カテゴリー「比較文化・フォークロア」の358件の記事

2025年5月13日

どうしてそれほどまでに夫婦同姓にこだわるのか

先月 22日に報じられた記事だから取り上げるタイミングがちょっと遅くなってしまったが、「維新 結婚後も旧姓の通称使用可能にする法案要綱まとめる」という NHK NEWS の内容が気になってしまった。

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日本維新の会の案は、記事によれば「結婚で姓を変えることが、女性の仕事や社会活動に不利益をもたらしており、早急な対応が必要だとして、結婚後も旧姓を通称として使用できることを規定した法案の要綱が示され」とある。どうやら「姓の変わるのは女性」というのが前提とされているようなのだね。

そして要項内容の重要ポイントは次のようなことだ。

要綱では戸籍法を改正し、希望する人が結婚前の旧姓を通称として戸籍に記載できるようにするとともに、住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにするとしています。

つまり戸籍上では「本名はあくまでも本名」で、「通称としての旧姓が補足的に記載できる」ということのようなのだ。ただ「住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにする」というのは画期的ではあるものの、表現がかなり紛らわしい。

「本名」を原則としながら「旧姓」も補足的に表記できるというのか、「旧姓」のみの表記でいけるのかが曖昧で、明確に読み取れない。いずれにしても一人の人間に「本名」と「通称」の二通りの名前を法的にもたせるということ自体、かなり鬱陶しい制度ということができる。

これ、次のように考えてみればその不毛さが実感されるだろう。

結婚に際して男の方が妻の姓に変わることだって当然あるわけで、他ならぬ私の父がそうだった。母が一人娘だったために、いわゆる「婿入り」の形で結婚したのである。ところが通称としての旧姓使用に関する最近の情報は、ほとんど女性の場合のみを想定して語られている気がする。

これがこの問題をややこしくする第一歩みたいなものだ。根底にあるのが「男権社会」のコンセプトのままだからである。

私は 7年近く前に "「夫婦別姓」 は、保守派にもメリットがあるだろうに" という記事の中でこんなことを書いている。少々長くなるが引用しておく。

思えば、「夫婦別姓」ならぬ「親子別姓」というケースがある。今の世の中では、親が離婚して、母親が旧姓に戻ったために、子どもと姓が違うという場合が多いだろう。しかし昔は、そうではない理由での「親子別姓」というのがあった。

それは一人娘が結婚して姓が変わってしまったために、「家督相続」する者がいなくなり、どうしても「家」というものを継続させたいがために、生まれてきた子の 1人を母親の両親の養子として縁組してしまい、それによって母方の「家」を継がせるというものだ。大方は子どもの知らないうちに養子縁組を成立させてしまうので、子どもが幼いうちは、当事者ながらよくわからない事情であっただろう。

保守派は「夫婦別姓では、親と子の姓が違ってしまい、家族の一体感が阻害される」などといって反対するが、その昔の「子どもが知らないうちに、祖父母の家に養子縁組されてしまっている」というケースに関しては、「親と子の姓が違ってしまい…云々」 みたいなことは言わない。これは甚だ不公正な態度と言えるだろう。

そもそも夫婦別姓を取り入れると言っても「選択的夫婦別姓」なのだから、全ての夫婦が別姓を名乗れというわけじゃない。妻が夫の姓を名乗りたければそうすればよく、旧姓のままでいたければそれも合法とするというだけのことだ。

そのせいで世の中がひっくり返ったりするわけじゃないというのは、日本以外の国がごくフツーに証明してくれている。どうしてそれほどまでに「戸籍上の夫婦同姓」にこだわるのか、本当にわからない。

最後に付け加えておくが、この記事に添えられてる写真、妙に寂しい光景だなあ。

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2025年5月10日

鯉のぼりは一匹から群れに変化しているらしい

紹介のタイミングがちょっと遅くなってしまったが、nippon.com のサイトに 5月 5日付で「こいのぼり:時代とともに 1匹から群れで泳ぐスタイルに」という記事がある。鯉のぼりというのは江戸時代からどんどん変化しているようなのだ。

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江戸時代初めの鯉のぼりは、サイズも小さいものでほとんど存在感がなかったようだが、幕末から明治期にかけて大きな鯉のぼりが盛んになったようだ。ただ、安藤広重の「江戸名所百景」に描かれたものを見ると、当初は大きな真鯉が単独で揚げられていたようなのである。

