カテゴリー「比較文化・フォークロア」の301件の記事

2021年10月28日

ちょんまげ、ザンバラ、月代(さかやき)を巡る冒険

Japaaan のサイトに「足利尊氏?高師直?あの有名な肖像画の騎馬武者は、どうしてザンバラ髪なの?」というタイトルのページがある。示されているのは、下の騎馬武者像だ。

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この絵、歴史の教科書にも載っていて、足利尊氏とされていたのだが、実は家臣の高師直(こうのもろなお)であるという説も出てきているのだそうだ。いやはや、びっくりである。教科書を素朴に信じすぎちゃいけない。

高師直の名は歌舞伎ファンにはお馴染みで、『仮名手本忠臣蔵』では敵役の吉良上野介が、足利時代を描いた『太平記』に出てくる悪役の、高師直として登場する。これは江戸時代の実話だった赤穂浪士討ち入り事件を、幕府に配慮して、無理矢理に足利時代のストーリーとして語っているためだ。

実在の高師直はとても勇壮な武将だったらしいが、『太平記』ではどういうわけか無類の女好きのゲスじじいとして描かれている。そして歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にもその嫌らしいイメージのままの敵役として登場するので、とにかく「嫌われ役」の典型だ。

高師直がこんなにも酷いヒール扱いされたのは、庶民に人気の高い楠木正成を破ったためとも言われるが、とにかく実際の高師直が気の毒になるほどである。本当に本当に、一方的なものの見方というのはアブナい。

話を最初に戻すが、この騎馬武者像が足利尊氏なのか高師直はこの際置いておくとして、なにゆえにザンバラ髪で描かれているのかというのが、そもそもの Japaaan の記事のテーマだ。絵をよく見れば、同じザンバラでも髷を結い直せないほどの短さである。

この記事によれば、このザンバラ髪は、"もう「二度と髷を結わない」決死の覚悟で髪を断ち切った跡" ということのようなのだ。次のように書いてある。

建武 2年(1335年)11月、朝廷から謀叛の疑いをかけられた尊氏は赦免を求めて断髪、恭順の意を示すものの許されず、やむなく叛旗を翻しました。

その時、御家人たちも決死の覚悟を共にするべく髪を一束切(いっそくぎり)にしたと言います。

(中略)

一束切とは、髻(もとどり。髪の根元)を握りこぶし一束(ひとつか。一掴み)分のところで髪をバッサリ切ること、または切った髪型を言い、再び結うのが難しいことから、基本的に死を覚悟した時の決意表明となります。

ついでに、この記事には兜(かぶと)の形状の変化と月代(さかやき)についても解説してある。

平安から鎌倉時代の兜というのは、天辺の穴に髷(およびそれを覆う烏帽子)を通すことで頭に固定していたのだが、この穴から矢を通されるということで弱点になっていた。そこで時代が下るにつれて紐で固定するようになり、天辺の穴もふさがれていった。

兜の天辺の穴は「八幡座」と呼ばれ、「刀剣ワールド」のこちらのページに詳しく解説してある。被る時は、下図のようになったらしい。

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ただ、天辺の穴が小さくなると髷を結っていては兜を被りにくいというので、髷をほどいて装着するようになった。それが鎌倉時代末期のことなので、この武者像の髪が短いということを別とすれば、ザンバラなのは不思議ではないようなのだ。

そしてさらに時代が下ると、兜の穴がふさがれると頭が蒸れるというので、頭のてっぺんの髪を剃る月代スタイルが普及する。一番上の絵は、そうなるちょっと前の武士の姿なので、月代を剃っていない。

いやはや、この記事を読むまではそんなこととはちっとも知らなかった。そういえば、室町時代以前の武士というのは月代がないというイメージだったりするのは、そういうことだったのか。

 

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2021年10月19日

葬儀と「清めの塩」と画一化の問題について

昨日の記事で "近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される" と書いたが、より新しい情報では「必ずと言っていいほど」というわけではなくなってきているようだ。私の中の情報が少々古くなってしまったようで、更新しなければならない。

