カテゴリー「哲学・精神世界」の213件の記事

2022年1月22日

幸福になりたいなんて、ことさらに思ったことないし

東洋経済 ONLINE に「幸福になりたいと願う人が幸福から遠ざかる皮肉」という記事がある。「真剣に考えるにはあまりにも重すぎるテーマ」というサブタイトル付きで、筆者はストックホルム商科大学経営戦略・マーケティング学部教授のミカエル・ダレーンという人だ。

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この記事は、次のような紹介で始まっている。

人が幸福だと感じる条件をまとめた『幸福についての小さな書』で、著者のミカエル・ダレーン教授(ストックホルム商科大学)は最後の章を「幸福を真剣に考えるのはやめよう」と締めくくっています。幸福感を高める本で、「真剣に考えるのはやめよう」と伝えた真意とは?

この書き出しを読んで私は、これまでの人生で「幸福になりたい」とか「幸福とは何か?」なんてマジに考えたことは一度もないと思い当たった。そもそも人生はなるようにしかならないのだから、「幸福」なんてことを真剣に追い求めるのは私の管轄事項じゃない。

そもそも「幸福になりたい」と考えるのは、「現状は幸福じゃない」と思っているからだろうし、その点で言えば、私は「自分は不幸だ」なんて思ったことも一度もない。「そこそこ、こんなもんなんじゃないの?」という自己認識なので、ことさら幸福をこいねがう必要もないのだ。

幸福を突き詰めて考えれば確実に幸福になれるというなら考えないでもないが、そんなことがあるはずもないので、当然のごとく「しょうもないことを考えるより、することは他にいくらでもある」ということに落ちついている。

これって、ミカエル・ダレーン教授の言う「幸福を真剣に考えるのはやめよう」という話と見事に合致しているじゃないか。幸福なんてことさらに考えない方が幸福感が高まるというのだから、限られた人生の時間の中ではほかのことを考える方がずっといい。

そもそも教授によれば「幸福とは異常な状態」であり、「人よりも幸福を真剣に考えている人は、平均して幸福度が少し低い」という研究結果さえあるという。ということは、「幸福」なんて追い求めるだけ無駄というより、むしろ弊害の方が大きい。

というわけで私は図らずも、「幸福」ということに関しては望ましい態度で暮らしてこれたわけだ。これって、幸せなことと思っていればいいのだろうね。

【1月 23日 追記】

そういえば、5年ちょっと前に "「幸福 と「幸せ」 とは、ビミョーに違ってる" という記事で、"小学生の頃に「この世に本当の幸福なんてあり得ないから、別に期待しない」という、まったく可愛げのない作文を提出" したというようなことを書いていたのを思い出した。

基本的に、今でもこのスタンスに変わりないと思う。

 

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2022年1月 1日

虎と共に睡りたい新年

明けましておめでとうございます。年頭恒例の、干支入り年賀状をお届けします。今年のテーマは「四睡図」。

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「四睡図」というのは、唐代の禅僧、豊干(ぶかん)と寒山拾得が虎と共に睡る姿を描いたもので、森羅万象の静寂という禅の神髄を示すものと言われている。とはいうものの、それがどうして「禅の神髄」なのか、わかったようでわからない話ではあるのだが。

豊干と虎というのは、セットで語られることが多い。これは彼がしょっちゅう虎の背に乗っていたと伝えられることによる。彼はさらに、禅ではお馴染みの寒山拾得の理解者であったことでも知られる。

よくわからない話の糸口として、上の「四睡図」に付けられた遂翁元盧(寛政年間の臨済宗僧侶)による画賛を下に掲げてみよう。

四睡一睡 【四睡ひとたび睡れば】
鼻息如雷 【鼻息雷の如し】
聞得分曉 【聞き得て分暁(夜明け)ならば】
寒拾再來 【寒拾(寒山拾得)の再来】

「森羅万象の静寂」のはずが、鼻息が雷のようだというのだから、いくらどうこう言っても結局のところよくはわからない。いずれにしてもとにかく、豊干と寒山、拾得が、雷のような鼻息を立てて虎と眠るというのである。

そしてその音を聞いている気分のうちに夜が明けることになれば、寒山、拾得が再来するってわけだ。この 2人は文殊菩薩と普賢菩薩の再来とも言われていて、絵を見る限りはなかなかいい感じでもあるし、まあ、そういうことだ。(「って、どういうことか?」とは、聞かない約束で)

