カテゴリー「哲学・精神世界」の202件の記事

2020/05/14

「オン飲み映え」という言葉から発する意識変革

今日の夕方、TBS ラジオの「アクション」という番組に、国語辞典編纂者の飯間浩明氏がゲストとして登場して、最近新しく生まれた言葉に「オン飲み映え」というのがあると言っていた。オンライン飲み会で映えるファッションやヘアスタイルについての言い方らしい。

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ググってみると、この言葉は既にいくつかのサイトで使われていて、メイクやヘアスタイルに焦点を当てたページが目立つ。オンラインの画面では胸から上の写真が多用されるので、トータルなファッションよりは化粧とヘアスタイルが重視されるもののようだ。なるほどね。

さらに調べてみると、オンライン会議も重要なポイントになっている。おおき/SEOコンサルタントという人が 「ついにリモートワーク映えや Zoom 飲み会映えの方法論が唱えられる様に」なんて tweet している。「Zoom 映え」と書いて「オンライン映え」と読ませるなんて向きもある(参照)。

私自身、コロナウイルス騒動のせいで、リアルタイム動画をフィーチャーしたオンライン会議なんてものを初めて経験した。目の前のスクリーン上で見る自分自身が動いている姿というのは、日常的に鏡で見る自分からは 180度裏返っているので、初めはちょっと不思議な気がしてしまうほどだった。

非日常的な体験は、必ず新しいコンセプトを生む。オンラインで改めて自分を見つめるという体験は、「自分自身への新しい視点」というものにつながっているようだ。「オンライン映え」を意識するというファッション的な視点は、自分自身を捉えなおすという意識作業の第一歩なのかもしれない。

今回のコロナ騒動は、テレワークやオンライン・ミーティングの増加に端を発する社会的変化に確実につながっていくだろうが、人間の内面性という見地からは、「新しい視点による自分自身」の発見につながる。「人間とは如何なるものか」という問いへの回答が、これまでとは違ったものになる可能性がある。

「新型コロナウイルス」は確実に人間の意識変革につながり、それによってこれまでの文明を変えるまでのファクターとなり得る。それだけの影響力をもっているということは、今後、折に触れて明らかになっていくと思う。

 

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2020/04/04

21世紀的末法思想と、パラダイムシフト

コロナウイルス騒ぎの影響で、「外出せずに、とにかく家にいろ」という声が高まって、Twitter でも "#stayhome" というハッシュタグが注目されている。

2004042とにかくニュージーランド警察の「歴史上初めて、家でテレビ見ながらゴロゴロしてることが、人類を救うことになる。気張らないでいようね」というアピールが retweet されまくっている(参照)ほどだ。世の中のスタンダードがゴロリと変わっていることに注目したいよね。

私としてもいろいろな仕事やミーティングが次々にキャンセルになってしまって、裏の土手を散歩するしか外に出る用事がない。何もせずに家に籠もっているというのは、風来坊にとってちょっと気詰まりだ。

そんなわけで、近頃「末法思想」なんてことに思いを馳せている。とにかく「世も末じゃ」ってな話である。

末法思想というのは仏教からきたもので、教科書通りに言えば「正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)」と続く三時(さんじ)の最終段階のこと。釈迦の入滅後、時が経ちすぎて仏法の効力が失われ、世の中が乱れに乱れる時期とされている。

日本史で言えば平安末期の状況がまさにそれで、上の画像に示されたように、世の中に争いがはびこり、富士山や浅間山の大噴火の影響で飢饉となり、天然痘が大流行するなど、世の不安が最高潮に達していた。この時期の思想のバックグランドになったのが、「末法思想」とされている。

そして 21世紀の今、世界の指導者は平和より対立を好み、つい 9年前に東日本大震災で原発事故があり、気候変動で死にそうな暑さと海面上昇が取り沙汰され、挙げ句の果てに今回のコロナウイルス騒ぎ。何となく嫌ぁな感じで、平安末期の状況に重ね合わせられる気がしてしまうわけだ。

