カテゴリー「哲学・精神世界」の208件の記事

2021年3月24日

「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」

東洋経済 ONLINE に、評論家の中野剛志氏による "コロナ禍で自主的にマスクを着けた国民の智慧 新しい事態の難しさに「黙って処した」小林秀雄" という記事がある。"この新型コロナウイルスがはらむ最大の問題は、ウイルスが、文字通り「新型」であることにある" という指摘が示唆に富んでいる。

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当ブログは 3月 19日に「自民党諸氏のマスクに関する勘違い」という記事を書いた。麻生太郎副総理が報道陣に「マスクはいつまでやることになってるの?」と逆質問したという件について触れたものである。

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一応、19日の記事の冒頭を引用しておく。

麻生太郎氏が報道陣に逆質問 「マスクはいつまでやることになってるの?」" という記事に驚いてしまった。「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と言ったのだそうである。こんなことをマジに聞くとは、よほど頭が悪いとしか思われない。

この日は飛騨路の旅から戻ったばかりで仕事がたまっていたため、あまり突っ込むことができず、「そのうち、じっくり書かなきゃいけないだろう」と思っていた。しかしここまで来たら、小林秀雄まで持ち出してしっかりと考察してくれた中野氏の記事を紹介する方がいいようだ。

中野氏の指摘のポイントはまず、今回のコロナ禍の最大の問題が、その新しさから来る「不確実性」にあるということだ。この不確実性故に「従来の思想が通用しない」という点は、1937年の日中戦争勃発に端を発した太平洋戦争時代の状況と共通していると彼は言う。

小林秀雄は終戦にあたり、国民の発揮した「智慧」に関して「思想家は一人も未だこの智慧について正確には語つてゐない。(中略)この事変に日本国民は黙つて処したのである。これが今度の事変の最大特徴だ」(「満州の印象」) と書いたという。

世の中には、あるいは「日本には」と言うことも可能なのかもしれないが、「黙って処す」という「智慧」があるようなのだ。これを「智慧」と表現していいのかどうか、諸説あるだろうというほど、まことにもって「不思議な智慧」というほかないが。

今回のコロナ禍において、国民が自主的にマスクを着けていることに関しても、中野氏は同様に「国民の智慧」だと指摘する。お上の強制的な命令に従っているわけではなく、ことさらに明文化された規定があるわけでもないのに、「黙って処す」という「不思議な智慧」が発揮されているわけだ。

報道陣に馬鹿な質問をする麻生氏(一応、総理大臣経験者)はこのあたりを、あたかも「誰かが決めるべきこと」のように錯覚し、それならば期限だって定められるべきだと、小学生でもしないような了見違いをしている。もう一度繰り返すが、「よほど頭が悪いとしか思われない」のである。

最近つくづく思うのだが、この国では「本当に優秀な人材」というのは、もはや「政治家になろう」なんて思わなくなったんじゃなかろうか。世の中をまともに認識できない頭の悪い連中が、議員になりたがって選挙に立候補し、みっともないほどの選挙運動を展開して、そのなれの果てが総理大臣だ。

最近、菅首相の「言葉感覚」のなさに驚く (3月 12日付)、菅首相の「言葉感覚」のなさに、改めて驚く(3月 12日付)と、2度にわたって首相の能力に大きな疑問を呈したが、要するにそういうことなのだろう。前の総理大臣も「云々」を「でんでん」なんて読んで大恥かいてたし(参照)。

要するに彼らは、政治家という職業の「カッコ悪さ」に、まだ気付けないという「頭の悪い人たち」なのだろうと思えば、いろいろなことが妙に納得される。国会にはその「目を覆うような代表的存在」がしっかりと存在し、あまつさえ大臣にまでなっているのだから、まったくもって恐ろしい(参照 1参照 2)。

本日の記事の "「小林秀雄/国民の智慧」と「麻生太郎/政治家の劣化」" という身も蓋もないタイトルは、こんなところから発してしまったわけだ。

 

