カテゴリー「比較文化・フォークロア」の367件の記事

2026年2月 8日

「歩行者は右側」の規則は江戸時代の慣習と矛盾するけど

草の実堂に「なぜ日本は右ハンドルなのか?世界の 7割が左ハンドルになった理由と歴史」という記事があり、添えられた写真は、米国カリフォルニア州バークレー付近の「イーストショア・フリーウェイ」の様子だ。見事なまでの片側 5車線で、もちろん車は右側を走っている。

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日本の道路の「人は右、車は左」という決まりについて、世の中ではそれは江戸時代の慣習に遡るという説がもっともらしく語られている。紹介記事にも次のようにある。

武士は左腰に刀を差しているため、右側を通行すると、すれ違いざまに互いの鞘が当たってしまう(鞘当て)。

これは武士にとって最大の侮辱であり、刃傷沙汰の火種となった。
そのため、刀が当たらないよう「左側を通る」というルールが自然に定着したという説がよく知られている。

しかし、これっておかしいではないか。江戸時代の武士が「鞘当て」を避けるため、すれ違う際に「左側」によけたいうのは納得できる。ただ「歩行者は右側通行」という現代の交通ルールを説明するのに、どうしてこんな正反対の話を持ち出さなければならないのだ。

ここは紹介記事にもあるように、明治時代に英国の制度に倣ったということの方が明確だし、そう受け取る方が自然だろう。

ただちょっと遡ってみると、戦前までは「人もクルマも左側通行」だった(参照)。それだけに当時は「武士の帯刀」を理由として交通ルールを説明することに、ある種の「もっともらしさ」が感じられてもいたのだろう。

それが今、そのまま注釈なしで「正反対の交通ルール」を語る根拠にされてしまっている。これはもう「国民的思考混乱現象」と言っていいんじゃあるまいか。

そう言えば、混雑する駅の構内では「左側通行」というのがかなり多いよね。やっぱりその方が自然なのかな。

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こうなると、さらに輪をかけた「国民的思考混乱」である。

 

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2026年1月25日

Forbes に見る「酒」に関する日米イメージ比較

Forbes に "アルコール摂取は「適量」でも健康に有害 近年の研究が示唆" という記事がある。酒好きの人はあまり歓迎したくない情報だろう。

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これに関してちょっとだけ深くググってみると、米国版 Forbes のサイトに "What The Latest Research Tells Us About Alcohol And Health" (アルコールと健康に関する最新の研究が我々に告げること)という記事がある。上記の日本語記事は、これの翻訳だ。

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ただここでは、今さらながら酒が健康に有害であることを論じたいわけではない。そんなことは既に数年前、「やっぱり酒は体によくないらしい」(2018年 9月 14日付)と「酒はやっぱり体にはよくないらしい」(2020年 3月 25日付)という、よく似たタイトルの 2本の記事で書いている。

ここで注目したいのは、日米のニュースに添えられた写真のイメージが違いすぎることについてである。日本語記事の写真はずいぶんオーセンティックで、むしろオンザロックがやたらおいしそうに見えるが、オリジナルの米国版は対照的に、ちょっと背徳的なまでの印象だ。

この違いは、日米での酒というものの捉え方の相違から来ているだろう。米国は元々はピューリタンの移民によって築かれた国だけに、酒に関しては案外厳格なところがある。日本では渋谷以外では路上飲酒が問題にされないが、米国では多くの州、地域で路上飲酒が禁止されている。

ニューヨークなどに旅行すると、アル中っぽい人は酒の瓶を必ず袋などで隠して持ち歩いていることに気付くだろう。これって、路上で酒瓶をむき出しにするだけで咎められるかららしい。多くの日本人が知らない話である。

そもそもこの記事の米国版元記事を検索してしまったのは、日本版を見て「こんなサントリーの広告みたいな写真を、米国の編集者がこの類いの記事に使うわけないだろうよ!」と反射的に思ったからである。検索結果を見て、自分の感覚に自信をもってしまったというわけだ。

ちなみに私は 20年ほど前からすっかり「酒が要らない体」になってしまっていて、去年は付き合いの場での 3〜4回ほどしか飲んでいない。ここまで来ると、「酒なんて飲まない方がずっと楽」と実感してしまう。

 

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2026年1月22日

外国人にそばを食わせることと、「食の好奇心」

X(Twitter)で T_Toki@戸切地陣屋 さんという方が、「食文化の壁」ということについてコメントしておられる(参照)。結論を先に言ってしまえば、外国人(とりわけ欧州人)にそばを食わせるのは、かなり慎重にならなければならないということだ。

