カテゴリー「哲学・精神世界」の222件の記事

2024年2月24日

地獄の沙汰で 煩う前に 戒名さえも 金次第

ぼるしち さんという方が、「人が亡くなったーとかの知らせを聞くと、いつも思い出すのが自分の父親が死んだ時」という tweet をしておられる(参照)。

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坊さんが(明記されていないが、話の流れからして多分坊さんだろう)「いくら払えばいいか」を教えてくれないから、面倒臭くなって 5万円しか包まなかったところ、戒名が 1文字だったというのだ。それで坊さんを出入り禁止にしたらしい。

坊さんに「いくら払えばいいんですか?」なんて聞いても「お気持ちで」ぐらいの返事しか返ってこない。そういうものである。だったら、その「気持ち」をありがたく受け取ればよさそうなものだが、実際には金額によって以後の展開が違ってくる。これもまた、そういうものである。

こうした相場というのは坊さんに聞いてもしょうがないから、親戚か知り合いの訳知りに聞くのがいい。身近に訳知りがいなかったら、今どきはインターネットがあるので試しにちょっと検索してみた。

グリーン司法書士 OnLine というサイトに「葬式でお坊さんに支払う費用は平均 47万円!お布施に関するマナーとは」というページがある。ただ「平均 47万円」とはいえ、そこはやはりランクがあるようで、下のような表が示されている。(地域差もあるようなので、注意)

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こうしてみると、ずいぶん高額なものなのだね。金額の区切りがかなり大雑把だが、こういう場合はアタマに 1、3、5 のつく数字というのがお約束らしいので、いくら平均でも 47万円なんて包むのはヤバそうだ。ちなみに日蓮宗の場合は、50万円包んでも 15万円分の気持ちは伝わらないんだろうか。

ちなみに私の父が死んだのは東日本大震災のあった 2011年の 10月のことだったが、通夜の日のブログ記事に遡ってみても、当然ながらお布施の金額なんて書いてない。そして今となっては、いくら包んだんだかさえさっぱり覚えていない。

我が家の宗旨は浄土真宗だから、上に紹介した宗派の中では最も「リーズナブル」で、「居士」だの「院居士」だのというランクの法名(浄土真宗では「戒名」ではなく「法名」という)はない。さすが「庶民の宗派」で、いっそいさぎよい。

ただお坊さんは父をリスペクトしてくれていたから、頼みもしてないのに「院号」まで付けて、生前の人柄を偲ばせる素晴らしい法名にしてくれた。お布施をむやみやたらにはずんだような覚えはないから、これは「金の力」ではなく「故人の遺徳」というものだろう。

一方で世の中には、生きている間は強欲非道なことをしながら、死んでしまうと「はぁ?」と言いたくなるほど立派な戒名(「〇〇院殿△△大居士」とか)がついちゃってるケースもある。遺族が金の力で買ってるんだろうね。いくら見栄を張っても、今どきは他人の戒名を気にする人なんていなんだが。

「地獄の沙汰も金次第」と言うが、地獄に行く前段階として、戒名はもっと現実的に金次第のようなのである。というわけで、せめて記事のタイトルだけはちょっとだけ洒落て都々逸風(🎵 ツントシャン 🎵)にしてみたのでよろしく。

 

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2024年1月 6日

「メンヘラ」って、ちょっと気になったのだが・・・

ネット上で時々「メンヘラ」という言葉に遭遇するのだが、Wikipedia によれば「何らかの精神疾患を抱えている人や、抱えていると思われる人を指すネットスラング」(参照)なんだそうだ。2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」を省略した「メンヘル」という単語から派生したらしい。

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そのまま受け取ればモロに差別用語っぽい気さえするが、スラングってこのあたりのすり抜けにたけてるのかなあ。ちなみに「メンタルヘルス板」というのは、ググったところでは こちら で閲覧できる。

ただしこのサイト、トップページに「ここはメンタルヘルス(心の健康)に関する専門的な情報交換を目的とした掲示板です」とあるのに、中身をざっと見渡した限りでは専門的な情報なんてほとんど見当たらず、むしろかなりアヤシげなばかりである。

そしてこれは「5ちゃんねる」を名乗ってるので、Wikipedia のいう 「2ちゃんねる」との関連さえわからず、調べてみると こういうこと のようなのだ。どうでもいいところで結構ややこしくて、あまり深く突っ込んでみる気になれない。

