っている(参照)。しかしコトは「誤解」の余地なんてない「単純事実」なのだから「詭弁」というにもお粗末すぎで、実際はちっとも反省にも謝罪にもなっていない。

この他にも「そういう意味で言ったわけじゃないんですが・・・」とか「差別的意図はなかったんですが・・・」とか言うのは、こうしたコメントの枕詞のようなものだが、ちょっと心理学を囓った者なら、「そういう意味だったんだよ!」「本音がポロリと出たんだよ!」とツッコミたくなるに違いない。

フロイト心理学が広く認知されている米国では、ちょっとした言い間違いやトチりに深層心理内の本音がひょっこり顔を出すということは、知識層の常識みたいになっている。だから「そんなつもりじゃなかった」という言い訳で切り抜けるのは、米国ではもはや困難だ。

つまり彼らの問題発言は、「誤解を生じた」なんてことではなく「本音が図星でバレた」ということに他ならない。形だけの謝罪で済まされることではなく、本気で詫びて反省しなければならないところなのだ。

それができずに「些細な問題」で済ませている限り、彼らの本音はいつまでも醜悪なまま残るし、以後は巧妙にとぼけようとするだけに、ますます始末に負えない。

 

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年7月24日

「ジョン万次郎英語」というもの

昔、知り合いに「英語で『今、何時ですか?』と聞きたい時は、『掘った芋いじるな』と言えば通じるんだってね!」と言われ、即座に「通じないよ。そんなもん!」と返事したことがある。

ところがこの類いの話は、世間では「ジョン万次郎英語」と称され、意外にもマジで語り継がれているらしい。太平洋で漂流して米国に渡り、幕末から明治にかけて日本と米国の橋渡し的役割を果たしたといわれる、あのジョン万次郎の英語という意味だ。

米国に渡ってからの彼は、耳から聞こえるままの英語をそのままカタカナにして覚えていったと伝えられる。「英語の超裏技勉強法」というサイトの「ジョン万次郎の発音法」によれば、こんな感じだ。

「America - メリカ」「Japan - チャパン」
「cat - キャア」「cold - コオル」
「girl − ゲエル」「lip − レップ」
「man − メアン」「net − ネ」
「night − ナイ」「railroad − レーロー」
「river − レバ」「wind - ウィン」

なるほど、確かに「ど」が付くほどのカタカナ英語よりは実際の発音に近いだろう。

とくに「Japan - チャパン」はある意味秀逸で、最初の ”Ja" にはアクセントがないから、「ジャ」よりビミョーに軽い「チャ」と思う方が面倒がないよね。ただ、ここから入って妙にとらわれちゃうと、文字にした時につい ”Chapan” なんて書いてしまい、中国との間に余計な軋轢を生じそうだが。

単語の連なりとして見れば、"Let it be" はフツー 「レット・イット・ビー」じゃなく「レリビー」となる。そして問題の「What time is it now? - 掘った芋いじるな」は、その延長線上の一例とされているらしい。

しかし断言させてもらうけれど、フツーの日本語流の平板口調で「掘った芋いじるな」と言っても、相手は「???」になるだけである。ネタバレした後なら、「強いてそう聞こうとすれば、聞こえないこともないかもしれないかも・・・」ぐらいにはなるだろうが。

上述の「net − ネ」を例に取れば、ただ平板に「ネ」と言っても "net" のことだなんて思ってもらえないのと同じだ。これ、「ネッ」(強調するなら「ネェッ」)ってな感じで、最後に舌を上歯茎の裏に当てた感じにすれば、確実に "net" になる。

同様に「cold - コオル」も、この「まんま」ではまず無理だ。「コゥ」と発音して、舌を上歯茎の裏に当ててすぐに離せば、立派な ”cold" になるが。

とはいえ、これは「英語耳」で対応すれば実に単純な話なのだが、「カタカナ耳」しか持っていない人には雲をつかむようなことであるらしいのだね。

このあたりのことは、冒頭の YouTube 動画「英語耳をつくる最終兵器」で、とても上手にわかりやすく説明されている。要するに「ジョン万次郎英語」というのは、「英語の音がすごく苦手」という人のために限っての「最終兵器」としてならオススメということだ。

