カテゴリー「比較文化・フォークロア」の311件の記事

2022年5月26日

「小股」に関して、再び、三度

Japaan に 【いい女の代名詞 「小股の切れ上がった女」の "小股" って何? 江戸時代の庶民文化から探る】という興味深いページがある。ただ悪いけどこの問題、ウチのサイトでは 19年近く前に取り上げ済みなんだよね。

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それは私が「本宅サイト」としている「知のヴァーリトゥード」内「知の関節技」コーナーの 21番目の記事、"「小股ってどこか」よりも大切なこと 「よくわからない」まま置いておく美意識" という記事だ。日付は「H15.07.29」(西暦だと 2003年)だから、この日に生まれた子は、既に成人してることになる。

しばらくの間は、2006年 9月 8日の記事で触れているように、「小股」という漢字 2文字でググると、私のこの記事が圧倒的トップに表示され続けていた。最近は後になって書かれた便乗ページみたいなのが上位に入っているが、あくまでもこの話題の元祖は私なので、そのあたりよろしく。

ただ、上述の「元祖ページ」はちょっと長いので、こちらのブログでそのダイジェスト版みたいなものを、2005年 10月 30日付で書いている。”「小股」は「足指の股」だけじゃない” という記事だ。フツーはこっちの方が手っ取り早く読めると思う。

この記事を書いたきっかけは、この頃に放映された「世界一受けたい授業」という番組で、「小股とは、足の親指と人差し指の間」と言っていたらしいとわかったからである。しかし実際にはそうした意味もあるにはあるが、私はそれは「和装・足袋業界の専門用語に過ぎない」としている。

そりゃ当然で、「足の親指と人差し指云々」なんてことは、この言葉を「いい女」を表す文脈で使うケースとはまともにつながらない。それに第一、そんなところが妙に切れ上がったりなんかしたら、まともに歩けないよね。

冒頭に紹介した Japaaan の記事は「足の親指と人差し指の付け根」説を含め、いろいろな説を並記しているだけだが、私としては次のようなことだろうと結論づけている。

私は自分のページで、「小股の切れ上がったいい女」という場合の「小股」に関しては、「小耳にはさむ」とかいう場合と同様に、「体言挟みの係り」説を原則的に支持している。要するに、「股がちょっと切れ上がった」という意味だと解釈しているのである。

「小腹が空いた」という場合、決して体のどこかに「小腹」という部位があるわけではなく、「ちょっと腹が空いた」という意味であるのと同様だ。

「体言挟みの係り」については、こちらを参照されたい。さらにその上で、私はブログ記事の最後を次のように締めくくっているので、よろしく。

しかし、それでも、「小股」 ってどこかというのを曖昧にして、ああでもないこうでもないと詮索するのも、なかなか広がりがあってオツなものだと、私は主張している。「足指の股」という業界用語のみにもっともらしく固執するのは、無粋の極みである。

 

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2022年4月 4日

自分の「部族」名を特定するとしたら

おもしろい tweet が見つかった。fumi_aoki さんという方のナイジェリアでの体験である(参照)。警察署で「無犯罪証明書」を取得するための申請書に "TRIBE"という項目があったんだそうだ。

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そもそも「無犯罪証明書」というのがどういうものだかよくわからないが、きっと何か公式なことをする際に、「決して悪いヤツじゃございません」というために必要なんだろうね。そして写真には確かに ”TRIBE”(部族)と、”PLACE OF BIRTH”(出生地)という項目がある。

Tribe の項目に何を書こうかと考えていたら、担当者に「ヨルバ族とかイボ族とかあるやろ」とせかされたらしい。決してナイジェリアの警察官が大阪弁だったわけじゃないんだろうが、それにしても東洋人を相手に「ヨルバ族とかイボ族とか」はないよね。

で、彼は仕方なく ”GUMMA”(群馬)と書いたもののようだが、まあ、それで通ったんだろう。異文化の真っ只中で戸惑ったら、とにかく何でもいいから書いてみるものである。

これを読んで我ながら酔狂なことに、「さて、自分ならこの項目に何と書くだろう」と考えてしまった。山形県は庄内の生まれだから "Shonai" と書いてもいいが、それだとブログ・ネームと同じだから、下手するとややこしいことになりかねない。