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というわけで、今年 2度目の「そばネタ」である(1度目は こちら)。そばの話題となるとマメに反応してしまうことに、我ながら少し驚く。

紹介した tweet は欧州圏の人たちを招いた国際会議で、ホストが参加者たちを地元で評判のそば屋に招いてご馳走したという話を紹介している。結果、「皆一様に箸が進まず、数人はあからさまに不快というか困惑の表情を見せていた」というのである。さもあらん。

私も外国人をそば屋に連れて行った経験は何度かある。ただそれは気を許せる間柄の米国人 1人か 2人を連れ行っただけで、「会議の参加者たち」をまとめて団体で連れて行ったなんてわけじゃない。そんなのはどう見ても「無謀な行為」でしかないからね。

個人的経験からすると、米国人(とくにニューヨーカーとカリフォルニア出身者)は少なくとも欧州人よりはエスニック・フードに柔軟だ。さすがに多民族国家で育っただけに、「食の多様性」への対応が少しはできている。

そばというものについても、きちんと説明すればなんとなく食べてくれて、何人かは「おもしろいヌードル」なんて言い出す。実際に私が食わしてやったのをきっかけに「そば好き」になってしまった米国人もいる。

しかし欧州人はそうは行かない。中には抵抗なく食べてくれる柔軟なのもいるかもしれないが、彼らの多くは「食」に関して保守的である。自分の馴染んだ食文化以外は「野蛮」と決めつけているんじゃないかと思うほどだ。

そうした連中に「もてなし」のつもりで、「すすって食う」なんてモノを食わせたりしたら、確実に失敗に終わる。意識的には「そば好き」になったつもりの米国人でさえ、「すする」という食べ方は潜在意識が邪魔してできない場合が多い(参照)ほどだから。

「食文化の壁」というのは、確実に存在するのである。ただ少なからぬ日本人は「食の好奇心」が旺盛で、エスニック・フードを食うのにあまり抵抗がない。こうした特質を「知的好奇心」にまで拡大すればかなりの成果が期待できると思うのだが、それはなかなか難しいみたいだね。

「食」と「知」の間には、深い溝があるのだろうか。

 

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2025年12月18日

「つり目 = アジア人差別」という感覚を深掘り

今年のミス・フィンランドに選ばれた女性が SNS に投稿した 「つり目」ポーズが大炎上し、「ミス」の称号が剥奪されたというニュースが話題になっている(参照)。せっかくの美女が、ヒドい顔になっちゃってる。

これって「アジア人差別」ということになっているのだが、フツーの日本人にはあまり実感がない。日本人がこんなポーズをしたとしても、とくに「アジア人差別」なんて言われないし、日本の漫画などに登場する中国人が「つり目」で描かれても、ことさら問題にされない。

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とはいえ上の画像で言えば、とくに「イーピン」と「ラーメンマン」はヤバい。今どきの欧米でこんなステレオタイプの表現をしたら、炎上じゃ済まないだろう。

さしもの英国発祥の怪人「フー・マンチュー」さえ、この間の事情を雄弁に語っている。本("The Mystery of Dr. Fu Manchu")の表紙が、元々はしっかりと「つり目」で描かれていた(下図の左)のに、前世紀末からはご覧の通り、むしろ「たれ目」(下図の右)に変わってるからね(参照)。

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そんなわけで誤解を怖れずに言ってしまうと、「つり目 = アジア人差別」って、欧米人の「デリケートな独り相撲」みたいなところがありそうだ。薄々思ってるけど、つい悪ノリして大っぴらにやっちゃうと身内から非難されちゃうから、「いい子なら一応避けとこうね」みたいな感じかな。

そもそも最初の動画で紹介したような「極端なつり目」なんて、いくらアジア人でもいない。つまりこれって、白人がつい抱きがちな「私たちって、ほかの人種より見た目がいいよね」という馬鹿馬鹿しい幻想を、最も下品な形で表現しちゃってるのだ。

肌の色にこだわると黒人差別になり、目の形にこだわるとアジア人差別になる。最近は黒人差別がしにくいムードになったから、替わりにこんな形でアジア人に向きがちになってるのかもしれない。

辛辣に言ってしまえば、無意識の領域で「容姿以外に誇れるものがない」と感じているからこそできる芸当である。気の毒に。

だから、欧米人でもマトモな人はこんなポーズはしない。「差別」という以前に、「私ってば、かなりの馬鹿で〜す🎵」と宣言するようなものだからね。

 