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ようやく世の中に変化が現れているらしい。上の図は「昭和セレモニー」(千葉の葬儀会社らしい)という会社のサイトから拝借したもので、とてもわかりやすい。

昨日の記事で、「清めの塩」について "「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられない" と書いたのは、次のような理由からである。

  • 「清めの塩」というのは元々は神道の考え方だから、仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型。
  • 葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」でしかないし、個人的にはしたことがない。
  • かと言って、敢えて受け取りを拒否するのも無粋だろう。
  • ところが持ち帰ったところで、我が家常備の天然塩とは違うため一緒にしたくないので捨ててしまう。
  • 一人一人にしてみればほんの少量だが、日本中でまとめてみればかなりの「食品ロス」になる。
  • 葬儀屋が効率志向によって、いつの間にか画一的なスタンダードを作ってしまった結果に過ぎないだろう。

最後のポイントの「効率化志向による画一化」というのは面倒な問題だ。「清めの塩」に限らず、近頃ではかなり多くの分野でそんなことが目立つような気がする。一応のスタンダードがあれば便利は便利だが、それにこだわって絶対視したがる人が出てくるので厄介なのである。

例えば昨日の記事でも書いたが、葬儀で「清めの塩」が渡されないと「手抜き」扱いして、苦情をいう人なんかも出てくる。「どうしておたくは、きちんと用意しないんだ」というわけだ。直接面と向かって言わずに、陰で「あそこは気が利かない」なんて言う人はさらに鬱陶しい。

宗教というのは「多くの日本人はこだわらないが、こだわる人は死ぬほどこだわる」という分野だけに、こうした妙な現象が出てきやすい。そんなことでクレームがつくなら一律に配る方が面倒がないということで、画一化はどんどん進行する。

ところが、それでもやっぱり問題は生じる。私のような「こだわらない人」にとっては単に面倒なだけだが、「こだわる人」にとっては、「仏教式の葬儀なのにおかしい」と、クレーム対象になってしまうのだ。やはり「無闇な画一化」というのは問題が多い。

こうしたことで最も癪に障るのが、「画一的な校則」ってやつだ。この記事を読めば、私だけでなく、多くの人がムカついてしまうだろう。

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さらには、こんなこともあるようだし。(信じられないが、実際にあることらしい)

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2021年10月13日

サラリーマンと「社畜」

"品川駅の広告「今日の仕事は、楽しみですか。」に批判殺到 → 1日で取り下げ、掲載元が謝罪" というニュースには、「ははぁ、そうですか」という感想しか抱かなかったが、ITmedia ビジネス ONLINE に、それについての解説のような記事が載っている。

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"「今日の仕事は、楽しみですか」になぜイラっとしたのか 「仕事が苦痛」な日本人の病" というタイトルの、窪田順生氏による記事である。「日本人の病」というだけあり、例によって「日本人論」みたいな趣になっている。

その内容はリンク先に飛んで読めばわかるが、煎じ詰めて言うと、日本人は仕事に関して「人は金のためだけに働いているわけではない」という精神的な思い入れがありすぎるのが問題なのだという。それは「カルト宗教のような独自の信仰」とまで化しているのだそうだ。

なるほど、そう言われてみればそんな気もしないでもないが、私は個人的には、会社勤め時代は「給料のため」と割り切っていたから、そんな「カルト宗教」にハマったことは一度もない。金のための仕事で関わる案件が、たまたまおもしろいものであれば、それは「儲けもの」という感覚だった。

不思議なもので、そうした意識でいると、そりゃあ「仕事が楽しくてたまらない」というわけではないが、ことさらなまでに「苦痛」というほどには感じなくて済む。それは独立事業主となった今でも基本的に変わらない。とくに最近は、イヤな仕事は受けないという贅沢の味も覚えたし。

ちなみに品川駅のこのコンコースは、人呼んで「社畜回廊」ということになっているのだそうだ(参照)。ちょっとスゴい言い方だね。

さらに「ちなみに」という言葉で続けることになるが、加藤公一(はむかず)さんという方が、次のように tweet している (参照)。

ふと気になって「社畜」って英訳するとどうなるんだろう、livestock salarymanかな?と思ってググってみたら、Wikipediaの説明によるとsalarymanだけでほぼ社畜の意味だった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Salaryman

どれどれと思ってリンク先に飛ぶと、こんな風な書き出しだ。

The term salaryman (サラリーマン, sararīman) refers to any salaried worker. In Japanese popular culture, this is embodied by a white-collar worker who shows overriding loyalty and commitment to the corporation within which he is employed.