まあ、小理窟ではよくわからないのが禅の神髄なのだろう。というわけで私としても、せめて元日ぐらいはコロナなんて気にかけず、「寝るより楽はなかりけり」で過ごしたい。もしかしたら、別次元の宇宙に目醒めることができるかもしれないしね。

ただ、浮世の沙汰に追いまくられて、三が日を寝てばかりというわけにもいかない。悟りにはまだまだ遠いようだ。

というわけで、今年もどうぞ

Yoroshiku4

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2021年10月27日

日本語を読めない日本人って、ザラにいるから

下の画像は、東洋経済の 2018年 12月 26日付 "衝撃!「日本語が読めない日本人」は案外いる" という記事の冒頭だ。"AI に仕事を奪われる、中学生以下の大人たち" というサブタイトル付きである。

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なんでまた、こんな 3年近く前の記事を持ち出したのかというと、私の今月 23日付「人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)」という記事との関連でググられてしまったからだ。

この記事は、次のように始まる。

次の2つの文が表す内容は、「同じ」でしょうか、「異なる」でしょうか。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」

「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

当然、「異なる」が正解です。しかし全国の中学生857人の正答率は、なんと57%。「2択問題」の正答率は当てずっぽうでも50%になることを考えれば、驚異的な低さと言えます。

私としてはこんなのを読んだら、2番目の文の後半に至った瞬間に「おいおい勘弁してくれよ。主語が違っちゃってるだろ!」となるのがフツーと思ってしまうが、何と、全国の中学生のほとんど 2人に 1人はフツーじゃないらしい。いやはや、困ったことだよね。

この記事の 4ページ目の "偏差値と「読めなさ」の強い関連性" という項目では、「生徒の学力を向上させるには、数学の問題を解いたり、歴史上の出来事や年表を暗記したり、化学式や数学の公式を暗記したりするだけではなく、教科書を読む力を高めることも重要である可能性」が示されている。

そういえば私は 2013年 4月 8日付の「学校の授業は、セレモニーのようなもの」で、「小学校の授業というものをまじめに受けたことがない」と書いている。年度初めに教科書が配られるとすぐに読み終えてほとんど理解してしまうので、授業はまどろっこしい「後追い」に過ぎず、退屈でたまらなかったのだ。

この「読むと同時に理解する」というのは、小学生の私にとっては当たり前すぎることだったのだが、後々になって、必ずしも当たり前というわけじゃないと気付いた。同じ文字情報に接しても、それがさっと頭に入るやつと、全然入らないやつがいるという事実を、何度も目の当たりにしたからである。

これ、もっと根本的なレベルで言うと、「文字さえあれば自動的に読んで理解しちゃう」やつと、「文字があってもまともに読めないままスルーしちゃう」やつがいるってことだ。

私は上述の今月 23日付の記事で、「日本語だと読んでも、英語だと完全スルー」という層が多いということを言っているのだが、現実はもっと厳しくて、「日本語でも、うやむやのうちにスルー」という層が結構多いようなのである。

ということは、「ここにちゃんと書いてあるのに、何でわかんないんだよ!」なんて言ってキレたりしちゃいけないってことだ。「書いてあるのにわからない人」に求められたら、ちゃんと彼らの身になって、「あっ、そうだったのか!」と納得してもらえるように、上手に説明しなきゃいけない。

それはある意味、インテリの義務だとまで思う。難しいことを難しい言い回しで述べるのは比較的楽だが、そこから一歩進んで、やさしい言い回しや馴染みやすい譬え話でも説明できるようになることが、人類愛というものだろう。そのあたり、なにぶん

Yoroshiku4

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2021年10月18日

「スピテロ」というのがあるらしい

きよみ@社労士さんという方が、「スピテロは禁止」という tweet をしておいでだ(参照)。一体何のことかと思ったら、どうやら「スピリチャル・テロリズム」の省略形らしい。最近あちこちの神社の境内で、塩で円を描いて何やらしたがるのが増えているようなのだ。

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きよみさんによれば「塩の結界の中に入って浄化〜」みたいなことをしたがるのがいるらしいが、その痕跡は他人からみたら気色悪いだけのものになってしまう。「普通に境内は汚れるし、掃除が大変だし、勘弁してくれ〜」と言いたくなるのもわかる。