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2025年12月 3日

「アニメのように学校をサボる」ことの国際比較

海外反応! I LOVE JAPAN というサイトに「日本のアニメで学校をサボるシーンをよく見るけど、それは実際にもよくあることなの? 海外の反応」というページがあり、世界各地から興味深い反応がいくつも寄せられている。

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この記事のオリジナルは reddit の "Is skipping classes common in Japan or is it just an anime trope?" (授業をサボるのは日本ではフツー? それともアニメの中だけこと?)のようだ。「授業をサボる」って、英語では "skip class" が一般的な言い方なのだね。

北米からの反応をみると、みんな結構サボりまくるみたいである。ただし米国では中学・高校の指導が案外厳しく、サボり放題というのは大学に入ってからのようだ。

「カナダで高校に行ってた頃はサボりまくってたな」
「自分もアメリカの大学に通っていた頃はしょっちゅう授業をサボってた。でも中学や高校ではそんなことはしなかったんだけどね」

一方、日本を含むアジア地域では学校がサボりに対して厳しく、こんな具合である。アニメの世界はどうやら別物と考える方がよさそうだ。

「私の国では絶対にありえないことだ。私の学校は毎日点呼から始まり、誰かが連絡なしに欠席したら保護者に連絡が入る」
「中国だと授業を 5分でもサボると先生に叱られる」

ヨーロッパだと、ルーマニアからの反応で次のようなものがある。これだけシステム化されてしまうと、かなり計算してサボらなければならない。

「ルーマニアの学校は『スコア』があって最高点は10点満点なんだ。(中略)1年間に40回以上サボると点数は9/10 に下げられ、40 回を超えると10回サボるごとに1点が減点されていく。(中略)そして点数が5/10に達した場合は退学か留年になる」

そうかと思うと南米はこんな具合だ。ルーズな感じがいいよね。

「自分は南米出身だけど授業が始まる時と試験の時だけ学校に来る奴とかがいたよ」

ちなみに私は高校時代、2021年 6月 15日付の「授業をサボり、庄内砂丘に寝転がる」という記事で書いたように、学校全体の授業出席率を一人で 1〜2% 下げるほどサボりまくっていた。生徒数がほぼ 1,000人だったのだから、私の貢献度(?)は立派なものである。

教師たちは私のサボりについては諦めていたようで、ほとんど「公認状態」だった。そんなわけで、いくらサボってもまったくお咎めなしだったなあ。親に連絡されたなんてこともないし。

卒業後に知ったのだが、教師たちの間では「あいつだけは特例」ってなことになっていて、後輩たちもそんなような認識だったようだ。「彼は現役でワセダに合格したが、あれだけデタラメな高校生活を送ったらフツーは無理なんだから、決して見習わないように」なんてお達しまであったらしい。

私ってば授業のサボりばかりでなく、かなり色っぽい局面も含めて、さながらアニメみたいな高校時代を現実に過ごしていたことになる。これって、60年代終盤から 70年安保にかけてのカウンターカルチャー花盛りという特殊な時代だったおかげかもしれないね。

【同日 追記】

ちなみにあの頃通っていた高校は、上の画像のようなモダンなものじゃなく、今にも崩れ落ちそうなオンボロの木造校舎だった。私の校舎の巡り合わせが最悪だったことに関しては、こちら の記事に書いた通りである。

 

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2025年11月30日

アンガーマネジメントに見る日米文化比較

あひるさん という方が、X(Twitter)にアンガーマネジメントに関する投稿をしておられる(参照)。「貴方は怒鳴られた!罵倒された!侮辱された!さあ、なんて言葉を返す?」という講師の問いかけに対しての、米国人の回答が秀逸すぎるというものだ。

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紹介された米国人の回答で上の画像に紹介されているのは、「その言葉、ゴミ箱から拾ってきたの?」「君の心の冬、長そうだね」「君の自己肯定感踏んじゃった?」「深呼吸しよう。酸素が君の脳に届いてないみたいだ」といったもの。

さらに続いて次の tweet では、「その表現、あなたの自己紹介?」「君が怒ってるのは、私にじゃなくて、君自身に対してなんだよね。応援してるよ。頑張って。知らんけど」なんてのもある。こうした回答に、講師が「…君ら研修いらなくない?」と感嘆していたというのである。

