カテゴリー「哲学・精神世界」の217件の記事

2023年9月 4日

アメザリを踏みつぶすことと、「いじめ」の心理

Togetter に "外来種は殺していい?観察会で「駆逐してやる」とアメザリを踏みつぶす子どもがいた…→ 「外来生物の防除作業に子どもを関わらせたくない」" という記事がある。「外来種は殺していい?アメザリ踏みつぶす子ども 観察ガイドの思い」という記事を紹介したものだ。

230904

発端は、多摩川を中心に生き物観察ガイドをしている川井希美さん(39)の、今年 4月の SNS への投稿であるらしい。こんな内容だったようだ。

本心としては外来生物の防除作業に子どもを関わらせたくない。
外来生物の防除をするよりも、子どもにはたくさんの生きものと触れ合う自然体験をしてほしい。

この投稿のきっかけは、講師を務めるサイエンス塾の授業で、子どもたちにアメリカザリガニ(アメザリ)を見せた時に、「こいつらは殺してもよい」という声が聞こえたことだという。観察会では「駆逐してやる」とアメザリを踏みつぶす子どももいたという。

アメザリは本来の生態系を乱す侵略的外来種として、各地で駆除も行われている。そのためあこうした外来種の命を軽視するような言動は、小学校低学年くらいの子に見られたというのである。

この記事が Togetter に紹介されると、いろいろなコメントが付けられた。ただ見たところ、「たとえ外来種でも、命の大切さを教えていかなければ」とか、「人それぞれの立場や視点を踏まえると、判断が難しい」というような、「外来種駆除」に関する直接的な反応がほとんどである。

ところが私としてはこの記事を読み、直感的に「いじめ問題」にまで思いを馳せてしまった。

「いじめ」に走るような子というのは、外来種を見て何の疑いもなく「殺してしまえ」と言って踏みつぶすような子と共通しているという印象だからである。彼らの意識としては、決して残酷なことをしているわけじゃないと思っているようなフシがあるのだ。

「いじめ」をする子というのは、「ゴーマンな正義感」を抱いているように感じられることすらある。彼らにとって、いじめられる子は「異質な存在」であり、自分はマジョリティを代表して「異質な存在の排除」を行っていると錯覚しているようにも受け取れるのだ。これって、かなり危険なメンタリティである。

そんなわけで私は、自然観察会のような機会を通じて「たくさんの生きものと触れ合う自然体験をしてほしい」という川井さんに共感してしまう。「外来種」も「異質な存在」も同様に大切でかけがえのないものだということを知れば、「いじめ」も自然に減るだろう。

私自身、「日本社会のマイノリティ」という自意識をずっと抱いてきた。個人的には「いじめ」のようなことに対しては常にきっちり反撃・撃退してきたのだが、世の中にはそうできない子も多いから難しい。

【同日 追記】

ここでは本来の生態系を乱す侵略的外来種を駆除するなと言っているわけではなく、川井さんにしても同様だと思うので、念のため

Yoroshiku4

| | コメント (2)

2023年1月13日

「頭で考えない」ことと「スパイト(いじわる)行動」

一昨年 10月公開の古い記事だが、【"日本人は特にいじわる” とデータが証明? 行動経済学が開かす「スパイト行動」】というのがずっと気になっていた。何かと関連付けて語りたいと思っていたのが、昨日の「男の育休」という問題にちょっと共通項を感じてしまったので、こじつけてみたい。

230113

リンク先の記事では、「スパイト行動」というのは ”自分が損をしてでも相手を出し抜く” ことと説明されている。ちなみに英単語の "spite" というのは「(ねたみなどによる、ささいな)悪意、意地悪」という意味だが、受験生には "in spite of 〜" (〜にも関わらず)という熟語の方がお馴染みだろう。

記事では「スパイト行動」を説明するためにちょっとしたペア・ゲームを紹介している。ルールを手短に言えば、2人とも手元に 10ドル所持しており、そこから任意の金額(0〜10ドル)のお金を出し合う。すると「出した合計金額×1.5」分のお金を、自分も相手も等しく受け取ることができる。