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2020年12月 2日

如何なるか是れ仏

たまには『無門関』ネタで何か書かないと、このブログが浅はかになってしまいそうなので、ほぼ 1年ぶりに禅の公案について書いてみようと思う。今回は第十八則「麻三斤」と二十一則「雲門屎橛」だ。

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「如何なるか是れ仏」(仏とはどんなものですか?)と聞かれた唐代の洞山和尚は、手近にあった麻の実三斤を指し「これが仏じゃ」と言った。そしてその師であった雲門和尚は、同じ問いに「乾屎橛」(かんしけつ)と答えたという。

乾屎橛とは、トイレットペーパーなんてもののなかった昔、「うんこ」をした後にケツの穴の始末をした「糞かきべら」のことである。長い間どんなものだろうと思っていたが、ちょっと画像検索したら上の写真が見つかった(参照)。はてさて、ものは調べてみるものである。

「仏とは?」の問いに「麻三斤」と答えるのは、まだありそうな気もするが、「乾屎橛」とはよくぞ言ったものと感心というか、感動すらしてしまう。見る者が見ればすべてのものが「仏」ということで、そうなると乾屎橛でかく「うんこ」すらもやはり仏なのだろう。

ということは、奈良の大仏を拝んでもうんこを拝めないのでは、仏をわかっていないってことである。仏道は一筋縄ではいかないが、何しろ自分のしたうんこを拝めば、最初の一步ぐらいは踏み出せるかもしれない。そう思って今朝のうんこを拝んでみたら、案外いい気持ちがした。

私は小学生の頃に夏目漱石の『草枕』を読んで、初めて「乾屎橛」という言葉を知った。主人公が田舎の床屋で散髪していると口の減らない小坊主がやってきて、去り際に「咄この乾屎橛」と捨て台詞を残す。「咄(とつ)」というのは「舌打ちの音」とか当時の憎まれ口とか言われるが、よくわからない。

ただ私の読んだのは小中学生向けの簡易版だったためか、「とつこのかんしけつ」とかな表記してあって、「かんしけつ」に「糞かきべら」という「注」があったように思う。このため幼い私は、「鶏っこ(とっこ)の糞を肥料にするための始末をするへら」みたいなものを思い浮かべていたのだった。

幼い頃の思い込みとはなかなかコワいもので、何とこれが今になっても消えない。それで雲門和尚の「乾屎橛」を聞くと、お釈迦様がのんびりとお経を唱えながら、鶏糞を陽に干している図なんかが想像されてしまう。

ただ、これはこれで意外に趣きのあるイメージで、「如何なるか是れ仏」の問いに「即ち陽光の鶏糞」なんて答えても、案外怒られずに済むかもしれない。

 

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2020年9月19日

「初めに言(ことば)ありき」と、「不立文字」

「初めに言(ことば)ありき。言は神と共にあり。言は神なりき」というのは、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭である。この「言(ことば)」というのは、ギリシア語の原書では「ロゴス」という言葉で書かれているという。

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ということは、「初めに言ありき」の「言(ことば)」というのは、単に辞書的な意味での「言葉」、つまり「モノゴトは言葉によって認識されるよね」なんていう程度の軽いものではない。もっと根源的なものということになる。

「それはイエス・キリストそのものを意味する」と解説するウェブページも少なからずある。ということは、「神・神の子(イエス・キリスト)・聖霊」は三位一体だから、「初めに神のみが存在した」ということに他ならない。そして「すべてのものは神によってできた」と続く。

というわけで、宗教的に深い意味での「言葉」とは、「神の摂理」あるいは「神そのもの」ということだ。そして、根源的な意味での「言(ことば)」、つまり「神の摂理」「神そのもの」を、我々がフツーに使うレベルの言葉を使って表現しようとすると、どうしても「表現しきれない部分」が残されてしまう。