つまり、音感があって「ちゃんと耳コピーのできる人」は、そんなものに頼らない方がいいということである。そりゃそうだろう。"Railroad" をちゃんと ”railroad" と聞き、自分の口でも ”railroad" と発音することこそが正攻法であり、初めから「レーロー」なんて廻り道を辿る必要はない。

それにそもそも、”railroad" をどうしてもカタカナで表記したいなら「レーロー」じゃなく「ゥレイゥロゥ」の方がいいと思うがなあ。いや、音感が不足してると、これだとかえって訳がわからなくなってしまうから、せいぜい「レイロゥ」程度かなあ。

最近 Quora に、"日本語で「あぶない!」と叫んだら、英語では「Have an eye!」と伝わって、意味が通じるという話を聞いたことがあるのですが、本当ですか?" という質問が挙がっていた(参照)。これに対する答えは下記のようなことで、これもかなり納得である。

と言う事は、それを叫ぶ状況だという事ですね。それだったら「叫ばれた人は何かに気が付く」でしょう。それが「気をつけて!」と言う意味合いと取るかどうかは疑問です。

要するに「あぶない!」と叫べば、叫ばれた人はハッとして立ち止まるか何かして、とりあえずその場の目的は果たされるだろうが、それは "Have an eye!" とは無関係のストーリーということだ。実際問題として、そんな風に聞こえるというのはほとんど無理だろう。

そもそもこうした場合は、Quora の回答者が指摘されているように "Watch out!" (万次郎英語的には「ウォッチ・アウト!」じゃなく、「ヮチャウ!」ね。念のため)と叫ぶのが定番で、"Have an eye!" だと「見る目を持ちなさい」みたいなことになるだろう。

というわけで、「ジョン万次郎英語」というのは「最終兵器」と言えば聞こえがいいが、そのココロは「溺れかかって苦し紛れにつかむ藁」みたいなもので、初めから積極的に頼るようなものじゃないと思うのである。

 

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2021年7月15日

日本語の固有名詞をローマ字表記する場合のむず痒さ

昔の仕事上の先輩に「堀江さん」という人がいて、名刺には氏名のローマ字表記もしてあるのだが、外国人、とくに米国人には絶対に「ホリエ」と読んでもらえないとこぼしていた。「あいつらどういうわけか、俺のこと『ホーリー』だと思ってるんだよなあ」と言うのである。

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堀江さんには気の毒だが、それは無理もない。日本人の多くはローマ字表記さえしておけば、外国人にもちゃんと読んでもらえると思っているが、それは勝手な思い込みに過ぎないのだ。そもそも "Horie" と書かれていたら、私だってつい「ホゥリー」と読みたくなってしまう。

「入江さん」なら ”Irie" で「アイリー」だし、女性の名前で「文恵さん」なら "Fumie" で 「フューミー」だ。

米国人に「ホリエ」に近い発音で呼んでもらいたければ、例えば "Horryeigh" みたいな苦しい表記ならイケるかもしれない。私の名乗っている「庄内」も、思い切って ”Show night" ぐらいにしてしまえば「ショウナイ」に聞こえるはずなのだが、これではいくら何でも英語の意味が邪魔しすぎるよね。

そんなわけで、上に掲げた道路標識の画像だが、「東陽/Toyo」ならまともに読んでもらえても、「永代通り/Eitai-dori」は苦しい。「イーテイ・ドゥライ」なんて読まれそうだ。

ましてや「東砂/Higashisuna」「清洲橋/Kiyosubashi」なんて、魔法の呪文だ。クルマを運転している時にいきなりこんな綴りが出てきたら、日本人の私でもすらりとは読めない。ましてや漢字とセットなのだから、西洋人には「東洋の神秘」みたいに感じられるだろう。

さらに面倒くさい問題は、"Horryeigh" で、英米人には「ホリエィ」ぐらいに読んでもらえても、フランス人やブラジル人には妙な読み方をされてしまうに違いないことだ。とにかく、ローマ字で表記してしまえば外国人にもちゃんと読んでもらえるなんてことは、幻想と思う方がいい。