このルールに従えば、最終的な金額を増やすために最も有効な戦略は、相手の出す金額にかかわらず、自分は 10ドル出すというものだ。例で言えば、自分も相手も 10ドルずつ出せば、2人とも それぞれ(10ドル+10ドル)×1.5 の 30ドルを受け取ることができる。

もし、自分が 0ドル、相手が 10ドル出せば、2人とも 10ドル×1.5の 15ドルを受け取ることができ、自分の手元のお金は元々の所持金との合計で 25ドル、そして相手は 15ドルとなる。

1ドルも出さずに所持金が相手を上回る 25ドルになるのは、一見するとかなりの得のように思えるが、互いに 10ドル出し合った場合に 30ドルの手持ちになるのと比べれば 5ドル少ない。従って、よく考えれば賢明な選択とは言えない。

ところが筑波大学の研究チームが 1991年に行った実験では、“あえて 0~9ドルを選択する” という被験者が少なからずいた。自分の所持金を増やすという「絶対的な得」よりも、とにかく相手に損をさせてその所持金を上回ることを優先するという「相対的な得」を選ぶというわけだ。

研究チームは、相手を気にせずマックスのお金を出して多くの金額を得るか、相手を出し抜くために出さないこと(「スパイト行動 = 意地悪行動」)を選ぶかの間で心が揺れ動くことを、「スパイト・ディレンマ」と名づけたという。つまり「意地悪ジレンマ」だよね。

そしておもしろい(?)ことに、日本人の「スパイト行動」を選択する比率は、他のどの国の被験者と比較しても段違いに高かったという。少なからぬ日本人は、「みみっちい意地悪をして結果的に得る絶対金額が少なくなってさえも、相手にまでいい思いをさせるよりはずっとマシ」と考えたがるようなのだ。

これって、「男の産休」を否定的に論じるのと似たメンタリティだと思ってしまう。男の産休を肯定的に捉えてこの制度の活用を促進すれば全体の利益になるのはわかっていても、同じ部署の誰かがそれを取得すると、「自分が損した」ように感じてしまう人が少なくないというようなものじゃなかろうか。

「男の産休」は要するに、自分も活用すればいいのである。あるいは自分にその条件がない場合でも、周囲が取得するのを積極的に認めるべきだ。それによって社会全体としての少子化傾向が緩和されれば、回り回って自分の利益につながるのだから。

それでも現実に男性同僚が堂々と産休を取得すると、「あいつ、男のくせに・・・」なんて思い、職場で嫌がらせなどの「いじめ」をしたがるやつがいる。上の画像にある「モグラ叩き」みたいな反応で、ただ単に目立ったヤツを「腹いせ」的に叩きたいだけだ。

昨日の記事で言えば、何と上司が、産休を取った部下を未経験の部署に強引に移動させてしまっている。これって、完全にパワハラだよね。

こうした「スパイト(いじわる)行動」は、相手の不利にはなっても、それが決して自分の得になるというわけじゃなく、結果としては全体が萎縮して非活性化してしまうだけなんだということを、しっかりと確認しておかなければならない。ただそれには、ちゃんと「頭を使って」考えることが必要だ。

胸の中のもやもやが先に立って頭で考えることを拒否してしまうと、「スパイト行動」に走りやすい。

 

| | コメント (2)

2023年1月 1日

スーパースターとなって「暫らく〜ぅ」と叫ぶ

開けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、今年の年賀状モチーフは歌舞伎十八番の『』(しばらく)。

230101

使わせてもらったのは、昨年の歌舞伎座 5月公演「団菊祭」の、海老蔵の鎌倉権五郎景政。ウサギの耳にあたる部分は「力紙」と言って、超人的力持ちの象徴として頭に付けるものだ。本物は真っ白な紙で、真ん中が赤いわけでは決してないので、そのあたり、何分よろしく。

ここ 2〜3年、コロナ禍で地元に籠もりがちの毎日のうちに、外の世界はロシアのウクライナ侵攻を始め、どんどん動いてしまっている。ニュースとして知っても実感として付いていけず、「おいおい、ちょっと待ってくれよ!」と言いたくなってしまう。