我々の言葉は「有限の意味」を表現するから、どうしても「神の摂理そのもの」は表現できない。「無限」を「有限」で表現しようとしても不可能ということだ。

仏教でいうところの「不立文字」というのも、これと共通するだろう。「拈華微笑」の公案は、「不立文字」「教外別伝」を現すと言われる。

釈迦牟尼仏が霊鷲山(りょうじゅせん)上で弟子たちを集め、無言でただ手に持った花を拈って見せた時、誰もその意味を理解できなかった。しかし独り、迦葉(かしょう)尊者のみが釈迦の真意を理解し、にっこりと微笑を浮かべたという。

すると釈迦は、「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相の微妙(みみょう)の法門あり、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふぞく)す」と言われたという。つまりこの瞬間に、釈迦は自身の跡を継ぐ仏教第二祖として摩訶迦葉を指名したのだった。

釈迦が言葉を発せずに、ただ花を拈って見せただけというのは、仏教の究極的真理は普通の言葉によって表現できるものではなく、ただ象徴的に現すほかないからである。まさに「不立文字」というわけだ。

ローマン・カソリックにおいては、ペテロをイエス・キリストの正統な後継者としているが、それは「ヨハネによる福音書」21章 15〜17 の記述に基づいている。そこにはイエスがペテロに向かい「私を愛しているか」と 3度続けて同じ問いを発したと書かれている。

それに対してペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、3度同じように答えた。するとイエスは「私の羊を飼いなさい」と、やはり 3度言われたというのである。これもまた、象徴的な話だ。

つまり究極的真理というのは、いくら言葉を尽くしても遂には具体的に表せないもので、象徴的に表現するしかないということのようなのである。私が 18年以上もブログを書き続けて、ちっとも真理に迫れないのも当然というものなので、大目に見ていただきたいってことだ。

 

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2020年8月15日

久しぶりの『般若心経』

今月 10日の「玄米に味噌汁・漬物だけの、至高のグルメ」という記事に、「一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」というフレーズからの連想だろうが、らむね さんが「この自粛期間で円周率100桁、寿限無、徳川歴代将軍、雨ニモマケズ、をコンプリートしました!」とコメントしてくれた。

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大したものである。私も「寿限無」(「寿限無寿限無五劫の擦り切れ・・・」で始まる長い名前)なら小学生の時にモノにしていて、『雨ニモマケズ』は今からでも頑張れば何とかなると思うが、ほかは全然ダメだ。円周率なんて小数点以下 18桁より先はどうして覚えられるのか見当も付かない。

で、あまりにも情けないのでほかに何かないかと考えてみると、『般若心経』があるじゃないかと思い当たった。僅か 300字足らずの短いお経だから、暗唱している人は世の中にいくらでもいて、とくに自慢にもならないが。

私の父は折に触れて『般若心経』を唱える曹洞宗の寺の息子として生まれ、浄土真宗を宗旨とする私の実家の婿養子となった。そして亡くなる前に「死ぬのはちっとも構わないが、ただここは浄土真宗の家だから、あの世へ行って『般若心経』が聞けないのはちょっと淋しい気がする」とこぼしたことがあった。

ちなみに『般若心経』はどの宗旨にも共通するお経と思っている人が多いが、実は浄土真宗ではあまり唱えない。「絶対他力」を旨とする真宗としては、「あれは『自力本願』のお経」という位置付けなのだと、どこかでチラッと聞いたことがある。

その時、私は「大丈夫、大丈夫。俺が時々こっそり『般若心経』誦げるから、安心してあの世に行っていいよ」なんて言ったのである。まったく妙な請け合い方をしたもので、親孝行なんだか不孝なんだか知れたものじゃない。

そんなわけでお盆ということもあり、父の遺影の前で久しぶりに『般若心経』を誦げた。

ところが最初の「摩訶ァ 般若波羅密多心経ォ〜〜〜」と唱えた時点で、「しまった。これ、ずいぶん久しぶりだから、途中で詰まったりカンじゃったりしたら、親父に申し訳ないな」と思ってしまった。「経本を開いとけばよかった!」