その昔、一緒に合気道を習っていた生まれも育ちもニューヨークのユダヤ人、ピーターは、「日本に住んで何年経っても、日本人が『マクドナルド』と言うのを聞くとムズムズ(itchy)する」と言っていた。堀江さんの「ホーリー」は、その裏返しみたいなものだろう。

【笑止なれど、念のため】

【追記】

上の道路標識の画像に関してだが、ローマ字のフォントが横に詰まりすぎで読みにくさに輪をかけている。日本製のフォント(「HGPゴシック」みたいな)みたいだが、せめて century みたいなフォントなら、無闇に目眩しなくて済むと思う。

 

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2021年7月 7日

「枝豆」は確かに「大豆」ではあるのだが

枝豆のおいしい季節になりつつある。ビールのつまみに枝豆なんか出されると、私は最近めっきり酒量が減ったので、枝豆ばかりパクパク食べて、あっという間に食べきってしまう。

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ちなみに、私が「枝豆は大豆である」と知ったのは、20代後半のことだった。これはフツーに知らない人が多く、tenki.jp のサイトにも "「枝豆」が成長すると何になる? 答えは「大豆」です" (2020/06/30 付)というウンチク・ページがあるほどだ。

13年前の記事にもちらっと書いているが、インド人を含む数人の友人とビールを飲んでいた時のことである。このインド人、つまみに出された枝豆が大変に気に入ってしまったようで、こんなような会話になった(元は英語だが、日本語に翻訳しておく)。

「このおいしい豆は、一体何だ?」
「エダマメ」
「いや、僕が聞きたいのは、英語で何て言うかってことなんだ」
「そんなの知らないよ。寿司が “スシ“ で、すき焼きが "スキヤーキ" なんだから、エダマメも "エッダマーミィ” でいいじゃん」

ところが、彼はそれでは納得しない。「英語でもちゃんとした言葉があるはずだ」と言い張るので、私は仕方なくバッグからコンパクトな豆本タイプの「英和/和英辞書」を取り出した。当時は英語を多用する仕事をしていたので、この辞書は必携品だったのである。今ならスマホで十分足りるが。

で、その辞書で "edamame" を引いてみたところ、ごく素っ気なく ”immatured soy beans" とあるではないか。これには思わず「はぁ !?」と叫ぶほど驚いてしまった。

「どうだ? 英語で何というか、わかったか?」
「英語で何というか以上のことを初めて知って、びっくりしてるところだよ。これって『未熟な大豆』なんだってさ!」

これはその場にいた友人全員も初めて知ったらしく、その話で大いに盛り上がってしまった。「大豆はすべて未熟なうちに食いたい」なんて言い出すやつまでいたほどである。

「すべて未熟なうちに食う」というのはさすがに暴論で、それじゃ味噌、醤油が世の中から消えてしまう。後日よく調べると、そこはそれ、枝豆は枝豆専用の品種改良がなされているようなのだ。上述の tenki.jp のページにも次のようにある。

近年は、大豆として収穫しない枝豆専用の品種で栽培するのがメジャーです。枝豆専用の品種は実に 400種類以上。収穫適期が短いので他府県に出回ることが少ないため、多くの地方品種があるようです。

なるほど、私の田舎でしか食えない「だだちゃ豆」(私は「日本一おいしい枝豆」と思っている)も、その一つだったのか。あそこまでいったら、さすがに「未熟な大豆」なんかでは済ませられないよね。

ああ、久しぶりで里帰りしてみたい。だだちゃ豆を食うためだけでいいから。

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2021年6月 7日

Gパン? ジーンズ?