どうしてもこうした「浄化儀式」みたいなことをしたければ自分の家でやればいいのだろうが、世の中の思い込みの激しいカルティックな人は、元々からして十分な「結界」である神社の境内に「さらなる結界」を作ってでも、何やら特別なことをしたがるのだろう。ご苦労なことである。

「塩のもつ浄化力」というのは、古くからの信仰に根ざす考え方ではある。元々は神道の考え方で、神社本庁のサイトの「清め塩について」というページには、「塩の力に祓いの願いを託すことは、祖先から受け継がれた英知なのです」と書かれている。

近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される。仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型のような気がするが、葬儀屋さんとしては必須の作業で、あれを用意しておかないと「手抜き」扱いされてしまうんだろうね。

葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」で、私としてはそんなのしたことがない。かと言って敢えて受け取り拒否するのも無粋だろうし、持ち帰ったところで我が家常備の天然塩とは違うので一緒にしたくないしで、結局捨ててしまう。

いわば「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられないのだよね。一人一人にしてみればほんの少量だが、まとめてみればかなりの「食品ロス」でもある。

まあ、「スピテロ」というほどのことじゃないが、あれって、葬儀屋さんが効率志向によっていつの間にかスタンダードを作ってしまったんだろうね。

話が逸れかかったが、そんなわけで「塩の浄化力」という考え方は理解するとしても、神社の境内でのべつこんなことをするのが流行ってしまったら塩害になるだろう。樹木が枯れるなんてことになったら、完全に「スピテロ」だ。

良い子はこんなの、止めとこうね。

 

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2021年6月21日

『般若心経』は「はんにゃしんぎょう」と読んでね

昨日午前の TBS ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」のゲストは みうらじゅん で、例の「アウトドア般若心経」の話もしていた。経文の文字のある市街の看板等の文字を写真に撮り、それを組み合わせて経文を完成させるという酔狂である。まあ、誰にも迷惑はかからないから、好きなだけやればいい。

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ただ、前々から気になっているのは、世の中には『般若心経』を「はんにゃしんょう」と、鼻濁音でなく清音で発音する人が結構いて、そこはかとない違和感が醸し出されてしまうことだ。そしてあろうことか、この みうらじゅん もその一人なのである。

この男、昨日の番組でも安住アナがきちんと「はんにゃしんょう」と言っているそばから、何度も何度も「はんにゃしんょう」と発音して恥じない。思い起こせばかなり昔から、彼がまともに発音するのを聞いたことがない。

『般若心経』が「はんにゃしんょう」であるのは、上の経文をクリックして拡大し、振り仮名を確認してもらえば嫌でもわかる(参照)。

さらに「般若心経」のキーワードでリンクされる、ありとあらゆる寺院での読経の動画(参照)を再生して聞いていただければ、すべて「はんにゃしんょう」と鼻濁音で発音しているのが確認できるはずだ。この程度のことは、仏教の「いろはのい」である。

『般若心経』や仏像に関する著書まであり、仏教でメシを食ってる感まである みうらじゅん が、いつまで経っても「はんにゃしんょう」なんて言っているのは、単にネタとして扱っているだけで、決して信心からではないことを物語っている。

実は、まともに読経したこともないのだろうね。きちんと習って読経しさえすれば、自然に「はんにゃしんょう」の音が身に付く。

この男の信心の足りなさは、お寺の本堂の中で帽子を取らないままテレビに映っていたことからも窺われ、これについては 11年前の 8月 21日付「お寺の本堂の中での帽子着用」という記事で触れている。こんなことだから、「いろはのい」を誰にも教えてもらえないのだろう。気の毒に。

というわけで、私は曹洞宗の坊主の孫(父方の祖父が僧侶)ということもあり、こればかりは触れておこうと思ったわけだ。触れても触れなくても別にどうということもないのだけれど、まあ、そこは一応・・・

Shikisokuzeku

 

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2021年3月24日

「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」

東洋経済 ONLINE に、評論家の中野剛志氏による "コロナ禍で自主的にマスクを着けた国民の智慧 新しい事態の難しさに「黙って処した」小林秀雄" という記事がある。"この新型コロナウイルスがはらむ最大の問題は、ウイルスが、文字通り「新型」であることにある" という指摘が示唆に富んでいる。

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当ブログは 3月 19日に「自民党諸氏のマスクに関する勘違い」という記事を書いた。麻生太郎副総理が報道陣に「マスクはいつまでやることになってるの?」と逆質問したという件について触れたものである。

