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2008年7月31日

文月三十一日の歌

濃密な緑となりて盛る森は心の奥の宮も守りゐる


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一昨日あたりから、うんざりするほどの暑さというわけでもなくなっている。夜になれば風は涼しいし、朝のうちは汗が噴き出すというほどのこともない。

それでも、朝の田舎道をたどると、地上の夏の色に包まれている。緑が隙間なく濃密だ。稲もいつの間にか背が高くなり、びっしりと田を埋めている。

関東平野はところどころこんもりとした起伏があるが、それがいかにも 「もり」 と呼ぶにふさわしい様相を呈している。みっちりとした緑の固まりが盛り上がっている。

「もり」 は、「森」 であり、さらに 「盛り」、「守り」 でもある。

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2008年7月30日

文月三十日の歌

下町の路地裏の風背に受けて今日一日の仕事終わりき


誤解を恐れずに言うと、今日は寒い一日だった。

まず、昨日の夜更け頃から、急に涼しくなった。寝る直前まで窓を開け放していたら、風がびゅうびゅう入り込んで、家の中が寒いほどになった。

そのままタオルケットだけで眠りにつくと、夜明け前頃には身体が冷え切ってしまった。

それで、朝に電車に乗ると、ものすごい暴力的な冷房が効いていて、震えるほどだった。仕事先の冷房も効きすぎで、ひんやりしすぎ。

帰りの電車は朝にも増してエアコンの効きすぎで、冷凍車に乗っているような気がした。暖かいコーヒーを飲もうと入ったスターバックスも、冷房の効きすぎで、こめかみが痛くなるほどだ。今震えながらキーボードを打っている。

暑い日ほど世の中の冷房が効きすぎて、凍えてしまうというパラドックスに陥る。唯一いい気持ちになったのは、北千住の路地裏を通り抜けた時だけという、妙な一日だった。

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2008年7月29日

文月二十九日の歌

山裾に漂ひゐたる霧晴れて里の景色は浮き上がり来る


和歌ログでは、できるだけその日に写した写真を載せるように心がけているのだが、たまに写真を写すのを忘れてしまう日がある。

日が暮れてしまってから 「しまった!」 と思っても、暗くなってしまってからではまともな写真が撮れない。

今日、めずらしく一枚も写真を撮らないうちに日が暮れてしまったのである。仕方がないので、一昨日、キャンプに行ったときの写真をアップしておく。

森の木の陰から、霧に包まれた下界の様子が見える。この日の夕方は、筑波周辺が雷雨に見舞われたが、今日の夕刻から、関東南部が大雨と雷で大変なことになったようだ。田端付近の落雷で、JR の山手線と京浜東北線がストップしてしまったらしい。

早めに帰ってきてよかった。

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2008年7月28日

文月二十八日の歌

夕焼けは幼なの記憶どの年のどの日と限ることもなけれど


夕方七時頃、常磐道を水戸方面から帰ってくると、西の方角にあたる右側がずいぶんきれいに赤く染まっていた。

この写真は美野里パーキングに車を停めて写したもの。途中、筑波山のシルエットが夕焼けの中に浮き立つ絶景も見えたのだが、高速道路の途中で車を停めて写真を撮るわけにも行かなかったので、残念だが諦めた。

このところ、夕方になると一天俄にかき曇り、夕立になる日が続いていたので、夕焼けは本当に久しぶりのような気がする。

夕焼けは幼い頃の記憶である。夕焼けをバックに皆シルエットになって家路を辿っていた。

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2008年7月27日

文月二十七日の歌

谷筋を昇り来る霧尾根を越え木々は心のままにこそ見ゆれ


福島県に近い茨城県北の山の中から降りてきた。

山の中は涼しかった。水戸の気温は二十七度ぐらいまでしか上がらなかったようなのだが、山の中はそれよりも多分、四度から五度は低かっただろう。

涼しかったが、霧に覆われて、青空は少しも見えなかった。涼しさのみが収穫だったかもしれない。

京都に行って、少しは暑さに慣れていたのだが、今回の山の中の暮らしで、一挙にそれが失われた。下界に降りたら大変な暑さだった。

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2008年7月26日

文月二十六日の歌

川面には虫の飛ぶらむ燕の姿と魚の跳ぬる音の朝


昨日、「明日は多分インターネット接続のできないところに行くので、和歌ログの更新ができないかもしれない」 なんて書いたが、考えてみれば、早起きして出かける前に更新すればいいのだった。

