カテゴリー「比較文化・フォークロア」の295件の記事

2021年7月29日

漫才は二人でなければならないか?

やしろぶ」というかなりおもしろいサイトがあり、この中の最新記事が ”国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」” である。ほとんどの国語辞典が漫才は「二人」で行う芸能としていることに対して、徹底的に疑問を述べたものだ。

なるほど、昭和のレツゴー三匹、かしまし娘、チャンバラトリオから、1980年代(この頃も昭和といえば昭和か)のトリオ・ザ・テクノ(いやはや・・・)等々に至るまで、三人の漫才芸にはこと欠かない。ただ個人的には、これらの「トリオ芸」は「漫才」の範疇からはみ出すのではないかと思ってきたのだが。

折しもまさにそのトリオ・ザ・テクノのちょっと前頃に大学院にまで進んで古典芸能なんていうゼニにもならない研究をしていた不肖私めとしては、「漫才が二人なのは当然じゃん!」と思ってしまうのだ。というのは、現代の漫才は伝統芸能「萬歳」の系譜を引いているからである。

萬歳は基本的に「太夫」(たゆう)と「才蔵」(さいぞう)の二人一組で演じられる芸能である。それで、その系譜を引きつつ寄席芸能となった「漫才」も当然ながら二人一組なのだ。これ、日本の常識である。

我が故郷、庄内の地でも、私が小学校に入る前(半世紀以上前!)は正月になると萬歳が門付けに廻って来たもので(あれは「秋田萬歳」だったのかなあ?)、幼い私は大喜びで見ていた。ただどういうわけか、あまり教育にはよろしくないと思われていたようで、夢中で見ていると大人に叱られたりもした。

その頃は「大黒舞」(庄内弁では「でっごぐめ」という)なんてのもあったなあ。今では「〽︎ 明けの方から福大黒、舞い込んだなァ・・・」って歌の方が民謡のスタンダードとして有名になってしまっているが。

と、こんな風に考えているうちに、不意に「ありゃ、萬歳は必ずしも二人一組とは限らなかったりして・・・」などと、ここまでの流れからするとかなり「不都合な真実」を思い出してしまった。それでググってみて動画部門の最上位に出てきたのが、なんともはや、上の三河万歳の動画である。

これ、太夫が一人に、才蔵が二人の三人構成で演じられている。このパターンはあくまでも変則ではあるが、実際にはそれほど珍しくもないのだよね。門付け芸としては大抵二人一組だが、神社での奉納や、少々改まってのパフォーマンスとなると、ご丁寧に才蔵を複数にしてしまうことがあるのだ。

Wikipedia にも、「萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の 2人が 1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などで披露されるものは 3人以上から、多いもので十数人の組となる」とある(参照)。ただ私は「十数人」の萬歳なんて見たことがないけどね。

というわけで、寄席の「トリオ芸」というのも、才蔵が二人バージョンの萬歳みたいな「派生パターン」と考えていいのかもしれないと思い至った次第である。やしろぶさん、常識外れ扱いしかけてごめん。

 

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年6月19日

「見えても見ていない」ので、他人を手伝えない日本人

東洋経済に "日本人はなぜ、「ベビーカー運び」を手伝えないか 日本人に多い「他人恐怖症」、その根本原因は?" という記事がある。ニューヨークで出産した岡本純子さん(コミュニケーション・ストラテジスト)が、帰国してからの気付きについて書いたものだ。

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私自身は電車で年寄りが立っていたらフツーに席を譲る(参照)し、ベビーカーの扱いで難儀している人を見たりしたら気軽に声をかけて手伝うのだが、こういうのって、確かに「日本人には珍しいタイプ」のようなのである。彼女は次のように書いている。

アメリカ・ニューヨークで子どもを産んだ私は、エレベーターのない地下鉄の駅で、何度となく見知らぬ人にベビーカーの上げ下げを手伝ってもらいました。「May I help you? (手伝いましょうか?)」と通りがかりの人がごく自然に声をかけてくれ、本当にありがたかったのを覚えています。(中略)

