如何なるか是れ仏
たまには『無門関』ネタで何か書かないと、このブログが浅はかになってしまいそうなので、ほぼ 1年ぶりに禅の公案について書いてみようと思う。今回は第十八則「麻三斤」と二十一則「雲門屎橛」だ。
「如何なるか是れ仏」(仏とはどんなものですか?)と聞かれた唐代の洞山和尚は、手近にあった麻の実三斤を指し「これが仏じゃ」と言った。そしてその師であった雲門和尚は、同じ問いに「乾屎橛」(かんしけつ)と答えたという。
乾屎橛とは、トイレットペーパーなんてもののなかった昔、「うんこ」をした後にケツの穴の始末をした「糞かきべら」のことである。長い間どんなものだろうと思っていたが、ちょっと画像検索したら上の写真が見つかった(参照)。はてさて、ものは調べてみるものである。
「仏とは?」の問いに「麻三斤」と答えるのは、まだありそうな気もするが、「乾屎橛」とはよくぞ言ったものと感心というか、感動すらしてしまう。見る者が見ればすべてのものが「仏」ということで、そうなると乾屎橛でかく「うんこ」すらもやはり仏なのだろう。
ということは、奈良の大仏を拝んでもうんこを拝めないのでは、仏をわかっていないってことである。仏道は一筋縄ではいかないが、何しろ自分のしたうんこを拝めば、最初の一步ぐらいは踏み出せるかもしれない。そう思って今朝のうんこを拝んでみたら、案外いい気持ちがした。
私は小学生の頃に夏目漱石の『草枕』を読んで、初めて「乾屎橛」という言葉を知った。主人公が田舎の床屋で散髪していると口の減らない小坊主がやってきて、去り際に「咄この乾屎橛」と捨て台詞を残す。「咄(とつ)」というのは「舌打ちの音」とか当時の憎まれ口とか言われるが、よくわからない。
ただ私の読んだのは小中学生向けの簡易版だったためか、「とつこのかんしけつ」とかな表記してあって、「かんしけつ」に「糞かきべら」という「注」があったように思う。このため幼い私は、「鶏っこ(とっこ)の糞を肥料にするための始末をするへら」みたいなものを思い浮かべていたのだった。
幼い頃の思い込みとはなかなかコワいもので、何とこれが今になっても消えない。それで雲門和尚の「乾屎橛」を聞くと、お釈迦様がのんびりとお経を唱えながら、鶏糞を陽に干している図なんかが想像されてしまう。
ただ、これはこれで意外に趣きのあるイメージで、「如何なるか是れ仏」の問いに「即ち陽光の鶏糞」なんて答えても、案外怒られずに済むかもしれない。
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