というわけで、今朝は早起きである。昨日の夕立で世界が冷やされて、まだ雲が晴れていないので涼しさを感じる。これも日が射すまでの束の間のことだろうが。

裏の川の水面にはさざ波が立ち、その上を何羽ものつばめが飛び交っている。川の上は虫が多いので、餌をあさるのに絶好のロケーションなのだろう。つばめだけでなく、時々魚も跳ねる。水音が聞えてそちらを向くと、波紋が広がっているだけである。

ところで、今日は私の五十六回目の誕生日である。その半分も生きたような自覚はないのだが。

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2008年7月25日

文月二十五日の歌

利根川を分けて降りたる夕立の置き土産なり涼しき家路


近頃、「暑い、暑い」 とばかり書いているような気がするが、今日は昨日まで増して暑い。朝から日が照りつけたので、気温の上がり方がすごかった。

どうやら、今日は東京も三十五度まで上がったらしい。今週初めに京都に行った時は、三十六度まであがったみたいだから、あともう少しである。

で、その京都はどうなったかと、ネットで調べたら、三十八度を記録したようだ。こりゃもう、どうしようもない。八月になったら、あちこちで四十度以上が普通に記録されるんじゃあるまいか。恐ろしい。

七時過ぎに常磐線取手駅まで帰ってきたら、道路が濡れて光っている。利根川を渡るまでは、雲がどんどん厚くなってきて、今にも夕立になりそうな気配だったが、川を渡った取手では、それまで降っていた雨が上がりかけていたというわけだ。

「夕立は馬の背を分ける」 というが、いくらなんでも、そんな極端な雨の境目は見たことがない。しかし、利根川ぐらいの川になると、確かに夕立が分けられてしまうようなのである。

今日は夕立後の涼しさの中を家路に着いた。

明日は多分インターネット接続のできないところに行くので、和歌ログの更新ができないかもしれない。その場合は、明後日にまとめてアップしたい。

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2008年7月24日

文月二十四日の歌

ひむがしの虚空を向きて向日葵は一夏ただ立ち尽くすらむ


今日も大変な暑さである。七月のうちにこんなに暑いと、八月に入ったら一体どうなってしまうんだろうと、柄にもなく取り越し苦労をしそうになる。

今日は、外出先で E-Mobile 経由のインターネット接続をすると、いつもよりかなり重たい。スピードテストのサイトで計測すると、毎秒四百二十キロバイト程度のスピードしか出ていない。

いつもは一・二メガバイトぐらいなので、三分の一ぐらいのスピードだ。これでも持ち直した方で、午前中はもっと重かったような気がする。

試しに夕方に計測したら、一・六メガバイトまで回復していた。やはり未明の大地震のせいで通話が集中して、トラフィックが混乱していたのだろう。

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2008年7月23日

文月二十三日の歌

いや熱き身を江戸に置き眺むれば浄土の風は涼やかならむ


朝方はどんよりしていたが、昼に近づくに連れてどんどん晴れ上がってきた。昼休み時の神田の街は、かんかん照りである。

ただ、いくらかんかん照りといえ、京都よりはずっとましだ。気温そのものも京都より三度低いし、それになによりも、東京には風が渡る。

京都だって風がないわけじゃないが、それはあるかなしかの風だ。それに、吹いては止んだりする。そこへ行くと、東京は東京湾からの風が渡る。ありがたい。

今日はまだ京都の暑さが身体に残っているので、むしろ過ごしやすく感じるが、あっという間に関東人の身体に戻って、また暑くてたまらなくなってしまうのだろう。

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2008年7月22日

文月二十二日の歌

手洗いの水さへ熱き京を抜け新幹線は東へ戻る


京都は今日も暑かった。昨日と今日で、半袖の腕がかなり日に焼けた。

京都の人が、「昨日と今日は暑すぎですな」 と言うぐらいだから、今年はまだ三十二度までしか経験していない身には堪えた。

夕方五時過ぎに新幹線に乗って、トイレで手を洗ったら、出てきたのはお湯だった。貯水タンクが熱せられてしまったんだろう。

八時近くに東京に着いた。山手線のホームで、東京人たちは 「暑い、暑い」 とこぼしている。しかし、京都帰りの私はむしろ涼しく感じてしまった。恐るべし、京都の夏。

今日は写真を撮っている暇がなかったので、昨日写した島原遊郭の写真を載せておくことにする。

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2008年7月21日

文月二十一日の歌

暑き日の都の北のにじり戸をくぐりて侘びの香り求めむ


京都に来ている。仕事は明日からだが、今日が休日なので前泊だ。

昼過ぎに新幹線の京都駅に降り立った時から、むっとするような暑さ。時間があれば、貴船とか大原とか、涼しいところに逃げたいところだが、いかんせん、半日足らずでは、行って戻ってくるだけになってしまう。