帰国してショックだったのは、そういう姿をあまり見かけないことでした。重い荷物をもった人や高齢者など街中で「困っていそうな人」がいても、声をかける人が少ない……。

これに関して、ネット上でのさまざまな意見が紹介されているのだが、煎じ詰めると、「日本人の極端なリスク回避志向」によるものと見ているようだ。これは「事故などあったら、責任問題になり、損害賠償など要求される。リスクが怖い」という意見に代表される。

ただ、私の率直な考えを述べるとすると、そんなもっともらしいことより、日本人は「他人がヘルプを求めている状況に気付く感覚が鈍い」というだけのことだと思う。

上の写真には難儀している母親を冷たい表情で振り返る若い女性が映っているが、これってある意味「演出過剰」で、実際にはこんなことわざとらしい場面はほとんどない。大抵の人はただ何事もないようにフツーに通り過ぎるだけだ。

日本人って、身内には鬱陶しいぐらいお節介なのに、他人の状況にはほとんど無頓着なのである。「見えても見ていない」のだ。岡本さんの記事には「手伝わない理由」がいろいろ紹介されているが、実はほとんど「見えても見ていない」ことの「後付けの言い訳」をもっともらしく述べているだけにすぎない。

「見えても見ていない」ということになるのは、幼い頃からそうした訓練がされていないからだと思う。言葉を換えて言えば、「他人をきちんと意識する仕方」がわかっていないのだ。

岡本さんはベビーカーの上げ下げの手伝いという観点から論じておられるが、私はクルマの運転中にそれをとても感じる。例えば下の図をご覧いただきたい。(クリックすると別画面で拡大表示される)

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主要道路から脇道に右折するために停車し、右側ウィンカーを点滅させながら反対車線のクルマの列の途切れるを待っているクルマがあるとする。反対車線は切れ間なくクルマが通り過ぎて、全然道を譲らない。しかし彼らの行く手には信号があり、赤信号で渋滞中という、「ありがち」の状況だ。

右折しようとしているクルマは、後ろのクルマを「せき止めている」ことになる。せき止められたドライバーはイライラしながら先頭のクルマの右折を待つ。

こんな場合、反対車線を走るクルマはちょっとスピードを緩めるか停車するかして、右折車に道を譲ってから先に行っても、結果はあまり変わらないのだが、多くはまったく道を譲ろうとしない。対向車線を走るドラーバーたちは、ウィンカーを出して停まっているクルマが「見えても見ていない」のである。

私はこうした場合、いつもスピードを緩めて道を譲ることにしている。そうすることで道路の流れ全体がスムーズになるのだから、こちらとしても気持ちがいい。

私はこれまで私企業よりも団体に勤務する経験が長かったので、「部分最適」より「全体最適」を求める視点が鍛えられたのかもしれない。「世の中というのは、ちょっとだけ他を手伝って上げたり、譲るべきところで譲ったりする方が、結局のところ自分の方も都合良く運ぶもの」と知ったのだ。

そして「全体最適」を求めるには「他の存在をきちんと意識する」ことが必要なのだが、日本人は「ムラ社会」以来、「他の存在」をきちんと意識するということが苦手のようなのだ。

学校時代も、全員制服で同じ格好をしているのが当たり前で「多様性」ということの実感が不足してるから、「異質の存在」との付き合い方に慣れてないのだね。ましてやいつまで経っても「外国人は黒船」だし。

それにしても、"May I help you?" って、便利な言葉だよね。

 

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2021年5月25日

「スパゲティ・カルボナーラ」を突破口に

一昨日の「ティッシュペーパーのブランドとメーカー」という記事で、自分のスマホのブランドをしっかりと認識しているが、ティッシュペーパーのブランドを知らない人もいれば、その逆のケースもあるというようなことについて触れた。

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ことほど左様に、人は自分の興味のある分野では細かいことまで知識があるが、興味がない分野ではすっかり無頓着になってしまうものである。私の場合で言えば、カタカナ名前の食べ物がとんとわからない。