ただ私の考えを言わせてもらうとすれば、これらは米国でなら使えても日本では使えそうにない。日本人の場合、怒鳴ったり罵倒、侮辱したりするのは、かなりエモーショナルな状態になっている時なので、そんな相手にクールな米国流のジョークを返しても通じないどころか、無駄にこじれるばかりになる。

とくに「その言葉、ゴミ箱から拾ってきたの?」なんて言ったら、火に油を注いで後々まで影響してしまいかねない。せいぜい「深呼吸しよう・・・」ぐらいで熱は冷めるかもしれないが、「酸素が君の脳に届いてないみたい」なんて続けた時点で救いようがなくなる。

日本人同士だったら、余計なことを言わずに「ごめんね」の一言で済ませてしまうのが一番面倒がないし、疲れずに済む。どうしようもないほどつまらなくて、うんざりするけど。

そもそも日本人って米国人と「怒りのツボ」が違うから、アンガーマネジメントというコンセプト自体が成立しにくいんじゃないかなあ。

 

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2025年11月 9日

小さな祠まで入れると、神社の数はコンビニの 5倍

草の実堂というサイトに "『神社の数はコンビニの5倍?』神社の数と分類、12の代表系統を解説" というページがある。全国の神社数は 8万社以上で、コンビニ店舗数(約 5万 4000店)の 1.5倍程度なのだが、小さな祠まで勘定に入れると 20〜30万社で「コンビニの 5倍」になるのだそうだ。

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そう言えば我が家の周辺(半径約 1.5km 以内)を見渡しても、ちゃんとした鳥居のある「神社らしい神社」が 5社あり、コンビニは 3店だから、まさに 1.5倍を越える。さらに鳥居のない小さな祠のようなものまで含めたら、いくつあるか数え切れたものじゃない。

今回取り上げた草の実堂の記事では「祭神による分類」に力点があり、次のように 12の系統が説明されている(詳しい話は元記事へどうぞ)。

  1. 八幡宮: 主祭神は八幡神(一般には応神天皇を指す)。大分県宇佐市の宇佐神宮が総本社で、全国に 約 45,000社と日本最多。
  2. 稲荷神社: 主祭神は商売繁盛や五穀豊穣を司る稲荷神(宇迦之御魂神)。京都の伏見稲荷大社が総本社で、全国に約 30,000社。
  3. 天満宮: 菅原道真を祀る神社で、京都の北野天満宮と福岡県の大宰府天満宮のどちらも総本社とされる。全国に約 12.000社。
  4. 伊勢神宮: 日本神道の中心に位置し、内宮と外宮を主軸として伊勢市周辺に 125社が点在。
  5. 出雲大社: 大国主大神を主祭神とし、全国に約 200社の分社。
  6. 熊野神社: 複数の神を祀り、和歌山県の熊野三山を中心として全国に約 3,000社。
  7. 春日神社: 主祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神ら、藤原氏の氏神。奈良県の春日大社を総本社とし、全国に約 1000社。
  8. 諏訪神社: 主祭神は建御名方神で、長野県諏訪大社を総本社とし、全国に約 5,000社。
  9. 厳島神社: 市杵島姫命をはじめとする宗像三女神を祀る。広島県宮島の厳島神社を総本社とし、全国に約 500社。
  10. 住吉神社: 主祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神で、大阪市住吉区の住吉大社を総本社とし、全国に約 2,300社。
  11. 金比羅神社: 主祭神は大物主神で、香川県琴平町の金刀比羅宮を総本宮とし、全国に約 600社。
  12. えびす神社: えびす神を祀り、兵庫県西宮市の西宮神社が総本社で、全国に約 3,500社。

飛び抜けて社数の多いベスト 3は、「八幡様」として知られる八幡宮、「お稲荷さん」の稲荷神社、「天神様」の天満宮というところのようだ。ただこの他にも八坂神社、愛宕神社などもかなり多く見かけるのだが、どうしてここでは取り上げられなかったんだろう。

仕方がないので自分で調べたところでは、こんな具合。

  • 八坂神社: 主祭神は素戔嗚尊で、京都市祇園にある総本社は「祇園さん」して親しまれる。全国に約 2,300社。
  • 愛宕神社: 主祭神は火産霊命で、火伏せの神。京都市右京区の愛宕神社が総本社で、全国に約 900社。

神社が日本中にこれほどたくさんあるのは、元々古代においては「礼拝の窓口」として機能していたからと考えられる(参照 1参照 2)。御本尊がたくさんありすぎたら「神様の安売り」と言われかねないが、窓口なんだからいくらあってもいいのだ。