そんなこんなで具体的なイメージがさっぱり湧かないので、手っ取り早く済まそうと画像検索でググってみると、上に示したような光景となった。左上しょっぱなは『すべての女子はメンヘラである』という本の表紙であるらしく、ほかも「お目々にお星様キラリ」の少女マンガ風イラストが一杯だ。

さらに近頃、トゲさんという女子の tweet が話題になったらしい。こんなようなものだ。

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「メンヘラ女子は男が作る」と言わんばかりだが、共感のコメントが結構付いている。ここまで来ると、メンヘラの主流は女子なのかと思ってしまいそうだ。

ところが一方では、「取り扱い注意、メンヘラ男の特徴は?」なんていう記事へのでっかいリンク・バナーも検索される。ただこれ、クリックしても記事の導入部分(?)しか表示されず、続きを読もうとしてもはぐらかされるばかりだ。メンヘラってなかなか核心には迫れないもののようなのである。

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そんなわけで、今回はメンヘラの玄関口にさえ到達できなかった。多分その方が幸せなのも知れないね。

 

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2024年1月 1日

薔薇色の竜宮を見るために

謹賀新年。ついに 2024年になってしまった。「暫く〜ぅ」なんて卯年元旦の記事を書いたのがつい先日みたいな気がしているのだが、もう辰年になってしまったのだね。ということは、私は何と 6度目の年男ということなのだよ。

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前の辰年は  2012年だが、実はこの年は前年の秋に父が他界して喪中だったため、年賀状は公開していない。そしてその前の辰年は 2000年(平成 12年)で、「ミレニアム」(千年紀)なんて言葉が流行っていたなあ。

ところで今年はどんなデザインの年賀状にしようかと思い、自分の PC 内で素材を探してみたところ、何と 2012年の年賀状が見つかった。記憶を辿るとどうやら年男ということで力んでしまい、前年夏頃に早々と作ったものの、喪中でお蔵入りになっていたということのようだ。

そうなるとせっかく作ったものを眠らせておくのももったいなく思われてしまい、「2012」の部分だけ「2024」に書き換えて公開させていただくことにした。それが上の賀状で、あの世の父も喜んでくれるような気がする。先日十三回忌を済ませたばかり(参照)だしね。

薔薇の花のように見える「りゅう座銀河」というのは、25万光年の彼方にあるとされる。ただ、本当に今も「ある」のかどうかは、誰にもわからない。我々に見えているのは、この「りゅう座銀河」が 25万年前に発した光なのだから。

こうなると、「今、この時」というのがどういうことなのかさえもわからなくなる。考えようによっては、25万年を隔てた時間が、同じ空間に共存しているとも言えるのだろうが、そもそもそれが「同じ空間」なんて言えるのかどうかまで考えると、全てが茫漠としてしまう。

ここで急に日常的な時間軸に戻ると、父は享年 83歳で他界したのだが、亡くなる数年前から煙草を止めていた。私は煙草を止めて既に 50年近くになるし、かなり健康だから、父より長生きしてしまうかもしれない。そうなると、12年後に 84歳で 7度目の年男になってしまう。

やれやれ、もう一度辰年の年賀状デザインを考えなければならなくなる可能性は結構高い。12年なんて、25万年に比べれば「一瞬」みたいなものだ。

 

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2023年11月 3日

「陰謀論を信じる人」に関する「面白くない」研究結果

読売新聞オンラインに "「頭の良い人」は陰謀論にハマるか、学術誌に論文が掲載…「面白くない」研究結果は心理学者を奮い立たせた" という記事がある。タイトル的には興味をそそられるが、読んでみると確かに面白くもなんともない。

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学生時代は「陰謀論」を信じるヤツというのが周囲にいてうんざりしていたものだが、今もなお健在のようで、このブログでも "ネットのトレンドは 「陰謀論批判」" (2008年 1月 8日)とか "「ワクチン陰謀論」というのがあるらしい"(2021年 6月 20日)なんて記事を書いている。

ちなみに冒頭で紹介した論文を発表したのは、鹿児島大学法文学部の大薗博記准教授(42歳)と昭和女子大学人間社会学部の榊原良太准教授(36歳)という 2人の社会心理学者なのだが、研究の結果わかったのは、「熟慮性が低い人」ほど「陰謀論を信じやすい」ということだったという。