【和訳】
サラリーマンという言葉はすべての月給をもらう労働者のことを指す。日本で広く行き渡った文化においては、自分が雇用されている企業に過度の忠誠心と献身を示すホワイトカラー労働者によって顕現されている。

これ、日本人によって多少自虐的に書かれているような気がするが、つい「なるほどね」と納得してしまいそうだ。

 

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2021年10月12日

夫婦別姓反対派の「みんな一緒」志向

ふゆひー さんが、「かつあげ」という穏やかではないハンドル・ネームの方の tweet を取り上げ、 "バカだね。「自分たちではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益はありますか?」という質問なのに" とレスしておいでだ(参照)。

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一体どういうことなのかと元スレを辿ると、そもそもは「大人の小学校」を運営する田村淳の、「自分達ではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益がありますか?」という tweet への回答(というつもりらしきもの)に対するレスのようなのである。

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で、その答えというのがこんなものだ。

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なるほど、質問の意味をまるで理解せず、「世間一般の話」を強引に「我が家」と置き換えて反対している。私が最初に見た時点でなんと 1,001件もの「いいね」が付いていた。

さらに、「かつあげ」氏はこの質問に答えるためにわざわざこんなようなイラストを描いたのだろうかとも驚いたが、おそらく一度描いたものをいろいろなケースで使い回しているのだろうね。この場合は「見当外れ」というほかないが。

というわけで、この「かつあげ」氏は自分が夫婦別姓にする気は毛頭ないのだろうが、ほかの夫婦が別姓にして、その結果表札が 5枚になったりするのを見るだけでもイヤということのようなのだ。

その家の孫が「我が家っていったい何家なの?」と戸惑うに違いないと勝手に想像し、それによって生じる「ムカつき感」が「自分の不利益」とまで感じてしまうのだろう。ずいぶん律儀なことである。

そんなわけで、夫婦別姓反対派というのは「みんな一緒」でないと気が済まないという志向性が強いようだと察してしまった。多分これ、考え過ぎじゃないだろうと思う。

今さら言うまでもないが、夫婦別姓というのは「夫婦別姓を原則にしよう」という主張じゃなく、「別姓もあっていい」と言っているだけなのである。それに対して「みんな一緒」志向によって反対しているのだから、私には「余計なお世話」としか思えない。

「みんな一緒」の価値感を強制されるのは、私としては息苦しいとしか感じられないんだがなあ。そもそも自分の家を「〇〇家」と認識できなければ「不利益」が生じるなんてことはないしね。

どうしても「〇〇家」と名乗って認識したければ、その主旨による「系図」みたいなものを私的に作ればいい。明治以前の庶民の苗字感覚って、そうしたものだったらしいし。

私なんぞは逆に、「系図作ってみたら、いろいろな苗字の先祖がいて楽しい」なんて感じてしまうだろうというタイプである。

【10月 13日 追記】

上図の「我が家っていったい何家なの?」と言っている石田直人君は、どうしても「〇〇家」と認識したいのなら、とりあえず「石田家」ということにすればいいだけの話じゃないかと思う。自分が「石田姓」を名乗っていることでもあるし、迷うことは何もない。

父系の流れにこだわりたがるから戸惑うのであって、その気になれば母系の方にいくらでも辿れるし、それによる「不利益」なんて何も生じない。(別に「利益」もないが)

 

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2021年10月 5日

「いらち」って、関西方言と言い切っていいの?