しかし、つい空で始めてしまったからには仕方がない。そのまま「観自在菩薩 行深般若波羅密多時〜」と続けていくと、まあ、何とか自然に出てくるものである。やはり一度体で覚えたことというのは強い。最後に近い「羯諦羯諦」(ぎゃーていぎゃーてい)まで辿り着くとホッとした。

そして「般若ァ心経ォ〜」で、めでたくフィニッシュ。生前はちっとも孝行らしい孝行はできなかったから、今さらながらせめてもの償いである。

 

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2020年8月13日

「至高のグルメ」は、コロナ問題への模範解答かも

今月 8日に「新型コロナウィルスが突きつけている根本的な問題」という記事を書いた。そして 2日後の 10日に書いた「玄米に味噌汁・漬物だけの、至高のグルメ」の種明かしをすると、「その『根本的な問題』への模範解答になるかも」というちょっとした思惑があったりしたのである。

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8日の記事は、感染リスクを避けるために「不要不急の外出を避ける」という当然の要請と、「Go to キャンペーン」に象徴される「経済のシュリンクを避ける」という至上命令とのギャップについて述べたものだ。これは政府の愚策という以上に「人類的矛盾」というべきもので、要するに「業」である。

つまり新型コロナウイルスが突きつけているのは、「経済成長しなくても人間が生きていける社会構造を実現するために、人間の欲望というものとどう折り合いをつけるか」という、根源的な問題と言える。これがわからないと、「人類的矛盾」は永遠に解決されない。

そして「週休 5日・年収 90万円台」で、「玄米に味噌汁・漬物だけ」というメニューを毎日三食自炊していたという、超シンプルなライフスタイルは、その問題解決への一筋の光とも思えたのだった。決して「図らずも粗食に耐えていた」というわけではなく、ある意味「至高のグルメ」だったのだから。

これまでは、「美味いものを食い、お洒落な服を着て、世界各地に旅行し・・・」というライフスタイルこそが、幸せを実現するものだと思われていた。しかしふと気付けば、何もそんなことに散財しなくても、人間は十分幸せに生きていけるのである。

 

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2020年8月 8日

新型コロナウィルスが突きつけている根本的な問題

私の両親は既にあの世に行ってしまってるから、今さら里帰りしてもしょうがない。時々は墓守のために帰郷することもあるのだが、今年はコロナ騒動のため、田舎は「都会に出て行った人間に帰ってきてもらいたくない」という空気に満ち満ちているらしい。

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妹は「コロナ騒ぎが収まったら、来年の春あたり帰ってみようかと思う」なんて言っているが、この騒動が「来年の春」までに収まると思うのは楽観的すぎるかもしれない。WHO のテドロス事務局長も「影響は今後数十年に及ぶ」との見通しを表明しているし(参照)。

私は 2020年という年は、人類の歴史上で「コロナ以前/コロナ以後」(国際的には "Before COVID-19/After COVID-19" なんて言うのかな?)を分ける重要な意味をもつことになるかもしれないと思っている。今年を境に、世の中の仕組みは大きく変わるだろうということだ。

これまで人類は「余計なことをしてまで金を循環させて、経済的に発展してきた」と言えるだろう。それが極端な形で現れていたのが、バブル以前の世の中で、その頃の「モノの売り方」ということに、私は 6年前に言及している(参照)。つまり、「徹底的に余計なことをさせろ」ということだった。

バブル崩壊以後は、この「余計なこと」というのがしにくくなってしまったが、「コロナ騒動」以後は、それがますます顕著になった。感染リスクを避けるためには「家でおとなしくしている」ことが求められるのだもの、仕方がない。

気の合う仲間同士で寄り集まって酒を飲み、カラオケをして騒いだり、狭い観客席にぎっしり押し込められてスポーツ観戦やコンサートを楽しんだりするのは、もってのほかということになった。おいしいと言われるものを食べたり、珍しいものを見るために長蛇の列に並ぶのも憚られる。