「カタカナ名前の食べ物は、ラーメンとカレーしかわからないんでしょ」なんて言われることがある。「とんでもない、パンとスパゲティだってわかるよ」と反論してみても、それ以上のことは本当によくわからないのだから、我ながら呆れる。

いや、実を言えば「カタカナ名前の食べ物」でも、英語由来のものなら大抵はわかる。オニオン・スープとか、ポテト・パイとかアイスクリームとかならしっかりわかるのだが、食い物の名前というのはやたらとイタリア語やフランス語が多いので厄介なのだ。

先日、妻とサイゼリヤで食事をしたが、メニューを開いてもカタカナだとさっぱりわからない。肉を食わない私としては、「野菜スパゲティ」というのを選べばいいので話は簡単だが、そうでなかったら途方に暮れてしまうだろう。

「この『カルボナーラ』ってのは、炭水化物ばかりのスパゲティなのかと思ったら、写真を見ると肉も載っかってるんだね」と言うと、妻は「それは炭焼き職人が山の中で自分で料理して食べたものだから、そういう名前になったという説があるのよ」と説明する。西洋の食い物の話になると、妻はやたら詳しい。

「へえ、炭焼き職人風だから、炭素の『カーボン』なんだね」
「そういう説があるみたい。でもそうやって何でもかんでも英語に翻訳して『カーボン』なんて言っちゃうと、趣きがなくなっちゃうけどね」

というわけで、妻としては興ざめしてしまったのかもしれないが、私としてはこうして「言葉と文化」に関連付けられると俄然興味が湧き、この日を限りに「スパゲティ・カルボナーラ」という料理の名前はしっかりと覚えた。これを突破口に、少しは料理の名前もわかるようになれるかもしれない。

とはいえ、肉が入っているみたいなので、「カルボナーラ」を自分で食べることはないのだが。

ちなみに、後日 Wikipedia で調べてみて、「カルボナーラ」の由来は「炭焼き職人風」以外にも諸説あると知った。中には「単にコショウの色から連想されたという説もある」というのもあって、「だったら、白コショウを使えば『スパゲティ・ライム』(石灰風)かよ!」なんて思ってしまったよ。

いや、イタリア語だと 「スパゲティ・カルチェ」か。

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2021年5月17日

「ディープなアジア」の茨城バージョン

一昨日はたまっていた仕事を片付けてようやく一段落したので、「自分へのささやかなご褒美」としてつくば市にある日帰り温泉に行ってみた。ボーリング場や映画館などもある「つくば YOU ワールド」という複合施設で、日帰り温泉だけは「湯〜ワールド」と、駄洒落みたいなネーミングになっている。

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料金はフツーのスーパー銭湯よりちょっと高めだが、その訳は、温泉施設内の大宴会場で上演される大衆演劇の観劇料込みということのようだった。5月公演は「劇団炎舞」とやらの舞台で、私が入った時は歌謡ショーの真っ最中だったが、なにぶんコロナ禍で客入りが少なく、気の毒なほど淋しい印象だった。

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いずれにしても大衆演劇込みの日帰り温泉なんて、なかなかあるものではない。ここの茨城度は、かなりディープである。

とはいえ、別に芝居を観に来たわけでもないのでさっそく温泉に浸かり、一通り体と神経の疲れをほぐしてから館内着を着てロビーに出る。ソファで涼みながら汗の引くのを待っていると、後ろのテーブルがやたらと賑やかなのに気付いた。

振り返って見ると、還暦過ぎぐらいのおばちゃん 4人のグループが世間話に花を咲かせてダハダハ盛り上がっている。これがまたディープな茨城弁で、一人ずつしゃべってくれれば聞き取れるのだが、常に同時に 2人以上が(時として 4人いっぺんに)しゃべるので、何が何だかわからない。