そんな時に、鎌倉権五郎のように「暫く〜ぅ」と声をかけて世界を落ちつかせてくれる「スーパースター」が現れてくれればありがたいのだが、現実世界はなかなかそうもいかない。ということは、我々個々人が世界に向かって「暫らく〜ぅ」と呼びかける必要があるのだろう。とくにプーチンに対して。

ついでに、変異を重ねるコロナウィルスに対してもそう言いたいものだが、相手がウィルスだけに言葉が通じないから困る。それを言ったら、プーチンという男にも人間の言葉が通じないみたいな気がするが。

こうなったら、口から発せられ、文字に記される「言葉」になる以前の「原初的コンセプト」(内に抱かれる原初的思い)を、強く発現させていくほかない。これが本質的な「祈り」ということだとしたら、もしかしたらプーチンだけでなくウィルスにだって通じるかもしれないじゃないか。

かくなる上は、人はそれぞれ「スーパースター」なのだよ。いきなりずいぶん大きく出てしまったが、今年はそういうことで、どうぞ

Yoroshiku4

| | コメント (2)

2022年6月 5日

「自己否定」を成熟させて「アンラーン」に辿り着く

一昨日の朝、ラジオのスイッチを入れると、NHK 第1放送の「マイあさ!」という番組で、アナウンサーが耳慣れない言葉を繰り返している。途中からだった上に受信状態が万全ではなく聞き取りにくかったものの、とても興味深い内容だった。

220605 

それから忙しさに追われて忘れかけていたが、さっきふと思い出して NHK の聴き逃し番組を聴ける「らじるらじる」に行ってみたところ、それは東大経済学部の柳川範之教授の解説による「アンラーンって何? 学ばない “学び方”」という放送だったとわかった。

らじるらじるは「放送後 1週間以内なら何度でも聴ける」ということなので、上の画像クリックでリンクされるページの「7時台」の項を選択すると、今週の木曜日までなら聴ける。

「アンラーン」は "Unlearn" で、”learn" に "un" が付いたものだから、「〔学んだことを意識的に〕忘れる、〔知識・先入観・習慣などを〕捨て去る」(参照:英辞郎)ということだ。

柳川教授は「当たり前だと思っていたことを、頭を切り替えて違う発想で考えられるようにする」ために、「思考のクセを取り除く」ことと考えればいいという。これを強制的にではなく、自発的に行うことが大切なのだそうだ。なるほど、それはよくわかる。

例えば既存の社内文化に染まりすぎると新しい仕事がしにくくなるので、発想を変えることがビジネスの役に立つ。そればかりでなく、既存の発想に固執するとと学びの発想まで縛られるので、「アンラーン」によって学びの場でも新しいインプットができるようになるというのである。

自分が「既存の発想」に染まりすぎているかどうかは、次の 6項目のチェックで判断できるというので、試してみるとおもしろい。

  1. 何か決まった口癖がある。
  2. 最近、ワクワクすることが減った。
  3. 周囲の人との会話が毎日同じような話題ばかりだ。
  4. 仕事とは別の分野の学びをしていない。
  5. どんなことにも「そんなこと当たり前」と思いがち。
  6. すごい成果を出した人は、自分とは別世界の人だと思う。

何項目が当てはまると問題かというような目安はないのだそうだが、まあ、少ないほど発想が自由ということなのだろう。ちなみに私は 1項目が当てはまった。(このブログに馴染んでおられる方は容易に想像がつくだろうが、それは 1番の項目である)

思えば 1970年代初頭には、「自己否定」なんて言葉が流行り、やたらと既成概念を否定する風潮だったが、それをやんわりと成熟させると「アンラーン」になるかもしれない。

そんなわけで、1970年代に 10代から 20代を過ごした私としては、「ムチャクチャな自己否定」からは距離を置きつつ、かなり歓迎したい魅力的な発想である。

 

| | コメント (2)

2022年1月22日

幸福になりたいなんて、ことさらに思ったことないし

東洋経済 ONLINE に「幸福になりたいと願う人が幸福から遠ざかる皮肉」という記事がある。「真剣に考えるにはあまりにも重すぎるテーマ」というサブタイトル付きで、筆者はストックホルム商科大学経営戦略・マーケティング学部教授のミカエル・ダレーンという人だ。

220122

この記事は、次のような紹介で始まっている。

人が幸福だと感じる条件をまとめた『幸福についての小さな書』で、著者のミカエル・ダレーン教授(ストックホルム商科大学)は最後の章を「幸福を真剣に考えるのはやめよう」と締めくくっています。幸福感を高める本で、「真剣に考えるのはやめよう」と伝えた真意とは?