大阪ミナミの生まれの人だったら、”Naniwa” なんて書くと、自分でもかなりしっくりくるんじゃなかろうか。「浪速族」なんて、いかにもありそうじゃないか。同じ感覚で、"Hakata" (博多族)なんてのもいいし、"Satsuma"(薩摩族)、"Izumo"(出雲族)もグッとくるものがある。

そこへ行くと、東北方面はさすがに地の果てだったということもあって、なかなかしっくりくるものがない。"Dewa"(出羽族)とか "Mutsu"(陸奥族)では、ちょっとインパクトに欠ける気がしてしまう。

いろいろ思案した挙げ句、"Danderro" というのがいいと思いついた。"R" を 2つ重ねるのがミソで、イタリア語的に「ダンデッロ族」と称していただきたい。うん、これで行こう。公式に使うことなんて、一生ないだろうけど。

なお「だんでろ」という言葉については、3年半近く前に書いた "酒田衆の「だんでろ言葉」" という記事を参照いただきたい。

 

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2022年4月 2日

トリックスターに(ほんのちょっとでいいから)幸あれ

note というサイトに「ウィル・スミスはなぜ許されないのか?」という記事がある。筆者は文脈くんという人だが、これ、「我が意を得たり」と言いたくなるものだった。

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記事の内容は、例のアカデミー賞授賞式の、ウィル・スミスが司会役のクリス・ロックの「ちょっとキツいジョーク」に怒って平手打ちを食らわせた件についてなのだが、その平手打ちは「断じて許されないことなのだ」と非難している。よくぞ言って下さった。

紹介した記事でも触れられているが、クリス・ロックは「スダンドアップ・コメディアン」である。それについては Wikipedia の「スタンダップコメディ」の項で、次のように紹介されている。

題材はユーモラスな物語やジョーク、人間観察、下ネタ、政治、宗教、人種差別など幅広く、演者が皮肉交じりにしゃべるのが特徴である。伝統的なジョークの形態と異なり、時として観客を不快にさせることがあるという点で「オルタナティヴコメディ(英語版)」の一つとも言われる。

「時として観客を不快にさせることがある」というのが真骨頂で、当たり障りのないネタばかりでは、彼らの存在意義がない。そしてクリス・ロックはとくに「キツいジョーク」をかますことでで知られるらしい。

今回の件がニュースになった時、私は「そんなことでツカツカ歩み寄って平手打ちをくらわせるなんて、無粋じゃないか」と思っていた。「いやいや、やられちまったね」みたいな感じで苦笑して首を振ってみせていればよかったのである。

文脈くんは記事の中で、アメリカでは「言論の自由」を守るために、伝統的常識を意図的に解体する必要があり、「その役割を一手に担うのがスタンドアップコメディアン」なのだとして、次のように言っている。

スタンドアップコメディアンには、常識の攪拌が求められている。その代償として、彼らには「何を言ってもいい(たとえ差別的な言辞であっても)」という特権が与えられている。

これ、実はアメリカばかりではなく、世界中にあることで、日本でもそんな役割の芸人がいた。昔の「幇間」などがそれで、曽呂利新左衛門(実在は疑わしいとの説もあるが)なんかはその発祥と言われるトリックスターである。

幇間は「太鼓持ち」なんて呼ばれて、どうでもいいおべんちゃらばっかり言うものと思っている人も多いが、実はそんなものではない。かなり機知に富んだことを言えなければ商売にならず、その機知というのはアブナい話まで含むのである。

日本では近年、表面的な放送コードなんかに縛られて「アブナい芸」を売り物にするタレントがいなくなってしまったが、放送に乗らない場でのタモリとかたけしはそんなような存在なのかもしれないね。

というわけで、トリックスターに幸あれ。ほんのちょっとでいいから。

 

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2022年3月12日

留学と海外出張

Q&A サイトの Quoraに、「留学をして英語が話せるようになる人とならない人には、どのような違いがありますか?」という質問が寄せられている。

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確かに「米国への留学経験がある」なんて言ってるくせに英語が下手っぴいな人って、少なくない。ここで某元首相の名を持ち出す必要もないだろうけど。

