「図に乗る」というのも、突き詰めるのは難しい
ミチルさんという方が "以前作った「図に乗るクッション」が商品化しました。座ると調子づくかも" と tweet しておられる。なるほど、座ると文字通り「図に乗った」というカタチになる。
ところが私はお恥ずかしいことに、この「図に乗る」という言葉の表記をずっと「頭に乗る」と勘違いしていた。改めて調べてみると『精選版 日本国語大辞典』に "「ず」は「頭」をあてることも多い" という但し書きもあるにはある(参照)が、やはり「図に乗る」が正しいようだ。
ただ、それでも疑問は残る。どうしてまた「図に乗る」なんていう言葉ができたのだ? そもそもこの場合の「図」って何なんだ? こうなると調べずにはいられなくなるのが、私の「ビョーキ」みたいなものである。
ググってみたところ、imidas のページには次のように書かれていた(参照)。
「図」は、仏教の声明(しょうみょう)で転調のことをいい、吟誦(ぎんしょう)の途中で転調がうまく行われることを「図に乗る」といったことからという。
へぇ、そんなこととはちっとも知らなかった。念のためもっと調べてみると、「日蓮宗 いのちの合掌」というページには、もう少し詳しく次のようにある(参照)。
元々は、声明の転調を「図」といい、難しい転調が成功することを図に乗る(上手くいく)と言いました。声明とは仏教の儀式において経文に節をつけて朗唱する声楽の総称で、古代インドに起り、仏教とともに中国を経て日本に伝えられたものです。
ですから、図に乗るとはネガティブな意味ではなく、本来は、少し難しいかな、大変かなという事にチャレンジをして、上手くいく成功することを指します。
つまり、元々は悪い意味ではなかったのだね。そこから「つけあがる」みたいな悪い意味に変化したことについては、AERA.dot に次のように説明されている(参照)。
ここでの「図」は、仏教の僧が唱える声明(しょうみょう)の転調のことです。この転調は難しく、うまくいくことを「図に乗る」といいました。そこから、声明の転調に限らず広く調子づくことを表すようになり、いい気になってつけあがるなどの悪い意味になりました。
なるほど、坊さんでも難しい転調がうまくいくと時にはつけあがってしまったりするようなのである。凡夫の身としてはよくよく気をつけなければ。
ただ、こうして言葉の上の説明だけでわかったつもりになるのも中途半端である。こうなったら、実際の声明の「図=転調」ってやつを聞いてみなければ気が済まないじゃないか。私の「ビョーキ」もかなり重症だ。
しつこくググってみたところ、伝統的な声明を再現した上に音楽をかぶせたものが見つかった。実際の URL には次のような説明がある(参照)。
この声明集では呂と律の部分が明確に朱と墨で書き分けられており、曲中に呂律が入れ替わります。
要するにそれが「転調=図」なのだろうか。よくわからないが、とりあえず聞いてみるほかない。下の動画の「▷」をポッチリしていただきたい。
はっきり言って、実際に聞いてもどの部分が「図=転調」に相当するのかわかりにくい。もしかしたら 2分 40秒あたりと、3分 20秒あたりなのかなあ。いずれにしても、モノにするのはかなり難しそうだ。
これ以上突っ込むと手に負えなくなりそうで、図に乗ってつけ上がったりするまでには遠く及ばない。最後に「呂律(ろれつ)が回らない」と言った場合は意味が違ってくるということを書き添えて、本日はこれぎり。
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