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それが明治後期から大正の頃には、真鯉(黒い鯉)と緋鯉(赤い鯉)の2匹セットが主流になった。しかしこれは「鯉の夫婦」というわけではなく、武家の発想による「父と子(男児)」を表していたらしい。そんなわけで唱歌の「こいのぼり」にも、お母さんは登場しない。

屋根より 高い こいのぼり
大きい まごいは お父さん
小さい ひごいは 子どもたち
おもしろそうに 泳いでる

家族観の変化に伴って 3匹構成(赤い緋鯉が「おかあさん」となり、小さな青いこどもが加わった)が基本になったのは、1970年以降だという。鯉のぼりの家族におかあさんが加わるまでには、戦後から 25年という年月を要したわけだ。

それが現代では、観光名所や川などに多数の鯉のぼりが揚げられるというような形に変わりつつある。個別の家庭で大きな鯉のぼりを揚げるという余裕がなくなってきたことが背景にあるわけだが、これってもしかしたら「家族」のあり方の変化を先取りした現象かもしれない。

鯉のぼりを揚げるというのは、それほど歴史の古い風習ではなく、江戸時代後期から案外短期間のうちに様式が変化しているのだね。これは鯉のぼりが時代ごとの「家族のコンセプト」を反映しているからで、古来の「宮廷」を模した「雛祭り」とは基本的に異なっているからなのだろう。

 

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2025年4月19日

「くわばらくわばら」を巡る冒険

昨日は地震関連の話題で「くわばらくわばら」と書いてしまい、自分でもちょっと気になったので調べてみると、「くわばら」というのは現代では広く「災難除け」の言葉と考えられているが、元々は「雷除け」の呪文であり、地震とは関係なかったらしい(参照)。

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"落雷などの災難や禍事などへのまじない「くわばらくわばら(桑原桑原)」の由来と名言" というページには次のようにある。(ちょっと文章表現がまどろっこしくて、疑問を感じる部分もあるが)

その昔、雷という自然現象は「雷獣」という生物(妖怪)が原因とされた。火の玉のようなものが落ちて来て、地面に達すると、雷獣が天に駆け上がって猛々しく空を駆けまわるのが落雷なのだという。

「雷獣」というのは、上の画像に描かれているものだろう。昔はこんなのがいると思われていたのだね。ところでどうして「くわばら」が雷除けになるのかというと、大阪府和泉市桑原町の高野山真言宗「無量山 西福寺」にある「雷井戸(桑原の井)」がその由来という説がある。次のように書かれている。

むかし、この井戸に落雷があり、井戸より雷が上らんとするところを人々が寄り集まって井の上へ蓋で覆って、雷を責める事久しかった。雷は大いに苦しんで「これからは、この地へ落ちることをしない」と誓ったので、人々はこれを赦した。それ以来、この地には落雷が無いという。

似たような話が兵庫県三田市桑原の古刹「曹洞宗太宋山 欣勝寺」にもあり、どちらも「くわばら」と唱えると雷の方で避けてくれるという俗信の元になっている。

さらに「雷神」と言えば何はともあれ菅原道真が思い起こされるが、Wikipedia には次のような記述がある(参照)。

道真は生前、「桑原」の地を領有していた。人々は雷の害を避けるため「雷神となった道真公でも、自身の領地には雷を落とさないだろう」と考え、雷鳴を音を聞くと「くわばら、くわばら」と唱えることで「この地は道真さまの領地です。雷を落とさないでください」との祈りを込めた。

なるほど、いろいろな話が寄せ集められて「くわばら」と唱えれば雷が落ちないという強力な俗信になったもののようなのである。

ちなみに Wikipedia にはこんな画像もある。こっちの方の見かけはもろに「雷神」だが、稲妻の形が現代と比べるとかなりシュールだ。

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菅原道真公は今では怨霊の性格が薄れ、「天神様」として学問の神様の印象が圧倒的となったため、各地の天満宮は受験シーズンにはかなり賑わう。そして上述の西福寺と欣勝寺も「(雷が)落ちない」というところから、受験生の参拝が多いのだという。なかなかおもしろい一致だ。

だったら、地震除けの御利益ぐらいはあっさり認めてもらってもいいかもしれない。

 

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2025年3月14日

席を譲るって、どんな種類の「恥ずかしさ」なのか?