仕方がない、今日は暑さを耐えながら洛中を彷徨ってみようと、覚悟を決める。

わが家は浄土真宗大谷派なので、お東さん (東本願寺) には京都に来るたびに参拝しているが、お西さん (西本願寺) に行ったことがないと気付いた。京都駅から西本願寺まで歩く。バスに乗るほどでもないが、あるくと案外遠い。中途半端な距離である。

途中で、暑さのあまり頭がぼうっとする。御影堂は今、平成の大修復の真っ最中で、阿弥陀堂しか入れない。なんだ、東本願寺と同じじゃないか。こんなところで歩調をそろえてるのだろうか。

西本願寺を出て、島原遊郭の跡を辿り、京都駅に戻る。だめだ、いくらなんでも暑すぎる。こんなところを、一泊分の荷物を背負って歩いていたら、ほぼ確実に熱中症になってしまう。とにかく乗り物に乗ろう。

もう一つ行ったことがなくて、ぜひ行ってみたい寺がある。大徳寺である。バスに乗って北大路を経て大徳寺前下車。一休和尚、千利休ゆかりの寺の境内に足を踏み入れる。なぜか、急に涼しくなる。

大徳寺境内は、「大徳寺」 という名の寺の建造物があるわけではなく、広大な境内に二十一の塔頭がある。そのうち四つの塔頭に拝観できる。どこも侘びさびの極致みたいな建造物と枯山水がいい。

入り口の総門に近い龍源院は、最後に寄ろうと思い、瑞峯院、大仙院、高桐院の三つの塔頭を順に参拝する。座ってぼうっと眺めているうちに、いつの間にか四時半になり、時間切れ。龍源院には寄れなくなってしまった。残念。また別の機会に来てみたい。

ホテルに入ってテレビのニュースをみたら、京都の気温は三十五度を超えていたらしい。道理で頭がぼうっとするわけだ。

写真は四条河原の夕暮れの景色である。

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2008年7月20日

文月二十日の歌

灯火のにじみたゆたふこの夏の宵の口こそ開け初めしなれ


今日は一日中、水戸方面にて缶詰め仕事。東京は気温が三十二度になったというのだが、水戸方面は二十六度程度までしか上がらず、気温差六度。窓を開けていれば風が通り抜けて、冷房要らずだった。

朝と晩の常磐道は、夏休み最初の日曜日とあって、かなり混雑した。ただ、海水浴に繰り出した人たちは、思いの外の涼しさに戸惑ったんじゃなかろうか。

茨城県の海水浴場は、大洗といい、阿字ヶ浦といい、案外海水温が低い。寒流の親潮だからだろう。こちらに引っ越してきて、初めて海水浴したときは、海のあまりの冷たさに驚いてしまった。

私の育った庄内の海は、冬は大荒れだが夏は本当に穏やかになる。そして海水温も高い。日本海という巨大なたらいが、夏の太陽でしっかり暖められるためだ。

日本という国も、狭いようで案外広いのである。写真は、日が暮れてから買い物に寄ったショッピングセンターの駐車場。

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2008年7月19日

文月十九日の歌

敷島の梅雨明けたれば我はまたあの白き白き夏に入りたり


今日、梅雨明けが宣言されたらしい。関東だけでなく東北まで、全国的に梅雨は明けたということのようだ。

実は、この写真は今日に撮ったものではない。十五日に写したものだ。今日は一日中、室内に閉じこもって仕事をしていたので、日を浴びていない。

だから、窓の外の様子をみて、確かに梅雨は明けたのだろうとは思うものの、写真を撮るまでには到らなかった。

ただ、ちょっと前から梅雨っぽい空ではなくなっていたので、「もう、梅雨は明けたんじゃないの?」 と思っていて、この写真を撮ったときも、真夏の空だった。稲の隙間は完全に埋まって、田んぼに空が映るということは、もうなくなっている。