昨日の記事で「麻生さんは結構いらちみたいだから・・・」と書いて、念のため「いらち」という言葉から Weblio 辞書にリンクを張らせてもらった。リンク先を Weblio にしたのは、"動詞「いらつ」の連用形の名詞化" と、極めて適切な説明が 3つの辞書から引用してあったからである。

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ただ「いらち」でググってみると以下のように、この言葉を「関西方言」としているページが目立つ。

大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊(冒頭で"「いらち」とは関西地方の方言" としている)

関西人の皆様、「いらち」は標準語ではありません 全国調査の結果→約半数が「使わない」

笑える国語辞典「いらち」の項(関西地方の方言としている)

【関西弁】どういう意味なのかわかりにくい関西の言葉ランキング(2020年調査)TOP20!(「いらち」は 13位にランクインしている)

ほかにも「『いらち』は関西方言」としているページはあまたあるが、この「関西方言」ということに私はかなり反発してしまうのである。「関西方言」というより、「古来よりの標準語」である上方言葉を、ほかの地域ではこなしきれなかったということなんじゃあるまいか。

なにしろ現在の「標準語」とされているのは、明治以降に新首都東京の「山の手言葉」を基本として作られたものであって、それ以前は東国の「江戸言葉」でしかなかった。その「江戸言葉」の中に、「いらち」という単語が見当たらなかったので、「いわゆる標準語」から外れてしまったのである。

「いらち」は、同じ「関西弁」と称される中でも「いちびり」や「めばちこ」などの俗語とは違い、「苛つ(いらつ)」という正しい日本語(既に「古語」と化してはいるが)の連用形の名詞化という、はっきりとした根拠のある言葉なのである。これを「関西方言」として片付けるのは、あまりにも忍びない。

ちなみに上述の "大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊" という日本経済新聞の記事は、次のような記述で締めくくられている。

梅田駅の外に出ると広い横断歩道があり、大阪府民がいらちとの評判を世の中に広めた有名な待ち時間表示付き信号がある。ここが表示付き信号の発祥かは分からなかったが、青信号に変わり大勢が速足で渡り始める姿をみていると、大阪府民はやはりいらちだと感じた。

というわけで、「いらち」という言葉は大阪人の気質と切り離しては語られない。これは「いら」と、やや「ち」をやや強調する関西特有のアクセント(東京人はどうしても「いらち」と、平板で発音してしまう)とともに、標準語に取り入れられにくい要素なのだろう。

典型的な江戸弁の場合は「いらち」ではなく、「気が短い」というのだろう。「てやんでぇ、俺ぁ、江戸っ子で気が短けえんでぇ!」ということになる。しかしこれ、「いらち」と似たようなものなのかもしれないが、ニュアンスには大きな違いがある。

「いらち」というのは、やや自嘲的なニュアンスを含む奥行きあるが、「気が短い」というのは、ただひたすら単純で、軽薄なまでに外向きである。このあたりからして、東西の気質と文化の違いは大きいと言うべきだろう。

 

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2021年8月13日

日本という国の「西高東低」的構造

東洋経済 ONLINE のサイトに ”「関東/関西」大抵の人が知らない地理感覚の起源 フロンティアは東にあり!「西高東低」の歴史” という記事がある。筆者の本郷和人さんという方は東京大学史料編纂所教授で日本中世史が専門というだけあって、説得力のある内容である。

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この記事は次のような言葉で始まる。

私たちは、小学校のころからずっと、日本という国について「1つの言語を使う、1つの民族が、1つの国家を形成し、長い伝統を紡いできた」と教わってきました。近年でも、そうしたイメージで日本を語る政治家がいらっしゃいます。

(中略)

この問いを考えていくうえで、まず押さえるべき視点は「日本とは、もともと西高東低の国だった」ということ。

「1つの言語を使う、1つの民族が、1つの国家を形成」というテーゼについては、私は幼い頃から「それ、違うよね」と感じていた。だって、私が日頃使っていた庄内弁は、ラジオから聞こえてくる「日本語」と比べたら、ほとんど外国語なのだもの(参照 1参照 2参照 3)。

庄内弁がどうしてわかりにくいかと言えば、それはいわゆる現代の「共通語」の訛りではなく、日本語の「古語」が元になって異次元的なほど訛っているからなのだ。

そしてその「古語」の系譜は関西の方に脈々と伝わっているが、それなりにバージョンアップされた上で、現在の「関西弁」になっている。しかし庄内弁から津軽弁にかけての地域は、「訛った古語がそのまま残った」ようなものなので、現在の「日本語」からはかなりかけ離れてしまったわけだ。