で、先の「末法」に至るまでの有力思想だったのが、最澄の天台宗、空海の真言宗に代表される「平安仏教」で、貴族たちの帰依を集めていたが、世の不安が最高潮に高まるにつれて、それまでのような力を発揮できなくなった。つまり「パラダイム・シフト」ってやつが始まったわけだ。

この頃、「お釈迦様が効能切れでも、阿弥陀様がいるさ」とばかり、浄土信仰が高まりを見せた。やたらと難しい仏教哲理を学ぶより、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来の慈悲に信頼すればいいというのだから、ただ途方に暮れているよりは精神衛生にずっといい。

こうして法然の浄土宗から親鸞の浄土真宗に至る系譜が生まれ、殆ど同時期に栄西の臨済宗、道元の曹洞宗という禅宗、日蓮の日蓮宗という鎌倉新仏教につながった。大変な変化の時期だったわけだ。

というわけでこの 21世紀の世の中でも、世界の価値観に大きな「パラダイム・シフト」が生じることになるんだろうなと思っている。コロナウイルスで死にさえしなければ、その転換期のしょっぱなだけでも目撃することができそうだ。

 

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2020/03/29

「ウイルスに打ち勝つ」というレトリックへの違和感

ふゆひーさんが昨日付で「これほど中身のないメッセージってなかなか書けないよね」と tweet しておられる(参照)。どんなメッセージかと言えば、宮田亮平・文化庁長官の「文化芸術に関わるすべての皆様へ」というものだ。

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まさに具体論抜きの精神論で、「俺も頑張るから君たちも頑張れ」と言っているに過ぎない。これに対するお手本的な批判は、「美術手帳」のサイトの「長官メッセージに批判。文化庁は具体的な補償内容への言及を」という記事につまびらかに書かれている。

とはいえ、やれ具体的な支援策はどうなってるんだとか、保証についての具体的金額を示すべきだとかのもっともらしい話を、私がここで繰り返しても仕方がないから、そんなことは一切書かない。そもそも支援は芸術家のみならず、より広範な国民が受けるべきなのだし。

私がここで問題にしたいのは、メッセージの下から 五行目、「この困難を乗り越え、ウイルスに打ち勝つために・・・ 云々」という件だ。この「ウイルスに打ち勝つ」というレトリックは、今や最もナンセンスなステロタイプと化している。

これに類した言い方は、「ウイルスを撲滅する」「殲滅する」「ウイルスとの戦い」等々、数え上げればきりがないほど威勢のいい掛け声が、マスコミ、ネット上で飛び交っている。私は先月末頃から、こうした言い方にかなりの違和感を覚えていた(参照)。

今回の事態は、「ウイルスに打ち勝つ」などという幼稚で単純な論理で解決できるようなものではなく、根本的な文明論や哲学にまで立ち返らなければならない。それは今月 18日付の「やっぱり、ウイルスをムッとさせちゃヤバいみたいなのだ」という私の記事でちらりと触れた。

「ウイルスと闘って撲滅しよう」という発言によって代表されるような、「自然界のモロモロを、人間の都合で作り替えてしまおう」という発想は、実は人間が近代以降ずっと採用し続けてきた基調的文明論である。そしてそれ故に、しばしば自然界からの強烈な逆襲に遭うという「業」を背負ってしまった。

本来ウイルスというのは何百万年にもわたって人間と共存してきたのであり、「闘って撲滅する」相手では決してない。そして普段は共存関係にあるウイルスが突然凶暴化した姿に変貌するのは、人間との関係性においてであることが次第に明らかになってきた。

そしてそのことに最も直観的に勘付いていなければならないのは、芸術家のはずだと私は思っている。その芸術家であるはずの(金属工芸家として活躍している)宮田長官が、この期に及んでまだ「ウイルスに打ち勝つ」などと安易なステロタイプを公式に発信している。

というわけで、彼の「芸術」もせいぜいその程度のものと思われてしまいそうなのである。

 