Quora に ”友人がアメリカ人の家で「Can I borrow your G-pants?」と聞いたら「What the hell are you saying?」と言われたようです。なぜだか理由はわかりますか?” という質問がある。

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"Can I borrow your G-pants?" (G-パンツ借りれるかな?)には、日本人の私でさえ「G-pants って何のこっちゃ?」となってしまった。まさに ”What the hell are you saying?” (まったくもう、何を言いたいわけ?)なんて言いたくなる場面である。

寄せられた回答を見て、初めて「そうか、”Gパン” のことを言いたかったのか」とわかった。申し訳ないが、この質問って、ちょっとできの悪いネタかジョークなんじゃあるかいかと思ってしまったよ。

そもそもジーンズを日常的にはいて、アメリカ人の家で英語を話せて、その上でジーンズのことを "G-pants" なんて言っちゃう人、今どきいるのかなあ? 最近の若い人たちは、フツーに「ジーンズ」と言って、「Gパン」なんて言うのはかなり年配の人たちなんじゃあるまいか。

さらに言ってしまえば、ジーンズというアイテムは基本的に他人同士で貸し借りするようなものじゃない。サイズが合わなければどうしようもないしね。どうしても作り話の「ネタ」なんじゃないかなあと思ってしまう。(実話だったらごめんなさい)

私は昔、繊維・アパレル業界に関係していたが、この業界では年寄りでも当たり前のように「ジーンズ」と言っていた。メーカーが「ジーンズ・メーカー」、ジーンズ専門店が「ジーンズ・ショップ」(「Gパンメーカー」とか「Gパン屋」じゃない)となるのはもう、一般的にも「お約束」の範疇だろう。

もっとも英語だと「ジーンズ・ショップ」は "jean shop" (靴屋が "shoe shop" なのと同じ)。つい "jeans shop" と言いたくなるところでちょっとブレーキを効かせるので、「今は、外国人とジーンズの話をしてるんだな」と実感してしまうところだ。

ちなみに Quora には「G と pants ・・・ g-string の pants のことか? と思った可能性があります」という回答もある。いわゆる「紐パン」(セクシーな下着)のことで、それなら ”What the hell ・・・” と過剰反応されるのも当然だが、現実的には「紐パン貸して」なんて会話、ないよね。

そんなこともあってか、Quora のこの項目には「ハードオフ」という名前の店に関するリンクが表示されている。PC 部品など、中古ハードウェアを安い価格で売るのでこの名前なのだろうが、英語として使う場合は最大限の注意が必要だ。(結局のところ、いくら注意しても足りないのだが ー 参照

 

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2021年5月26日

パジャマ以上おしゃれ着未満だと?

今朝ラジオを聞いていたら、「コロナ禍ならではのヒット商品」というタイトルで「パジャマスーツ」というのが紹介されていた。「パジャマ以上おしゃれ着未満」というのが謳い文句なのだそうだ。

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テレワークで家にいながらにして仕事ができる上に、ちょっと外出できる程度の「きちんと感」があるというのがメリットなのだそうだ。ラジオでは、ネットワーク会議をする際にもスーツほどフォーマルではないが、カジュアルすぎない姿として画面に登場できると絶賛していた。

ただ、いつも「言葉」を重視したい私としては、「パジャマ以上」という言い方にしっかりと引っかかってしまった。話を聞き始めた当初は「それを着たまま寝て、そのまま起きて仕事もできる」、つまり「パジャマと仕事着の兼用が可能な服」(寝ても起きても着ていられる服)のことかと思った。

「そんなの、ありか?」「ランニングシャツ(wife beater)とサルマタじゃあるまいし!」である。

しかし「パジャマ以上」と言うからには、そう受け取るしかないではないか。例えば「3以上 10未満」と言ったら、「3」は含まれる。ということは、「パジャマ以上」と言ったら、「パジャマ」は含まれることになり、それを着たまま寝られる服でなければならない。

ところがネットで検索してみると上の写真のように、ソフォアで寝転がる分には問題なさそうだが、そのままベッドに入って寝るのはいくらなんでも憚られる。つまり「パジャマ以上」と言いながら「パジャマは含まれない」ということのようなのである。

というわけで、私としてはがっかりしてしまった。念のため断っておくが、「着て寝られない」ということにではなく、「以上」という言葉の意味をないがしろにして、単に雰囲気だけで訴求してしまうプロモーションの「言葉センス」の欠如にがっかりしたのある。

さらにそもそものことを言えば、「パジャマスーツ」というネーミングを聞けば、パジャマとしての用途の方がメインと思うのが自然というものではないか。パジャマとして使えそうにないものにこのネームングというのは、いかがなものかと思わざるを得ない。何と登録商標のようでもあるし。