同じ東北でも、太平洋側は関東言葉の訛りなので、成り立ちがかなり違う。今住んでいるつくば周辺から福島、宮城に北上すると、その「無アクセント」加減(「箸/橋」「雨/飴」「柿/牡蠣」などの区別が付かない)がそっくりであることに感心してしまうほどだ

話は東洋経済 ONLINE の記事に戻るが、本郷氏は関西地方が古代日本の中心であったことに関して、大陸と最も近い北九州から瀬戸内を経由して引っ込んだあたりが、「安全」という視点から最も妥当ということだったのではないかと指摘されている。これも納得できる話だ。

そういうわけで、古代日本の中心は今の「関西」であり、そこからフロンティアを東へ東へと移動させてきたわけだ。そしてどんどん移動させても、今の東北は「地の果て」だったわけである。それで「出羽」と「陸奥」の 2つの国しかなかったわけだ。

2013年 11月 4日付の「旧国名をしっかりモノにしてみたい」という記事で、私は次のように書いている。

なにしろ東北方面は、太平洋側の「陸奥(むつ)」と日本海側の「出羽(でわ)」の、2つしかない。畿内からみれば地の果てというわけで、明治になる前はこんなチョー大雑把な区分けで済ませられていたのである。

(中略)

東北の大雑把さに比べると、西日本は今の府県よりもずっときめ細かく分けられていて、覚えにくくてたまらない。とにかく今の大阪府という狭い地域に、「摂津」「河内」「和泉」という 3つの国が存在していたのだ。

というわけで、庄内生まれの私は、日本の「西高東低」感覚を、学問的に学ぶ以前から「身体感覚」みたいにわかっていた。そして「辺境」の地で生まれ育ちながら、いろいろなメディアを通して「中央」の文化を、ほぼ「異国文化」的な感覚で取り入れてきたという実感がある。

 

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2021年7月29日

漫才は二人でなければならないか?

やしろぶ」というかなりおもしろいサイトがあり、この中の最新記事が ”国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」” である。ほとんどの国語辞典が漫才は「二人」で行う芸能としていることに対して、徹底的に疑問を述べたものだ。

なるほど、昭和のレツゴー三匹、かしまし娘、チャンバラトリオから、1980年代(この頃も昭和といえば昭和か)のトリオ・ザ・テクノ(いやはや・・・)等々に至るまで、三人の漫才芸にはこと欠かない。ただ個人的には、これらの「トリオ芸」は「漫才」の範疇からはみ出すのではないかと思ってきたのだが。

折しもまさにそのトリオ・ザ・テクノのちょっと前頃に大学院にまで進んで古典芸能なんていうゼニにもならない研究をしていた不肖私めとしては、「漫才が二人なのは当然じゃん!」と思ってしまうのだ。というのは、現代の漫才は伝統芸能「萬歳」の系譜を引いているからである。

萬歳は基本的に「太夫」(たゆう)と「才蔵」(さいぞう)の二人一組で演じられる芸能である。それで、その系譜を引きつつ寄席芸能となった「漫才」も当然ながら二人一組なのだ。これ、日本の常識である。

我が故郷、庄内の地でも、私が小学校に入る前(半世紀以上前!)は正月になると萬歳が門付けに廻って来たもので(あれは「秋田萬歳」だったのかなあ?)、幼い私は大喜びで見ていた。ただどういうわけか、あまり教育にはよろしくないと思われていたようで、夢中で見ていると大人に叱られたりもした。

その頃は「大黒舞」(庄内弁では「でっごぐめ」という)なんてのもあったなあ。今では「〽︎ 明けの方から福大黒、舞い込んだなァ・・・」って歌の方が民謡のスタンダードとして有名になってしまっているが。