つまり「非日常的な体験」のために大勢の人の中に飛び込むことが、なかなかできなくなってしまった。それどころか、そうしたことをするために移動することさえ憚られる世の中になってしまったのである。

「感染リスクを避けるために不要不急の外出は避けるように」というのは、当然の要請である。しかしもう一方で「Go to キャンペーン」なんてものを進めたがっているのは、こうした「余計なこと」もしてくれないと、経済が縮小して世の中が破綻するという危機感を隠しきれないためだ。

しかしこの 2つの要請は根本的に相反するのだから、うまく行くわけがない。そしてそう言ってお上の愚策を批判するのはたやすいが、批判する人間自身の心の内部でも、こうした矛盾する欲求が衝突してストレスの元になる。要するにこれは、「人類的矛盾」の象徴でもあるのだ。

この矛盾によるストレスは今後ますます大きくなるだろうから、それをどう解決するかが大きな問題だ。それはとりもなおさず、「経済成長しなくても人間が生きていける社会構造を実現するために、人間の欲求というものとどう折り合いをつけるか」という問題だからである。

コロナウィルス騒動というのはこうした根本的な問題、つまりこれまでまともに考えることを避け続けてきた哲学的課題を、否応なしに人間に突きつけている。これをきちんと意識化しないと人類は存在の意味を失うだろう。

つまり滅亡への長い道(あるいは「案外短い道」?)を辿る第一歩になるということだ。

 

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2020年5月14日

「オン飲み映え」という言葉から発する意識変革

今日の夕方、TBS ラジオの「アクション」という番組に、国語辞典編纂者の飯間浩明氏がゲストとして登場して、最近新しく生まれた言葉に「オン飲み映え」というのがあると言っていた。オンライン飲み会で映えるファッションやヘアスタイルについての言い方らしい。

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ググってみると、この言葉は既にいくつかのサイトで使われていて、メイクやヘアスタイルに焦点を当てたページが目立つ。オンラインの画面では胸から上の写真が多用されるので、トータルなファッションよりは化粧とヘアスタイルが重視されるもののようだ。なるほどね。

さらに調べてみると、オンライン会議も重要なポイントになっている。おおき/SEOコンサルタントという人が 「ついにリモートワーク映えや Zoom 飲み会映えの方法論が唱えられる様に」なんて tweet している。「Zoom 映え」と書いて「オンライン映え」と読ませるなんて向きもある(参照)。

私自身、コロナウイルス騒動のせいで、リアルタイム動画をフィーチャーしたオンライン会議なんてものを初めて経験した。目の前のスクリーン上で見る自分自身が動いている姿というのは、日常的に鏡で見る自分からは 180度裏返っているので、初めはちょっと不思議な気がしてしまうほどだった。

非日常的な体験は、必ず新しいコンセプトを生む。オンラインで改めて自分を見つめるという体験は、「自分自身への新しい視点」というものにつながっているようだ。「オンライン映え」を意識するというファッション的な視点は、自分自身を捉えなおすという意識作業の第一歩なのかもしれない。

今回のコロナ騒動は、テレワークやオンライン・ミーティングの増加に端を発する社会的変化に確実につながっていくだろうが、人間の内面性という見地からは、「新しい視点による自分自身」の発見につながる。「人間とは如何なるものか」という問いへの回答が、これまでとは違ったものになる可能性がある。

「新型コロナウイルス」は確実に人間の意識変革につながり、それによってこれまでの文明を変えるまでのファクターとなり得る。それだけの影響力をもっているということは、今後、折に触れて明らかになっていくと思う。

 

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2020年4月 4日

21世紀的末法思想と、パラダイムシフト

コロナウイルス騒ぎの影響で、「外出せずに、とにかく家にいろ」という声が高まって、Twitter でも "#stayhome" というハッシュタグが注目されている。

2004042とにかくニュージーランド警察の「歴史上初めて、家でテレビ見ながらゴロゴロしてることが、人類を救うことになる。気張らないでいようね」というアピールが retweet されまくっている(参照)ほどだ。世の中のスタンダードがゴロリと変わっていることに注目したいよね。