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2020/01/02

"「百八の煩悩」の内訳" を初めて知ったのだが・・・

幼い頃、「除夜の鐘」が 108回打ち鳴らされるのは "「人間の百八の煩悩」を一つ一つ祓うため" と教わったものだ。その頃は「へえ、人間にはそんなにたくさんの煩悩があるのか」と思ったが、長ずるに当たっては「いやいや、煩悩の数はそんなもんじゃないだろう!」なんて言いたくなったりもしている。

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Japaaan というサイトに "除夜の鐘は何で百八つ?除夜の鐘で祓われる煩悩の「内訳」を紹介!" という記事がある。昨年大晦日付の記事なので、今さら触れるのはネタとして手遅れ感が強いが、単純計算では「わずか 2日前」の記事なので、図々しく書いてしまおう。

記事はまず、人間を構成する六つの要素「六根(ろっこん)」から入っている。眼(げん、視覚)・耳(に、聴覚)・鼻(び、嗅覚)・舌(ぜつ、味覚)・身(しん、肉体)・意(い、精神)である。般若心経でも「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)」という一節があるから、お馴染みといえばお馴染みだろう。

で、この六根がそれぞれ 「好(こう、快感)・悪(あく、不快感)・平(へい、無感)」の 3パターンに分かれる。これで 18パターンになるが、それがさらに「浄(じょう、清い=仏様の御心に適う)と染(せん、汚い=仏様の御心に適わない)」に分けられ、これで 36パターンになる。

最後にその 36パターンそれぞれに、「前世・今世・来世」の 3パターンを乗じて、「百八の煩悩」ということになるのだそうだ。うぅむ、仏教って、時々妙に理屈っぽい。

つまり「百八の煩悩」といっても、個別の煩悩の数ではなく「108のカテゴリーに分けられる煩悩」である。煩悩を個別に挙げていったら、やはり 108どころではなくなるってことだ。

仏教は理屈っぽいだけではない。フツーに考えれば 「浄」という要素は「仏様の御心に適う」というのだから、「煩悩」じゃないだろうと言いたくなるが、それでも煩悩なのだという。「解脱」というのは、仏の御心に叶いたいと願うことからさえも離れて自由になることという、直観的理解も求められるのだ。

私は元より「数」に関して考えるのは苦手で、「百八」なんてことを考えていたら頭が痛くなっちゃう。それに煩悩についてなんか突き詰めて考えたら、かえって頭の中が煩悩だらけになってしまいそうだ。というわけで堅苦しい理窟からは離れて、今年も気楽な理窟で生きていこう。

 

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2019/12/20

「州勘庵主」という、わけのわからない公案

ほぼ一年ぶりの『無門関』ネタである。今回は第十一則「州勘庵主」という、わけのわからない公案について触れてみたい。

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「州勘庵主」というのは、「州、庵主(あんじゅ)を勘(かん)する」ということで、「州」というのは、第一則の「趙州狗子」にも出てきた趙州和尚である。「狗(犬ころ)に仏性はあるんですか」と問われて「無(ねえよ!)」と言い放った、あのアクの強い和尚だ。

もちろんその「無(ねえよ!)」というのは、「ある」だの「ない」だのいう二元論を超えた次元のもの言いだ。「仏性」と「犬ころ」というのが別々にあって、片方が片方に宿るみたいな話ではないのだろう(参照)。

その趙州和尚が行脚して一人の庵主(徳の高い僧)のところに立ち寄り、「有りや、有りや」(あるか、あるか)と問うたというのである。「あるか、ないか」ではなく「あるか、あるか」と問うたというのは、何だかやたら一方的で穏やかじゃないよね。

この時出てきた老僧は、無言で拳を握って突き上げた。これ、禅問答のお約束的な所作らしく、「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」みたいなことらしい。すると趙州和尚は「こんな水の浅いところに、舟は泊められん」と言って去った。つまり「ここの庵主の悟りは浅すぎて、お話にならん」というわけだ。

次に立ち寄った庵でも同じように「有りや、有りや」と問う。すると出てきた老僧も同じように拳を握って突き上げる。すると趙州和尚は打って変わった態度になり、「能縦能奪、能殺能活」(自由自在に与えたり奪ったり、殺したり生かしたり、立派なものじゃ)と言って、礼拝したというのである。

