カテゴリー「庄内の話題」の85件の記事

2023年10月12日

父の十三回忌、無事に終了

父の十三回忌は、無事に終了した。午前中に身内だけで集まって、お坊さんに阿弥陀経を読経してもらい、午後は墓参りをした。酒田は 5年以上来ていなかったので、墓参りも本当に久しぶりだった。

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写真は今日の鳥海山の様子。空はほとんどきれいに晴れ渡ったのに、北の方角だけは厚い雲に覆われて五合目付近まで辛うじて見えたが山頂までは見えなかった。昨日も山頂が見えなかったので残念。明日の帰り際には見えるだろうか。

明日は朝に出発して夕方頃に帰宅し、明後日の仕事の準備に入らなければならない。まだまだ忙しい日程が残っている。

【同日 追記】

今日は夕食として、酒田のラーメンを食した。いつも行く「満月」は休業だったので、その近くの「東軒」でワンタンメンを食べた。肉食は数年前から絶っているのだが、今回ばかりは「ご当地ラーメン日本一」(参照)のご祝儀の意味で、チャーシューもおいしくいただいた。

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酒田のラーメンって、昔ながらの「支那そば」を究極まで洗練させたような感覚で、東軒のラーメンは満月のものよりややあっさりめの風味だが、それはそれでやはり上品においしい。今回はいいタイミングで酒田に来ることができてよかった。

 

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2023年10月11日

高速道路を駆け抜けて、酒田に到着

父の十三回忌のために、帰郷している。今朝 9時にクルマで出発し、常磐道、東北道、東北中央自動車道を通って、午後 4時半に到着した。途中での休憩、昼食をはさんで、7時間半のロングドライブだった。

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上の写真は途中、山形市の愛庵(めごあん)という蕎麦店で食べた板そば。そば粉十割の手打ち蕎麦だが、コシの強さは最初の一口目でびっくりしたほど。なかなかのもので、満足して食べ終えた。国道 13号沿いでわかりやすいので、今度通りかかることがあったら、また寄ってみよう。

最上峡を抜けて庄内平野に入り、晴れてもいたので鳥海山の眺望を楽しみにしていたのだが、残念なことに山頂付近に薄い雲がかかっていて、くっきりとした眺めではなかった。明日も晴れるというので、夜が明けたら見えるかもしれない。

例のご当地ラーメン日本一で湧く「酒田のラーメン」を食ってみようかとも思っていたが、日が暮れたし疲れてもいるので、明日に回すことにする。何しろ法事の本番は明日だし。

というわけで、今日は疲れてもいるので、この辺で失礼。

 

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2023年10月10日

「酒田のラーメンが日本一」って、そりゃそうだよね!

日本ご当地ラーメン総選挙」というイベントで、私の故郷である酒田のラーメンが日本一に輝いたんだそうだ(参照)。Twitter の ”#酒田のラーメン” もどえらい盛り上がりようだ、酒田のラーメン屋さん、おめでとう!

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このイベントは web 投票の予選を勝ち抜いた 10のご当地ラーメンの中から、さらに実食による投票で日本一を決めるというもので、今月 5日から昨日まで東京新宿の大久保公園で行われていた。決選投票の結果は、酒田ラーメンが 2位の 札幌ラーメンにダブルスコアで圧勝だったという。

この「酒田のラーメンが日本一」という話は昨日になって突然盛り上がったような印象をもたれたかもしれないが、実は私にとって「そりゃ、そうだよね!」というぐらい当然の話で、とくに驚きもしない。「それって、昔から知ってたよ」ってな感じなのだよね。

日本の全都道府県に複数回訪問したことのある私は、当然のようにあちこちのご当地ラーメンも食べ歩いた。その経験からして、「何だかんだ言っても、酒田のラーメンが一番うまい!」というのは揺るぎない事実だと思っている。これ、大げさでも身びいきでもない。

何しろ酒田のラーメン屋さんというのは、ラーメンにかける心意気からして違う。麺は当然のように自家製麺だし、魚介系出汁の絶品スープや名物のワンタンにかける手間も違う。そのくせ、一部の変なラーメン屋みたいに妙にイキがったり高飛車に出ることもない。

酒田市民も祖父母、あるいは曾祖父母の代からラーメンへのこだわりを静かながら脈々と受け継いでいて、ラーメンというのは何と言うか、「フツーなんだけど特別のご馳走」みたいな感覚なのだ。だから下手なラーメンを出したりしたら、小さな酒田の街で生きていけない。