ふと思い立って「以上/含まれる」というキーワードで検索してみたところ、「以上、以下、未満の使い分け」「含まれるか、含まれないか」を説明するページがくさるほどヒットした(参照)。ということは、曖昧なまま使っている人がずいぶん多いのかなあ。それもまた驚きである。

ちなみに私はこの季節、家で仕事するときは Tシャツにショートパンツである。そんなわけで、こんなのはちっとも買う気がしないので、そのあたり

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2021年5月25日

「スパゲティ・カルボナーラ」を突破口に

一昨日の「ティッシュペーパーのブランドとメーカー」という記事で、自分のスマホのブランドをしっかりと認識しているが、ティッシュペーパーのブランドを知らない人もいれば、その逆のケースもあるというようなことについて触れた。

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ことほど左様に、人は自分の興味のある分野では細かいことまで知識があるが、興味がない分野ではすっかり無頓着になってしまうものである。私の場合で言えば、カタカナ名前の食べ物がとんとわからない。

「カタカナ名前の食べ物は、ラーメンとカレーしかわからないんでしょ」なんて言われることがある。「とんでもない、パンとスパゲティだってわかるよ」と反論してみても、それ以上のことは本当によくわからないのだから、我ながら呆れる。

いや、実を言えば「カタカナ名前の食べ物」でも、英語由来のものなら大抵はわかる。オニオン・スープとか、ポテト・パイとかアイスクリームとかならしっかりわかるのだが、食い物の名前というのはやたらとイタリア語やフランス語が多いので厄介なのだ。

先日、妻とサイゼリヤで食事をしたが、メニューを開いてもカタカナだとさっぱりわからない。肉を食わない私としては、「野菜スパゲティ」というのを選べばいいので話は簡単だが、そうでなかったら途方に暮れてしまうだろう。

「この『カルボナーラ』ってのは、炭水化物ばかりのスパゲティなのかと思ったら、写真を見ると肉も載っかってるんだね」と言うと、妻は「それは炭焼き職人が山の中で自分で料理して食べたものだから、そういう名前になったという説があるのよ」と説明する。西洋の食い物の話になると、妻はやたら詳しい。

「へえ、炭焼き職人風だから、炭素の『カーボン』なんだね」
「そういう説があるみたい。でもそうやって何でもかんでも英語に翻訳して『カーボン』なんて言っちゃうと、趣きがなくなっちゃうけどね」

というわけで、妻としては興ざめしてしまったのかもしれないが、私としてはこうして「言葉と文化」に関連付けられると俄然興味が湧き、この日を限りに「スパゲティ・カルボナーラ」という料理の名前はしっかりと覚えた。これを突破口に、少しは料理の名前もわかるようになれるかもしれない。

とはいえ、肉が入っているみたいなので、「カルボナーラ」を自分で食べることはないのだが。

ちなみに、後日 Wikipedia で調べてみて、「カルボナーラ」の由来は「炭焼き職人風」以外にも諸説あると知った。中には「単にコショウの色から連想されたという説もある」というのもあって、「だったら、白コショウを使えば『スパゲティ・ライム』(石灰風)かよ!」なんて思ってしまったよ。

いや、イタリア語だと 「スパゲティ・カルチェ」か。

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2021年5月24日

『ラジオ体操のうた』のモヤモヤ感

昨日の朝の NHK ラジオを聞いていると、「私は『ラジオ体操のうた』が大好き」という投書が紹介された。この歌とともに、爽やかな 1日をスタートできるというような話だった。

『ラジオ体操のうた』というのは、藤浦洸作詞・藤山一郎作曲 という、往年の大御所によるもので、毎朝の「ラジオ体操」の前に流れされる。1番の歌詞は次の通り。(下記【注 1】参照)

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三

テレビ放送初期の NHK の人気番組だった「私の秘密」のレギュラー解答者としてもお馴染みだった作詞家の藤浦洸氏にイチャモンをつけたいわけでは決してないが、この際だから思い切って書いてしまおう。私の場合は子どもの頃からずっと、この歌詞を聞く度にモヤモヤ感が湧いてしまうのだ。