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一応、19日の記事の冒頭を引用しておく。

麻生太郎氏が報道陣に逆質問 「マスクはいつまでやることになってるの?」" という記事に驚いてしまった。「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と言ったのだそうである。こんなことをマジに聞くとは、よほど頭が悪いとしか思われない。

この日は飛騨路の旅から戻ったばかりで仕事がたまっていたため、あまり突っ込むことができず、「そのうち、じっくり書かなきゃいけないだろう」と思っていた。しかしここまで来たら、小林秀雄まで持ち出してしっかりと考察してくれた中野氏の記事を紹介する方がいいようだ。

中野氏の指摘のポイントはまず、今回のコロナ禍の最大の問題が、その新しさから来る「不確実性」にあるということだ。この不確実性故に「従来の思想が通用しない」という点は、1937年の日中戦争勃発に端を発した太平洋戦争時代の状況と共通していると彼は言う。

小林秀雄は終戦にあたり、国民の発揮した「智慧」に関して「思想家は一人も未だこの智慧について正確には語つてゐない。(中略)この事変に日本国民は黙つて処したのである。これが今度の事変の最大特徴だ」(「満州の印象」) と書いたという。

世の中には、あるいは「日本には」と言うことも可能なのかもしれないが、「黙って処す」という「智慧」があるようなのだ。これを「智慧」と表現していいのかどうか、諸説あるだろうというほど、まことにもって「不思議な智慧」というほかないが。

今回のコロナ禍において、国民が自主的にマスクを着けていることに関しても、中野氏は同様に「国民の智慧」だと指摘する。お上の強制的な命令に従っているわけではなく、ことさらに明文化された規定があるわけでもないのに、「黙って処す」という「不思議な智慧」が発揮されているわけだ。

報道陣に馬鹿な質問をする麻生氏(一応、総理大臣経験者)はこのあたりを、あたかも「誰かが決めるべきこと」のように錯覚し、それならば期限だって定められるべきだと、小学生でもしないような了見違いをしている。もう一度繰り返すが、「よほど頭が悪いとしか思われない」のである。

最近つくづく思うのだが、この国では「本当に優秀な人材」というのは、もはや「政治家になろう」なんて思わなくなったんじゃなかろうか。世の中をまともに認識できない頭の悪い連中が、議員になりたがって選挙に立候補し、みっともないほどの選挙運動を展開して、そのなれの果てが総理大臣だ。

最近、菅首相の「言葉感覚」のなさに驚く (3月 12日付)、菅首相の「言葉感覚」のなさに、改めて驚く(3月 12日付)と、2度にわたって首相の能力に大きな疑問を呈したが、要するにそういうことなのだろう。前の総理大臣も「云々」を「でんでん」なんて読んで大恥かいてたし(参照)。

要するに彼らは、政治家という職業の「カッコ悪さ」に、まだ気付けないという「頭の悪い人たち」なのだろうと思えば、いろいろなことが妙に納得される。国会にはその「目を覆うような代表的存在」がしっかりと存在し、あまつさえ大臣にまでなっているのだから、まったくもって恐ろしい(参照 1参照 2)。

本日の記事の "「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」" という身も蓋もないタイトルは、こんなところから発してしまったわけだ。

 

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2020年12月 2日

如何なるか是れ仏

たまには『無門関』ネタで何か書かないと、このブログが浅はかになってしまいそうなので、ほぼ 1年ぶりに禅の公案について書いてみようと思う。今回は第十八則「麻三斤」と二十一則「雲門屎橛」だ。

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「如何なるか是れ仏」(仏とはどんなものですか?)と聞かれた唐代の洞山和尚は、手近にあった麻の実三斤を指し「これが仏じゃ」と言った。そしてその師であった雲門和尚は、同じ問いに「乾屎橛」(かんしけつ)と答えたという。

乾屎橛とは、トイレットペーパーなんてもののなかった昔、「うんこ」をした後にケツの穴の始末をした「糞かきべら」のことである。長い間どんなものだろうと思っていたが、ちょっと画像検索したら上の写真が見つかった(参照)。はてさて、ものは調べてみるものである。

「仏とは?」の問いに「麻三斤」と答えるのは、まだありそうな気もするが、「乾屎橛」とはよくぞ言ったものと感心というか、感動すらしてしまう。見る者が見ればすべてのものが「仏」ということで、そうなると乾屎橛でかく「うんこ」すらもやはり仏なのだろう。