と、こんな風に考えているうちに、不意に「ありゃ、萬歳は必ずしも二人一組とは限らなかったりして・・・」などと、ここまでの流れからするとかなり「不都合な真実」を思い出してしまった。それでググってみて動画部門の最上位に出てきたのが、なんともはや、上の三河万歳の動画である。

これ、太夫が一人に、才蔵が二人の三人構成で演じられている。このパターンはあくまでも変則ではあるが、実際にはそれほど珍しくもないのだよね。門付け芸としては大抵二人一組だが、神社での奉納や、少々改まってのパフォーマンスとなると、ご丁寧に才蔵を複数にしてしまうことがあるのだ。

Wikipedia にも、「萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の 2人が 1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などで披露されるものは 3人以上から、多いもので十数人の組となる」とある(参照)。ただ私は「十数人」の萬歳なんて見たことがないけどね。

というわけで、寄席の「トリオ芸」というのも、才蔵が二人バージョンの萬歳みたいな「派生パターン」と考えていいのかもしれないと思い至った次第である。やしろぶさん、常識外れ扱いしかけてごめん。

 

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年6月19日

「見えても見ていない」ので、他人を手伝えない日本人

東洋経済に "日本人はなぜ、「ベビーカー運び」を手伝えないか 日本人に多い「他人恐怖症」、その根本原因は?" という記事がある。ニューヨークで出産した岡本純子さん(コミュニケーション・ストラテジスト)が、帰国してからの気付きについて書いたものだ。

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私自身は電車で年寄りが立っていたらフツーに席を譲る(参照)し、ベビーカーの扱いで難儀している人を見たりしたら気軽に声をかけて手伝うのだが、こういうのって、確かに「日本人には珍しいタイプ」のようなのである。彼女は次のように書いている。

アメリカ・ニューヨークで子どもを産んだ私は、エレベーターのない地下鉄の駅で、何度となく見知らぬ人にベビーカーの上げ下げを手伝ってもらいました。「May I help you? (手伝いましょうか?)」と通りがかりの人がごく自然に声をかけてくれ、本当にありがたかったのを覚えています。(中略)

帰国してショックだったのは、そういう姿をあまり見かけないことでした。重い荷物をもった人や高齢者など街中で「困っていそうな人」がいても、声をかける人が少ない……。

これに関して、ネット上でのさまざまな意見が紹介されているのだが、煎じ詰めると、「日本人の極端なリスク回避志向」によるものと見ているようだ。これは「事故などあったら、責任問題になり、損害賠償など要求される。リスクが怖い」という意見に代表される。

ただ、私の率直な考えを述べるとすると、そんなもっともらしいことより、日本人は「他人がヘルプを求めている状況に気付く感覚が鈍い」というだけのことだと思う。

上の写真には難儀している母親を冷たい表情で振り返る若い女性が映っているが、これってある意味「演出過剰」で、実際にはこんなことわざとらしい場面はほとんどない。大抵の人はただ何事もないようにフツーに通り過ぎるだけだ。

日本人って、身内には鬱陶しいぐらいお節介なのに、他人の状況にはほとんど無頓着なのである。「見えても見ていない」のだ。岡本さんの記事には「手伝わない理由」がいろいろ紹介されているが、実はほとんど「見えても見ていない」ことの「後付けの言い訳」をもっともらしく述べているだけにすぎない。

「見えても見ていない」ということになるのは、幼い頃からそうした訓練がされていないからだと思う。言葉を換えて言えば、「他人をきちんと意識する仕方」がわかっていないのだ。

岡本さんはベビーカーの上げ下げの手伝いという観点から論じておられるが、私はクルマの運転中にそれをとても感じる。例えば下の図をご覧いただきたい。(クリックすると別画面で拡大表示される)

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主要道路から脇道に右折するために停車し、右側ウィンカーを点滅させながら反対車線のクルマの列の途切れるを待っているクルマがあるとする。反対車線は切れ間なくクルマが通り過ぎて、全然道を譲らない。しかし彼らの行く手には信号があり、赤信号で渋滞中という、「ありがち」の状況だ。