私なんかそんなに裕福な家庭で育ったわけじゃないので、自分が留学するなんてことは一度も考えたことがない。夢のまた夢みたいに思っていたものだ。

ところが、「米国に 2年間留学してた」なんていう「留学経験者」の英語を聞くと、「あんた、その程度の英語力で『留学経験がある』なんて、よくまあ恥ずかしげもなく言えるよね」なんて言いたくなることが結構多い(実際には言わないけどね)。はっきり言って、投資効率悪すぎじゃなかろうか。

これに関して、冒頭の Quora のサイトで英語講師の Nicky Sekino さんは、「私の経験からいうと、留学をしてもあまり英語が話せる様にはなりません」と明確に答えておられる。私は経験がないから「へえ、そうなんだ!」と思うばかりだ。

彼によればフツーの留学生活というのは、授業に出てアパートに帰り、予習復習をするだけなんだそうだ。たまにコンビニで買い物をして、店員に "Hi" と声を掛けられ、精算し終えて ”Thank you." と言うだけでは、せっかく外国で暮らしながら、会話の機会が圧倒的に少なすぎる。

英語が上達する人というのは、学校以外に生活のある人だという。キャンパスの食堂でアルバイトをすると、ボーッとしているわけにいかないので英語がメキメキ上達すると彼は指摘する。

なんだ、私は留学というのは、そんなように積極的に現地社会に入り込み、交流をもちまくるためにするのだとばかり思っていたが、そうじゃなかったのか。単に「留学のための留学」というのでは、語学的ハンディの中でよくわからない授業を受けて帰るだけで終わってしまうだろう。

元日本語教師の Hide Noguchi さんという方は、「性格的には『話し好き』で、好奇心があって、いろいろと話したいことをたくさんもってることが大切」と答えておられる。日本人には自分の意見をはっきりと言う人が少ないので、「日本人をやめる必要がある」とまでおっしゃっている。なるほどね。

私は留学の経験はないが、海外出張の経験だけは結構ある。海外での国際的トレードショー(展示会)の取材をする時などは、そうした展示会視察の団体ツァーに潜り込んで経費を浮かすことがあるのだが、そんな場合は一緒に行った日本人とはできるだけ距離を置くことにしていた。

そうしないと、「彼は英語がしゃべれるから頼りになる」なんて思われて付きまとわれてしまい、仕事にならなくなるからである。現場で外国人の話を聞くために出張しているのに、日本人とメシ食ってばかりいなければならなくなってしまったら、お笑い草としか言いようがない。

あげくの果てに、仕事上でつながりのあるオッサンの「出張報告書」まで代筆してやらなければならなくなる。オッサン、出張先では日本料理店でメシ食って酒飲んで、あとは奥さんへの土産用のブランド品と会社の同僚へのどうでもいい買い物してるだけだから、まともな出張報告が書けるわけない。

まあ、こうやって「貸し」を作っておけば、後になって別の形で返ってくるからいいけど。

ただ、せっかく外国に行って一緒に行った日本人としか付き合わずに帰ってくるなんて、もったいないと思わないんだろうか? もしかしたら、留学ってこうした海外出張と似た構造をもってるのかもしれない。

せっかく行ったのに、現地の空気をまともに吸わずに帰って来るという意味で。

 

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2022年2月24日

「膳」と「ちゃぶ台」と「ステテコ」を巡る冒険

2月 18日に「江戸の昔の蕎麦屋に、椅子とテーブルなんてなかった」という記事を書いている時から気にかかっていたのが、日本式の食事スタイルについてである。下の写真は Pinterest から拝借した懐かしき昭和の食事風景(参照)だが、お父さんのステテコ姿とお母さんのパーマ髪が妙に印象的だ。

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18日の記事では蕎麦をたぐる時には蕎麦猪口を手に持つと書いているが、よく考えれば日本の食事で食器を手に持つのは、蕎麦を食う時だけに限らない。飯を食うときには茶碗を持ち上げて箸を使うし、汁も汁椀を持ち上げ、直接口を付けてすする。いわゆる「洋食」では決して見られない作法だ。

今は日本でも「椅子とテーブル」を使った食事がフツーになっているが、それ以前は上の写真のような「ちゃぶ台」が主流だった。ただしこの「ちゃぶ台」が登場したのは明治以後のことで、それ以前はもっぱら「膳」を使っていた。Wikipadia には次のように記されている(参照)。