13年以上前に酒田ラーメンの名店「満月」でワンタンメンを食した時のことを写真入りで書き、”椎名誠がこのワンタンメンを食べて、ワンタンは『雲を呑む』と書く意味がわかった” というほどのすごいワンタンである」とキャプションめいたことを書いている(参照)。

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実は、父の法事のため明日から酒田に行く。私は数年前から肉食を絶っていて、当然ながらチャーシューが付きもののラーメンからも遠離って久しいのだが、今度ばかりはご祝儀の意味でチャーシュー入りのラーメンを食させてもらってもいいなと思っている。

ただタイミングがタイミングだけに店は長蛇の列になっているかも知れず、実際にありつけるかどうかは行ってみるまでわからない。もし食べることができたら写真入りでレポートしようと思っている。食べられなかったら、私の肉絶ちは今後もさらに続くことになるわけだが。

【10月 25日 追記】

ええと、こちらには書き忘れてたけど、12日の記事に追記したように、酒田の東軒という店でラーメンにありつけた。さすがにおいしかった。

ただ日本一の栄冠に輝いた割には、酒田のラーメン屋はそんなに盛り上がってはいなかったのだが、さすが酒田は呑気な土地柄で、時が経つにつれて盛り上がりが増しているようなのである。こんなようなポスターまで登場したらしい。

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2023年6月 8日

故郷の酒田市にクマが出たというニュース

いやはや、驚いた。昨日の朝、私の故郷、山形県酒田市の市街地に、クマが出没したのだそうだ(参照)。午前 10時頃に猟友会のメンバーによって駆除されたということだが、酒田の人たちはさぞびっくりしただろう。

私が酒田で暮らしていた 1970年頃は、市街地にクマが出たなんて聞いたこともない。今年は各地でクマ出没のニュースが相次いでいるので、「酒田にも出たりしてね」なんて冗談のつもりで言っていたのだが、文字通り「冗談じゃない」ことになってしまった。

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一説には「開発によって人間の居住地域がクマの生息地に近付いているため、クマの目撃が増えた」なんて言われているが、今回の場合は昔からの市街地なんだがなあ。まあ、酒田の中心部(上の画像の北方向にはずれた部分)から見れば「川向こう」にはなってしまうけどね。

順番で言えば、午前 7時 31分に ①最上川スワンパークで最初に目撃され、それから②酒田市体育館、③山居稲荷神社、④亀ヶ崎小学校、⑤旧 若竹保育園、⑥港南公園と移動したようだ。③から④に移動移動する途中では、私の母校、酒田東高校の間近も通過していたと思われる。

さらにクマが撃たれたのは、私がこのブログでも何度か触れた、しょっちゅう授業をサボって高校を抜け出しては、最上川対岸の宮野浦に行ってた(参照)頃の、渡し船の発着所に近い辺りである(今は出羽大橋ができたので、渡し船は廃止された)。あの頃にクマなんか出てこなくて、本当によかったよ。

今回のニュースになったクマは、鳥海山系(酒田の北の方の秋田県境)から出てきたのではなく、庄内平野の東側の山地から最上川に沿って出てきたものとみられる。クマって川伝いに移動する習性があるようなのだ(参照)。

それにしても、ちょっと間違って市街地なんかに出てきたために撃たれちゃったというのは、クマの身になってみれば気の毒なことである。山の中でフツーに暮らしていれば、こんなことにはならなかったのにね。

ちなみに私は今週の土曜日、10日から仕事で北海道に行く予定になっている。北海道でヒグマなんかに出くわしたりしたくはないなあ。近頃は「アーバン・ベア」なんて言って、札幌市街地近くにもヒグマがいるらしいし(参照)。

 

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2021年6月15日

授業をサボり、庄内砂丘に寝転がる

これについては既に書いているような気がしていたのだが、ちょっと断片的に触れたことはあっても、まともに書いたことはないとわかったので、今さらながら、半世紀前の思い出話を書かせていただく。きっかけは 3日前の記事で、「よく授業を抜け出してサボっていた」と触れたことだ。

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私は高校時代、よく授業をサボって学校を抜け出していた。授業の出席率は、教科ごとに最低 75%に達していないと単位を取得できないという規定があると知ったので、私はそれを逆手にとって「じゃあ、4回に 1回はサボってもいいんだ」と解釈していた。

実際には 5回に 1回ぐらい、単純計算で 1日に 1時間以上はサボっていたことになる。というか、出席の取り方の甘い教師の授業では、もっとサボっていたかもしれない。