この書き出しを読んで私は、これまでの人生で「幸福になりたい」とか「幸福とは何か?」なんてマジに考えたことは一度もないと思い当たった。そもそも人生はなるようにしかならないのだから、「幸福」なんてことを真剣に追い求めるのは私の管轄事項じゃない。

そもそも「幸福になりたい」と考えるのは、「現状は幸福じゃない」と思っているからだろうし、その点で言えば、私は「自分は不幸だ」なんて思ったことも一度もない。「そこそこ、こんなもんなんじゃないの?」という自己認識なので、ことさら幸福をこいねがう必要もないのだ。

幸福を突き詰めて考えれば確実に幸福になれるというなら考えないでもないが、そんなことがあるはずもないので、当然のごとく「しょうもないことを考えるより、することは他にいくらでもある」ということに落ちついている。

これって、ミカエル・ダレーン教授の言う「幸福を真剣に考えるのはやめよう」という話と見事に合致しているじゃないか。幸福なんてことさらに考えない方が幸福感が高まるというのだから、限られた人生の時間の中ではほかのことを考える方がずっといい。

そもそも教授によれば「幸福とは異常な状態」であり、「人よりも幸福を真剣に考えている人は、平均して幸福度が少し低い」という研究結果さえあるという。ということは、「幸福」なんて追い求めるだけ無駄というより、むしろ弊害の方が大きい。

というわけで私は図らずも、「幸福」ということに関しては望ましい態度で暮らしてこれたわけだ。これって、幸せなことと思っていればいいのだろうね。

【1月 23日 追記】

そういえば、5年ちょっと前に "「幸福 と「幸せ」 とは、ビミョーに違ってる" という記事で、"小学生の頃に「この世に本当の幸福なんてあり得ないから、別に期待しない」という、まったく可愛げのない作文を提出" したというようなことを書いていたのを思い出した。

基本的に、今でもこのスタンスに変わりないと思う。

 

| | コメント (2)

2022年1月 1日

虎と共に睡りたい新年

明けましておめでとうございます。年頭恒例の、干支入り年賀状をお届けします。今年のテーマは「四睡図」。

2201011

==============================

「四睡図」というのは、唐代の禅僧、豊干(ぶかん)と寒山拾得が虎と共に睡る姿を描いたもので、森羅万象の静寂という禅の神髄を示すものと言われている。とはいうものの、それがどうして「禅の神髄」なのか、わかったようでわからない話ではあるのだが。

豊干と虎というのは、セットで語られることが多い。これは彼がしょっちゅう虎の背に乗っていたと伝えられることによる。彼はさらに、禅ではお馴染みの寒山拾得の理解者であったことでも知られる。

よくわからない話の糸口として、上の「四睡図」に付けられた遂翁元盧(寛政年間の臨済宗僧侶)による画賛を下に掲げてみよう。

四睡一睡 【四睡ひとたび睡れば】
鼻息如雷 【鼻息雷の如し】
聞得分曉 【聞き得て分暁(夜明け)ならば】
寒拾再來 【寒拾(寒山拾得)の再来】

「森羅万象の静寂」のはずが、鼻息が雷のようだというのだから、いくらどうこう言っても結局のところよくはわからない。いずれにしてもとにかく、豊干と寒山、拾得が、雷のような鼻息を立てて虎と眠るというのである。