ということは、奈良の大仏を拝んでもうんこを拝めないのでは、仏をわかっていないってことである。仏道は一筋縄ではいかないが、何しろ自分のしたうんこを拝めば、最初の一步ぐらいは踏み出せるかもしれない。そう思って今朝のうんこを拝んでみたら、案外いい気持ちがした。

私は小学生の頃に夏目漱石の『草枕』を読んで、初めて「乾屎橛」という言葉を知った。主人公が田舎の床屋で散髪していると口の減らない小坊主がやってきて、去り際に「咄この乾屎橛」と捨て台詞を残す。「咄(とつ)」というのは「舌打ちの音」とか当時の憎まれ口とか言われるが、よくわからない。

ただ私の読んだのは小中学生向けの簡易版だったためか、「とつこのかんしけつ」とかな表記してあって、「かんしけつ」に「糞かきべら」という「注」があったように思う。このため幼い私は、「鶏っこ(とっこ)の糞を肥料にするための始末をするへら」みたいなものを思い浮かべていたのだった。

幼い頃の思い込みとはなかなかコワいもので、何とこれが今になっても消えない。それで雲門和尚の「乾屎橛」を聞くと、お釈迦様がのんびりとお経を唱えながら、鶏糞を陽に干している図なんかが想像されてしまう。

ただ、これはこれで意外に趣きのあるイメージで、「如何なるか是れ仏」の問いに「即ち陽光の鶏糞」なんて答えても、案外怒られずに済むかもしれない。

 

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2020年9月19日

「初めに言(ことば)ありき」と、「不立文字」

「初めに言(ことば)ありき。言は神と共にあり。言は神なりき」というのは、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭である。この「言(ことば)」というのは、ギリシア語の原書では「ロゴス」という言葉で書かれているという。

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ということは、「初めに言ありき」の「言(ことば)」というのは、単に辞書的な意味での「言葉」、つまり「モノゴトは言葉によって認識されるよね」なんていう程度の軽いものではない。もっと根源的なものということになる。

「それはイエス・キリストそのものを意味する」と解説するウェブページも少なからずある。ということは、「神・神の子(イエス・キリスト)・聖霊」は三位一体だから、「初めに神のみが存在した」ということに他ならない。そして「すべてのものは神によってできた」と続く。

というわけで、宗教的に深い意味での「言葉」とは、「神の摂理」あるいは「神そのもの」ということだ。そして、根源的な意味での「言(ことば)」、つまり「神の摂理」「神そのもの」を、我々がフツーに使うレベルの言葉を使って表現しようとすると、どうしても「表現しきれない部分」が残されてしまう。

我々の言葉は「有限の意味」を表現するから、どうしても「神の摂理そのもの」は表現できない。「無限」を「有限」で表現しようとしても不可能ということだ。

仏教でいうところの「不立文字」というのも、これと共通するだろう。「拈華微笑」の公案は、「不立文字」「教外別伝」を現すと言われる。

釈迦牟尼仏が霊鷲山(りょうじゅせん)上で弟子たちを集め、無言でただ手に持った花を拈って見せた時、誰もその意味を理解できなかった。しかし独り、迦葉(かしょう)尊者のみが釈迦の真意を理解し、にっこりと微笑を浮かべたという。

すると釈迦は、「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相の微妙(みみょう)の法門あり、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふぞく)す」と言われたという。つまりこの瞬間に、釈迦は自身の跡を継ぐ仏教第二祖として摩訶迦葉を指名したのだった。

釈迦が言葉を発せずに、ただ花を拈って見せただけというのは、仏教の究極的真理は普通の言葉によって表現できるものではなく、ただ象徴的に現すほかないからである。まさに「不立文字」というわけだ。

ローマン・カソリックにおいては、ペテロをイエス・キリストの正統な後継者としているが、それは「ヨハネによる福音書」21章 15〜17 の記述に基づいている。そこにはイエスがペテロに向かい「私を愛しているか」と 3度続けて同じ問いを発したと書かれている。

それに対してペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、3度同じように答えた。するとイエスは「私の羊を飼いなさい」と、やはり 3度言われたというのである。これもまた、象徴的な話だ。

つまり究極的真理というのは、いくら言葉を尽くしても遂には具体的に表せないもので、象徴的に表現するしかないということのようなのである。私が 18年以上もブログを書き続けて、ちっとも真理に迫れないのも当然というものなので、大目に見ていただきたいってことだ。