貴族社会では同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた。

「膳」にもいろいろあり、「親子の住まい方教室」というサイトの「お膳の始まり」というページを見ると、結構なバラエティである。

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このサイトでは「お膳を使った食事」というページに、「膳」というものが日本独特の食事スタイルの形成に大きな役割を果たしたことが詳しく書かれている。食事作法以前の問題として、食事の場所、順番、並ぶ順などで家の中の人間の上下関係が明確になる。「膳」は封建社会の価値感そのものだ。

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というわけで「膳」というのは、形の上だけでなく、コンセプトからして円卓とはまったく違う発想なのだ。さらに言えば、「膳」を使うと茶碗を持ち上げるのはごく自然の成り行きだ。そうしないともろに這いつくばって、文字通りの「犬食い」になってしまうので。

この「膳」に替わって「ちゃぶ台」が普及するには、明治という「文明開化」の時代を待たなければならなかったのだろう。さらに一番上の写真のような六畳間での「家族団らん」の象徴となるまでには、昭和、しかも戦後の時代を待たなければならなかったのかもしれない。

ちなみに Wikipedia の「ちゃぶ台」のページは、その語源についての解説から始まっていて、「卓袱台のほか、茶袱台、茶部台、食机」などの当て字があるという。さらに「岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある」と書かれている(参照)。

ちなみに「飯台」の読みは、「めしだい」ではなく「はんだい」。私の生まれた山形県庄内では訛って「はんでん」なんて言っていたが、今どきはいくら庄内でも、若い人には通じないだろう。昭和は既に遠い昔の物語で、ほとんどフォークロアの世界に入っている。

さらに写真をよく見ると、「昭和のちゃぶ台」はかなり低い。ソフトウェアとしての家族の座る位置は見かけ上で民主化されても、ハードウェアとしての「高さ」は相変わらず「膳」のスタンダードを引きずっていたようなのだ。Wikipedia にも次のように書かれている(参照)。

高さは 15 cmから 24 cmくらいが一般的であったが、これは時代を経る毎に高くなり、現在は 30 cm前後のものが一般化している。

というわけで、明治期に登場した「ちゃぶ台」は、平成以後の御代ではお父さんのステテコ姿やお母さんのパーマ髪と歩調を揃えるかのように、急ピッチで姿を消しつつあるようなのである(参照)。

 

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2022年2月20日

「銚子」と「徳利」の長い旅路

いきなりなまめかしい画像で恐縮だが、今日は一昨日に取り上げた ”時代劇は間違いだらけ?~其の一~…蕎麦屋にテーブルはないし、裁きのお白洲は外ではなかった!?” の続編、"時代劇は間違いだらけ?~其の二~「お銚子もう一本!」は間違い、湯屋では髪を洗わない…" を考察させてもらう。

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この記事は、時代劇に出てくる「お銚子もう一本!」というセリフは間違いと言っているわけなのだが、こう言っちゃ何だが、記述が冗漫でわかりにくい。そこでこのブログ記事で簡潔にまとめ直させていただく。(画像は元記事より援用)

まず前提として、現代では「徳利」のことを「銚子」とも言うが、江戸時代においてはこの 2つは別物だった。江戸時代なら本来は「徳利もう一本!」と言わなければならず、「お銚子もう一本」と言ったら、別のものが出てきてしまっただろう。

というわけで、酒器の歴史の話になる。太古から平安時代に至るまでは、酒を飲む時は土器(かわらけ)を使っていたが、平安時代初期から「銚子」と「堤子(ひさげ)」が登場する。

【2月21日 追記】

下の写真は月桂冠のサイトより拝借した、古い形の「銚子」(手前)と「堤子」(奥)。

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平安時代は、酒を樽から「堤子」に移し、次いで「銚子」に移していた。つまり「堤子」と「銚子」はワンセットと考えていい。

ところが江戸時代前記(16世紀)から、蓋付きの「堤子」が登場し、こちらの方を「銚子」と呼ぶようになった。「蓋付き堤子」が「本来の銚子」の役割と名前を奪った結果、面倒なプロセスが省略されたわけだ。

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「堤子」は音読みで「ていし」なので「銚子」(旧仮名で「てうし」)と一緒にしてしまいやすかったのだろう。上の金色の「銚子」は、この「蓋付き堤子」の最も新しい発展形(結婚式の三三九度用?)とみてよさそうだ。