私としてもいろいろな仕事やミーティングが次々にキャンセルになってしまって、裏の土手を散歩するしか外に出る用事がない。何もせずに家に籠もっているというのは、風来坊にとってちょっと気詰まりだ。

そんなわけで、近頃「末法思想」なんてことに思いを馳せている。とにかく「世も末じゃ」ってな話である。

末法思想というのは仏教からきたもので、教科書通りに言えば「正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)」と続く三時(さんじ)の最終段階のこと。釈迦の入滅後、時が経ちすぎて仏法の効力が失われ、世の中が乱れに乱れる時期とされている。

日本史で言えば平安末期の状況がまさにそれで、上の画像に示されたように、世の中に争いがはびこり、富士山や浅間山の大噴火の影響で飢饉となり、天然痘が大流行するなど、世の不安が最高潮に達していた。この時期の思想のバックグランドになったのが、「末法思想」とされている。

そして 21世紀の今、世界の指導者は平和より対立を好み、つい 9年前に東日本大震災で原発事故があり、気候変動で死にそうな暑さと海面上昇が取り沙汰され、挙げ句の果てに今回のコロナウイルス騒ぎ。何となく嫌ぁな感じで、平安末期の状況に重ね合わせられる気がしてしまうわけだ。

で、先の「末法」に至るまでの有力思想だったのが、最澄の天台宗、空海の真言宗に代表される「平安仏教」で、貴族たちの帰依を集めていたが、世の不安が最高潮に高まるにつれて、それまでのような力を発揮できなくなった。つまり「パラダイム・シフト」ってやつが始まったわけだ。

この頃、「お釈迦様が効能切れでも、阿弥陀様がいるさ」とばかり、浄土信仰が高まりを見せた。やたらと難しい仏教哲理を学ぶより、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来の慈悲に信頼すればいいというのだから、ただ途方に暮れているよりは精神衛生にずっといい。

こうして法然の浄土宗から親鸞の浄土真宗に至る系譜が生まれ、殆ど同時期に栄西の臨済宗、道元の曹洞宗という禅宗、日蓮の日蓮宗という鎌倉新仏教につながった。大変な変化の時期だったわけだ。

というわけでこの 21世紀の世の中でも、世界の価値観に大きな「パラダイム・シフト」が生じることになるんだろうなと思っている。コロナウイルスで死にさえしなければ、その転換期のしょっぱなだけでも目撃することができそうだ。

 

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2020年3月29日

「ウイルスに打ち勝つ」というレトリックへの違和感

ふゆひーさんが昨日付で「これほど中身のないメッセージってなかなか書けないよね」と tweet しておられる(参照)。どんなメッセージかと言えば、宮田亮平・文化庁長官の「文化芸術に関わるすべての皆様へ」というものだ。

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まさに具体論抜きの精神論で、「俺も頑張るから君たちも頑張れ」と言っているに過ぎない。これに対するお手本的な批判は、「美術手帳」のサイトの「長官メッセージに批判。文化庁は具体的な補償内容への言及を」という記事につまびらかに書かれている。

とはいえ、やれ具体的な支援策はどうなってるんだとか、保証についての具体的金額を示すべきだとかのもっともらしい話を、私がここで繰り返しても仕方がないから、そんなことは一切書かない。そもそも支援は芸術家のみならず、より広範な国民が受けるべきなのだし。

私がここで問題にしたいのは、メッセージの下から 五行目、「この困難を乗り越え、ウイルスに打ち勝つために・・・ 云々」という件だ。この「ウイルスに打ち勝つ」というレトリックは、今や最もナンセンスなステロタイプと化している。

これに類した言い方は、「ウイルスを撲滅する」「殲滅する」「ウイルスとの戦い」等々、数え上げればきりがないほど威勢のいい掛け声が、マスコミ、ネット上で飛び交っている。私は先月末頃から、こうした言い方にかなりの違和感を覚えていた(参照)。