 

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2020年8月15日

久しぶりの『般若心経』

今月 10日の「玄米に味噌汁・漬物だけの、至高のグルメ」という記事に、「一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」というフレーズからの連想だろうが、らむね さんが「この自粛期間で円周率100桁、寿限無、徳川歴代将軍、雨ニモマケズ、をコンプリートしました!」とコメントしてくれた。

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大したものである。私も「寿限無」(「寿限無寿限無五劫の擦り切れ・・・」で始まる長い名前)なら小学生の時にモノにしていて、『雨ニモマケズ』は今からでも頑張れば何とかなると思うが、ほかは全然ダメだ。円周率なんて小数点以下 18桁より先はどうして覚えられるのか見当も付かない。

で、あまりにも情けないのでほかに何かないかと考えてみると、『般若心経』があるじゃないかと思い当たった。僅か 300字足らずの短いお経だから、暗唱している人は世の中にいくらでもいて、とくに自慢にもならないが。

私の父は折に触れて『般若心経』を唱える曹洞宗の寺の息子として生まれ、浄土真宗を宗旨とする私の実家の婿養子となった。そして亡くなる前に「死ぬのはちっとも構わないが、ただここは浄土真宗の家だから、あの世へ行って『般若心経』が聞けないのはちょっと淋しい気がする」とこぼしたことがあった。

ちなみに『般若心経』はどの宗旨にも共通するお経と思っている人が多いが、実は浄土真宗ではあまり唱えない。「絶対他力」を旨とする真宗としては、「あれは『自力本願』のお経」という位置付けなのだと、どこかでチラッと聞いたことがある。

その時、私は「大丈夫、大丈夫。俺が時々こっそり『般若心経』誦げるから、安心してあの世に行っていいよ」なんて言ったのである。まったく妙な請け合い方をしたもので、親孝行なんだか不孝なんだか知れたものじゃない。

そんなわけでお盆ということもあり、父の遺影の前で久しぶりに『般若心経』を誦げた。

ところが最初の「摩訶ァ 般若波羅密多心経ォ〜〜〜」と唱えた時点で、「しまった。これ、ずいぶん久しぶりだから、途中で詰まったりカンじゃったりしたら、親父に申し訳ないな」と思ってしまった。「経本を開いとけばよかった!」

しかし、つい空で始めてしまったからには仕方がない。そのまま「観自在菩薩 行深般若波羅密多時〜」と続けていくと、まあ、何とか自然に出てくるものである。やはり一度体で覚えたことというのは強い。最後に近い「羯諦羯諦」(ぎゃーていぎゃーてい)まで辿り着くとホッとした。

そして「般若ァ心経ォ〜」で、めでたくフィニッシュ。生前はちっとも孝行らしい孝行はできなかったから、今さらながらせめてもの償いである。

 

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2020年8月13日

「至高のグルメ」は、コロナ問題への模範解答かも

今月 8日に「新型コロナウィルスが突きつけている根本的な問題」という記事を書いた。そして 2日後の 10日に書いた「玄米に味噌汁・漬物だけの、至高のグルメ」の種明かしをすると、「その『根本的な問題』への模範解答になるかも」というちょっとした思惑があったりしたのである。

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8日の記事は、感染リスクを避けるために「不要不急の外出を避ける」という当然の要請と、「Go to キャンペーン」に象徴される「経済のシュリンクを避ける」という至上命令とのギャップについて述べたものだ。これは政府の愚策という以上に「人類的矛盾」というべきもので、要するに「業」である。

つまり新型コロナウイルスが突きつけているのは、「経済成長しなくても人間が生きていける社会構造を実現するために、人間の欲望というものとどう折り合いをつけるか」という、根源的な問題と言える。これがわからないと、「人類的矛盾」は永遠に解決されない。

そして「週休 5日・年収 90万円台」で、「玄米に味噌汁・漬物だけ」というメニューを毎日三食自炊していたという、超シンプルなライフスタイルは、その問題解決への一筋の光とも思えたのだった。決して「図らずも粗食に耐えていた」というわけではなく、ある意味「至高のグルメ」だったのだから。

これまでは、「美味いものを食い、お洒落な服を着て、世界各地に旅行し・・・」というライフスタイルこそが、幸せを実現するものだと思われていた。しかしふと気付けば、何もそんなことに散財しなくても、人間は十分幸せに生きていけるのである。

 

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