一方「徳利」の話に移るが、本来のサイズは現代の「一合徳利」のようなものではなく、醤油や酒を貯蔵するための、1升から 3升のサイズの大きな瓶のようなものだったらしい。

そしてこれとは別の系統で、神棚に酒を供えるための「瓶子(へいし)」というものがある。下の写真の奥にある 2本がそれで(手前は水器)、現代でも神事に使われている。

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で、ややこしいことに、室町時代にはこの「瓶子」を「とくり」とも呼ぶようになった。既にある大きな瓶と同じ呼び方なので、ややこしいが仕方がない。で、この「瓶子」が「とくり」と呼び慣わされるうちに、江戸時代には下の写真のような、いわゆる「一合徳利」に変化していたようなのである。

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で、この「一合徳利」と「銚子」が、「酒を注ぐ」という用途が同じということで、明治以後になって初めて混同され、「徳利」を「銚子」とも呼ぶようになったというのだから、思えば長い旅路である。というわけで、酒場での「お銚子もう一本!」という言い方は、明治以後でなければあり得ないってわけだ。

元記事は「ちろり」というものにも言及しているが、煩雑になるのでここでは省く。それにしても、「元記事はなんでこんなにわかりにくいんだろう?」と思い、改めて読み返してみたところ、1ページ目の次の記述がガンなのだとわかった。

ではなぜ銚子を徳利と呼ぶようになってしまったのでしょうか。
酒器の変遷をたどりましょう。

これ、話が逆だよね。そもそもこの記事は、「江戸時代に『徳利」と称していたものを、明治以後に『銚子』とも呼ぶようになってしまった」という流れの解説が主眼なのに、途中にこんな記述があるせいで一度に混乱してしまう。まったく、話の筋道をひっくり返さないでもらいたいものだ。

そして元記事は、髪は風呂屋ではなく庭先のたらいで洗っていたという話に続くのだが、もう疲れたので、これでおしまい。

 

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2022年2月17日

「日本語上手ですね」と「英語上手ですね」

文春オンラインに、韓国出身・大阪府在住のラッパー Moment Joon 氏の著書『日本移民日記』(岩波書店)よりの抜粋記事が載っている。初回は【 「日本はどれぐらいですか?」「日本語上手ですね」…日本で生活する “外国人” が  “善意の言葉” をかけられて感じる “複雑な気持ち” の正体】というものだ。

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彼は、日本に来た当初は「日本語上手ですね」と言われると嬉しかったが、6、7年経つと変わってきたという。大抵の場合はまず日本に何年住んでいるかを聞かれ、「7年目です」などと答えると、次に決まって「へえ、そうなんですね。日本語上手ですね」などの反応が返ってくるという。

彼はこのパターンを「アンキャニー・バレー」(uncanny valley: 「不気味の谷」現象)という言葉を使って説明している。例えばロボットの外見が人間に似ていると好感を持つが、あまりにリアルに似すぎていると「不気味さ」を感じてしまうというような現象だ。

「ネイティブ並の日本語駆使者たちは、自分たちが『日本語のアンキャニー・バレー』に入っていると感じている人が多い」と、彼は言う。日本人の多くは、日本語がテキトーに上手な外国人には好感を持つが、あまりに上手すぎると、ある種の気まずさを感じるようなのだ。

彼はさらにこう続ける。

「日本語のアンキャニー・バレー」に落ちている人々なら、「日本語上手ですね」の代わりに「◯◯さんは心が日本人だから」は少なくとも 1回は聞いたことがあるはずです。

(中略)

「◯◯さんは心が日本人」は異質なものを「われわれと同じもの」にしちゃって安心したい気持ちを表しているかもしれません。

なるほど、彼がこう感じてしまう気持ちは理解できる。というのは、私も 11年前に "「日本人より日本人らしい」って、どういうこっちゃ" という記事で、学生時代に親しかった、日本の古典文学に精通したドイツ人留学生のことについて書いたことがあるからだ。

半世紀近く前の日本社会に、日本語を(古語に至るまで)ほとんど不自由なく操る希有なドイツ人として存在していた彼は、いつも「日本人より日本人らしい」と褒められていた。これは今日の日本社会で日本語を駆使する Joon 氏の言う「心が日本人だから」以上のニュアンスだと思う。

私は当時、こうした失礼な決まり文句を絶対に使わなかった。それは、相手の大切にしているであろうネイティブなバックグラウンドを、「捨ててしまえ」と言うに等しいと思っていたからである。

