どうしてそれほどまでに夫婦同姓にこだわるのか
先月 22日に報じられた記事だから取り上げるタイミングがちょっと遅くなってしまったが、「維新 結婚後も旧姓の通称使用可能にする法案要綱まとめる」という NHK NEWS の内容が気になってしまった。
日本維新の会の案は、記事によれば「結婚で姓を変えることが、女性の仕事や社会活動に不利益をもたらしており、早急な対応が必要だとして、結婚後も旧姓を通称として使用できることを規定した法案の要綱が示され」とある。どうやら「姓の変わるのは女性」というのが前提とされているようなのだね。
そして要項内容の重要ポイントは次のようなことだ。
要綱では戸籍法を改正し、希望する人が結婚前の旧姓を通称として戸籍に記載できるようにするとともに、住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにするとしています。
つまり戸籍上では「本名はあくまでも本名」で、「通称としての旧姓が補足的に記載できる」ということのようなのだ。ただ「住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにする」というのは画期的ではあるものの、表現がかなり紛らわしい。
「本名」を原則としながら「旧姓」も補足的に表記できるというのか、「旧姓」のみの表記でいけるのかが曖昧で、明確に読み取れない。いずれにしても一人の人間に「本名」と「通称」の二通りの名前を法的にもたせるということ自体、かなり鬱陶しい制度ということができる。
これ、次のように考えてみればその不毛さが実感されるだろう。
結婚に際して男の方が妻の姓に変わることだって当然あるわけで、他ならぬ私の父がそうだった。母が一人娘だったために、いわゆる「婿入り」の形で結婚したのである。ところが通称としての旧姓使用に関する最近の情報は、ほとんど女性の場合のみを想定して語られている気がする。
これがこの問題をややこしくする第一歩みたいなものだ。根底にあるのが「男権社会」のコンセプトのままだからである。
私は 7年近く前に "「夫婦別姓」 は、保守派にもメリットがあるだろうに" という記事の中でこんなことを書いている。少々長くなるが引用しておく。
思えば、「夫婦別姓」ならぬ「親子別姓」というケースがある。今の世の中では、親が離婚して、母親が旧姓に戻ったために、子どもと姓が違うという場合が多いだろう。しかし昔は、そうではない理由での「親子別姓」というのがあった。
それは一人娘が結婚して姓が変わってしまったために、「家督相続」する者がいなくなり、どうしても「家」というものを継続させたいがために、生まれてきた子の 1人を母親の両親の養子として縁組してしまい、それによって母方の「家」を継がせるというものだ。大方は子どもの知らないうちに養子縁組を成立させてしまうので、子どもが幼いうちは、当事者ながらよくわからない事情であっただろう。
保守派は「夫婦別姓では、親と子の姓が違ってしまい、家族の一体感が阻害される」などといって反対するが、その昔の「子どもが知らないうちに、祖父母の家に養子縁組されてしまっている」というケースに関しては、「親と子の姓が違ってしまい…云々」 みたいなことは言わない。これは甚だ不公正な態度と言えるだろう。
そもそも夫婦別姓を取り入れると言っても「選択的夫婦別姓」なのだから、全ての夫婦が別姓を名乗れというわけじゃない。妻が夫の姓を名乗りたければそうすればよく、旧姓のままでいたければそれも合法とするというだけのことだ。
そのせいで世の中がひっくり返ったりするわけじゃないというのは、日本以外の国がごくフツーに証明してくれている。どうしてそれほどまでに「戸籍上の夫婦同姓」にこだわるのか、本当にわからない。
最後に付け加えておくが、この記事に添えられてる写真、妙に寂しい光景だなあ。
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