今月 11日に "席を譲るのを「恥ずかしがる」という妙な免罪符 " という記事を書いた。この国では電車で老人に席を譲りたくても「恥ずかしい」という意識に甘えて実行に移さないことが多いと聞くのだが、私の感覚としては譲らない方がずっと「恥ずかしい」と思うという話である。

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この記事を書いて 2〜3日経ち、「そうか、この 2つの『恥ずかしい』は、実は異なった意識なのだ」と気付いた。日本語では同じ「恥ずかしい」という言葉を使うのが、「周囲に対して恥ずかしい」と「良心に対して恥ずかしい」では、実はまったく別の話なのだ。

この違いを明確にするには、別の言葉で考えるといい。ここでは試しに英語でやってみよう。「英会話ハイウェイ」というサイトの "「恥ずかしい」は英語で? ネイティブが納得する正しい言い方 5選" という記事が参考になる。必要部分だけかいつまんで紹介すると、ざっとこんな感じだ。

  • 人として恥ずかしいは  "ashamed"
    道徳的や社会的に悪いと考えられていることをして罪悪感を覚えるようなときや、見た目を恥じるときの「恥ずかしい」

    I felt ashamed of myself for getting so angry in front of children.
    (子供たちの前でそんなに怒ったことを私は恥ずかしく思いました)

  • 恥を知れ! の恥は  "shame"

    Shame on you!

  • 恥ずかしがり屋は  "shy"

    I was too shy to talk to the girl.
    (私は恥ずかしくてその女の子に話しかけられませんでした)

こうしてみると「周囲に対して恥ずかしい」というのは、英語でいうと「恥ずかしがり屋」に近いと思う。そう、"shy" (シャイ)なのだ。いいことをしようとしても、「無駄にシャイ」なので躊躇してしまうのである。

一方「良心に対して恥ずかしい」というのは、「人として恥ずかしい」の "ashamed" が相応しいだろう。電車内で席を譲らなかったら、より直接的に "Shame on you!" (恥を知れ!)になる。

どうやら日本人、この類いの「恥」にはかなり鈍感で「良心の呵責」みたいなことはあまり問題にされず、「シャイ」感覚の方が圧倒的に先に立ってしまうようなのだね。

日本は古くから「恥の文化」と言われてきたわけだが、この言葉はかなり慎重に取り扱わなければならないだろう。「良心に対して恥ずかしい」というのは、どちらかというと西洋的な「罪の文化」の意識に近いようなのだ。

それって「神」という絶対基準に照らし合わせて「恥ずかしい」のであって、「シャイ」だから見逃されるなんていうような甘ったれた話じゃ済まないのである。

 

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2025年3月13日

土葬の墓地を認めたがらない日本人のメンタリティ

Courrier が "海外メディア「土葬のお墓がほしいと願うイスラム教徒を攻撃する日本」" というニュースを伝えている。"ネットの「誤情報」が深刻な対立を生む" というサブ見出し付きだ。

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この記事は、つぎのようなリードで始まる。

近年、日本に暮らすイスラム教徒が増えるにつれ、教義に則った土葬墓地への需要が高まっている。大分県の別府ムスリム協会は土葬墓地の建設を求めているが、地元の日出町の町長らの反対で難航している。

墓地建設に対する抵抗感の背景には、ネット上で拡散されるイスラム教への誤解があると中国紙「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」は指摘する。

大分県を拠点とする別府ムスリム協会の人々は、ムスリムのための土葬墓地建設の許可が同県日出町の行政から、まもなく得られるだろうと考えていた。2020年9月当時の話である。

だが 5年近く経つ今も承認は下りていない。同協会の代表ムハンマド・タヒル・アッバス・カーン(57)は、「土葬が法律で禁止されていない日本で、自分たちの率直な要望が認められないのは、メディアや SNS で発信された誤解を招く情報に原因がある」と訴えている。

土葬できる墓地の建設に反対しているのは、一部の YouTuber であるらしく、代表的なのは「カーンが日本をムスリム多数派の国にしようと企んでおり、墓地の建設はその活動の一環」という主張だ。馬鹿げた話だが、こんな話に乗って町長までが建設に反対しているというのだから情けない。

こんなことになっているのは、先進国では日本ぐらいのものだろう。多様性を認められないメンタリティというのは、かなり困ったことだ。そもそも日本でも戦前までは土葬が普通に行われていたのだが。

 

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2025年2月20日

ブラウンに着色してあるのを生まれて初めて見た

X(旧 Twitter)に、ぎゅうたんさんという方の「こいつで一生笑える」という tweet がある。一生かどうかはわからないが、確かに笑える。

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アイスクリームのラベルのようなのだが、チョコレート・アイスクリームが擬人化されており、これが見ようによっては、あるいはよらなくとも、モロに「ウンコ」なのである。食い物のラベルでこんなの、生まれて初めて見た。