これ、わからないよね。それでも、フツーに考えてわかるはずのないことを「わかれ」というのが禅だから、わかるほかない。まったく厄介なことである。

とにかく手がかりは、犬に仏性は「ねえよ!」と言い放ったあの趙州和尚が問答の発端として、敢えてことさら「あるか、あるか」と問うたということじゃなかろうか。「ねえよ!」と悟っていた趙州和尚が、「あるか、あるか」なんて最低の問いを発しているのだ。

で、最初に出てきた庵主はまさに「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」、つまり「あるよ!」と言わんばかりに拳を突き上げた。これはヤバい。見透かされちゃうよね。

そして二番目の庵主は同じ拳を突き上げる動作をしても、「そんなアホらしい問いには付き合いきれん」というココロだったんじゃあるまいか。それで趙州和尚は「我が意を得たり」と、礼拝せざるを得なかったのかもしれない。

ただし、下手するとこの解釈も浅すぎるのかもしれない。『無門関』を著した無門和尚によると、「趙州和尚の方が二人の庵主に勘破されているのかもしれないではないか」ということになってしまう。「水が浅くて舟が泊まれない」というのは、浅いところに泊まれないような、不自由な舟に乗っているいうことにもなるしね。

いやはやここまで来ると、実は深すぎて言葉では語り切れない。無言で座禅を組むしかないだろう。

2019年も終わりに近付いている今、モロモロのあほらしさにグッと拳を突き出して新年を迎えたいものだと思うのだが、なかなか容易な話じゃない。

 

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2019/11/24

パパ・フランチェスコのメッセージ

ローマ教皇が「長崎爆心地から核兵器廃絶のメッセージを発信」というニュースに、私は素直に感銘を受けた。彼は 2014年3月に「環境破壊は『モダンな罪』」と指摘し、さらに 2015年 6月にも「環境問題での回心」を呼びかけていて、「新しい時代の教皇」という印象なのだ。

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余談だが、マスコミは最近、「ローマ法王」ではなく「ローマ教皇」として報道することが増えたようだ。今回の来日においても、3日ぐらい前までは NHK のニュースでも 「ローマ法王」としていたが、急に「ローマ教皇」と呼ぶように転換しているようである。ちなみに「教皇」は英語で "The Pope" だが、その語源はギリシア語の ”Papa” で、つまり「お父様」ということのようなのだね。

ただ、「ローマ教皇フランシスコ」と表記されることが多いようなのだが、私は彼が教皇になられた 2013年以来「フランチェスコ 1世」と書いている(参照)ので、今回もそのまま「フランチェスコ」で通す。

とにもかくにもパパ・フランチェスコは「環境問題での回心」といい、今回の核兵器廃絶の呼びかけといい、私が歓迎したくなるメッセージを発信し続けておられ、ありがたいことだ。今後も世界中でこうした呼びかけをしてもらいたい。

彼は自らの名前の由来となる「アッシジのフランチェスコ」の作と伝えられる(本当はそうじゃないともいわれるが)「平和を求める祈り」でメッセージを締めくくり、「この祈りが私たち全員の祈りとなることを確信しています」と呼びかけた。

「平和を求める祈り」の全文を以下に記す。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

美しい祈りである。

 

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2019/03/02

「我あり」は「我思う」故か、「我考える」故か

毎日新聞の「昨今 ことば事情」という連載に 近藤勝重氏が「考える読書」という一文を寄せ、この中で「デカルトの『我思う、故に我あり』は 『我考える、故に我あり』ではないのか、と疑問を抱いてきた」としている。

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まあ、いずれにしてもこれはデカルトがフランス語で書いた『方法序説』の中の "Je pense, donc je suis." (ラテン語訳では "Cogito ergo sum") という文の日本語訳であり、1904年 (明治 37年) の桑木厳翼の翻訳からずっと「我思ふ、故に我あり」で親しまれているようだ。

私は大学で第二外国語としてフランス語をちょこっと学んだはずなのだが、実際には全然疎いので、英語でどう言うかを調べると "I think, therefore I am." ということになっている。これなら直訳的には「思う」でも全然問題ない。