その頃に全校生徒を集めた朝礼で生活指導の教師が、「最近職員会議では授業の出席率が著しく低下して、97〜98%ぐらいになっているのが問題になっている」と強調した。「97〜98%と言えば問題ないように聞こえるかもしれないが、以前はずっと 99%以上だったのだから、大問題だ」というのである。

出席率を下げた最大の要因は私のサボりだったようなのだが、それでも 3日前に書いたような事情で、教師に直接咎められることはなかった。卒業してから聞いたところによると、「あいつは自由に生きていくタイプで、ひどい悪さをするわけでもないから、放っておくしかない」と思われていたらしい。

私の高校は当時、自転車で登校できるのは自宅との距離が 1.5km 以上あることという規定があったが、私の家は 1km ちょっとだから、自転車登校の許可証が貼れない。そこで私はいつも学校の裏手のちょっとした木陰に自転車を停め、サボった時の足に使っていた。

天気のいい日に学校を抜け出し、自転車に乗って行く先は、庄内砂丘である。酒田の市街地は最上川の北側に集中しており、その海岸は酒田港だから、砂丘らしい雰囲気のところまで行くには、南岸に渡るのが手っ取り早い。そうでないと市街地を抜けて 10km ほど北に行かなければならない。

私が高校を卒業した翌年に、最上川河口近くに出羽大橋という大きな橋が完成したが、その前は乗船無料の渡し船(写真参照:多分、市営だったと思う)に乗るのが近道だった。この渡し船に自転車ごと乗り込み、対岸の宮野浦に渡る。

乗客は私一人ということもあり、学校は授業中の時間帯なのだが、船頭さんは毎回何も言わずに渡してくれた。思えば大らかな時代だった。

対岸で再び自転車を漕ぎ、砂丘に出る。庄内砂丘は全長 40km にわたる広大な砂丘だが、鳥取砂丘のように砂漠的な様相ではなく、江戸時代に植えられたクロマツの防風林が延々と続いていて、海岸に沿った部分だけが砂浜となる。

砂浜になってしまうと自転車では進めないので、防風林の中に自転車を停め、歩いて誰もいない浜に出る。急に開ける目の前は日本海だ。砂丘で仰向けに寝転ぶと、目を閉じても日の光が眩しい。浜に打ち寄せる波の音が足許の方から絶えず響き、空からはトンビのピーヒョロヒョロと鳴く声が聞こえる。

学校はつまらないが、世界は広く開けている。その開けた世界こそが自分の生きていく場所に違いないと思いながら、しばらく瞑想のように横たわる。

サボるのは授業の 1時間か 2時間の間だけなので、砂浜に寝転がっていられたのは長くても正味 30〜40分ぐらいのものなのだが、しょっちゅう行っていたので、全部合わせれば何十時間もいたことになり、その度ごとに永遠の至福のように感じられた。

この庄内砂丘で寝転がっていた体験は、今でも大切な心の財産になっている。ありがとう、庄内砂丘。

 

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2021年1月 7日

酒田の地吹雪の凄さ

私の生まれた山形県酒田市は一応「雪国」ということになってはいるが、決して「しんしんと降り積もる」のではない。何しろ、雪は「上から降る」のではなく、「横から下から吹き付ける」のである。

単なる「吹雪」ではなく「地吹雪」という言い方になるのは、体験してみればすぐに納得できる。天気としては決して大雪が降っているというわけでもないのに、地表付近だけが猛吹雪なのである。一度降った地面の雪が台風並みの暴風で舞い上がり、飛ばされるのだ。

上にあるのは、Mamoru Kimura さんという方の「庄内特有の地吹雪を体験ドラブ」という YouTube 動画である。道路の積雪はそれほどではないものの、昼間でも先が見えないほどの地吹雪が吹き荒れる。雪にしてみれば、呑気に積もってる暇なんてないのだ。

私は高校を卒業するまで酒田で暮らしたが、地吹雪でまったく視界の効かない朝などは、手探りで登校したこともある。学校に着くと、体の片側(風上側)は雪で真っ白だが、反対側はカラカラに乾いている。冒頭で書いたように、雪が上からではなく、横から下から吹き付けるためだ。

天気予報によれば、本日の山形県庄内地方は午後から暴風雪ということになっている。酒田での「暴風雪」というのは、要するに猛烈な「地吹雪」のことに他ならない。

「地吹雪」で思い出すのは、かなり前の話になるが結婚前の正月頃に、妻を初めて酒田に連れて行った時のことだ。

「特急いなほ」を降りる前から「今の季節の酒田で道を歩く時は、姿勢を低くして足をしっかり踏みしめるんだよ」と注意していたのだが、妻はそんなことを言われてもあまり実感がわかなかったらしい。しかし着いてすぐに、その認識の甘さを思い知ることになる。