実際のところ、彼も「日本人より日本人らしい」と言われる度に居心地の悪さを感じていたようで、ある時、私にこう言った。

「日本人が僕に対して『日本人より日本人らしい』というのは、心の中で『ガイジンなのに』と思ってるからだよね。日本人って、自分たちの文化が『ガイジン』には理解されるはずがないと思ってるんじゃないかなあ。自分たちは特別って思ってるよね」

外国人が「心が日本人だから」とか「日本人より日本人らしい」なんて言われたら、そんなふうに感じない方がおかしい。ただ、その感覚は多くの日本人の理解の範疇を越えているようなのである。何しろ日本人同士では「君は心が米国人だね」なんて、褒め言葉みたいに使ってるケースだってあるし。

Joon 氏は、「英語が達者な人が『あなたの心はイギリス人ですね』とか言われたという話は、今まで聞いたことがありません」と書いている。なるほど、国際語になってしまった英語は、英語を母国語としない国で生まれた人間でもかなり達者に操ることぐらい、珍しいことでもなんでもないからね。

ところで私は、米国人に "You speak good English" (英語上手ですね)と褒められたことが何度かある。初めのうちは単純に嬉しがっていたが、ある時、そこには「英語の下手さでは定評のある日本人にしては」という暗黙の前提があるのかもしれないと気付いて、素直には喜べなくなってしまった。

 

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2022年1月18日

「お世話になっています」を AI で英訳すると・・・

東洋経済 ONLINE に "AI で「お世話になっています」を英訳してみると" という記事がある。レノボ・ジャパン社長のデビット・ベネット氏の書かれたものだ。

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ベネット氏は最近の AI 翻訳について、"現在 GPT-3 という AI や、DeepL という AI の評判がかなりよく、率直にいって英語の翻訳については「ほぼ完璧」と言えます" と書いている。記事には DeepL を使って英文を日本語に翻訳したものが載せられているが、確かにかなり自然な日本語になっている。

とはいいながら、ベネット氏は「私は引き続き外国語のスキルは必要だと思っています」としている。それは日常の会話などを適切に翻訳するという点において、AI はまだまだだからということのようだ。

例えば、"How are you?" という言葉について、ベネット氏は次のように述べる。

本来「あなたはどうですか=元気ですか?」という意味です。しかし突然「元気ですか?」という挨拶をする日本人は私の知るかぎりアントニオ猪木さんくらいで、他にはあまりいませんね。

このくらい一般的な言葉であれば AI は学習していて「こんにちは」と訳します。ただ、これがビジネスの場であればどうでしょう。おそらく「こんにちは」といきなり挨拶をする営業マンがいたらざわつくのではないでしょうか。

確かに難しい問題だ。その場その場の空気を読んで、最も適切な言葉に置き換えるしかなく、時には大胆な意訳も必要になる。

ビジネス上の挨拶としては「いつもお世話になっています」が登場し、これは日本語としては自然だが、AI が英訳すると "Thank you for your help." となり、かなり不自然なことになる。

さらに日本語のビジネスレターの書き出しの決まり文句、「貴社ますますご清栄のこととお喜び申し上げます」を英訳して、"I hope that your company is doing well." なんてやったら、かなりナンセンスだろう。実際にはこんなの、訳しようがないね。

というわけで、ベネット氏は「ビジネスの報告をする時、対立する意見を持つ人と意見交換をする時、あるいは異性に交際を申し出る時、こうしたシーンを AI に任せる気にはならないです」と書いている。これについては、私もまったく同感だ。

AI がかなり進化した今でも、やはり語学力というのは必要なのだろう。さらに実際の場面においては単に言葉の翻訳という問題だけではなく、「比較文化論」の視点まで必要になることが多い。

複数の言語が話せるということは、1つのテーマに関して別の文化的アプローチで考えることができるということになるので、確実に厚みのある思考ができると思う。

 

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2022年1月 4日

「お屠蘇」の文化の危機

正月に飲む酒のことを、言葉の上でだけちょっと洒落て「お屠蘇」なんて言うのだと思っていたが、駅前糸脈の 1月 3日付「北帰行」を読んで、そうじゃないと初めて知った。さすがにお医者様だけに、正月にはいつも「ちゃんとしたお屠蘇」を飲まれていたらしい。