茨城弁特有のうねるようなイントネーション(単語自体に固有のアクセントはなく、様式のあるようなないような、気紛れな抑揚のセンテンスの中に埋没する)が重なり合って、途切れることのない「ウォ〜〜ン」という響きになり、時に 4人同時の大爆笑が強烈な効果として加わる。これはもう、大変なものだ。

この喧噪に包まれながら、私は時々出張することがあった香港の大衆食堂を思い出していた。香港の洋食レストランはやたら高いばかりで旨くもなんともない(何しろ英国領だったんだから)ので、食事はフツーの香港人の行く大衆食堂に入る。ちなみに香港の人たちはほぼ 100%外食らしい。

こうした大衆食堂は嬉しくなるほど安くてうまいのだが、とにかくうるさい。ドアを開けた瞬間に、店内から噴出する凄まじい騒音の圧力で押し戻されそうな気がするほどだ。だから日本人同士で連れだって食事しても、まともな会話はできない。フツーの声で話したのでは全然聞こえないのだ。

こうした状況では、一応の国際スタンダードとなっている西欧的常識からすると、互いに迷惑にならないように小声で話すのがエチケットとされる。ところがそれとは逆に、皆が周囲に負けないようにさらなる大声でしゃべるというのが、中国的常識のようなのである。

これって、バスや地下鉄に乗るのに決して列を作らず、我先にドアに殺到するのと同じメンタリティだ。そして放っておけば何事も混沌のままなので、強烈な中央集権的権力で身も蓋もないほど抑え込もうとする。

私は日帰り温泉ロビーの喧噪の中で、「これが『ディープなアジア』の茨城バージョンなのだよね」と穏やかに納得しながら、汗の引くのを待っていた。中国の圧政の色が強まっている香港に比べれば、ここはずっと呑気でいられる。

負けるなよ、香港!(最後にこれが言いたかった)

 

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2021年5月 6日

「天ぷらにソース」の謎が、また少しほどけた

もう 8年以上も前になるが「ソースで天ぷらを食う文化」という記事を書いた。岡山に出張した際に天ぷらをソースで食わされ、西日本ではそれがごくフツーと知って、かなり驚いてしまったという話だ。

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天ぷらにかけるのが醤油かソースかというのは、フォッサマグナを境にして、東日本と西日本にかなりきれいに分けられるようなのである。そしてその 2日後に、「ソースで天ぷらを食う人たちは、鉄板系コナモンも好き」なんていう関連記事まで書いている。

で、この件に関してはほぼそれっきりになっていたのだが、今日、さらに新しいことを知った。ラジオでたまたま、「西日本の人たちは天ぷらにソースをかけるので、やっぱりウスターソースでないとね」という話を聞いたのである。

この話の続きはこんなことだった。東日本の人たちはソースはとんかつやフライにしかかけないので、「中濃ソース」のほぼ一択だが、西日本ではさらりとした「ウスターソース」がメインで、お好み焼きなどには「特濃ソース」という使い分けをしているというのである。

そんなことは、この歳になって初めて知った。要するに「ソースで天ぷら」と一括りに言ってしまっても、そのソースそのものが、東日本と西日本では違うのだ。

西日本で「ソース」といえば、粘度が低いウスターソースなので違和感がないわけなのだね。東日本の人間は「天ぷらにソース」と聞くと、どうしてもどろっとした中濃ソースを思い浮かべるので、「うっ!」となってしまうわけだが。

ちなみに我が家は市販のソースを全然使わないので、中濃もウスターもないが、そういえば庄内の実家ではカツやフライなどには「とんかつソース」というのを使い、それ以外はすべて醤油を使っていた。しかもその醤油は、関東の「濃口醤油」よりやや色の薄い「薄口醤油」だったような気がする。

そういえば大学に入って上京した時、東京の醤油の色の濃さに驚いた覚えがある。さらにうどんの汁にも「うわぁ、真っ黒に近いじゃん!」とたじろいだものだ。私の田舎は江戸時代から西回り航路の終着港だったので、かなり上方文化が入っており、東北とはいえどっぷりと東日本的ではなかったのだ。