雪の酒田に到着。列車から降りて歩き始め、駅舎から離れて猛烈な向かい風を受けた瞬間、「ア〜レ〜!」という悲鳴に振り返ると、アイスバーンの上を妻が風に流されているではないか。こうした場合には何と表現すればいいか迷うが、「流されている」以外の言葉を思いつかない。

「早くしゃがんで!」と声をかけ、手を引っ張って助けたのだが、あの光景は今でも目に焼き付いている。地吹雪の路上を人間が棒立ちのままスルスルと水平移動している姿というのは、あまりにも非日常的すぎる。

というわけで妻は今でも、「真冬の酒田は恐ろしいところだわ」としみじみ言うのである。

 

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2019年5月 9日

母の十三回忌を済ませた

今日は山形県庄内地方は一日いい天気で、鳥海山がきれいに見渡せた。下の写真は新井田川(にいだがわ)にかかる橋から見る鳥海山。まだたっぷり雪が残っている。若い頃は標高 2,230m と言われていたが、最新技術で測り直したところ、実は 2,236m あるのだそうだ。

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で、昨日の記事で書いたとおり、途中でちょっとドタバタが入ったが、予定通り母の十三回忌を済ませた。和尚さんはかなりお歳を召していたが、読経はまだまだ立派なものだ。座って読経するのが仕事だから、足は弱っても心肺機能はなかなか衰えないようなのである。

明朝に酒田を発って主に高速道路を辿り、夕方にはつくばの里に帰るつもりである。いつものことだが、天候に恵まれてよかった。ちょっと強行軍で疲れたので、今日のところはこれにて失礼。

 

 

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2019年5月 8日

ウチの寺が潰れちゃったのかと思ったよ

明日に母の十三回忌の法要を営むために実家に戻っている。相変わらずの晴れ男で、今日も明日も天気の心配はまったくないようだ。下の写真は、常磐道の途中、湯ノ岳パーキングで写した写真である。

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今回の道中はちょっとヒヤヒヤものだった。途中休憩したパーキングエリアから、明日に予約を入れてある旦那寺に確認の電話を入れたところ、呼び出し音すら鳴ることなく、いきなり「この電話番号はお客様の都合でつながらなくなっております」というアナウンスが聞こえる。ならばと住職のケータイに電話してみたところ、これも同様の木で鼻をくくったような応答だ。

「なんじゃ、こりゃ?」である。「寺、潰れちゃったかな?」ってなもんだ。先月の今頃に寺に電話した時には、住職自身が出て話がついていたのに、1ヶ月後に「お客様の都合で」つながらないってことは、きっと何かあったに違いない。住職も相当な年齢だから、何だか心配になってきた。

いずれにしても電話が通じないなら、今日のうちに寺に行って様子を見なければならないと思い、夕方 6時近くに寄ってみると、住職は寄る年波で動きはかなりヨレヨレになってはいたものの、一応無事でいた。「明日はちゃんと行くから、心配ない」という。

じゃあ、「お客様の都合でつながらなくなっております」というアナウンスは一体何だったんだ? 「こんな応答でしたよ」と念のため言うと、「え? そんな応答なの? そう言えば、この頃電話がかかってこないな。一体どうしたんだろう」などと呑気なことを言う。田舎とはいえ、令和の世とも思われぬ。平成をも通り越して昭和 30年代みたいな話だ。

下手すると、明日は身内だけでサクッと墓参りして帰らなければならないとまで思っていたが、まあ、予定通り法事は行えそうだ。寺もいわばサービス業なのだから、電話の管理ぐらいはきちんとしてもらいたいものだが、まあ商売上、浮世離れしているのも仕方ないといえば仕方ないかもしれない。

【5月 9日 追記】

今日になってよく確かめてみたら、銀行口座のナンチャラが変更になって、2ヶ月連続で電話代の引き落としができず、固定電話もケータイも止められてしまっていたのだそうだ。それに気付いていなかったというのだから、やれやれである。

 

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2018年12月29日

「世界一の映画館」という映画が上映される

昨日の毎日新聞夕刊の "「世界一の映画館」 上映" という見出しを見て、思わず「ヒャッホー!」と声を上げてしまったよ。私の故郷、山形県酒田市にあった映画館「グリーンハウス」をテーマとしたドキュメンタリー映画が、全国で上映されるというのである。(下の写真をクリックすると、記事全体が拡大補表示される)