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2008年7月18日

文月十八日の歌

蒸し暑き街の空気を分けて行く我が身の内に立ち尽くす我


朝から、暑いというより蒸気で蒸されているような日だ。天気予報は曇り時々雨ということだが、降るときはどっと来そうな雲行きである。

昼のビジネス街を歩くと、空気がべったりとして、あたかも手触りがあるような感じがする。水を含んだスポンジをかきわけて進んでいるようだ。

がんがん肉体労働や運動をしてかく汗は、さらさらしているが、なにもしないでかく汗は、じっとりと身体にからみつく。これが一番不快で始末が悪い。

我が友 mikio さんは 「夏の暑さは汗をかくためのもの」 と喝破している (参照)。ああ、うんと動いてさらさらした汗をかきたいなあ。

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2008年7月17日

文月十七日の歌

夕立もなく暮れて行く駅前の宵の口こそ長きものなれ
 


さすが、夏至を過ぎて大分経ったので、七時半頃に取手駅に着くと、日はすっかり暮れている。

だんだん夜が長くなるが、それに連れて夏の暑さもどんどん本格的になってきて、夜の寝苦しさもますますつのるようになる。

紫式部は 「夏は夜」 と言ったが、それは宵の口ではなくずいぶん更けてからのことだろう。そうでないと、いくらなんでも暑すぎる。

デジカメの 「夜景モード」 というのを試してみた。こういうモードのあるのは知っていたが、露出の時間が長くなるので、手ブレがひどくて使いものにならないと思っていた。今日はペデストリアンデッキの手すりにカメラを固定してシャッターを切ったので、なんとかなった。

それでも、これは三枚写したうちの一枚で、残り二枚は手ブレしていた。夜景モードは難しい。

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2008年7月16日

文月十六日の歌

夕暮れの空の広きに時空てふものを手掴みしたる心地す


今日は一日仕事で水戸方面で過ごし、日が暮れかかってから戻ってきた。

都心では雨が降ったとはいえ、気温が三十二度まで上がったようだが、水戸はさすが北関東である。二十九度までしか上がらなかった。三度の違いは大きい。

エアコンを入れたのは真昼の二時間ほどで、午後二時過ぎからは窓を開け放していると涼しい風が通って、それほど暑いとは感じなかった。

写真は帰り道に写した東大農学部の農場の光景である。この辺りの空は広い。関東平野というのは、なかなか広いものである。

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2008年7月15日

文月十五日の歌

幼年の夏の記憶は蒼天と積乱雲の境目にあり


昨日はものすごい夕立の後に、かなり空気がひんやりしたような気がしたが、その後は気温が下がったところにもってきて、降った雨がどんどん蒸発し始めたので、ただでさえ高い湿度がさらに上がり、寝苦しい夜になった。

ところで、まだ梅雨は明けていないんだろうか? からっとした晴天にはなかなかならないが、じめじめした梅雨空というのは、もう何日も見ていない。

今日の都心の空も、雲は多いがどうみても真夏の空である。

青空の中をどんどん高く登る積乱雲をみると、その下にあるのが都会のビルの連なりというのは、どうみてもおかしい。田舎の海や山を幻視しそうになる。

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2008年7月14日

文月十四日の歌

かくまでの重たき水を空中に支へゐたるか積乱雲は


都心から常磐線快速電車で帰ってきて、取手駅に着いたのが、午後七時前だった。利根川の鉄橋を渡るあたりから雷が聞こえ始めて、取手駅のプラットフォームに入ったときには土砂降りモードに入っていた。

雨は見る間に激しくなって、よく 「バケツをひっくり返したような大雨」 なんていうが、今日の雨は 「たらいをひっくり返したような」 といいたいほどだった。

あまりの雨に恐れをなして、誰も駅舎から外に出られず人が溜まる一方。だが、雨降りの臨場感のある写真を撮るのって、とても難しい。何枚も写したのだが、全然雨降りっぽい光景に見えない。かろうじて少しは迫力が伝わりそうなのが、この写真だ。わかるかなあ。

二十分ほど待って、ようやく小降りになったので帰ってこられたが、途中、あちこちで道路冠水のため通行止めになっていた。たかだか二十分そこそこの雨で道路冠水してしまうのだから、いかにすごい雨だったかわかろうというものだ。