さらに明らかになったのはソースのブランドで言うと、上の図のように東日本では「ブルドック」(英文表記は "Bulldog" だが、カタカナでは「ブルドック」)が圧倒的だが、西日本では「オタフク」というのが有力ということだ。

このオタフクというのは広島のメーカーで、ウスターソースに強いらしい。さらに広島だけに、お好み焼き用の「お好みソース」というのまである。

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ちなみに「ブルドック」と「オタフク」の二大ブランドの他には、「カゴメ」もケチャップだけでなく奮闘しているし、そのほかにも地域的には限られるが、「イカリ」「コーミ」「オリバー」などがあるという。思いのほかに多様性のある市場のようなのだ。

 

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2021年4月 6日

日本人は「赤・青・白・黒」以外の色のコンセプトが薄い

昨日の "「太陽が赤い」というのは日本人だけということについて" という記事で、大切なことを書き落としていた。それは、太陽は国際的には黄色という認識が一般的だが、古代日本人には「黄」という色の概念がなかったので、赤く描くほかなかったという事情である。

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「雑学カンパニー」というサイトに、「不便…? 古代日本には赤・青・白・黒の 4色しかなかった」というページがある。ただ「4色しかなかった」というのはある意味ビミョー過ぎる表現で、より具体的に言えば「どんな色でも 4色でしか認識しなかった」ということだ。

日本語で色を表す言葉は、今では数多くあるが、元々あったのは「赤・青・白・黒」の 4語のみである。それ以外の色名は、後世になって加わったものだ。

基本となる「赤・青・白・黒」は初めから名詞としてあったわけではなく、以下のように形容詞から名詞化したものと考えられている。

古語 読み/意味   色名
明し あかし/明るい
淡し あはし/淡い
顕し しるし/明白だ
暗し くらし/暗い

このため、現代語でも色名に「い」を付けて形容詞になる(あるいは戻る)のは、「赤い、青い、白い、黒い」の 4語だけだ。「黄」と「茶」は基本的色名のようでも「黄色い、茶色い」と、「色」という言葉の助けが必要だし、「緑」「紫」などは、「緑色い、紫色い」とすることもできない。

というわけで古代日本人にとっては、太陽は「明るい」のだから、その色は「赤」に他ならなかったのである。その認識が 21世紀の現代に至るまで続いているというのは、ある意味すごいことだ。

ちなみに新鮮な木の葉や草の色を一般的には「緑葉」と言わずに「青葉」と言うのも同じ事情によるが、絵に描かれるとさすがにブルーではなく、ごく自然にグリーンになる。これには、葉っぱまで青くしたら背景の青空と区別が付かなくなるからということもあるだろう。

一方で太陽の「赤」は青空を背景に燦然と表現できるので、古来から変わることなく象徴的な意味合いも強めつつ続いてきた。つまり日本人の「赤い太陽」という認識は、かなり根強いものと言うほかない。

昨日の記事は、この「根強い認識」に関する説明としての方が意味が明らかになるかもしれない。どうやら書く順番を間違えたようで、本来は今日の記事を先にすべきだったのだろうが、もう変えるわけにいかないので、

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2021年4月 5日

「太陽が赤い」というのは日本人だけということについて

よく「太陽が赤いと思っているのは、日本人だけ」と言われる。日本の子どもが太陽の絵を描くと、ほとんどが赤く塗られるが、外国の子どもの絵では黄色系の色になることが多い。

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上の写真は、私が「和歌ログ」で撮りためた太陽の写真の中から選んだもので、左上は昼に近い時刻の太陽。右上と左下は夜明けの太陽で、とくに左下は昇ってきたばかりのものだ。そして右下は夕焼けの太陽である。

こうしてみると、高く昇ってしまった太陽はほとんど「白」といっていい。一方、夜明けと日没時の低いところにある太陽は赤っぽいが、これは太陽光線が自分のいるところに届くまで長く大気中を通過するために、波長が長くて散乱しにくい赤の光線が届くためといわれる(参照)。