今回の事態は、「ウイルスに打ち勝つ」などという幼稚で単純な論理で解決できるようなものではなく、根本的な文明論や哲学にまで立ち返らなければならない。それは今月 18日付の「やっぱり、ウイルスをムッとさせちゃヤバいみたいなのだ」という私の記事でちらりと触れた。

「ウイルスと闘って撲滅しよう」という発言によって代表されるような、「自然界のモロモロを、人間の都合で作り替えてしまおう」という発想は、実は人間が近代以降ずっと採用し続けてきた基調的文明論である。そしてそれ故に、しばしば自然界からの強烈な逆襲に遭うという「業」を背負ってしまった。

本来ウイルスというのは何百万年にもわたって人間と共存してきたのであり、「闘って撲滅する」相手では決してない。そして普段は共存関係にあるウイルスが突然凶暴化した姿に変貌するのは、人間との関係性においてであることが次第に明らかになってきた。

そしてそのことに最も直観的に勘付いていなければならないのは、芸術家のはずだと私は思っている。その芸術家であるはずの(金属工芸家として活躍している)宮田長官が、この期に及んでまだ「ウイルスに打ち勝つ」などと安易なステロタイプを公式に発信している。

というわけで、彼の「芸術」もせいぜいその程度のものと思われてしまいそうなのである。

 

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2020年1月 2日

"「百八の煩悩」の内訳" を初めて知ったのだが・・・

幼い頃、「除夜の鐘」が 108回打ち鳴らされるのは "「人間の百八の煩悩」を一つ一つ祓うため" と教わったものだ。その頃は「へえ、人間にはそんなにたくさんの煩悩があるのか」と思ったが、長ずるに当たっては「いやいや、煩悩の数はそんなもんじゃないだろう!」なんて言いたくなったりもしている。

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Japaaan というサイトに "除夜の鐘は何で百八つ?除夜の鐘で祓われる煩悩の「内訳」を紹介!" という記事がある。昨年大晦日付の記事なので、今さら触れるのはネタとして手遅れ感が強いが、単純計算では「わずか 2日前」の記事なので、図々しく書いてしまおう。

記事はまず、人間を構成する六つの要素「六根(ろっこん)」から入っている。眼(げん、視覚)・耳(に、聴覚)・鼻(び、嗅覚)・舌(ぜつ、味覚)・身(しん、肉体)・意(い、精神)である。般若心経でも「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)」という一節があるから、お馴染みといえばお馴染みだろう。

で、この六根がそれぞれ 「好(こう、快感)・悪(あく、不快感)・平(へい、無感)」の 3パターンに分かれる。これで 18パターンになるが、それがさらに「浄(じょう、清い=仏様の御心に適う)と染(せん、汚い=仏様の御心に適わない)」に分けられ、これで 36パターンになる。

最後にその 36パターンそれぞれに、「前世・今世・来世」の 3パターンを乗じて、「百八の煩悩」ということになるのだそうだ。うぅむ、仏教って、時々妙に理屈っぽい。

つまり「百八の煩悩」といっても、個別の煩悩の数ではなく「108のカテゴリーに分けられる煩悩」である。煩悩を個別に挙げていったら、やはり 108どころではなくなるってことだ。

仏教は理屈っぽいだけではない。フツーに考えれば 「浄」という要素は「仏様の御心に適う」というのだから、「煩悩」じゃないだろうと言いたくなるが、それでも煩悩なのだという。「解脱」というのは、仏の御心に叶いたいと願うことからさえも離れて自由になることという、直観的理解も求められるのだ。

私は元より「数」に関して考えるのは苦手で、「百八」なんてことを考えていたら頭が痛くなっちゃう。それに煩悩についてなんか突き詰めて考えたら、かえって頭の中が煩悩だらけになってしまいそうだ。というわけで堅苦しい理窟からは離れて、今年も気楽な理窟で生きていこう。

 

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