カーラジオを聞いていたら、雨が止みかかってから 「さきほど茨城県南部に大雨洪水警報が出されました」 なんて言っていた。

遅いよ。

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2008年7月13日

文月十三日の歌

夕闇が高速道を包むとき家路を急ぐ理由なきなり


日が暮れてから、常磐道を南下して帰宅した。写真は友部パーキングの夕暮れの風景。

今日も暑い日だった。体がまだ暑さに慣れきっていないので、日中の一番暑いときに動くと、フウフウ言ってしまう。

だから、熱中症は八月よりもむしろ七月のうちに多いのだそうだ。体の準備ができていないためである。

日が暮れて気温が下がるとしのぎやすくなりそうなものだが、さにあらず。気温がなまじ下がると相対的に湿度が上がってしまうので、ますますじっとり感が増して、寝苦しくなる。

体が暑さに慣れてくれるのを待つばかりである。

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2008年7月12日

文月十二日の歌

 またしても夏の始まりたるを知る白き木槿の咲きゐる朝に 


近頃、朝になるとあわただしく家を出て、日が暮れてから帰宅するという、まるで普通のサラリーマンみたいな生活が続いている。おかげで、家の周囲の花が咲いているのに、週末になるまで気付かなかったりする。

今回も、ムクゲの咲いているのに気付かなかった。申し訳ないことであった。

ムクゲの花というのは、一日咲くと次の日は枯れ落ちてしまうという。しかし、次から次につぼみが開いて咲き続けるので、秋になってもまだまだ花をつける。なかなか息の長い花である。

ムクゲの咲いている間は、暑い暑いと言いながら汗をかき続けることになる。今年の夏も、暑くなりそうだ。

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2008年7月11日

文月十一日の歌

川のみにあらざり森羅万象はさざ波を立つ静けき朝も


今朝は静かな朝である。静かな朝とはいえ、裏の川面をみると、さざ波が立っている。

さざ波が立っているのは、川面ばかりではない。このさざ波は、風の動きの反映である。つまり、空気にも同じ波が立っているのである。

そして空気ばかりではなく、岸に生える蘆にも同じ動きが伝わっている。あの川面のさざ波は、あのあたりの目に見えない 「波」 を、目に見える形として翻訳してくれているのである。

この静かな朝にも、目に見えぬところで、森羅万象は常に動いているのだ。

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2008年7月10日

文月十日の歌

枯れ枝に留まる烏は利発にて阿呆の我を阿呆とぞ呼ぶ


今年一月十日に 「アホウ、アホウ」 と鳴くカラスの歌を詠んだ (参照)。本当に 「アホウ、アホウ」 と鳴いていたのである。

しかし、今朝のカラスはより明確に 「アホウ、アホウ」 と鳴いているのだった。前回のカラスの 「アホウ鳴き習熟度」 が五か六だとすると、今朝のカラスは間違いなく九ぐらいである。レベルが全然違う。

しかも、前回は都会の電線に止まって、下を行き交う人にまんべんなく 「アホウ、アホウ」 と言っていたのだが、今朝は、人通りの少ない道で、私しか歩いていなかったのである。つまり、私一人に向かって、「アホウ、アホウ」 と言ってくれていたのである。

まんべんなく 「アホウ、アホウ」 と鳴くカラスは生意気に見えてちょっとむかつくが、私一人に呼びかけてくれるとなると、ちょっと受け取り方が違う。何かを諭してくれているようにさえ思われるから不思議だ。

その声は、ずいぶん離れたところまで聞こえてきて、私は少なくとも三~四分は 「アホウ、アホウ」 と呼びかけられていたのであった。なんともありがたいことである。

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2008年7月 9日

文月九日の歌

無花果の青く小さき実は未だ鳥の目にさへ止まることなし


昨日から少しだけ気温は下がったようで、夜の寝苦しさはかなり収まったが、夜が明ければ相変わらず蒸し暑い。

取手駅の近くに借りている駐車場から駅までの道すがら、竹林があるのだが、そこにイチジクの木が一本生えていて、小さな実がなり始めた。

まだ青く小さいので、枝に成った状態は垂れ下がるという感じからはほど遠い。ちょこんとふくらみかけているという段階だ。これでは、小鳥だって見向きもしない。

イチジクという名の語源は、一日に一個ずつ実が熟すからという説と、実が熟すのに一ヶ月かかるからという説の二つがあるという。どちらももっともらしい。

ということは、この実は、来月あたりだんだん熟すのだろう。

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2008年7月 8日

文月八日の歌

暮れかけて降らずに済むか梅雨空の雲の低きにボサノバは流る


昨日までが急にやたらと暑くなっていたので、今日はまだ涼しいように錯覚してしまうが、それでも、ちゃんと二十七度を越えた夏日だったようである。

今日は都心での仕事を早めに終えて、ちゃんと明るいうちに取手駅に戻ってきた。駅に降りれば風が涼しい。一息つける宵の口だ。

駅西口のスターバックスでコーヒーを飲みながら今日の更新をしている。今日のスタバの音楽はアストラッド・ジルベルト (だと思う) のボサノバだ。なかなか涼しげで、いい感じ。