要するに陰謀論にハマらないようにするには、「熟慮」することが大切ということだ。当たり前すぎて、面白くもなんともない研究結果である。

そういえば、3年ちょっと前に東洋経済 ONLINE で、米国のニューヨーク・タイムズの「陰謀論研究」に関する記事が翻訳紹介されたことがあった。"研究で判明「陰謀論を信じる人」に共通する性格 米国人の 3割はコロナは作られたと信じている" というものである。

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この記事では、「陰謀論を信じる人」に共通する性格としては、一般的に言われる特性のほかに「サイコティシズム」という思考パターンがあるとされている。統合失調症型パーソナリティ障害の中心的な側面で、「奇妙な信念、および魔術的思考」「妄想的思考」などが特徴的だという。

要するに陰謀論を信じるハマる心理的特性ということに関しては、今のところ「そんなこと改めて言われなくても、フツーにわかってるんだけどね」という程度のことしか明らかになっていないということのようなのだね。

 

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2023年10月21日

「言っちゃいけないこと」を言っちゃう「正しい人」

TBS NEWS DIG に、”40代男性に「働きもしないで、プー太郎男」などと言った男女 3人を名誉棄損の疑いで逮捕「真実を言っただけで名誉を棄損するつもりはなかった」容疑一部否認 宮城・登米市” というニュースがある。

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逮捕された 3人、困った人たちである。まあ、言われた方も「困った人」ではあるのだろうけど。

3人は「真実を言っただけで・・・」なんて開き直っているらしいが、「真実」(truth)と「事実」(fact)は違うということがわかっていない。目に見える単純事実を「真実」なんて言っちゃうような人は、他人をとやかく言う資格がない。こんなことは、ちょっと気の利いた小学生でもわかることだ。

さらに百歩譲って、たとえ「事実」だとしても、世の中には言っていいことと悪いことがある。「名誉を毀損するつもりはなかった」なんて言い訳してるようだが、「〜するつもりはなかった」で済むなら、警察はいらない。

ニュースによればこの 3人は「プー太郎」呼ばわりだけでなく、「お前たち泥棒なんだよ」とまで言ったらしい。ここまで来たら、いくら何でも「言い過ぎ」だ。「お前たち」と複数形で言ったということは、一人だけでなく似たような存在をすべて一括りに泥棒扱いしたことになるし。

この 3人は、それぞれ自分のことをよっぽど「正しい人」と思っているのだろう。私は「正しい人」ほど付き合いづらい存在はないと思っていて、その関連で過去に何度か書いている。こんな感じだ。

当たり前すぎることと細かいことしか言わない人 (2014/3/14)
「うがい薬騒動」で薬局に殺到する「正しい人」たち (2020/8/6)
「正しい自分」を押し通したい人 (2020/9/9)
「正しい自分を押し通したい人」が「炎上」に参加する (2020/10/6)

2002年に亡くなった名コラムニスト、山本夏彦氏の存在は対照的だった。私はこの年の 10月 26日に、"「正義」に楯突いた山本夏彦氏" という追悼文めいた記事中で、彼のコラムを「現代の悪人正機説」と書き、次のように続けた。

「善人」とは、自分で自分を疑いもなく「正しい人」と思っている人である。他人から非難されると怒る人である。感謝されないと怒る人である。他人が自分より報われると怒る人である。

確かに、「正義」ほど扱いづらいものはないのである。

今回の宮城県の事件で、こうした感覚がよみがえったような気がしている。

 

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2023年9月 4日

アメザリを踏みつぶすことと、「いじめ」の心理

Togetter に "外来種は殺していい?観察会で「駆逐してやる」とアメザリを踏みつぶす子どもがいた…→ 「外来生物の防除作業に子どもを関わらせたくない」" という記事がある。「外来種は殺していい?アメザリ踏みつぶす子ども 観察ガイドの思い」という記事を紹介したものだ。

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発端は、多摩川を中心に生き物観察ガイドをしている川井希美さん(39)の、今年 4月の SNS への投稿であるらしい。こんな内容だったようだ。

本心としては外来生物の防除作業に子どもを関わらせたくない。
外来生物の防除をするよりも、子どもにはたくさんの生きものと触れ合う自然体験をしてほしい。

この投稿のきっかけは、講師を務めるサイエンス塾の授業で、子どもたちにアメリカザリガニ(アメザリ)を見せた時に、「こいつらは殺してもよい」という声が聞こえたことだという。観察会では「駆逐してやる」とアメザリを踏みつぶす子どももいたという。

アメザリは本来の生態系を乱す侵略的外来種として、各地で駆除も行われている。そのためあこうした外来種の命を軽視するような言動は、小学校低学年くらいの子に見られたというのである。