そしてその音を聞いている気分のうちに夜が明けることになれば、寒山、拾得が再来するってわけだ。この 2人は文殊菩薩と普賢菩薩の再来とも言われていて、絵を見る限りはなかなかいい感じでもあるし、まあ、そういうことだ。(「って、どういうことか?」とは、聞かない約束で)

まあ、小理窟ではよくわからないのが禅の神髄なのだろう。というわけで私としても、せめて元日ぐらいはコロナなんて気にかけず、「寝るより楽はなかりけり」で過ごしたい。もしかしたら、別次元の宇宙に目醒めることができるかもしれないしね。

ただ、浮世の沙汰に追いまくられて、三が日を寝てばかりというわけにもいかない。悟りにはまだまだ遠いようだ。

というわけで、今年もどうぞ

Yoroshiku4

| | コメント (2)

2021年10月27日

日本語を読めない日本人って、ザラにいるから

下の画像は、東洋経済の 2018年 12月 26日付 "衝撃!「日本語が読めない日本人」は案外いる" という記事の冒頭だ。"AI に仕事を奪われる、中学生以下の大人たち" というサブタイトル付きである。

211027

なんでまた、こんな 3年近く前の記事を持ち出したのかというと、私の今月 23日付「人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)」という記事との関連でググられてしまったからだ。

この記事は、次のように始まる。

次の2つの文が表す内容は、「同じ」でしょうか、「異なる」でしょうか。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」

「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

当然、「異なる」が正解です。しかし全国の中学生857人の正答率は、なんと57%。「2択問題」の正答率は当てずっぽうでも50%になることを考えれば、驚異的な低さと言えます。

私としてはこんなのを読んだら、2番目の文の後半に至った瞬間に「おいおい勘弁してくれよ。主語が違っちゃってるだろ!」となるのがフツーと思ってしまうが、何と、全国の中学生のほとんど 2人に 1人はフツーじゃないらしい。いやはや、困ったことだよね。

この記事の 4ページ目の "偏差値と「読めなさ」の強い関連性" という項目では、「生徒の学力を向上させるには、数学の問題を解いたり、歴史上の出来事や年表を暗記したり、化学式や数学の公式を暗記したりするだけではなく、教科書を読む力を高めることも重要である可能性」が示されている。

そういえば私は 2013年 4月 8日付の「学校の授業は、セレモニーのようなもの」で、「小学校の授業というものをまじめに受けたことがない」と書いている。年度初めに教科書が配られるとすぐに読み終えてほとんど理解してしまうので、授業はまどろっこしい「後追い」に過ぎず、退屈でたまらなかったのだ。

この「読むと同時に理解する」というのは、小学生の私にとっては当たり前すぎることだったのだが、後々になって、必ずしも当たり前というわけじゃないと気付いた。同じ文字情報に接しても、それがさっと頭に入るやつと、全然入らないやつがいるという事実を、何度も目の当たりにしたからである。

これ、もっと根本的なレベルで言うと、「文字さえあれば自動的に読んで理解しちゃう」やつと、「文字があってもまともに読めないままスルーしちゃう」やつがいるってことだ。

私は上述の今月 23日付の記事で、「日本語だと読んでも、英語だと完全スルー」という層が多いということを言っているのだが、現実はもっと厳しくて、「日本語でも、うやむやのうちにスルー」という層が結構多いようなのである。

ということは、「ここにちゃんと書いてあるのに、何でわかんないんだよ!」なんて言ってキレたりしちゃいけないってことだ。「書いてあるのにわからない人」に求められたら、ちゃんと彼らの身になって、「あっ、そうだったのか!」と納得してもらえるように、上手に説明しなきゃいけない。

それはある意味、インテリの義務だとまで思う。難しいことを難しい言い回しで述べるのは比較的楽だが、そこから一歩進んで、やさしい言い回しや馴染みやすい譬え話でも説明できるようになることが、人類愛というものだろう。そのあたり、なにぶん

Yoroshiku4

| | コメント (8)

2021年10月18日

「スピテロ」というのがあるらしい

きよみ@社労士さんという方が、「スピテロは禁止」という tweet をしておいでだ(参照)。一体何のことかと思ったら、どうやら「スピリチャル・テロリズム」の省略形らしい。最近あちこちの神社の境内で、塩で円を描いて何やらしたがるのが増えているようなのだ。