どういうことかというと、「胸を開く」というのがよくわからないのだ。

  1. 喜びに胸を開け
  2. ラジオの声に 健やかな胸を/この香る風に開けよ

このようにことさらクドいまでに歌われるのだから、この歌のキーワードなのだろう。しかしこれこそが、幼い頃からのモヤモヤの元なのである。

5〜6小節目で「喜びに胸を開け」というのはシンプルなセンテンスでもあり、その直後に「大空あおげ」とあるので、まあ喜びながら胸を反らせて、俯かずに上向き加減の姿勢を取れということなのだろう。そう受け取ることには、別に抵抗がない。

しかし 9小節目から 14小節目までとなると、「健やかな胸」を開く対象として、まず倒置法的な唐突さで「ラジオの声」が出てきて、その後にさらに「この香る風」というのが、ドサクサ紛れのようにたたみ込まれる。ちょっと忙しすぎるレトリックで、フォローしきれない。

この場合、「ラジオの声」と「香る風」の、どっちがメインなんだ? あるいは両方平等としても、それなら具体的にはどうしろというのだ? 室内の場合は、ラジオを聞きながら「香る風」を感じるために窓を開け放せというのか? 寒い冬には、窓を開け放さなくても想像で補えばいいのか?

日本全国の起き抜けでまだ頭がぼんやりした状態でいる人間に対する呼びかけとしては、あまりにも整理のついていないオファーではないか。「NHK さん、ちょっとわかりやすく説明しておくれでないか」と、幼い私は思っていた。

「あるいは」と、深読みしようとしたこともある。「まず『喜び」によって開いた胸を、ラジオの声を聞くことでさらに健やかな気分にし、次の段階でおもむろに、『香る風』に対して開け」と言っているのではなかろうかと。ただそれでも「一度開いた胸をさらに開け」というのはしつこ過ぎる。

「どういう価値感の元に、こんなわかりにくい押しつけをするのだ?」という疑問は深まるばかりである(下記【注 2】参照)。私のアスペルガー的傾向は、幼い頃からのもののようなのだ。

ただ、そんなことに朝からこだわっていては自分としてもいい気分じゃないし、「胸を開く」なんてことも到底できない。というわけで、その直後から始まるラジオ体操をすることで、「そんなどうでもいいことは忘れてしまえ」という話なのだろうと解釈しながら、モヤモヤを晴らしていた。

ところがせっかく晴らしたモヤモヤが、翌朝再び蒸し返されるのだからたまらない。小さなモヤモヤといえども、毎日繰り返されればイヤでも大きくなる。というわけで私は、「この歌は決してマジに受け取らず、ひたすら上の空で聞き流すべき歌」と学んだのであった。

ところが、この同じ歌が「大好き」で、その思いをわざわざ投書する人もいるのだから、世の中馬鹿にならない。前々からわかっていたことではあるが、この世でフツーに歓迎されるのは、具体的な「意味」よりもむしろ、もっともらしい「雰囲気」というものなのであった。

この「雰囲気」醸造には、藤山一郎作曲によるあのメロディが大きな役割を果たしているのだろうね。歌詞の方ではモヤモヤするが、曲は爽やかな「名曲」であると認めるにやぶさかではない。

【注 1】
Wikipedia によれば、この歌は『ラジオ体操のうた』としては 3代目で、1956年 9月に発表されたもののようだ。この歌のタイトルについては次のようにある(参照)。

『ラジオ体操のうた』(ラジオたいそうのうた)は日本放送協会(NHK)のラジオ番組『ラジオ体操』のテーマ曲である。『ラジオ体操の歌』とも表記される。

歌詞を確認するにあたって参照したページ(こちらこちら)では、堂々と『ラジオ体操の歌』と表記されていて、このあたり、「どーでもいい」という感覚のようだ。

【注 2】
「胸を開け」のしつこさに関しては、私としては「戦後にどっと入って来たアメリカ文化の影響で、米国人の分厚い胸板に相当なコンプレックスを抱いた結果なのかもしれない」なんて思ってきた。

 

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