ちなみに結構な神社仏閣好きの私だが、ここで取り上げた総本社といわれる神社のうち、大分県の宇佐神宮と熊野三社だけはまだ行ったことがない。機会を見て是非お参りしたいものである。

【同日 追記】

筑波山神社の拝殿前まで(参照 1参照 2)と、笠間市愛宕山にある愛宕神社まで(参照 3)は、茨城県にある代表的な自転車でのヒルクライム・コースで、私も何度も息を切らしながら登っている。笠間の愛宕神社は、日本三大火防神社の一つなんだそうだ(参照 3)。

9月に入院しちゃったりした(参照 3)が順調に回復しているので、トレーニングし直してまた昇ってみたいものだ。

【11月 20日 追記】

本文中で熊野三社にお参りしたことがないと書いたが、実は 2017年 7月に熊野への出張の時に行こうとしていたものの、白内障手術直後で激しい運動を止められていたため、行けなかったのだと思い出した。

なるべく早く雪辱したいものだ。

 

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2025年10月20日

「三隣亡(さんりんぼう)」を巡る冒険

昨日付の「このブログ、連続 8,000日の毎日更新を達成」へのコメントで、らむねさんが「三隣亡」に関する YouTube ページを紹介してくれた。曆に出てくる日で「さんりんぼう」と読む(参照)。

そういえば田舎でよく見られる十二支だの暦日だのが表記された曆で、「さんりんぼう」という文字を見ることがある。私の実家で鴨居にかけていた昔ながらの日めくりにも書かれていたが、記憶する限りではひらがな表記だったので、「三隣亡」という漢字はこの年になるまで知らなかった。

この言葉のウンチクに関しては、上に掲げた YouTube 動画を再生すれば大体のところは理解することができる。なんでも「三隣亡」の日に住宅を着工すると、三軒隣まで滅ぼしてしまうという言い伝えらしいのだ。

おもしろいのは、この迷信がほとんど我が郷里の山形県(とくに庄内地方)のみで盛んということだ。何しろ「三隣亡の日」だけでなく、「三隣亡の年」まであるというのである。さすがにそこまでは知らなかったが、そういえばこの言葉、確かに郷里ではよく聞いたが関東ではほとんど聞いたことがない。

さらに言えば「三隣亡」という言葉の意味は詳しくは知らなかったものの、「さんりんぼう」という名のモノに関してはは時々目にすることがあった。住宅の建築現場に建てられた柱なのである。最近はシンプル化され、こんなようになっているらしい(昔はもっと色とりどりに派手だった気がする)。

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「三隣亡の仮柱」と言って、実際の着工の前に柱だけを立て、建て前としては「三隣亡」の日や年を避けたということにするのだ。いやはや、これって二重の意味で「建て前」的である。

そんなのは私が田舎で暮らしていた 70年代以前の習俗かと思っていたが、実はなんとまあ、今世紀になっても健在であるらしいのだ。家を建てるにあたっての迷信というのは、かなり根強いものがあるのだね。

上の動画は第二弾、第三弾まであり、民俗学的見地からかなりわかりやすい紹介をしてくれているので、ちょっと長いが是非ご覧いただきたい。紹介してくれたらむねさんには感謝である。

 

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2025年6月 8日

銭湯の混浴がフツーだった江戸の庶民感覚の不思議

Japaaan に「どんだけ混浴したいの! 何度禁止してもしぶとく復活し続けた江戸時代の混浴の歴史」という記事がある。とにかく江戸時代の銭湯って混浴がフツーで、度々禁止されたもののすぐに復活してしまっていたらしいのだ。

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江戸時代の初めは銭湯はカップルのデートの場所でもあったらしく、それだけにフツーに混浴だった。寛政の改革で知られる松平定信にはそれが許せなかったようなのである。

彼は寛政 3年(1791年)に混浴を禁止したのだが、実際には形だけのもので、仕切りが粗末な上に浴槽の下の方はトンネル状態で、男風呂から女風呂に潜って行けちゃってたらしい。そして彼の失脚後はあっさりと混浴が復活していた。昔の庶民って、よほど混浴に抵抗がなかったようなのである。

松平定信以上に厳しかったと言われる水野忠邦の天保の改革により、混浴は 50年後の天保 12年(1841年)に再び禁止された。それでも禁止は徹底されずにペリー来航の幕末以後も続いていたという。記事には次のようにある。