ウンコとアイスクリームと言えば、7年近く前の 2018年 5月 6日に「排泄物のシンボリズム 」という記事を書いたことがある。「外国人に巻きグソの概念はあるのか」というテーマでの調査によれば、多くの外国人は「巻きグソ」の絵を見せられても「アイスクリーム」と思うようだという話だ。

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これに関しては、「ブラウンに着色でもしてあれば、また別の反応があったのだろうが……」と書いておいたのだが、1週間後にそれを証明するような記事を発見し、「茶色に着色してあれば、アイスクリームとは思われなかった」という記事につながった。本当に素晴らしいタイミングだった。

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人間の排泄物を肥料として使ったらどうなるかという YouTube 動画を紹介したのだが、そのタイトル画面に、まさに「茶色の巻きグソ」が表示してあるじゃないか。外国人でも、茶色に着色してあったら「巻きグソ」に見えてしまうのは当然なのだ。

そんなことを言ってるうちに、何とまあ日本において、「茶色の巻きグソ」がアイスクリームのキャラとして登場してしまったのだから、これは画期的なことと言える。洋式トイレの普及に伴って、これを見ても「ウンコ」と思わない世代が増えてきたのだろうか。

ところがさらにググってみると、上には上があるものだ。山梨県の清里には「便器型容器にこんもりと盛られた、うんこ風ソフトクリーム『開うんク・ソフト』」というのがあるというのだよ。今日はたまたま仕事で山梨県に来ているのだが、さすがに清里までは足を伸ばせないなあ。残念。

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ここまで書いてしまうと、「私ってば、こんな感じのトピックが好きだなあ」と我ながら妙に感心してしまうのだった。

 

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2025年1月 3日

洋式バスの使い方って、理解されてないのかなあ

X(Twitter)に Naotaka Sato旅する音楽家 さんという方の次のような書き込みがある(参照)。イギリスのホテルのバスタブに、日本語の注意書きがあったんだそうだ。

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ここでは画像が小さくて読みにくいから、日本語の注意書きを以下にテキスト化しておこう。ちゃんとこなれた日本語だけに、昔から日本人がいろいろやらかしてしまってるのだと想像される。

この浴室は洋式のため、床に排水口がありません。このため、浴槽からお湯があふれ出すと、浴室や寝室の床が水浸しになりますのでご注意下さい。
尚客室内の破損につきましては、お客様の負担で最低 400ポンドを請求させていただきますので、ご了承のほどよろしくお願い申し上げます。

驚いたのはこの tweet に、信じられないほど素っ頓狂なコメントがたくさん付いていることだ。その中からほんのいくつか紹介しよう。

排水溝なくてどうやってシャワー浴びるの?

洋式風呂は排水溝無いのか…

まあ日本人ならね、湯船に泡じゃなくお湯を溜めたいよね
あれ?
湯船に泡溜めた後ってどう処理してるの?

排水溝ないの草
やべえ外国行きたくねえwww

よくわからんのだけど、バスタブ内で洗うの?

いやはや、本当にビックリである(ちなみに「排水溝」は「排水口」の誤変換だろう)。バスルームの床に排水口がないという欧米ではフツーの仕様を、バスタブそのものに排水口がないと誤解した人が多いようなのだ。洋式バスの使い方って、令和の御代になってもまだ理解されていないのかなあ。

さらに、バスタブにお湯を張っている間にテレビに夢中になったり寝落ちしたりして溢れさせたという失敗談のコメントもやたら多いのだが、それって初めはまったく理解できなかった。そもそも一体どうして、お湯を出しっぱなしにしたままバスルームから出ちゃうんだ?