デカルトの文脈としては、哲学者として全てのことを疑うという「方法的懐疑」のあげくに、世界の全てが虚偽であったとしても、そのように疑っている自分自身の存在だけは疑いようがないとして、「我あり」と結論づけたというのが、教科書的な解釈となっている。

とすれば、「思う」と訳すか「考える」と訳すかは、結局「趣味の問題」と言っていいような気がするのだよね。要するに何らかの「意識作用」があって、その「意識作用」を自覚的に展開している「我」の存在だけは肯定せざるを得ないということなのだろうから。

ニュアンスということで言えば、「思う」はかなり古典的、「考える」は近代的な論理を思わせる。近藤勝重氏は近代的論理のニュアンスにこだわっているわけだね。ポスト・モダンなんてどうでもいいのかもしれない。

ちなみに夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で次のように述べている。

デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るやうな真理を考へ出すのに十何年か懸つたさうだ。すべて考へ出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたつて車夫の智慧には出来過ぎると云はねばなるまい。

「思う」と「考える」をひっくるめて、「思考す」と訳しているのは、漱石の面目躍如という気がする。「漱石は日本で最も速い時代に現れた近代人なのだなあ」と思うほかない。

それにしても「三つ子にでも分るやうな真理」には恐れ入ってしまう。近代西欧文化と漢学と戯作にマルチに通じなければ、こんなふうには達観できないよね。

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2018/12/16

正統派よりもイケちゃってるアウトサイダー

久しぶりで『無門関』ネタ。今日は第三十二則の「外道問佛」という公案である。「外道がお釈迦様に、仏について質問した」という話だ。

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お釈迦様が座禅しているところに、外道(仏弟子以外の者)がやってきて、「有言(うごん)を問はず、無言を問はず」という、摩訶不思議な質問をした。これ、「仏」つまり「覚者(悟りを得た者)」とは何か? と問うたのだが、「言葉による説明なんて聞きたくないし、言葉以外のごまかしも受け付けないからね」と、かなり生意気に出たのである。

こんな風な聞き方をされたら、生半可のことでは答えようがない。しかしそこはさすがにお釈迦様である。ただ慈悲深く座っておられた。すると質問した外道は「世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて我をして得入せしむ」(お釈迦様の大きな慈悲のおかげで、私の迷いの雲が晴れ、悟りを得ることができました)と、感謝して去ったというのである。

例によってわかったようなわからないような話だが、そこはそれ、禅の公案だから理窟じゃなくインスピレーションで受け取るしかない。つまり、お釈迦様のただ座っておられる姿は、一見すると単なる「無言」のようにしか見えないが、実は「有言無言」を超えた次元の悟りを現していたので、質問した外道はそれを受け取ることができたというわけなのである。

そこへやってきた仏弟子の阿難は、「あいつ、何でまたあんなに感動して行ってしまったんでしょうかね」なんて、ちょっと低次元の質問をした。するとお釈迦様は「良馬は鞭の影を見ただけで走り出すものだよ」と答えたという。

阿難というのは、お釈迦様の説法をすべて記憶して「多聞第一」と言われたほどの優秀な弟子だったが、いかんせん、言葉によらない教えまではピンと来ない男だった。つまり理窟は理解できても、悲しいことにインスピレーションに欠けていたのだね。

そんなわけで、無門和尚は「阿難すなわち仏弟子、あたかも外道の見解に如かず」(阿難は仏弟子なのに、外道の理解に及ばない)と解説している。正統派よりもアウトサイダーの方がイケちゃってることがあるってわけだ。

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2018/11/05

木の中に森を見るということ

このブログでは「フラクタル」ということについてかなり頻繁に取り上げてきたつもりだったのだが、いざこの言葉で検索してみると 2つの記事しかヒットしないという意外なことに気付いた。

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ヒットしたのは、次の 2つの記事である。

「へえ、この程度しか書いてなかったんだ!」というのが、正直な思いである。こうしてみると、「フラクタル」という言葉をきちんと前面に出して書いたのは、この 2本しかなかったということのようだ。