この記事が Togetter に紹介されると、いろいろなコメントが付けられた。ただ見たところ、「たとえ外来種でも、命の大切さを教えていかなければ」とか、「人それぞれの立場や視点を踏まえると、判断が難しい」というような、「外来種駆除」に関する直接的な反応がほとんどである。

ところが私としてはこの記事を読み、直感的に「いじめ問題」にまで思いを馳せてしまった。

「いじめ」に走るような子というのは、外来種を見て何の疑いもなく「殺してしまえ」と言って踏みつぶすような子と共通しているという印象だからである。彼らの意識としては、決して残酷なことをしているわけじゃないと思っているようなフシがあるのだ。

「いじめ」をする子というのは、「ゴーマンな正義感」を抱いているように感じられることすらある。彼らにとって、いじめられる子は「異質な存在」であり、自分はマジョリティを代表して「異質な存在の排除」を行っていると錯覚しているようにも受け取れるのだ。これって、かなり危険なメンタリティである。

そんなわけで私は、自然観察会のような機会を通じて「たくさんの生きものと触れ合う自然体験をしてほしい」という川井さんに共感してしまう。「外来種」も「異質な存在」も同様に大切でかけがえのないものだということを知れば、「いじめ」も自然に減るだろう。

私自身、「日本社会のマイノリティ」という自意識をずっと抱いてきた。個人的には「いじめ」のようなことに対しては常にきっちり反撃・撃退してきたのだが、世の中にはそうできない子も多いから難しい。

【同日 追記】

ここでは本来の生態系を乱す侵略的外来種を駆除するなと言っているわけではなく、川井さんにしても同様だと思うので、念のため

Yoroshiku4

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2023年1月13日

「頭で考えない」ことと「スパイト(いじわる)行動」

一昨年 10月公開の古い記事だが、【"日本人は特にいじわる” とデータが証明? 行動経済学が開かす「スパイト行動」】というのがずっと気になっていた。何かと関連付けて語りたいと思っていたのが、昨日の「男の育休」という問題にちょっと共通項を感じてしまったので、こじつけてみたい。

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リンク先の記事では、「スパイト行動」というのは ”自分が損をしてでも相手を出し抜く” ことと説明されている。ちなみに英単語の "spite" というのは「(ねたみなどによる、ささいな)悪意、意地悪」という意味だが、受験生には "in spite of 〜" (〜にも関わらず)という熟語の方がお馴染みだろう。

記事では「スパイト行動」を説明するためにちょっとしたペア・ゲームを紹介している。ルールを手短に言えば、2人とも手元に 10ドル所持しており、そこから任意の金額(0〜10ドル)のお金を出し合う。すると「出した合計金額×1.5」分のお金を、自分も相手も等しく受け取ることができる。

このルールに従えば、最終的な金額を増やすために最も有効な戦略は、相手の出す金額にかかわらず、自分は 10ドル出すというものだ。例で言えば、自分も相手も 10ドルずつ出せば、2人とも それぞれ(10ドル+10ドル)×1.5 の 30ドルを受け取ることができる。

もし、自分が 0ドル、相手が 10ドル出せば、2人とも 10ドル×1.5の 15ドルを受け取ることができ、自分の手元のお金は元々の所持金との合計で 25ドル、そして相手は 15ドルとなる。

1ドルも出さずに所持金が相手を上回る 25ドルになるのは、一見するとかなりの得のように思えるが、互いに 10ドル出し合った場合に 30ドルの手持ちになるのと比べれば 5ドル少ない。従って、よく考えれば賢明な選択とは言えない。

ところが筑波大学の研究チームが 1991年に行った実験では、“あえて 0~9ドルを選択する” という被験者が少なからずいた。自分の所持金を増やすという「絶対的な得」よりも、とにかく相手に損をさせてその所持金を上回ることを優先するという「相対的な得」を選ぶというわけだ。

研究チームは、相手を気にせずマックスのお金を出して多くの金額を得るか、相手を出し抜くために出さないこと(「スパイト行動 = 意地悪行動」)を選ぶかの間で心が揺れ動くことを、「スパイト・ディレンマ」と名づけたという。つまり「意地悪ジレンマ」だよね。

そしておもしろい(?)ことに、日本人の「スパイト行動」を選択する比率は、他のどの国の被験者と比較しても段違いに高かったという。少なからぬ日本人は、「みみっちい意地悪をして結果的に得る絶対金額が少なくなってさえも、相手にまでいい思いをさせるよりはずっとマシ」と考えたがるようなのだ。