今月下旬に、京都に出張することになった。四月、五月と、福井に行った帰りに京都に寄ったので、短期間のうちに三度京都に行くことになる。仕事は二十二日だが、前日が祝日だから、一日早く京都入りしようと思う。

さて、夏の京都はどの辺りを歩こうか。

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2008年7月 7日

文月七日の歌

日の沈む刻の少しく早まれば見渡す限り滲む街灯


夏至から二週間ほど経って、幾分日の入りの時刻が早くなってきた。帰宅の途中、ショッピングセンターに寄って買い物をしたが、七時半頃には駐車場がかなり大分暗くなっている。

それにしても、蒸し暑い。週末には梅雨明けしそうな雲行きだが、その前にだめ押し的な湿り気が、関東になだれ込んできている。

写真もなんとなくじめっと湿り気を帯びて、にじんだような風景になっているような気がする。

そう言えば、今日は関東では七夕である。梅雨明け前だし、まだ夜も短すぎるし、どうもこの時期の七夕には馴染めない。

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2008年7月 6日

文月六日の歌

咲く花と飛び来る蜂はそれぞれの外付け記憶装置なるらむ


暑い。梅雨時の暑さなんてしれたものと思っていたが、一足飛びに真夏になってしまった。

体が暑さに慣れるには、二週間ぐらい必要なんだそうだ。今年はなんとなく過ごしやすい梅雨らしい梅雨だったが、急に真夏日になってしまったので、体が驚いてしまっている。

今日は朝からどんよりと曇りがちで、昨日ほどには暑くならないようだが、それでも、茨城県南部は三十度の真夏日になると予想されている。

我が家の玄関先のマジョラムが、一斉に花を開かせている。オレガノと同じ仲間のハーブで、古代から薬草として用いられたのだそうだが、我が家ではもっぱら観賞用だ。

そのマジョラムの花の蜜をハチが一斉にすすりに来ている。だから、我が家の玄関先は今、ハチのブンブンいう羽音で一杯だ。ちょっと危なそうに聞こえるかもしれないが、こちらが余計なことをしなければ、ハチだって無闇に人間を刺したりしない。

互いに信頼関係 (?) さえあれば、こんなに接近して写真を撮っても、全然平気である。

こうして写真を見ていると、マジョラムとミツバチは、互いに不可欠というか、実は一体として機能しているようにさえ思われる。別々に見えるのは、単に外付け記憶装置なんじゃあるまいか。

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2008年7月 5日

文月五日の歌

朝の鳩四拍子にて悲しくもぐるるーつぽっぽーぐるるーつぽっぽー


二十数年前からずっとのことだが、早朝から鳩の鳴き声が聞こえてくる。近所で伝書鳩を飼っている家があるのだが、そこの鳩というわけでもないらしい。

たった一羽で、我が家の周りのあちこちに止まって、ずっと同じ調子で鳴き続ける。

「グルルーッポッポー」 と、シンコペート付きのリズムで鳴き続けるのだが、以前は確かに五拍子だったのに、今日ふと気付くと、四拍子に変わっている。

前は 「グルルーッ」 の部分が三拍で、「ポッポー」 が二拍だったが、今日は 「グルルーッ」 も二拍に進化している。そのため、全体としてより自然な四拍子になっている。

鳩も四拍子の方が自然に感じるので、年期を積むうちにそっちの方向に進歩するのだろうか?