211018

きよみさんによれば「塩の結界の中に入って浄化〜」みたいなことをしたがるのがいるらしいが、その痕跡は他人からみたら気色悪いだけのものになってしまう。「普通に境内は汚れるし、掃除が大変だし、勘弁してくれ〜」と言いたくなるのもわかる。

どうしてもこうした「浄化儀式」みたいなことをしたければ自分の家でやればいいのだろうが、世の中の思い込みの激しいカルティックな人は、元々からして十分な「結界」である神社の境内に「さらなる結界」を作ってでも、何やら特別なことをしたがるのだろう。ご苦労なことである。

「塩のもつ浄化力」というのは、古くからの信仰に根ざす考え方ではある。元々は神道の考え方で、神社本庁のサイトの「清め塩について」というページには、「塩の力に祓いの願いを託すことは、祖先から受け継がれた英知なのです」と書かれている。

近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される。仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型のような気がするが、葬儀屋さんとしては必須の作業で、あれを用意しておかないと「手抜き」扱いされてしまうんだろうね。

葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」で、私としてはそんなのしたことがない。かと言って敢えて受け取り拒否するのも無粋だろうし、持ち帰ったところで我が家常備の天然塩とは違うので一緒にしたくないしで、結局捨ててしまう。

いわば「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられないのだよね。一人一人にしてみればほんの少量だが、まとめてみればかなりの「食品ロス」でもある。

まあ、「スピテロ」というほどのことじゃないが、あれって、葬儀屋さんが効率志向によっていつの間にかスタンダードを作ってしまったんだろうね。

話が逸れかかったが、そんなわけで「塩の浄化力」という考え方は理解するとしても、神社の境内でのべつこんなことをするのが流行ってしまったら塩害になるだろう。樹木が枯れるなんてことになったら、完全に「スピテロ」だ。

良い子はこんなの、止めとこうね。

 

| | コメント (4)

2021年6月21日

『般若心経』は「はんにゃしんぎょう」と読んでね

昨日午前の TBS ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」のゲストは みうらじゅん で、例の「アウトドア般若心経」の話もしていた。経文の文字のある市街の看板等の文字を写真に撮り、それを組み合わせて経文を完成させるという酔狂である。まあ、誰にも迷惑はかからないから、好きなだけやればいい。

210621x

ただ、前々から気になっているのは、世の中には『般若心経』を「はんにゃしんょう」と、鼻濁音でなく清音で発音する人が結構いて、そこはかとない違和感が醸し出されてしまうことだ。そしてあろうことか、この みうらじゅん もその一人なのである。

この男、昨日の番組でも安住アナがきちんと「はんにゃしんょう」と言っているそばから、何度も何度も「はんにゃしんょう」と発音して恥じない。思い起こせばかなり昔から、彼がまともに発音するのを聞いたことがない。

『般若心経』が「はんにゃしんょう」であるのは、上の経文をクリックして拡大し、振り仮名を確認してもらえば嫌でもわかる(参照)。

さらに「般若心経」のキーワードでリンクされる、ありとあらゆる寺院での読経の動画(参照)を再生して聞いていただければ、すべて「はんにゃしんょう」と鼻濁音で発音しているのが確認できるはずだ。この程度のことは、仏教の「いろはのい」である。

『般若心経』や仏像に関する著書まであり、仏教でメシを食ってる感まである みうらじゅん が、いつまで経っても「はんにゃしんょう」なんて言っているのは、単にネタとして扱っているだけで、決して信心からではないことを物語っている。

実は、まともに読経したこともないのだろうね。きちんと習って読経しさえすれば、自然に「はんにゃしんょう」の音が身に付く。

この男の信心の足りなさは、お寺の本堂の中で帽子を取らないままテレビに映っていたことからも窺われ、これについては 11年前の 8月 21日付「お寺の本堂の中での帽子着用」という記事で触れている。こんなことだから、「いろはのい」を誰にも教えてもらえないのだろう。気の毒に。