これって、「男の産休」を否定的に論じるのと似たメンタリティだと思ってしまう。男の産休を肯定的に捉えてこの制度の活用を促進すれば全体の利益になるのはわかっていても、同じ部署の誰かがそれを取得すると、「自分が損した」ように感じてしまう人が少なくないというようなものじゃなかろうか。

「男の産休」は要するに、自分も活用すればいいのである。あるいは自分にその条件がない場合でも、周囲が取得するのを積極的に認めるべきだ。それによって社会全体としての少子化傾向が緩和されれば、回り回って自分の利益につながるのだから。

それでも現実に男性同僚が堂々と産休を取得すると、「あいつ、男のくせに・・・」なんて思い、職場で嫌がらせなどの「いじめ」をしたがるやつがいる。上の画像にある「モグラ叩き」みたいな反応で、ただ単に目立ったヤツを「腹いせ」的に叩きたいだけだ。

昨日の記事で言えば、何と上司が、産休を取った部下を未経験の部署に強引に移動させてしまっている。これって、完全にパワハラだよね。

こうした「スパイト(いじわる)行動」は、相手の不利にはなっても、それが決して自分の得になるというわけじゃなく、結果としては全体が萎縮して非活性化してしまうだけなんだということを、しっかりと確認しておかなければならない。ただそれには、ちゃんと「頭を使って」考えることが必要だ。

胸の中のもやもやが先に立って頭で考えることを拒否してしまうと、「スパイト行動」に走りやすい。

 

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2023年1月 1日

スーパースターとなって「暫く〜ぅ」と叫ぶ

開けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、今年の年賀状モチーフは歌舞伎十八番の『』(しばらく)。

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使わせてもらったのは、昨年の歌舞伎座 5月公演「団菊祭」の、海老蔵の鎌倉権五郎景政。ウサギの耳にあたる部分は「力紙」と言って、超人的力持ちの象徴として頭に付けるものだ。本物は真っ白な紙で、真ん中が赤いわけでは決してないので、そのあたり、何分よろしく。

ここ 2〜3年、コロナ禍で地元に籠もりがちの毎日のうちに、外の世界はロシアのウクライナ侵攻を始め、どんどん動いてしまっている。ニュースとして知っても実感として付いていけず、「おいおい、ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなってしまう。

そんな時に、鎌倉権五郎のように「暫く〜ぅ」と声をかけて世界を落ちつかせてくれる「スーパースター」が現れてくれればありがたいのだが、現実世界はなかなかそうもいかない。ということは、我々個々人が世界に向かって「暫く〜ぅ」と呼びかける必要があるのだろう。とくにプーチンに対して。

ついでに、変異を重ねるコロナウィルスに対してもそう言いたいものだが、相手がウィルスだけに言葉が通じないから困る。それを言ったら、プーチンという男にも人間の言葉が通じないみたいな気がするが。

こうなったら、口から発せられ、文字に記される「言葉」になる以前の「原初的コンセプト」(内に抱かれる原初的思い)を、強く発現させていくほかない。これが本質的な「祈り」ということだとしたら、もしかしたらプーチンだけでなくウィルスにだって通じるかもしれないじゃないか。

かくなる上は、人はそれぞれ「スーパースター」なのだよ。いきなりずいぶん大きく出てしまったが、今年はそういうことで、どうぞ

Yoroshiku4

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2022年6月 5日

「自己否定」を成熟させて「アンラーン」に辿り着く

一昨日の朝、ラジオのスイッチを入れると、NHK 第1放送の「マイあさ!」という番組で、アナウンサーが耳慣れない言葉を繰り返している。途中からだった上に受信状態が万全ではなく聞き取りにくかったものの、とても興味深い内容だった。

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それから忙しさに追われて忘れかけていたが、さっきふと思い出して NHK の聴き逃し番組を聴ける「らじるらじる」に行ってみたところ、それは東大経済学部の柳川範之教授の解説による「アンラーンって何? 学ばない “学び方”」という放送だったとわかった。

らじるらじるは「放送後 1週間以内なら何度でも聴ける」ということなので、上の画像クリックでリンクされるページの「7時台」の項を選択すると、今週の木曜日までなら聴ける。

「アンラーン」は "Unlearn" で、”learn" に "un" が付いたものだから、「〔学んだことを意識的に〕忘れる、〔知識・先入観・習慣などを〕捨て去る」(参照:英辞郎)ということだ。