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ただ、昨年暮れはお屠蘇を買い求めることができなかったとのことで、次のように書かれている。

正月三が日とも日本晴れで休んでいるのが勿体ない気がしてしまう。お屠蘇を飲んでと言いたいところだが、 家内が暮れにお屠蘇を買いに行ったら「お屠蘇って何ですか」と聞かれ置いてないとのことで今年は酒味醂を合わせたもので済ませた。

上の画像からもリンクされる日本名門酒会の「お酒の歳時記/お屠蘇」のページに、お屠蘇とは「酒やみりんに生薬を付けた一種の薬草酒で、邪気を払い無病長寿を祈るおめでたいお酒です」とある。いやはや、そんなこととは明確には意識していなかった。

そう言えば、前に初詣で神社に正式参拝した時に、「屠蘇」と書かれた小袋に入ったティーバッグみたいなものを戴いたことがあるが、あれがその「薬草」だったのか。私は単なる「気分の問題」としか思っていなかった。不信心なことである。

私の父は「酒はお猪口一杯なら美味しいと思うが、二杯飲んだら死ぬ」というほどの下戸だったので、我が家では正月でも酒を飲むという習慣がなかった。そんなわけで、「お屠蘇」というものの本当の意味を知らないまま、この年になってしまっていたわけだ。

で、正式なお屠蘇ってどんな生薬を漬け込んだものなのかと調べると、同じページにこんな表がある。うむ、確かに体に良さそうだ。

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ただ、東日本では「正月だからお屠蘇をいただく」と称して単なる酒をがぶ飲みするおっさんも多い。冒頭で紹介した「駅前糸脈」でも、店員が「お屠蘇」を知らなかったとあるので、私が「お屠蘇」の本当の意味を知らなかったのも仕方がないかもしれない。

というようなことで、昨今は「お屠蘇文化の危機」にさしかかっているのかもしれない。昨日のテーマの「お雑煮」はまだまだ健在のようなのに。

 

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2022年1月 3日

雑煮のバリエーションが見えるインターネットの威力

フードライターの白央篤司という方が Twitter で「みなさんのお雑煮を見せてくださいませんか」と呼びかけた(参照)ところ、全国から次々に画像が集まっている。それが togetter で地域別に分類整理されて見やすくなっているのがとてもおもしろい(参照)。これはインターネットの威力と言っていいだろう。

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私は 16年前の 1月 5日に "「正しい餅」は、丸餅でなきゃ" という記事を書いている。一般的には東日本は角餅、西日本は丸餅とされているが、私の生まれた山形県庄内地方は、東日本では珍しい丸餅文化圏である。この件で、進士素丸さんの tweet に面白い地図がある(参照)。

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この地図では、山形県酒田市は で表示され、全国でも珍しい(奈良と九州にはポツポツあるが、東北では唯一)「丸餅を焼く」文化圏ということになっている。同じ丸餅でも、西日本では焼かずに「煮る」のが主流のようだ。

大雑把に言うとこの地図上では、「角餅を焼く」東日本は黒っぽく、「丸餅を煮る」西日本は白っぽく見える。というわけで、焼いた丸餅をすまし汁で食うという酒田は、両者のクロスオーバー文化といえる。

白央篤司さんの呼びかけに寄せられた写真で私にとって一番「お馴染み感」があるのは、さすがに「山形県沿岸部」にお住まいの、きになるこ さんの tweet にあるもの(参照)。私の実家でも、元旦にはこんな風に色取りどりのおかずが付いた。

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さらに個人的にそそられたのは、石川県にお住まいのお二人の丸餅雑煮(参照 1参照2)。添えられるのが「刻み葱だけ」とか「三つ葉と柚子だけ」とかの、潔いほどのシンプルさだ。さすがに金沢文化圏、よほど出汁をおいしく取るのだろうね。

驚いたのは、香川県でずらりと並ぶ「餡入り餅の白味噌仕立て」である。あんこの入った餅を雑煮にする地域があるなんて、生まれて初めて知った。日本は狭いようでも広い。

日本の全都道府県に行ったことのある私でも正月にはおとなしくしてるから、多様な雑煮には接していなかった。こうしてみると「たかが雑煮、されど雑煮」と言いたくなるほどのバリエーションで、長く守っていく価値がある。

 

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