ただ、よく見れば朝夕でも実際に赤っぽいのは太陽そのものよりも周囲の空や雲の色であることが多く、太陽そのものは左下の 1枚を除けばむしろ白っぽい。大気中を長く通過して、赤い光が最後に散乱しているのだろう。左下の太陽が例外的に周囲より赤いのは、薄い雲を透かしているためだと思う。

日本人が「太陽は赤い」と思ってしまう最大の理由は、「日の丸」の印象が圧倒的に強いということだろう。日本人の心の中にあるのは、「実際の太陽」というよりむしろ「象徴としての太陽」のようだ。

もう一つの理由は、真昼の太陽は眩しすぎてまともには見ることができないので、朝と夕方の太陽が印象に残りやすいということだろう。しかし上述のように、多くの場合で赤いのは「太陽そのもの」よりも、光線の散乱によって染まった「周囲の色」であることに注目したい。

日本人は「無意識的な認識操作」を作動させることによって、「対称物そのものと、その周囲」を一緒くたに認識することが多いようなのだ。それで、実際に赤いのは「周囲の空の色」でも、意識の中ではそれが「太陽の色」として印象付けられるのだろう。

そもそもの話として、国旗「日の丸」が赤い真ん丸で表現されるのも、日本人のこうした意識傾向によるのだろうと思われる。

【同日 追記】

「ヤシろぶ」の "国際比較「子供が描く太陽の色」" という記事によると、国際的には黄色が主流だが、タイの子どもは日本人同様に太陽を赤く描くらしい。

【4月 6日 追記】

「みんなの知識 ちょっと便利帳」というサイトの ”「太陽」を配した国旗・地域旗” というページには 25の国・地域の旗が紹介されているが、多くは太陽が黄色で表現されており、それ以外の色は以下の通り。

白: 台湾、ネパール民主共和国、マーシャル諸島
赤: 日本、バングラデシュ人民共和国、マラウイ共和国
オレンジ色: ニジェール共和国
多色使い: フランス領ポリネシア

ちなみに、「赤い真ん丸」は日本とバングラデシュというアジアの 2カ国のみ。アフリカ南東部、マラウイの国旗にある太陽は、地平線上に半分が顔を出したようなデザインなので、朝日か夕陽なのだろう。

 

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2021年2月13日

バレンタイン、スイートピー、スイーピーの三題噺

先日 NHK ラジオの朝の番組を聴いていたところ、日本の花が世界に輸出されて好評という話題になっていて、そこに登場した花市場の専門家が「とくに 2月前半は赤いスイートピーがバレンタイン・ギフトとしてアメリカで大人気です」と伝えていた。

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すると女子アナが「アメリカでは、女性がチョコと一緒にお花を贈るんですか?」と、いかにも台本通りと察せられるボケを発し、専門家の「それは逆でして、アメリカではバレンタインデーに男性が女性に花を贈るんです」という模範解答につなげていた。実に平和なる NHK 文化である。

ちなみに聖子ちゃんが大ヒット曲『赤いスイートピー』を歌った 1982年当時はスイートピーという花に赤い色の品種は存在せず、「そんなもん、ねえよ!」と話題になったが、その 18年後に三重県の花農家が鮮やかな赤い色のスイートピーの品種改良に成功したのだそうだ(参照)。

まさに「嘘から出た実(まこと)」である。

「スイートピー」はマメ科の植物で、英語で言うと "sweet pea" (甘い豆)。小さなさやの中にできる種子(豆)には毒があって食べられず、甘いのは味ではなく、花の香りなのだそうだ。

次に「スイーピー」のお話し。言わずと知れたポパイに出てくる赤ん坊で、私はずっとポパイとオリーブの間のベビーと思い込んでいたのだが、実はポパイの養子である(参照)。

それを知ったのは、還暦に近付いた頃で、2010年の 1月にその名も "「赤いスイートピー」を巡る冒険" というタイトルで書いたことがある。つまり、今日の記事は半分は二番煎じで、長くブログをやってると、どうしてもこんなことが多くなってしまう。

念のため英語版の Wikipedia で "Swee’ Pea" の項目にもあたってみたところ、次のように確認された(参照)。

In the comics, Swee'Pea is a baby found on Popeye's doorstep (actually delivered to him in a box) in a July 24, 1933 strip.