柳川教授は「当たり前だと思っていたことを、頭を切り替えて違う発想で考えられるようにする」ために、「思考のクセを取り除く」ことと考えればいいという。これを強制的にではなく、自発的に行うことが大切なのだそうだ。なるほど、それはよくわかる。

例えば既存の社内文化に染まりすぎると新しい仕事がしにくくなるので、発想を変えることがビジネスの役に立つ。そればかりでなく、既存の発想に固執するとと学びの発想まで縛られるので、「アンラーン」によって学びの場でも新しいインプットができるようになるというのである。

自分が「既存の発想」に染まりすぎているかどうかは、次の 6項目のチェックで判断できるというので、試してみるとおもしろい。

  1. 何か決まった口癖がある。
  2. 最近、ワクワクすることが減った。
  3. 周囲の人との会話が毎日同じような話題ばかりだ。
  4. 仕事とは別の分野の学びをしていない。
  5. どんなことにも「そんなこと当たり前」と思いがち。
  6. すごい成果を出した人は、自分とは別世界の人だと思う。

何項目が当てはまると問題かというような目安はないのだそうだが、まあ、少ないほど発想が自由ということなのだろう。ちなみに私は 1項目が当てはまった。(このブログに馴染んでおられる方は容易に想像がつくだろうが、それは 1番の項目である)

思えば 1970年代初頭には、「自己否定」なんて言葉が流行り、やたらと既成概念を否定する風潮だったが、それをやんわりと成熟させると「アンラーン」になるかもしれない。

そんなわけで、1970年代に 10代から 20代を過ごした私としては、「ムチャクチャな自己否定」からは距離を置きつつ、かなり歓迎したい魅力的な発想である。

 

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2022年1月22日

幸福になりたいなんて、ことさらに思ったことないし

東洋経済 ONLINE に「幸福になりたいと願う人が幸福から遠ざかる皮肉」という記事がある。「真剣に考えるにはあまりにも重すぎるテーマ」というサブタイトル付きで、筆者はストックホルム商科大学経営戦略・マーケティング学部教授のミカエル・ダレーンという人だ。

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この記事は、次のような紹介で始まっている。

人が幸福だと感じる条件をまとめた『幸福についての小さな書』で、著者のミカエル・ダレーン教授(ストックホルム商科大学)は最後の章を「幸福を真剣に考えるのはやめよう」と締めくくっています。幸福感を高める本で、「真剣に考えるのはやめよう」と伝えた真意とは?

この書き出しを読んで私は、これまでの人生で「幸福になりたい」とか「幸福とは何か?」なんてマジに考えたことは一度もないと思い当たった。そもそも人生はなるようにしかならないのだから、「幸福」なんてことを真剣に追い求めるのは私の管轄事項じゃない。

そもそも「幸福になりたい」と考えるのは、「現状は幸福じゃない」と思っているからだろうし、その点で言えば、私は「自分は不幸だ」なんて思ったことも一度もない。「そこそこ、こんなもんなんじゃないの?」という自己認識なので、ことさら幸福をこいねがう必要もないのだ。

幸福を突き詰めて考えれば確実に幸福になれるというなら考えないでもないが、そんなことがあるはずもないので、当然のごとく「しょうもないことを考えるより、することは他にいくらでもある」ということに落ちついている。

これって、ミカエル・ダレーン教授の言う「幸福を真剣に考えるのはやめよう」という話と見事に合致しているじゃないか。幸福なんてことさらに考えない方が幸福感が高まるというのだから、限られた人生の時間の中ではほかのことを考える方がずっといい。

そもそも教授によれば「幸福とは異常な状態」であり、「人よりも幸福を真剣に考えている人は、平均して幸福度が少し低い」という研究結果さえあるという。ということは、「幸福」なんて追い求めるだけ無駄というより、むしろ弊害の方が大きい。

というわけで私は図らずも、「幸福」ということに関しては望ましい態度で暮らしてこれたわけだ。これって、幸せなことと思っていればいいのだろうね。

【1月 23日 追記】

そういえば、5年ちょっと前に "「幸福 と「幸せ」 とは、ビミョーに違ってる" という記事で、"小学生の頃に「この世に本当の幸福なんてあり得ないから、別に期待しない」という、まったく可愛げのない作文を提出" したというようなことを書いていたのを思い出した。

基本的に、今でもこのスタンスに変わりないと思う。

 

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