ニグロ・スピリチュアルに "Sometimes I Feel Like a Motherless Child" (邦題 「時には母のない子のように」) というのがある。その二番目の歌詞が、"Sometimes I feel like a mourning dove" というものだ。

「私は時々ナゲキバト (北米産の鳩の種類) のような気分になる」 というのだが、"morning dove" と同音なので、しばらく 「朝に鳴く鳩」 のことだと思っていた。くぐもった声でいつまでも鳴き続ける "morning dove" は悲しい。

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2008年7月 4日

文月四日の歌

舗道には小さき日陰できてをり信号待ちの人逃げ込めり


なんだか、いよいよ夏らしくなってきた。昨夜、帰宅した頃にはものすごく蒸し暑くなっていて、風を通そうとして窓を開けると、大変な風が吹き込んできた。なま暖かい風である。

夜中には大雨が降って、静岡方面では、朝方に東海道新幹線がストップするほどの雨だったらしい。夏の様相である。

朝はどんよりしていたが、八時頃から出始めた日差しがどんどん強くなり、九時頃にはぎらぎらした夏の太陽になっていた。赤信号で止まった歩行者が、舗道の日陰に集まる。いつもの夏の光景だ。

朝からまた雨模様になり、それは月曜日まで続くらしい。今年の梅雨明けはいつ頃になるのだろう。

写真は、どんどん大きくなりつつあるネコジャラシの穂が太陽に輝いているところ。

ところで、六月三十日のエントリーで 「今日で今年の半分が終わり」 と書いたが、よく考えてみると、二月が閏年とはいえ二十九日しかないので、今年の半分が終わったのは、七月一日の夜だった。失礼しました。

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2008年7月 3日

文月三日の歌

筑波嶺の風を背に受け利根川を越ゆれば別の風の吹くなり


朝、天気予報を聞いていると、しきりに 「今日は朝から蒸し暑い」 と言っている。ところが、つくばの地では、それほど蒸し暑さは感じない。むしろ涼しいぐらいのものである。

同じ関東でも、東京都心とつくばの地では陽気が違うものらしい。というわけで、今朝は蒸し暑さを覚悟して東京都心に出てきた。

常磐線取手駅のプラットフォームの南側の端に立つと、すぐ近くに鉄橋が見える。利根川を渡る鉄橋で、茨城県と千葉県の境になる。

この鉄橋を境に、天気ががらりと変わっていることがあるから、油断がならない。利根川のこちらと向こうとでは、空気が違う。ましてや、東京都内とではかなり違ってくる。

東京都内に着いてみると、やはり蒸し暑い日である。だんだん夏らしくなってきた。

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2008年7月 2日

文月二日の歌

西洋を知らざるままで今の世に咲くこそ額の花かなしけれ


今日は久しぶりに、自宅で溜まった仕事を一気に片付けようという日である。都心まで往復する必要がないので、かなり体は楽である。

とはいえ、かなり暑い。エコを意識して、この程度ではエアコンを使いたくないので、窓を開け放して仕事をしているが、午後一時を過ぎた頃から汗が滲むようになった。

我が家の裏に、この夏からガクアジサイがお目見えした。周囲だけが咲く種類で、日本原産なんだそうだ。そして、これが今のいわゆるアジサイ (セイヨウアジサイ) の元になった原種というのは、今年になって初めて知った。

江戸時代の終わり頃に、西洋人が日本から持ち帰って品種改良したのが、今の普通のアジサイなんだそうで、シーボルトも持ち帰っていたという。ということは、普通のアジサイは洋行帰りで、ガクアジサイは一度も外国に渡ったことのない花なのだね。

本当に、いくつになっても知らないことってあるものである。これだから、人間やっている楽しみがある。なお、今日の歌の 「かなしけれ」 というのは、現代語の 「悲しい」 ではなく、「趣がある」 という意味なので、よろしく。

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2008年7月 1日

文月一日の歌

短冊に願ひごとして篠竹をはや飾りたり五月晴れの日


常磐線取手駅の改札口に、近くの幼稚園や小学校の子たちが書いた短冊を一杯つけた七夕飾りが登場した。

いつも言う繰り言で、旧暦派の私としては、梅雨も明けないうちの七夕祭りなんて、全然しっくりこない。今日は旧暦でいえば、まだ五月二十八日だ。

とはいえ、これはまあ、小さな子たちが無邪気に書いたものだから、許そう。七夕の前祝いということで。

で、短冊に書かれた願い事をみると、さすがに今どきの子である。「ピアノがうまく弾けるように」 なんていう可愛らしいのに混じって、「みのるとラブラブになる」 とか、「アイドルめざします」 なんていうのが、かなりある。

「小さな子たちが無邪気に書いたものだから、許そう」 と書いたが、うぅむ、無邪気かなあ。まあ、無邪気なんだろう。

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