とはいえ、フラクタルのコンセプトをベースにして書いた記事はもっとたくさんあるはずである。その中の一つに "「かれ」と見える「われ」" というのがあって、これは「私ではない何者か」が書かせてくれた記事と言うほかない。

「木を見て森を見ず」という警句があり、これは部分を見るだけで全体を理解しようとしない傾向を批判的に言うものとして知られているが、実は現代の複雑系の理論に沿えば、「木を見れば森が見える」のである。全体の中に部分があり、部分の中に全体がある構造をフラクタルという。下の図は "Sierpinski zoom" という、よく知られたフラクタル図形である。(Wikipedia より拝借

File:Sierpinski zoom.gif

「木を見れば森が見える」 というテーゼで思い出したのが、昨今の「インタープリテーション」(「通訳」 という狭い意味ではなく、"nature interpretation" とも呼ばれている)というプログラムだ。これは一言では説明しにくいので、こちら のページに飛んでいただければ、その一端がおぼろげに見えてくると思う。

かなり前に、このインタープリテーションの初歩の実修に参加したことがある。最初のプログラムは、自然豊かな郊外に出て、「しばらくこの近辺を歩き回って、自然の声を聞き、何を感じたか発表してください」ということだった、

私は結構楽しみながら森の奥まで踏み込んで、写真を撮ったり和歌を作ったりしたのだが、参加者の 1人(年配のオッサンだった)は何を思ったか、近くにあった古い神社の看板に書かれた故事来歴をメモしてきて、「この地域の古い歴史を知って感動しました」なんて言っていた。

この人、よくよくインスピレーションの欠如した人である。周囲の自然の背後にある言葉を聞こうとするのではなく、たまたま手近に見つけた看板に書かれたテキストを、そのままテキストとしてメモしてくるという安易なことしかできないのでは、インタープリテーションになっていない。ちなみに、オッサンの中にはこのタイプがかなり多い。

対象の中に「未だテキストになっていない何ものか」を感じて、自分の感性でテキスト、あるいはその他のスタイルとして表現できるのでなければ、当然ながらフラクタルの醍醐味は理解できず、さらには人生の機微もわからないだろうね。

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2018/10/25

「利休七則」というもの

茨城県の常総市というところにある「いおり庵」という和菓子屋の煎餅と最中が、地元ではやや注目されているようで、最近立て続けに頂き物として舞い込んでくる。これがなかなかおいしい。

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有り体に言ってしまえば、和菓子のおいしさなんていうのは大抵決まり切っていて、きちんと作れば大体みんな同じような味になるもののようだ。ただ、その「きちんと」というのが問題で、いい加減に作るとそれなりのものにしかならない。

で、このいおり庵という店のお菓子は、なるほど「きちんと」作ってあるものという気がする。最中の甘さにしつこさがなく、煎餅もぱりぱりとあっさりかじれる。この「頃合い」というのが大切だ。

「頃合い」の見極めというのは、実はなかなか哲学的なものである。この店の包装紙はシンプルな真っ白な紙に、次のような文句が印刷してある。

茶は服のよきように点し
炭は湯の沸くように置き
花は野にあるように
夏は涼しく冬は暖かに
刻限は早めに
降らぬとも傘の用意
相客に真心を

うぅむ、このシンプルさがいいではないか。これは「利休七則」 というもので、千利休が残した茶道のおもてなしにおける心得の究極であるらしい。

ちょっと浅薄なことを言うが、私は有名な晴れ男のくせに、出かける時は折り畳み傘をいつも用意しているので、この 「降らぬとも傘の用意」 というのは、ちょっと泣ける。あとは、自分のためだけでなく人のためにもさりげなく傘の用意ができるようになれば OK なのだろうが、これって案外難しいのだよね。

幸せになるための哲学とは、ほんのちょっとしたことなのだが、これがなかなか難しい。ただ、難しいと思っているうちは単なる凡人で、これをさりげなくできるようになってしまうと、人生の達人ということになる。

 

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