明治維新後、明治新政府は欧米への体裁を気にし、混浴禁止令をたびたび出しましたが、なかなか改まらず、都市部でも混浴が廃れたのは明治末期になってからでした。

1853年に来日したペリーは『日本遠征記』には次のような記載があるという。

男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である。

江戸の暮らしというのはかなりの洗練を遂げていたのだが、どういうわけか入浴に関してだけは大らかすぎるほど大らかだったようなのである。ずいぶん説明が難しい話だよね。

今でも田舎の山の中なんかに行くと、混浴温泉が残ったりしている。私もだいぶ昔に浸かったことがあるが、一緒に入っていたのはかなりひなびてはいるが元気なバアさん達で、まあ、楽しいと言えば楽しい体験だった。

 

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2025年5月13日

どうしてそれほどまでに夫婦同姓にこだわるのか

先月 22日に報じられた記事だから取り上げるタイミングがちょっと遅くなってしまったが、「維新 結婚後も旧姓の通称使用可能にする法案要綱まとめる」という NHK NEWS の内容が気になってしまった。

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日本維新の会の案は、記事によれば「結婚で姓を変えることが、女性の仕事や社会活動に不利益をもたらしており、早急な対応が必要だとして、結婚後も旧姓を通称として使用できることを規定した法案の要綱が示され」とある。どうやら「姓の変わるのは女性」というのが前提とされているようなのだね。

そして要項内容の重要ポイントは次のようなことだ。

要綱では戸籍法を改正し、希望する人が結婚前の旧姓を通称として戸籍に記載できるようにするとともに、住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにするとしています。

つまり戸籍上では「本名はあくまでも本名」で、「通称としての旧姓が補足的に記載できる」ということのようなのだ。ただ「住民票や運転免許証、それにパスポートなどにも旧姓を記載できるようにする」というのは画期的ではあるものの、表現がかなり紛らわしい。

「本名」を原則としながら「旧姓」も補足的に表記できるというのか、「旧姓」のみの表記でいけるのかが曖昧で、明確に読み取れない。いずれにしても一人の人間に「本名」と「通称」の二通りの名前を法的にもたせるということ自体、かなり鬱陶しい制度ということができる。

これ、次のように考えてみればその不毛さが実感されるだろう。

結婚に際して男の方が妻の姓に変わることだって当然あるわけで、他ならぬ私の父がそうだった。母が一人娘だったために、いわゆる「婿入り」の形で結婚したのである。ところが通称としての旧姓使用に関する最近の情報は、ほとんど女性の場合のみを想定して語られている気がする。

これがこの問題をややこしくする第一歩みたいなものだ。根底にあるのが「男権社会」のコンセプトのままだからである。

私は 7年近く前に "「夫婦別姓」 は、保守派にもメリットがあるだろうに" という記事の中でこんなことを書いている。少々長くなるが引用しておく。

思えば、「夫婦別姓」ならぬ「親子別姓」というケースがある。今の世の中では、親が離婚して、母親が旧姓に戻ったために、子どもと姓が違うという場合が多いだろう。しかし昔は、そうではない理由での「親子別姓」というのがあった。

それは一人娘が結婚して姓が変わってしまったために、「家督相続」する者がいなくなり、どうしても「家」というものを継続させたいがために、生まれてきた子の 1人を母親の両親の養子として縁組してしまい、それによって母方の「家」を継がせるというものだ。大方は子どもの知らないうちに養子縁組を成立させてしまうので、子どもが幼いうちは、当事者ながらよくわからない事情であっただろう。

保守派は「夫婦別姓では、親と子の姓が違ってしまい、家族の一体感が阻害される」などといって反対するが、その昔の「子どもが知らないうちに、祖父母の家に養子縁組されてしまっている」というケースに関しては、「親と子の姓が違ってしまい…云々」 みたいなことは言わない。これは甚だ不公正な態度と言えるだろう。

そもそも夫婦別姓を取り入れると言っても「選択的夫婦別姓」なのだから、全ての夫婦が別姓を名乗れというわけじゃない。妻が夫の姓を名乗りたければそうすればよく、旧姓のままでいたければそれも合法とするというだけのことだ。

そのせいで世の中がひっくり返ったりするわけじゃないというのは、日本以外の国がごくフツーに証明してくれている。どうしてそれほどまでに「戸籍上の夫婦同姓」にこだわるのか、本当にわからない。

最後に付け加えておくが、この記事に添えられてる写真、妙に寂しい光景だなあ。

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