というわけで、私は曹洞宗の坊主の孫(父方の祖父が僧侶)ということもあり、こればかりは触れておこうと思ったわけだ。触れても触れなくても別にどうということもないのだけれど、まあ、そこは一応・・・

Shikisokuzeku

 

| | コメント (0)

2021年3月24日

「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」

東洋経済 ONLINE に、評論家の中野剛志氏による "コロナ禍で自主的にマスクを着けた国民の智慧 新しい事態の難しさに「黙って処した」小林秀雄" という記事がある。"この新型コロナウイルスがはらむ最大の問題は、ウイルスが、文字通り「新型」であることにある" という指摘が示唆に富んでいる。

210324

当ブログは 3月 19日に「自民党諸氏のマスクに関する勘違い」という記事を書いた。麻生太郎副総理が報道陣に「マスクはいつまでやることになってるの?」と逆質問したという件について触れたものである。

210319

一応、19日の記事の冒頭を引用しておく。

麻生太郎氏が報道陣に逆質問 「マスクはいつまでやることになってるの?」" という記事に驚いてしまった。「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と言ったのだそうである。こんなことをマジに聞くとは、よほど頭が悪いとしか思われない。

この日は飛騨路の旅から戻ったばかりで仕事がたまっていたため、あまり突っ込むことができず、「そのうち、じっくり書かなきゃいけないだろう」と思っていた。しかしここまで来たら、小林秀雄まで持ち出してしっかりと考察してくれた中野氏の記事を紹介する方がいいようだ。

中野氏の指摘のポイントはまず、今回のコロナ禍の最大の問題が、その新しさから来る「不確実性」にあるということだ。この不確実性故に「従来の思想が通用しない」という点は、1937年の日中戦争勃発に端を発した太平洋戦争時代の状況と共通していると彼は言う。

小林秀雄は終戦にあたり、国民の発揮した「智慧」に関して「思想家は一人も未だこの智慧について正確には語つてゐない。(中略)この事変に日本国民は黙つて処したのである。これが今度の事変の最大特徴だ」(「満州の印象」) と書いたという。

世の中には、あるいは「日本には」と言うことも可能なのかもしれないが、「黙って処す」という「智慧」があるようなのだ。これを「智慧」と表現していいのかどうか、諸説あるだろうというほど、まことにもって「不思議な智慧」というほかないが。

今回のコロナ禍において、国民が自主的にマスクを着けていることに関しても、中野氏は同様に「国民の智慧」だと指摘する。お上の強制的な命令に従っているわけではなく、ことさらに明文化された規定があるわけでもないのに、「黙って処す」という「不思議な智慧」が発揮されているわけだ。

報道陣に馬鹿な質問をする麻生氏(一応、総理大臣経験者)はこのあたりを、あたかも「誰かが決めるべきこと」のように錯覚し、それならば期限だって定められるべきだと、小学生でもしないような了見違いをしている。もう一度繰り返すが、「よほど頭が悪いとしか思われない」のである。

最近つくづく思うのだが、この国では「本当に優秀な人材」というのは、もはや「政治家になろう」なんて思わなくなったんじゃなかろうか。世の中をまともに認識できない頭の悪い連中が、議員になりたがって選挙に立候補し、みっともないほどの選挙運動を展開して、そのなれの果てが総理大臣だ。

最近、菅首相の「言葉感覚」のなさに驚く (3月 12日付)、菅首相の「言葉感覚」のなさに、改めて驚く(3月 12日付)と、2度にわたって首相の能力に大きな疑問を呈したが、要するにそういうことなのだろう。前の総理大臣も「云々」を「でんでん」なんて読んで大恥かいてたし(参照)。

要するに彼らは、政治家という職業の「カッコ悪さ」に、まだ気付けないという「頭の悪い人たち」なのだろうと思えば、いろいろなことが妙に納得される。国会にはその「目を覆うような代表的存在」がしっかりと存在し、あまつさえ大臣にまでなっているのだから、まったくもって恐ろしい(参照 1参照 2)。

本日の記事の "「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」" という身も蓋もないタイトルは、こんなところから発してしまったわけだ。

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