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グリーンハウスという洋画専門 (ほんのたまに、珠玉の邦画も公開されたが)の映画館は、中心街の 1774棟を焼失させた 「酒田大火」(1976年)の火元になったということもあり、その後はあまり大きな声で語られることはなかったが、私にとってはとてつもなく大きな存在だった。なにしろ高校時代は週に一度以上の頻度で(定期試験の前夜だろうがなんだろうが)入り浸っていて、私の「センス」形成に大きな影響を与えた存在だったのである。

このグリーンハウスで特筆すべきは、「シネサロン」という定員 14名のミニ・シアターである。大量動員は見込めないが、映画好きなら絶対に見逃せないという「コアな作品」を選んで上映する趣旨で、今の私のセンスが形成されたのは、この小さな空間のおかげといっていい。このことについては一昨年 2月に「懐かしのシネサロン」というタイトルで書いているので、ここでは敢えて繰り返さないけどね。

映画評論家の故・淀川長治さんはこのグリーンハウスを「世界一の映画館」と評していたという。本当に世界一だったかどうかは知らないが、淀長さんがそう言ったのだから、まんざら出鱈目でもなかろう。私はその「世界一の映画館」に入り浸っていたというだけで、かなりの幸せ者である。

私のセンスがかなりバタ臭くなったのは、このグリーンハウスで見た数々の洋画のおかげに違いない。そのくせ修士論文で歌舞伎をテーマとしちゃったこともあり、以後ずっと和洋二本立てで生きてきている。

ちなみにこの毎日新聞の記事には淀川長治さんと大杉漣さんの顔写真が載っている。淀長さんが亡くなたのはかなり前だが、大杉漣さんは今年初めに急逝してしまった。というわけで、この毎日新聞の記事は、「今は亡き三本立て」である。

せめて急には死にそうにない私が、時々話題にして語り継がなければならないような気がしている。というわけで、下の画像をクリックすると、予告編の見られるページに飛ぶ。それにしてもこのストーリーに登場する人には「佐藤さん」という苗字が多いなあ。

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【12月 30日 追記】

上の本文で 「定期試験の前夜だろうがなんだろうが」 と書いているが、それについて、14年前に書いた記事が見つかった。(下の URL をクリック)

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2004/09/post_14.html

あの伝説の記録映画『ウッドストック』を見た時のことで、この記事にある「地元の映画館」というのが、何を隠そう、このグリーンハウスだったのである。

 

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2018年12月17日

酒田衆の「だんでろ言葉」

庄内弁で「〜だんでろ」と言えば、「〜でしょう」という意味である。言葉の成り立ちは、「〜なのであろう」が「〜だんであろう」に訛り、さらに音便化して短くなり「〜だんでろ」で固定化されたと思われる。かの有名な庄内のレストラン「アルケッチャーノ」の奥田シェフが銀座に開いた「ヤマガタ サンダンデロ」は、「山形産だんでろ」(山形産なんでしょ)ということらしい。

181217「んだんでろ」は「そうでしょ」、「んでねんでろ」は「そうじゃないでしょ」になる。そして「んだんでろの〜」と言えば、「そうだろうねえ」というニュアンスで、暖かめの共感を表す。

さらに 「〜だんでろ」 は疑問文としても使われる。「こんな、なんだんでろ?」は「これは何だろう?」だし、「どさ、いたんでろ?」は「どこに行ったんだろう?」という意味だ。この 2つは、私は今でも独り言としてよく呟いてしまう。故郷を離れて半世紀近く経っても、根っこの部分は庄内人なのだ。

ところが、「〜だんでろ」がとくによく使われるのは、庄内地方でも私の生まれた酒田周辺であるらしい。酒田の南隣、城下町の鶴岡では、これを「さがだしょの『だんでろこどば』 」(酒田衆の「だんでろ言葉」)なんて言うことがあると、最近知った。鶴岡では酒田ほどには頻繁に使われないらしいのだ。

何しろ鶴岡は庶民の町である酒田と違い、上品な城下町だから、言葉もかなりおっとりしている。だから「〜だんでろ」なんていう土着的すぎる言い回しは、あまり好まれないのかもしれない。

鶴岡の人は 「さかだしょのこどばは、はえぐでわがらね」(酒田衆の言葉は、速くてわからない)なんてよく言うが、私の感覚で言えば、つろーがしょ(鶴岡衆)の言葉はゆっくり過ぎて待ちきれず、聞いていてつい前のめりになってしまうほどだ。同じ庄内でも、気質はかなり違う。

というわけで、私は「だんでろ言葉」を酒田生まれのアイデンティティの一つとして大切に保持していきたいと思っているのである。

 

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