右折しようとしているクルマは、後ろのクルマを「せき止めている」ことになる。せき止められたドライバーはイライラしながら先頭のクルマの右折を待つ。

こんな場合、反対車線を走るクルマはちょっとスピードを緩めるか停車するかして、右折車に道を譲ってから先に行っても、結果はあまり変わらないのだが、多くはまったく道を譲ろうとしない。対向車線を走るドラーバーたちは、ウィンカーを出して停まっているクルマが「見えても見ていない」のである。

私はこうした場合、いつもスピードを緩めて道を譲ることにしている。そうすることで道路の流れ全体がスムーズになるのだから、こちらとしても気持ちがいい。

私はこれまで私企業よりも団体に勤務する経験が長かったので、「部分最適」より「全体最適」を求める視点が鍛えられたのかもしれない。「世の中というのは、ちょっとだけ他を手伝って上げたり、譲るべきところで譲ったりする方が、結局のところ自分の方も都合良く運ぶもの」と知ったのだ。

そして「全体最適」を求めるには「他の存在をきちんと意識する」ことが必要なのだが、日本人は「ムラ社会」以来、「他の存在」をきちんと意識するということが苦手のようなのだ。

学校時代も、全員制服で同じ格好をしているのが当たり前で「多様性」ということの実感が不足してるから、「異質の存在」との付き合い方に慣れてないのだね。ましてやいつまで経っても「外国人は黒船」だし。

それにしても、"May I help you?" って、便利な言葉だよね。

 

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2021年5月25日

「スパゲティ・カルボナーラ」を突破口に

一昨日の「ティッシュペーパーのブランドとメーカー」という記事で、自分のスマホのブランドをしっかりと認識しているが、ティッシュペーパーのブランドを知らない人もいれば、その逆のケースもあるというようなことについて触れた。

210525

ことほど左様に、人は自分の興味のある分野では細かいことまで知識があるが、興味がない分野ではすっかり無頓着になってしまうものである。私の場合で言えば、カタカナ名前の食べ物がとんとわからない。

「カタカナ名前の食べ物は、ラーメンとカレーしかわからないんでしょ」なんて言われることがある。「とんでもない、パンとスパゲティだってわかるよ」と反論してみても、それ以上のことは本当によくわからないのだから、我ながら呆れる。

いや、実を言えば「カタカナ名前の食べ物」でも、英語由来のものなら大抵はわかる。オニオン・スープとか、ポテト・パイとかアイスクリームとかならしっかりわかるのだが、食い物の名前というのはやたらとイタリア語やフランス語が多いので厄介なのだ。

先日、妻とサイゼリヤで食事をしたが、メニューを開いてもカタカナだとさっぱりわからない。肉を食わない私としては、「野菜スパゲティ」というのを選べばいいので話は簡単だが、そうでなかったら途方に暮れてしまうだろう。

「この『カルボナーラ』ってのは、炭水化物ばかりのスパゲティなのかと思ったら、写真を見ると肉も載っかってるんだね」と言うと、妻は「それは炭焼き職人が山の中で自分で料理して食べたものだから、そういう名前になったという説があるのよ」と説明する。西洋の食い物の話になると、妻はやたら詳しい。

「へえ、炭焼き職人風だから、炭素の『カーボン』なんだね」
「そういう説があるみたい。でもそうやって何でもかんでも英語に翻訳して『カーボン』なんて言っちゃうと、趣きがなくなっちゃうけどね」

というわけで、妻としては興ざめしてしまったのかもしれないが、私としてはこうして「言葉と文化」に関連付けられると俄然興味が湧き、この日を限りに「スパゲティ・カルボナーラ」という料理の名前はしっかりと覚えた。これを突破口に、少しは料理の名前もわかるようになれるかもしれない。

とはいえ、肉が入っているみたいなので、「カルボナーラ」を自分で食べることはないのだが。

ちなみに、後日 Wikipedia で調べてみて、「カルボナーラ」の由来は「炭焼き職人風」以外にも諸説あると知った。中には「単にコショウの色から連想されたという説もある」というのもあって、「だったら、白コショウを使えば『スパゲティ・ライム』(石灰風)かよ!」なんて思ってしまったよ。

いや、イタリア語だと 「スパゲティ・カルチェ」か。

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