《漫画では、スイーピーは 1933年 7月 24日付で、ポパイの玄関先(実際に箱に入れて置かれていた)で見つかった赤ん坊である》

"Swee' Pea" と表記され、上述の Wikipedia にも " His name refers to the flower known as the sweet pea." (彼の名前はスイートピーとして知られる花と関係がある)とあるように、意味的には「スイートピー」って名前なのだね。赤い花のなかった頃の。

そして、あのいつもハンバーガーを食べながらグダグダしているウィンピーは "Wind Pea" で、直訳すれば「風豆」になってしまうが、実は「そら豆」のことである。

・・・おっとしまった、このネタ、エイプリルフールまでとっとくんだったなあ。本当は彼の名前は "J. Wellington Wimpy" で、豆とは関係ない。"Wimp" (無気力人間)が元なんだろうね。

【2月17日 追記】

あとからいろいろ調べた結果、「1982年当時はスイートピーという花に赤い色の品種は存在しなかった」というのは、誤りと認めざるを得ないことになった。詳しくは「赤いスイートピーは前々からあったと認めざるを得ない」 を参照いただきたい。

 

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2021年1月20日

キムチを巡る中韓対立

韓国人ユーチューバー「キムチは韓国文化」で中国から批判殺到、解雇に” という記事に、図らずも注目してしまった。食い物の話にナショナリズムが絡むと、面倒なことになるようなのである。

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日本では「キムチは韓国の漬物」とフツーに思われていて、当の韓国人も当然そう信じているようだ。しかし中国人の常識では、四川料理の「泡菜(パオツァイ)」という辛い漬物が韓国に伝わってキムチになったということのようなのである。

そしてこれが結構な文化摩擦を生じさせている。「キムチは韓国文化」と言われると、ムッときてしまう中国人が多いようなのだ。ちなみに 「泡菜」で画像検索すると、こんな感じである。

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一見した印象だけで言わせてもらうのは恐縮だが、どうやらキムチよりバリエーションはありそうだ。そのせいか「キムチそのもの」という感じじゃなく、素直に見れば「ちょっと別物かも」という感じがしてしまう。

それでも中国人は「四川で泡菜が作られた頃、韓国という国はなかった。キムチは泡菜のバリエーションに過ぎない」と言い、一方の韓国人は「韓国内でこれほどまで広範に定着し、愛されている食べ物を韓国文化と言うのは当然」としている。

つまり「オリジナルはウチ」と言う中国と、「国際的なまでの圧倒的広まりを見せているのは、我が国のキムチ」と言う韓国との対立である。宗主国意識ありありの中国に対して、韓国が「ことキムチに関しては譲れない」と頑張っている構図が読み取れる。

この対立の煽りで、「キムチは韓国文化」と言った韓国人ユーチューバーの Hamzy は、所属する中国の事務所から契約を打ち切られた。それに対して彼女は「中国で活動するために、キムチは中国の食べ物だと言わなければいけないのであれば、中国での活動はしない」と応じ、なかなかの意地を見せている。

彼女は続けて「中国の方も、韓国で活動するために中国の食べ物を韓食と言わなくてもいい。これについては、中国の方も理解してくれると思う」と強調した。これはある程度理解できる言い分であり、単に意固地になっているというわけではないとわかる。

隣国に住む者としては「高みの見物」を決め込んでもいいのだが、この問題に限って言えば、「泡菜は豊富な中国料理のバリエーションの一つ」という中国と比較すると、「一点集中」ともいえるパワーで突進可能な韓国の方にやや分があるような気がする。

ちなみに辛いもの好きの私は、もちろん「キムチ大好き」である。「泡菜」はまだ食べたことがないが、辛くておいしければ当然歓迎だ。拒む理由は何もない。

 

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