よくよく考えて初めてわかったのは、「そうか、時間をかけてバスタブにたっぷりお湯を溜めてから、おもむろに入ろうなんてする日本人が多いのか!」ってことだ。なるほど、洋式バスで想定されていない日本的発想でやろうとするから、溢れさせたりもするわけだ。

洋式バスはバスタブにお湯を注ぎながら服を脱ぎ、お湯の量がせいぜいバスタブの 4分の 1程度のところで入っちゃえばいい。そのまま注ぎっぱなしで体を洗い、シャンプーしても半分の量にもならないが、洋式バスってそもそもそんなものなのだ。シャワーだけで済ますことも多いのだし。

何しろ 1人ずつ入って、出る時は全部流してしまうのだから、それぞれがたっぷりお湯を張ったりしていたら大変なお湯の無駄遣いになる。暖かい湯にゆったり首まで浸るなんて、洋式バスでは想定外なのだ。日本と西洋では「入浴」ということの基本的コンセプトが違うのである。

私としては、もちろん日本式の方が好きだから、国内旅行での宿泊はもっぱら大浴場のあるビジネスホテルを選ぶ。私は大柄なので、日本のホテルの小さなバスタブではシャワーだけにするにしても窮屈でたまらないしね。

というわけで、海外旅行の時と、国内でも大浴場のない東横インしか予約が取れなかった場合は、たっぷりのお湯に浸るという日本的満足は初めから諦めることにしている。

 

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2024年12月28日

「おせち料理」なんかより「箱根駅伝」

東洋経済 ONLINE に【「おせちやお年玉は不要」 "仕分けた" 人たちの本音】という記事がある。「変わる年末年始…今後も "生き残る風習" は?」というサブタイトルの方をメインタイトルにする方がずっとわかりやすいと思うがなあ。

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この記事、今は年末年始の行事や習慣が過渡期にあるのではないかとして、都内在住の成人男女 100人を対象に緊急アンケートを実施したというものである。質問項目は、「年賀状、お歳暮、帰省、おせち料理、初詣、お年玉の "必要" or "不要" とその理由」で、結果はこんな数字になったという。

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ただいくら緊急アンケートでも、100人というのはまともな記事にするには少なすぎると思うのだが、行きがかり上、話を進めよう。

ざっと見ると「必要」が多数を占めたのは「初詣」ぐらいのもので、あとは全て「不要」が大きく上回っている。とくに「おせち料理」と「年賀状」に関しては「必要」が 1割以下で、惨憺たるものだ。

「おせち料理」に関しては子どもの頃、母が「正月に楽をするために、年末のうちにいろいろ作っておく」と言うのを聞き、「そのために年末にこんなにバタバタするのか?」と思った憶えがある。正月にフツーのメシの用意をする方がずっと楽だろう。

今は自分で作らずにスーパーで買ったり専門業者に届けてもらうもののようだが、いずれにしてもあまり意味を感じない。それから紙の年賀状は私も 2年前に止めていて、このブログ上で公開するだけにしている(参照)。

「お年玉」は子供たちが育ってしまい、孫もいないので上げる相手がいない。さらにだいぶ前に両親が亡くなり、実家も処分したので「帰省」する先もない。今はむしろ「帰省される」側だが、3人の娘たちはバラバラに顔を見せるだけなので、とくにどうと言うこともない。

というわけで、私にとっての正月行事と言ったら「初詣」ぐらいのものであると気付いた。これで物足りないとも淋しいとも感じない。いわゆる「年末年始の風物詩」みたいなものは、テレビ画面にしか存在しなくなっていくのかもしれない。

と、ここまで書いたところで「重要な正月行事」がまだあると、天啓のように気付いた。それは「箱根駅伝」の観戦である。

うむ、これ以上に大切なものはとりあえず思い浮かばない。私がテレビに釘付けになるのは、1年に 1度、これぐらいのものだからね。

 

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2024年12月24日

クリスマス・プレゼントと靴下

今夜はクリスマス・イブで、世界中の多くの子供たちがサンタクロースからのプレゼントを楽しみにしながら、ベッドサイドに靴下を吊して眠りに就く。

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ただ、どうしてクリスマス・プレゼントを受け取るのに靴下が付きものになったのか、恥ずかしながら私はこの年になるまで知らなかった。それで今さらながらネットでググってみたところ、その理由は案外よく知られた話のようなのだね。

ナイガイの「靴下雑学」というサイトでは、サンタクロース伝説の元になった聖ニクラウスのこんな説話から生まれたと紹介されている(参照)。

ある一家が、あまりの生活の苦しさに、娘 3人を過酷な仕事に出すという話を聞きつけた聖ニクラウスは、たいそう同情し、夜中に煙突から娘たちへの贈り物として金貨をつぎつぎに投げ込んでやった。すると金貨は、たまたま暖炉に干してあった靴下の中に入ってしまった。

翌朝、一家は靴下の中の金貨に気付き、おかげで 3人の娘は幸せな結婚ができたという。

というわけで、クリスマス・プレゼントは靴下に入れてもらうという慣例になったようなのだが、それって実際には小さな子ども時代だけだよね。ある程度の年頃になったら、靴下になんか入らないような大きさのものを欲しがるようになるし。

ちなみに JD McPherson というシンガー・ソングライターの曲に ”Socks” というのがある。

詞の内容は、クリスマスの朝に目覚めたらプレゼントは「靴下」だったというもので、「こんなの、一番ヒドいプレゼントだよ!」「包み紙がムダ過ぎる!」と嘆く。ナイガイさん、せっかくいい知識を提供してくれたのに、こんな曲の紹介でゴメンね。

とはいえ、曲としてはなかなかクールなソウル・ミュージックだし、プレゼントの受け皿としてとはいえ、それで靴下が売れるのだから、ナイガイさんにも勘弁してもらおう。

それでは、よいクリスマスを!

 

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2024年12月16日

高級ブランドの「ホーボーバッグ」を巡る冒険

「ホーボー」という言葉を御存知だろうか。今世紀初頭の米国の大不況時代、身一つで方々を渡り歩いた浮浪者である(参照)。かのボブ・ディランの崇めるウディ・ガスリーもその一人だった。ということは、ボブ・ディランを崇める私にとっても、ホーボーは思い入れの強い存在である。

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1970年代を貧乏学生として過ごした私は、夏になればホーボー気取りでバッグ一つ担いで日本中を旅していた。まともな宿泊施設には泊まらず、夜になればドヤか駅の構内でゴロ寝の旅だったので、ある時期から終電以後に駅のシャッターが閉じられて入れなくなったのは、かなりダメージだったなあ。

で、先日「ホーボー」について何か書こうとしていい画像はないかとググってみたところ、出てくるのは何だか知らないがブランド品のバッグばかり(参照)で驚いてしまった。ああいうの「ホーボーバッグ」というと知って、さらにひっくり返るほど驚いた。

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なるほど、今の時代の「ホーボーバッグ」というのは、上の写真のホーボーが棒っきれにかけて担いでいるバッグと形状的には似ていなくもない。しかしだからといって、妙に着飾った女性が腕にぶら下げるバッグを「ホーボーバッグ」と称するのは、大変な違和感である。不愉快と言ってもいい。

ご覧のように、クロエには 49万円以上もするものがある。こんなものを買って「どう、私のホーボーバッグ?」なんて言うのは、私の感覚からすると「恥知らず」というものである。

調べてみると、Vogue は 2019年 7月に "Why We Need To Rethink The Term Hobo Bag" (どうしてホーボーバッグという言葉を考え直さなければならないのか)という記事を発表している。(Vogue Japan の翻訳版は "ホーボーバッグ」は差別用語? 問われるファッションの倫理観" )

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この記事は「ファッション・グッズに『ホーボー』という差別的な言葉を使うこと」に関して問題提起している。ただ記事中では実際のホームレス俳優のコメントも紹介してそのアイデンティティを尊重しているようにも見えるものの、基本的には「ホーボーは蔑称」という「上から目線」が見え隠れする。

しかし私の発想はそれとは逆だ。ホーボーにシンパシーのない連中が軽々しくその名を使うのは、むしろ「ホーボーに対して失礼」と感じるのである。要するに「クロエのバッグなんて買う連中に、ホーボーの美学がわかってたまるか!」ってことだ。私は昔からアンチ・エスタブリッシュメントなものでね。

というわけで、締めくくりの口直しとしてウディの息子、アーロ・ガスリーの "Hobo's Lullaby(ホーボーの子守歌)" をどうぞ。

とりあえず 1番の歌詞だけ訳しておくのでよろしく。

お眠り 疲れ果てたホーボー
街々がゆっくりと行き過ぎるにまかせて
線路のハミングが聞こえるだろう
それがホ—ボーズ・ララバイさ

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【同日 追記】

「ホーボー」と言ったら、やはりボブ・ディランの "Only A Hobo" を取り上げないわけに行かないと気付いた。高石友也とロッド・スチュワートのカバーも添えておく。

道端で一人のホーボーが倒れて死んでいたのを見て、"Only a hobo, but one more is gone" (たかが一人のホーボーだが、さらにもうひとつ失われた)と歌ったのは、さすがボブ・ディラン。それを「労務者とは云え」と訳したのも名訳だ。

【12月 21日 追記】

ことのついでに、本日付の "「ホ—ボーズ・コンサート」というのが開かれる" という記事もご覧いただければ幸いだ。

 

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